伏見土佐藩邸跡 (京都市伏見区)  
Ruins of Fusimi Tosa Domain Residence
伏見土佐藩邸跡
伏見土佐藩邸跡
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「伏見土佐藩邸跡」の石標・副碑




副碑
 伏見区の南浜町に、「伏見土佐藩邸跡(ふしみ-とさはんてい-あと)」の石標と副碑がある。
 江戸時代にこの地には、伏見土佐藩邸が置かれた。
◆歴史年表 江戸時代、1670年、「南浜三丁」の東部に、「松平土佐守屋敷(土佐藩邸)」と記されている。(『山城国伏見街並近郊図』)
 1868年、鳥羽・伏見の戦いで土佐藩兵は警備についた。
 現代、2009年、12月、伏見観光協会・社団法人伏見納税協会青年部会により石標が立てられる。
◆山内豊信 江戸時代後期の土佐藩主・山内豊信(やまのうち/やまうち-とよしげ、1827-1872) 。幼名は輝衛、兵庫助、号は容堂(ようどう)、九十九洋外史、酔擁美人楼、鯨海酔侯(げいかいすいこう)など。第10代藩主・豊策(とよかず)の5男・豊著(とよあきら)の子。1846年、家督を継いだ。その後、山内豊惇(とよあつ)の養子になる。1848年、分家から入って襲封した。20歳で土佐高知藩主山内家15代になる。1853年、ペリー来航後、重臣に吉田東洋を抜擢し、藩政改革、海防強化政策をとる。1857年-1858年、将軍継嗣問題で、松平慶永、島津斉彬らと一橋慶喜の擁立に動く。成らず、1858年-1859年、安政の大獄の中、1859年、隠居し容堂と号した。謹慎を命じられた。1862年、赦され、幕政参与を委嘱される。公武合体に尽力し、雄藩連合実現を目指した。慶喜、慶永を支援した。1863年、将軍上洛に先立ち入京し、公武合体を進める。土佐勤王党を弾圧し、武市瑞山らを処断する。朝議参与に任じられ、1864年、上京した。1867年、倒幕の動きが強まり、後藤象二郎の建議を入れ、将軍慶喜に大政奉還を説いて実現させた。1868年、王政復古に際し、議定として公議政体論を唱え、徳川氏処罰に反対し失敗する。明治政府で、維新政府の議定、内国事務局総督、刑法官知事、学校知事、制度寮総裁、上局議長を歴任した。1869年、辞官し隠棲した。46歳。
 詩、書に優れた。墓は下総山墓地(東京)にある。
◆板垣退助 江戸時代後期-近代の政治家・板垣退助(いたがき-たいすけ、1837-1919)。幼名は猪之助、諱は正形(まさかた)、号は無形。土佐(高知県)の生まれ。土佐藩馬廻役・乾正成の長男。1854年、江戸勤番を命じられ、1856年、帰藩した。1860年、父病没により家督を相続する。1861年、御納戸方(おなんどかた)になり、江戸留守・御内用役(おそばようやく)を命じられた。1862年、山内容堂の御側用役になる。この頃、攘夷論を唱え、武市瑞山ら急進的な勤王党と対立する。1865年、後藤象二郎らと藩庁の大監察として、武市ら勤王党員らを糾問し処刑した。1867年、江戸からの帰藩途中の京都で、中岡慎太郎の仲介により西郷隆盛と会見し、「薩土密約」を確約した。1868年、戊辰戦争で、大隊司令として土佐藩兵迅衝隊(じんしょうたい)を率いて高知を出発し、京都で東山道先鋒総督府参謀になり出陣した。大垣、信州、甲府、八王子、宇都宮、若松、会津を追討し帰藩する。1869年、維新後は藩の大参事として藩政改革を行う。1871年、御親兵編成に参画し、新政府の参議に任じられる。1873年、西郷らと征韓論を主張し、大久保利通らと対立し敗れ参議を辞した。1874年、下野した後藤、江藤新平、、副島種臣らと愛国公党を組織した。民撰議院設立建白書を政府に提出し、藩閥政治を攻撃、自由民権論を主張し却下される。帰郷し立志社を設立し、士族教育・授産事業を展開した。1875年、政府参議になりすぐに辞職する。1877年、国会開設を求めた「立志社建白」を天皇に提出し却下される。1881年、結党の自由党の総理に推される。1882年、遊説中の岐阜で刺され負傷した。(岐阜遭難事件)。1882年-1883年、後藤と欧州を視察する。1884年、党の統制混乱により、自由党解散を行う。1887年、伯爵に叙せられた。国会開設、言論自由、民力休養、海軍拡張、条約改正などに関する意見書を天皇に上奏し、高知に戻る。1889年、後藤象二郎の黒田清隆内閣に入閣に対し賛否派が対立し、大同団結運動が分裂状態に陥る。1890年、退助は愛国公党を組織し大同派の団結を図る。愛国公党、自由党、大同倶楽部は合同し、立憲自由党を結党した。1891年、愛国公党を離党し、すぐに復党して党総理になる。1895年、伊藤博文内閣との協力関係を進め、1896年、第2次伊藤内閣の内務大臣になりすぐに辞した。1898年、最初の政党内閣である大隈重信の憲政党内閣(隈板内閣)の内務大臣になりすぐに辞職した。1900年、立憲政友会の成立を機に政界を隠退した。その後、社会問題に専心し風俗改良会を組織し、機関誌『友愛』を創刊した。1907年、華族制度を批判した『一代華族論』を公表した。83歳。
 従一位に叙せられる。
◆伏見土佐藩邸跡 伏見土佐藩邸跡の詳細は不明。江戸時代前期、1670年に「南浜三丁」とあり、その東部に「松平土佐守屋敷」と記されている。(『山城国伏見街並近郊図』)。
 土佐藩は塩屋町で3軒分、南浜町で1軒分の町役(町人に課せられた金銭的負担・労務的負担)を負担していた。(『伏見大概記』)。塩屋町での役割が高かった。
 南浜町の藩邸に御殿はなく、藩主、正室・側室・腰元らの生活はなく、家臣が暮らしたという。
 付近には、幕府公用、船着場に関した人々、物資の輸送を担った伏見伝馬所があった。木津屋与左衛門、大津屋小兵衛宅などは本陣として利用され、周辺には旅籠が並んでいたという。
 1868年の鳥羽・伏見の戦いで、土佐藩兵は警備の任についた。土佐藩主・山内容堂は戦いを「私闘」とし、沙汰をするまで戦争に加わることを禁じた。土佐藩大目付・板垣退助は、京都で事が起こると、薩摩と行動を共にするようにと密命を出した。藩士の一部は藩主命令を無視し参戦し、藩主は朝廷から称賛されたという。(副碑碑文)
◆鳥羽・伏見の戦い 鳥羽・伏見の戦いは、戊辰戦争最初の内乱であり、明治新政府と旧幕府との間の武力衝突だった。
 江戸時代後期、1867年に、王政復古の大号令後に、新政府内部では討幕派が公議政体派を抑えていた。小御所会議で、大政奉還した第15代将軍・徳川慶喜は、辞官納地を命じられる。12月25日、討幕派・薩摩軍の江戸での攪乱挑発に対し、幕府は庄内藩に薩摩藩邸を焼き討ちさせる。
 1868年正月、慶喜の本営・大坂城に布陣した旧幕府軍(幕兵、会津・桑名藩兵)は討薩に傾き、京都に向けて進軍開始する。他方、伏見の旧幕府軍、新撰組は伏見奉行所に布陣した。2日、薩摩軍は御香宮に陣を敷いた。3日(新暦1月27日)、旧幕府軍は鳥羽街道、伏見街道の二手より京都に軍を進める。薩長軍は竹田より小枝橋に兵を進めた。夕刻、小枝橋で橋を渡ろうとした旧幕府軍を薩摩軍が制止し、睨み合いになる。
 この時、伏見で薩摩軍の砲撃が始まり戦闘が開始された。兵力は旧幕府軍が1万/1万5000、薩長軍は3000/4500といわれた。旧幕府軍は旧式の大砲1門のみと劣勢で、下鳥羽まで退却する。薩摩軍は御香宮に4門、龍雲寺(善光寺)からも伏見奉行所に対して砲撃が行われた。新撰組は鳥羽・伏見の戦い以前に近藤勇が負傷、沖田総司も病により戦線離脱している。このため土方歳三が指揮し、鉄砲で武装した薩摩軍の御香宮に土方、永倉らが三度斬り込むが戦果はなかった。4日、砲撃により伏見奉行所が焼失し、旧幕府軍、新撰組は淀に退却する。新政府軍(薩長軍)は仁和寺宮嘉彰親王を征夷大将軍に任命し、東寺に入る。錦の御旗により旧幕府軍は賊軍と化し、一気に士気喪失する。5日、淀堤千両松の戦いで、旧幕府軍の会津藩、新撰組は大敗し、井上源三郎など多数の死傷者が出る。旧幕府軍の淀城入城は淀藩、津藩の寝返りにより拒否された。やむなく、旧幕府軍、新撰組は大坂に敗走した。6日、徳川慶喜、松平容保らは密かに大坂城を脱し、船で江戸に逃亡した。新撰組も江戸に戻る。
 戦い後、新政府内では討幕派が主導権を握り、2月9日、慶喜追討軍が東征に向かう。以後、戊辰戦争が始り、旧幕府軍が敗北する函館戦争まで、1年間にわたり内戦が繰り広げられる。
 1868年1月13日(新暦2月6日)、板垣は大隊司令として土佐藩兵迅衝隊(じんしょうたい)1045人を率いて高知を出発している。川之江、丸亀、高松諸藩を追討した。28日に京都に到着し、すぐに東山道先鋒総督府参謀に就き、藩兵600を率いて出陣した。その後、大垣、信州、甲府、八王子、宇都宮、若松、会津を転戦追討し、11月に帰藩している。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 副碑碑文、『京都大事典』、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、『坂本龍馬大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 伏見土佐藩邸跡 〒612-8045 京都市伏見区南浜町248-4
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