岬神社(土佐稲荷) (京都市中京区) 
Misaki-jinja Shrine
岬神社(土佐稲荷)  岬神社(土佐稲荷)
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坂本龍馬像


坂本龍馬肖像
 岬神社(みさき-じんじゃ)は、御先神社、土佐稲荷(とさいなり)、土佐稲荷岬神社ともいわれる。周辺の産土神として、商家、先斗町などの信仰を集めてきた。
 祭神は、倉稻魂神(うかのみたまのかみ)、猿田彦命(さるたひこのかみ)、大宮乃賣命(おおみやひめのみこと)、これらとゆかりの神を祀る配祀(はいし)は石栄神社になる。 
 縁結び、厄払いの信仰がある。戦前までは、花街の篤い信仰を集めていた。
◆歴史年表 南北朝時代、1348年以前、鴨川の中州岬に祠を建て、岬神社と称されたという。(『坊目誌』)
 その後、神祠は鴨川の西岸に遷されている。
 安土・桃山-江戸時代、慶長年間(1596-1614)、土地は土佐藩に下賜され、社殿も取り込まれ、備前島町の土佐藩京屋敷内に遷座された。
 江戸時代、坂本龍馬(1835-1867)もよく参拝していたという。
 近代、1877年、土佐藩の廃藩にともない社殿も荒廃した。稲荷を土佐に遷座させようとしたところ、載せた船が大荒れに遭い、再び戻されたという。
 1885年/1887年頃、一時、南の下大阪町(中京区)に無格社として再興される。
 1911年、現在地に再移転した。初代・近江屋新助ら地元有力者が土佐藩用人官舎地を買い取り、遷座したという。
 1911年-1913年、社殿は改修された。
 1913年、社殿が完成する。
◆坂本龍馬 江戸時代後期の尊攘派志士・坂本龍馬(さかもと-りょうま、1835-1867)。本名は直陰、直柔(なおなり)、別名は才谷(さいだに)梅太郎、通称は龍馬。土佐(高知県)の生まれ。土佐藩郷士・坂本長兵衛の次男。城下築屋敷(つきやしき)の日根野(ひねの)弁治道場で小栗流剣術を修行した。1853年、3月、江戸・北辰一刀流千葉定吉道場に剣術修行に出る。1854年、土佐で画家・河田小龍から西洋事情を学ぶ。1856年、8月、再び千葉道場に遊学し免許を得た。この頃、江戸で武市瑞山、久坂玄瑞らを知り、尊攘運動に入る。1858年、9月、帰国した。1861年、8月、武市らが結成した「土佐勤王党」に加盟し、出国する。1862年、1月、長州萩に久坂を訪ね、3月、脱藩した。大坂、京都を経て江戸に出る。軍艦奉行・勝海舟の弟子になり、航海術などを学ぶ。1863年、2月、勝の尽力により脱藩罪を赦免される。12月、土佐藩の召喚令に従わず、再び脱藩の身になった。1864年、勝の主唱した「神戸海軍操練所」設立に尽力し、塾頭になる。4月、肥前国に横井小楠を訪ねる。10月、勝の失脚後に操練所は解散になる。龍馬は薩摩藩の保護を受けた。1865年、5月、大宰府で三条実美ら5卿に薩長同盟を説く。閏5月、薩摩藩の援助の下で、長崎で株式会社の先駆・政治結社「亀山社中」を設立した。洋式銃砲の取り引きを行なう。1866年、土佐藩は長崎に貿易のための「土佐商会」を設立した。1月21日(新暦3月7日)、京都で龍馬は中岡慎太郎と協力し、対立していた長州藩・薩摩藩間の「薩長同盟」に尽力した。倒幕への布石になる。1月24日(新暦3月10日)、龍馬は伏見の旅館「寺田屋」で幕史に襲われる。寺田屋養女・お龍、大山彦八、三吉慎蔵らの機転で難を免れた。(寺田屋事件)。6月、第二次長州征討(四境戦争)で、「丑乙丸」を操り参戦した。1867年、1月、長崎の「土佐商会」に出張の藩参政・後藤象二郎と会談した。土佐藩は藩主・山内容堂の公武合体路線の行き詰まりから方向転換を求めていた。 4月、藩は龍馬の脱藩の罪を許した。亀山社中を「海援隊」に改め、海援隊長になる。紀州藩との「いろは丸事件」を解決する。5月、京都で「薩土密約(薩土討幕の密約)」の締結に立ち会う。6月、長崎からの藩船中で、後藤と大政奉還・公議政治などを原案にする新国家構想「船中八策」を策定した。京都で薩摩の西郷隆盛らとの間の「薩土盟約」に立ち会う。(10月破棄)。10月、土佐藩主・山内は「船中八策」案を元に、将軍・徳川慶喜に大政奉還を建白し、10月14日(新暦11月9日)、朝廷も許可し実現した。その後、龍馬は土佐、長崎、福井などに移る。11月15日(新暦12月10日)夜、京都「近江屋」で中岡とともに暗殺された。幕府見廻組刺客の手によるともいう。(近江屋事件)。32歳。
 1869年、正四位追贈。松平春嶽、横井小楠、三岡八郎(由利公正)、大久保一翁(忠寛)、西郷隆盛らと親交した。墓は霊山墓地(東山区)にある。
◆創建時の社 南北朝時代、1348年以前に、鴨川中州に備前国西大寺村の新右衛門という人が移り住んだ。当時の川原は広く、中州の岬に祠を建て「岬神社」と称したという。諸業繁栄福利、火除、土工建築修工守護しなどの神託があり、福狐1万個を参詣人に頒けたともいう。(『坊目誌』)
 その後、神祠は鴨川の西岸に遷される。
 安土・桃山-江戸時代、慶長年間(1596-1614)に、土地は土佐藩に下賜された。社殿も取り込まれ、備前島町の土佐藩京屋敷内に遷座された。この時、倉稲魂命、石栄神の二座を祭神とし、以来、「土佐稲荷」、「岬神社」とも称された。藩邸は、蛸薬師橋東のたもとを東北の端として、旧立誠小付近を含む、西へ100m、南へ60mの敷地があった。
◆建築 本殿は江戸時代当時のものと伝わる。
◆文化財 ◈坂本龍馬の脱藩後、1863年1月に勝海舟(1823-1899)は、伊豆下田で前藩主・山内容堂(豊信、1827-1872)に脱藩罪赦免を乞う。京都藩邸からは徒目付・島村寿之助、望月清平が遣わされ、龍馬を一時藩邸に拉致した。形式罰として7日間の謹慎後、2月25日(新暦4月12日)に許されている。
 その際に藩邸内侍長屋の居室に居り、常にもたれていという柱遺構がある。
 ◈龍馬像、肖像もある。
◆年間行事 例祭(6月10日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『新選組と幕末の京都』、『稲荷信仰と宗教民俗』、『京都 歴史案内』、『坂本龍馬大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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土佐稲荷神社 〒604-8023 京都市中京区備前島町317-2,蛸薬師通河原町東入ル北側 
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