小松帯刀 寓居跡 (京都市上京区)  
The ruins of temporary residence of Komatsu, Tatewaki
小松帯刀 寓居跡  小松帯刀 寓居跡
50音索引,Japanese alphabetical order    ホーム,Home 50音索引,Japanese alphabetical order    Home

「小松帯刀寓居跡」の石標


「近衛家別邸近衛家別邸 御花畑御屋敷跡」


「薩長同盟所縁之地」


分かりにくいが一番上を東西に鞍馬口通、左端を南北に室町通、石標の立つ位置は左上隅の赤い印部分になる。中央付近を東西方向に「御泉水流」が流れている。解説板より。(「御花畑絵図」、玉里島津家資料より、鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵)


小松帯刀、解説板より


西郷隆盛、解説板より


桂小五郎 (木戸孝允)、解説板より



坂本龍馬、解説板より
 室町通の北端(室町頭)にあたる上京区森之木町(もりのきちょう)に、「小松帯刀寓居跡(こまつ たてわき ぐうきょ あと)」の石標が立てられている。
 石標には「薩長同盟所縁之地」、「近衛家別邸近衛家別邸 御花畑御屋敷跡」とも刻まれている。幕末の「薩長同盟」は、この地で締結された。
◆歴史年表 江戸時代後期、1866年、1月21日、小松帯刀は寓居していた「御花畑(近衛家別邸)」に西郷隆盛と木戸孝允を招き、「薩長同盟」を締結した。茶室「有待庵(ゆうたいあん)」が大久保利通邸(上京区)に移された。
 1867年、5月、帯刀は、寓居に中岡慎太郎、乾(板垣)退助の訪問を受けた。西郷と共に武力討幕論を聞く。
 現代、2016年、5月、西郷隆盛研究家・原田良子は、京都行政文書(京都府立総合資料館所蔵)により、御花畑(近衛家別邸)の場所、規模、所有者などを発見した。御花畑(近衛家別邸)は、現在地(上京区森之木町)に特定された。
 2017年、3月、NPO法人京都歴史地理同考会により現在の石標が立てられた。
◆小松帯刀 江戸時代後期の薩摩藩士・政治家・小松帯刀(こまつ たてわき、1835-1870)。肝付清廉(きもつき きよかど)。薩摩藩門閥・兼善(かねよし)の3男、後に薩摩藩士・小松清猷(こまつ  きよもと)の養子になり帯刀清廉と称した。1861年、島津久光の側詰で側役勤になり、大久保利通らの藩内下級武士を要職に就かせる。利通ら誠忠組の指導者になる。1862年、久光の率兵上洛に随従し、帰藩し家老になる。藩政改革、薩内公武合体運動を利通らと推進した。1864年、禁門の変に参加し、戦後処理も行う。1866年、寓居である御花畑(近衛家別邸)で、隆盛とともに長州藩士・木戸孝允との間に薩長盟約を結んだ。1867年5月、京都の寓居を中岡慎太郎、乾(板垣)退助が訪れ、隆盛と共に武力討幕論を聞く。6月、隆盛、利通と共に後藤象二郎との間に「薩土盟約」を交わした。10月、隆盛、利通と共に討幕の密勅を受け大政奉還の実現を朝廷、将軍・徳川慶喜(よしのぶ)に進言した。長州藩と討幕戦略を協議し帰藩した。1868年、王政復古の政変では、鹿児島に居た。1月、上洛し新政府参与、総裁局顧問、外国官副知事になる。1869年、利通らと版籍奉還を画策した。1870年、大阪で病没した。36歳。
◆御花畑 江戸時代後期、1866年1月21日に締結された「薩長同盟」は、「二本松薩摩藩邸( 現在の上京区、同志社大今出川校地内)」の地だったとされていた。
 その後、薩摩藩家老・小松帯刀邸であることが判明する。小松邸とは薩摩藩が借りた五摂家筆頭・近衛家別邸の「御花畑」だった。別邸は「室町頭(むろまちかしら」にあるとされ、当初は室町頭町(室町通上立売上ル)の地とみられた。現在の石標の立つ位置の南方向になる。
 2016年に発見された、1871年の行政文書により、「室町頭」とは室町通北端を意味し、鞍馬口通との交差付近であることが特定された。西郷隆盛の文書に、邸内に「御花畠水車」があったことが記されており、邸内に何らかの水が引かれていたとみられていた。かつて、森之木町には、禁裏へ水を供給した「御泉水流(禁裏御用水、御所用水)」の流れがあり、傍証になった。水路は北から南に下り、東行、南下しながら御所に導かれていた。
 御花畑の範囲は、北は鞍馬口通88.36m、西は室町通56.96m、南は中町通136.92m、東は烏丸通まであった。東端の南側半分弱ほどは烏丸通を越え、東側に突起しており上御霊中町、小山町まで及んでいた。敷地は1796坪(5937.㎡)の広大だった。門は北、南東、南西の3カ所に開き、門番所もあった。邸内には瓦平屋建、瓦住居2階建、土蔵、湯殿雪隠、瓦平屋長屋、納屋、社などが建てられていた。
 なお、御花畑には茶室「有待庵(ゆうたいあん)」があった。3畳、平屋、アカマツの床柱が使われていた。1866年に茶室は大久保利通邸(上京区)に移される。茶室内では政治的な密議が行われ、利通は岩倉具視とも会談したという。
◆薩長同盟 「薩長同盟(さっちょうどうめい)」は、薩長連合、薩長和解連合ともいわれる。 江戸時代後期、1863年8月、討幕のための薩摩、長州両藩の軍事同盟の締結をいう。
 長州藩は、薩摩藩の公武合体論に押され、次第に朝廷に対する支配権を失う。1863年、長州藩は下関海峡で列強商船砲撃事件を引き起こした。その報復のために、四国艦隊(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ合衆国)下関砲撃事件を招き、下関は占領された。1864年には、幕府の第1次長州征伐により長州藩は降伏する。その後、薩摩藩内に討幕派が台頭し、幕府の薩長討伐計画も漏れる。長州藩内では、高杉晋作(1839-1867)らが両藩の協力を説いた。
 土佐藩出身の坂本龍馬(1836-1867)、中岡慎太郎(1838-1867)が両藩を仲介し、1866 年1月21日、討幕のための提携を結ぶに至る。御花畑(近衛家別邸)で薩摩藩の小松帯刀(1835-1870)、西郷隆盛(1828-1877)、大久保利通(1830-1878)、長州藩側の桂小五郎 (1833-1877、木戸孝允)らが会見した。この時、長州再征のための対処である6ヵ条攻守同盟が結ばれている。
 1866年6月5日、幕府による第2次長州征伐が起こる。薩摩藩は幕府の攻撃を妨げ、長州藩は高杉晋作や桂らが奮戦した。7月、将軍・徳川家茂は大坂城内で亡くなり、9月、幕府は長州と和して撤兵した。これらの動きが倒幕運動の進展になり、1868年の明治維新につながった。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献 ウェブサイト「『御花畑』の研究」、ウェブサイト「コトバンク」、NPO法人京都歴史地理同考会の解説板


関連・周辺,relevance&surrounding area薩摩藩邸二本松屋敷跡    関連・周辺,relevance&surrounding area薩摩藩志士之墓      周辺,surrounding area    関連,relevance大久保利通旧邸跡    関連,relevance薩摩藩京屋敷跡     関連,relevance寺田屋跡・寺田屋事件      関連,relevance妙法院    関連,relevance土佐藩邸跡     関連,relevance長州藩邸跡      
 
京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 小松帯刀 寓居跡 〒602-0011 京都市上京区森之木町 
50音索引,Japanese alphabetical order  ホーム,Home   top 50音索引,Japanese alphabetical order  ホーム,Home   top
logo,kyotofukoh © 2006- Kyotofukoh,京都風光