寺田屋跡・寺田屋事件 (京都市伏見区)
Ruins of Terada-ya Inn
寺田屋跡 寺田屋跡 
50音索引,Japanese alphabetical order Home 50音索引,Japanese alphabetical order Home

「寺田屋」跡地


「史蹟 寺田屋」の石標


「伏見寺田屋殉難九烈士之碑」の石標


「寺田屋」跡地


「寺田屋」跡地、「薩摩藩九烈士遺蹟志」の碑



「寺田屋」跡地、「薩摩藩九烈士遺蹟志」の碑、この地が「寺田屋遺址」であると刻まれている。


「寺田屋」跡地、「恩賜紀念之碑」




「寺田屋」跡地、坂本龍馬の銅像



「寺田屋」跡地、「世の人はわれを何とも言はばいへ われなすことは 我のみぞしる」龍馬




「寺田屋」跡地、維新当時の井戸跡という。


「寺田屋」跡地、誓いの楠




「寺田屋」跡地、お登勢明神




「寺田屋」跡地、お登勢明神の絵馬


【参照】寺田屋浜



【参照】寺田屋浜、「龍馬とお龍、愛の旅路像」、伏見奉行所の捕吏による襲撃後、薩摩藩邸にしばらく匿われていた二人は、この浜より三十石船で霧島に向かったという。



【参照】再建された「寺田屋」



【参照】「寺田屋」


【参照】「寺田屋」



「史跡 寺田屋」の石標


【参照】近くの「竜馬通り



【参照】「竜馬通り」





【参照】「伏見土佐藩邸跡」の石標
 薩摩藩の定宿だった船宿「寺田屋(てらだや)」では、幕末期に、2つの「寺田屋事件」か起きる。「薩摩藩尊皇派志士の鎮撫事件」、もう一つは、「伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件」だった。 
 宿は江戸時代後期の鳥羽・伏見の戦いで焼失し、いまは跡地だけが残る。
◆歴史年表 江戸時代後期、寺田屋は、船宿として知られた。女主人・お登勢を慕い志士が集った。
 1862年、4月23日(新暦5月21日)、薩摩藩の定宿だったため、有馬新七ら薩摩藩士の斬殺事件が起きる。(「寺田屋事件(薩摩藩尊皇派志士の鎮撫事件)、寺田屋騒動」)
 1865年頃より、坂本龍馬は薩摩藩の紹介により寺田屋を定宿にした。
 1866年、1月24日(新暦月日)、坂本龍馬、三吉慎蔵が伏見奉行所の捕吏に襲撃される。(「寺田屋事件(坂本龍馬の襲撃事件)」)
 1868年、1月3日(新暦1月27日)、寺田屋は鳥羽・伏見の戦いで焼失した。
 近代、1894年、跡地は伏見町に寄付された。 また、現在の跡地に「薩藩九烈士遺蹟表」の碑が立てられた。碑は、鎮撫事件の薩摩藩士9人を顕彰する。碑の篆額に「遺址」とあり、この時点で寺田屋は存在しない。
 1896年、漢学者・西村天囚が現地を訪れ、「寺田屋は、伏見の兵火に焚けしかば、家の跡を取払ひて、近き比此に銅碑を建てゝ、寺田屋は其西に建てけり」と記されている。(『紀行八種』)
 1904年、跡地に「恩賜紀念之碑」が立てられた。第122代・明治天皇皇后・昭憲皇太后は坂本龍馬を支援した。皇后の「奇夢」に龍馬が現れた後、当主・寺田伊助に金若干が下賜れたことを記念し立てられた。
 1914年、「戊辰ノ兵燹(へいせん)ニ罹リ家屋諸共焼失シ」と記されており、寺田屋は江戸時代末、鳥羽・伏見の戦いで焼失したという。(「寺田屋伊助申立書」)
 1929年、「現在の建物(現在の「寺田屋」)の東隣を遺址とす」と記されており、現在の跡地が旧寺田屋とみられる。(『伏見町誌』)
 現代、2008年、京都市歴史資料館の調査により、寺田屋が江戸時代末、鳥羽・伏見の戦いで焼失していたと確定された。
◆寺田屋伊助 江戸時代後期-近代の寺田屋主人・寺田屋伊助(てらだや-いすけ、?-1864)。山城国伏見の生まれ。父・5代目伊助は元長州藩士ともいう。船宿「寺田屋」の6代目主人になる。病弱であり、店の営業、家事一切を妻・お登勢に任せたという。京都寺町に寺田屋寮があり、伊助は子どもらを連れて養生していた。
 墓は松林院(伏見区)にある。
◆お登勢 江戸時代後期-近代の女性・お登勢(おとせ、1830-1877)。登勢。近江国(滋賀県)の生まれ。大津の郷宿・山本重兵衛の次女/米問屋・大本重太郎(山本重助)の次女。18歳で6代目寺田屋主人・寺田屋伊助と結婚する。夫は放蕩を重ね、病弱でもあり、夫に代わりに女将として宿を切り盛りした。薩摩藩の常宿になり、勤王の志士を庇護した。1862年、寺田屋で薩摩藩尊攘派弾圧事件(寺田屋騒動)が起こり、急進派、漸進派が乱闘した。お登勢は、急進派の有馬新七ら9人の犠牲者の法要を営む。この頃、坂本龍馬と知り合う。1864年、夫が亡くなる。1865年、夏頃より、龍馬は薩摩藩の紹介により寺田屋を定宿にした。秋頃、龍馬はお龍(楢崎龍)の身柄をお登勢に託し、春と名付け娘分として寺田屋に置いた。1866年、寺田屋での龍馬襲撃事件後、お登勢はお龍を養女として1年4カ月間預かる。その母、妹らへも生活の援助をした。1867年、切腹事件により見捨てられていた薩摩藩6人の遺体を引き取り、葬って墓を立てた。維新後、1869年、お龍が土佐から伏見に一時戻った際に、寺田屋で庇護している。48歳。
 夫没後、捨て子5人を育てたという。墓は松林院(伏見区)にある。
◆有馬新七 江戸時代後期の武士・学者・有馬新七(ありま-しんしち、1825-1862)。本姓は坂木。名は正義、号は武麿(たけまろ)、埴鈴子。薩摩(鹿児島)の生まれ。薩摩藩伊集院郷の郷士・坂木四郎兵衛(正直)の子。東郷流弓術、叔父の郷士・坂木六郎より真影流(直心影流)を伝授された。1827年、有馬氏を継ぐ。1843年より、江戸の山崎闇斎派儒学者・山口管山(重昭)の門下になり、尊攘運動に加わる。1856年、上洛し梅田雲浜らと交わり、日米修好通商条約調印、将軍継嗣問題に関し井伊直弼に反対した。1857年、在江戸藩士の糾合方に就任した。1858年、入京し水戸、長州、越前の志士と幕府の無勅許条約調印を正そうとし、藩命により帰国した。1859年、大久保一蔵(利通)ら同志40余人と脱藩挙義を謀り、藩主により中止になる。藩内尊攘派の「誠(精)忠組」に参加した。1860年、水戸藩とともに井伊暗殺(桜田門外の変)を謀るが加わらなかった。伊集院郷石谷村を統治した。1861年、造士館訓導師に昇進する。1862年、3月、島津久光の上洛に際し田中河内介、真木保臣、小河一敏、久坂玄瑞ら藩内急進派と京都所司代襲撃、挙兵を計画し鎮圧される。4月、伏見の寺田屋に同志と密かに集まり、島津久光が遣した薩摩藩士らにより粛清された。(「寺田屋事件)。著『都日記』。38歳。
 墓は大黒寺(伏見区)にある。
◆坂本龍馬 江戸時代後期の尊攘派志士・坂本龍馬(さかもと-りょうま、1835-1867)。本名は直陰、直柔(なおなり)、別名は才谷(さいだに)梅太郎、通称は龍馬。土佐(高知県)の生まれ。土佐藩郷士・坂本長兵衛の次男。城下築屋敷(つきやしき)の日根野(ひねの)弁治道場で小栗流剣術を修行した。1853年、3月、江戸・北辰一刀流千葉定吉道場に剣術修行に出る。1854年、土佐で画家・河田小龍から西洋事情を学ぶ。1856年、8月、再び千葉道場に遊学し免許を得た。この頃、江戸で武市瑞山、久坂玄瑞らを知り、尊攘運動に入る。1858年、9月、帰国した。1861年、8月、武市らが結成した「土佐勤王党」に加盟し、出国する。1862年、1月、長州萩に久坂を訪ね、3月、脱藩した。大坂、京都を経て江戸に出る。軍艦奉行・勝海舟の弟子になり、航海術などを学ぶ。1863年、2月、勝の尽力により脱藩罪を赦免される。12月、土佐藩の召喚令に従わず、再び脱藩の身になった。1864年、勝の主唱した「神戸海軍操練所」設立に尽力し、塾頭になる。4月、肥前国に横井小楠を訪ねる。10月、勝の失脚後に操練所は解散になる。龍馬は薩摩藩の保護を受けた。1865年、5月、大宰府で三条実美ら5卿に薩長同盟を説く。閏5月、薩摩藩の援助の下で、長崎で株式会社の先駆・政治結社「亀山社中」を設立した。洋式銃砲の取り引きを行なう。1866年、土佐藩は長崎に貿易のための「土佐商会」を設立した。1月21日(新暦3月7日)、京都で龍馬は中岡慎太郎と協力し、対立していた長州藩・薩摩藩間の「薩長同盟」に尽力した。倒幕への布石になる。1月24日(新暦3月10日)、龍馬は伏見の旅館「寺田屋」で幕史に襲われる。寺田屋養女・お龍、大山彦八、三吉慎蔵らの機転で難を免れた。(寺田屋事件)。6月、第二次長州征討(四境戦争)で、「丑乙丸」を操り参戦した。1867年、1月、長崎の「土佐商会」に出張の藩参政・後藤象二郎と会談した。土佐藩は藩主・山内容堂の公武合体路線の行き詰まりから方向転換を求めていた。 4月、藩は龍馬の脱藩の罪を許した。亀山社中を「海援隊」に改め、海援隊長になる。紀州藩との「いろは丸事件」を解決する。5月、京都で「薩土密約(薩土討幕の密約)」の締結に立ち会う。6月、長崎からの藩船中で、後藤と大政奉還・公議政治などを原案にする新国家構想「船中八策」を策定した。京都で薩摩の西郷隆盛らとの間の「薩土盟約」に立ち会う。(10月破棄)。10月、土佐藩主・山内は「船中八策」案を元に、将軍・徳川慶喜に大政奉還を建白し、10月14日(新暦11月9日)、朝廷も許可し実現した。その後、龍馬は土佐、長崎、福井などに移る。11月15日(新暦12月10日)夜、京都「近江屋」で中岡とともに暗殺された。幕府見廻組刺客の手によるともいう。(近江屋事件)。32歳。
 1869年、正四位追贈。松平春嶽、横井小楠、三岡八郎(由利公正)、大久保一翁(忠寛)、西郷隆盛らと親交した。墓は霊山墓地(東山区)にある。
◆楢崎龍 江戸時代後期-近代の女性・楢崎龍(ならさき-りょう、1841-1906)。お龍(おりょう)、西村龍、春。京都の生まれ。青蓮院宮の侍医・楢崎将作の長女、母は貞(夏)。1862年、勤王家の父が安政の大獄で捕えられ、赦免後病死し家族は離散する。お龍は七条新地の旅館「扇岩」で働く。1864年頃、龍馬と出会い、親戚筋の知足院の仲介により、金蔵寺で内祝言を挙げた。1865年、秋頃、龍馬はお龍の身柄を「寺田屋」女将・お登勢に託した。春と名付けられ娘分として寺田屋に置かれた。1866年、1月、龍馬は寺田屋に投宿し、お龍の機転により伏見奉行配下の捕吏より脱出した。(寺田屋事件)。龍馬の刀傷治療のためにともに薩摩へ下る。お龍は途中の長崎で下船し、小曾根英四郎家に預けられた。1867年、下関の伊藤助太夫家に妹・起美と過ごす。龍馬暗殺(近江屋事件)後、1868年、土佐高知・坂本家に移り、妹・起美の嫁ぎ先の安芸郡・千屋家(菅野覚兵衛の実家)へ移る。1869年、寺田屋のお登勢を頼る。1875年、東京の呉服商人・西村松兵衛と再婚し、「ツル」に改名して横須賀に暮らした。妹・光枝がお龍を頼る。松兵衛と光枝が内縁関係になり、お龍は別居した。晩年、退役軍人・工藤外太郎に保護された。月琴を奏でた。 66歳。
 墓は信楽寺(横須賀市)にあり、京都霊山護国神社(東山区)に分骨された。
◆大山彦八 江戸時代後期の薩摩藩士・官僚・大山彦八(おおやま-ひこはち、1835-1876)。諱は成美、通称は彦八。薩摩(鹿児島)の生まれ。薩摩藩士・大山彦八綱昌の長男、母は競子。弟は大山巌、従兄は西郷隆盛。1860年、桜田門外の変に連座し、幕府の嫌疑を受け、伏見の薩摩藩伏見屋敷詰の身で六角獄舎に投獄された。1861年、釈放され、伏見屋敷詰に復する。1865年、西郷、小松帯刀に従い、薩摩船「胡蝶丸」で大坂を出帆し薩摩に戻る。坂本龍馬ら土佐出身の旧神戸海軍操練所塾生も同乗していた。西郷と再度上京し、伏見屋敷の留守居になる。1866年、1月、「寺田屋事件」で遭難した龍馬を救援した。1868年-1869年、戊辰戦争では後方支援した。1870年、京都府権大参事、その後、埼玉県大参事になる。1873年、征韓論に敗れた西郷に従い下野した。1874年、鹿児島に帰り、1876年、病没する。42歳。
 墓は郡元墓地(鹿児島市)にある。
◆三吉慎蔵 江戸時代後期-近代の長府藩士・官僚・三吉慎蔵(みよし-しんぞう、1831-1901)。幼名は友三郎、諱は時治。長府藩今枝流剣術師範・小坂土佐九郎の次男。1837年、田辺惣左衛門の養子になり、藩校敬業館に入学した。1839年、諸武芸師範に入門する。1849年、長州藩校明倫館に入学した。1855年、長州藩師範・小幡源右衛門より宝蔵院流槍術の免許皆伝を受け、腕は藩内随一とされた。1857年、長府藩士・三吉十蔵の養子になる。1858年、藩主・毛利元周の近習扈従役(きんじゅう-こじょうやく)として従い江戸に上る。江川太郎左衛門に学ぶ。1863年、下関の外国船砲撃事件で、大砲鋳造掛締方・精兵隊諸事肝煎に任じられる。1864年、一代馬廻格になる。1865年、永代馬廻格になった。1866年、元日、長府藩士・印藤肇の紹介で坂本龍馬を知る。1月、幕命により京都の情勢収集のため、龍馬と下関を出発した。伏見の旅館「寺田屋」に入る。1月24日(新暦3月10日)夜半、伏見奉行配下の幕史に踏み込まれ、負傷した龍馬を材木小屋に隠し、薩摩藩伏見屋敷に救援要請した。(寺田屋事件)。3月、薩摩の軍艦「胡蝶丸」に、龍馬と妻・お龍とともに乗船し大坂を出港した。下関で下船し長府藩に報告した。6月、第二次長州征討(四境戦争)で、長府藩の報国隊軍監に就任し、奇兵隊と共に幕府軍を破る。1867年、龍馬は長崎から土佐に向かう途中で下関に寄港し、廻船問屋・伊藤助大夫宅に妻のお龍を預けた。11月、龍馬が暗殺され、12月、慎蔵は龍馬に託された通り、お龍・君枝姉妹を長府の自宅に引き取り3カ月間面倒を見た。慎蔵はこれらの功により、加増、長州藩目附役に任じられた。1868年、3月、お龍を高知の坂本家に送り届ける。維新後、豊浦藩(長府藩)権大参事、1871年、宮内省御用掛として北白川宮家の家扶になる。のち家令を務めた。1890年、辞任し、晩年は故郷の長府で暮らした。寺田屋事件を記した著『三吉慎蔵日記』がある。71歳。
 従六位。墓は功山寺墓地(下関市)にある。
◆寺田屋 船宿の寺田屋は、開けっ放しの店構えで、二階は襖一つを隔てて大部屋になる造りになっていた。
 江戸時代末、1868年の鳥羽・伏見の戦いで焼失している。
 宿の前にはかつて船着場があり、船宿も10数軒並んでいた。浜からは、三十石船が伏見大坂間を行き来した。浜から出る船には8人の船頭が乗り込み、船脚がほかの船より速いことで知られていた。
◆寺田屋事件 江戸時代末、1858年-1859年の安政の大獄後、尊攘派は結集する。これらの倒幕の機運を削ぐために、1862年、2月11日、将軍・徳川家茂と皇女・和宮の婚儀が執り行われる。薩摩藩主父の最高権力者・島津久光は、幕府と長州藩による公武合体策の失敗後は、雄藩連合による公武合体での立て直しを謀る。3月16日、朝廷と幕府の周旋名目により、1000人の藩兵を率いて上京を決する。
 尊攘派の有馬新七ら薩摩激派、久留米の祠官・真木和泉、中山家の青侍・田中河内介らはこの動きに呼応し、降嫁責任者の関白・九条尚忠、京都所司代・酒井忠義の殺害を狙うクーデタ計画を立てた。長州藩挙兵の約束も取り付ける。薩摩藩の西郷隆盛は禁足になり、尊攘派の沈静化に失敗する。久光は4月16日に入京した。
 4月23日(新暦5月21日)、有馬ら薩摩藩士10数人は、大坂の藩邸を抜け、三十石船で寺田屋に移る。真木、田中らも伏見に集結していた。久光は朝廷より浪士鎮撫の命を受ける。
 深夜、寺田屋には志士40人ほどが集結する。奈良原喜八郎、大山格之助ら9人の鎮撫使が宿に派遣され、有馬らの暴発を防ぐために説得が行われた。会談は決裂し、奈良原が「上意」と叫び薩摩激派に斬りつけた。戦闘になり、有馬、田中謙助、柴山愛次郎、橋口伝蔵、橋口壮介、弟子丸竜助、西田直太郎の6人が殺害される。田中謙助、森山新五郎左衛門は重症を負った。翌日、2人は伏見藩邸で切腹になった。鎮撫側の道島五郎兵衛も死亡している。
 久光は、この薩摩藩士同士討ち事件後、幕政に介入する。関白・九条尚忠は辞任、一橋慶喜は将軍後見職に、松平慶永は政事総裁職に任命させた。
 お登勢は、犠牲者の葬儀を取り仕切ったという。大黒寺(伏見区)には有馬ら9人の墓がある。
◆寺田屋遭難 江戸時代後期、1866年1月18日(新暦3月4日)に、坂本龍馬、長府藩士・三吉慎蔵ら4人は、大坂の薩摩屋敷から三十石船で伏見に入る。旅館「寺田屋」に泊まった。この頃、伏見一帯は、奉行所、新撰組により厳戒威勢が敷かれていた。
 1月21日(新暦3月7日)に、小松帯刀邸(上京区)で薩長同盟が締結された。1月22日、龍馬は、薩摩藩京屋敷(中京区)で長州藩・桂小五郎、薩摩藩・西郷隆盛と会い、薩長同盟の約束を取り付けている。
 1月23日(新暦3月9日)夜、龍馬は、寺田屋に戻り、2階で三吉に桂、西郷らとの会談について話していた。24日午前2時頃、寺田屋は伏見奉行所の捕吏に包囲される。お龍は階下で入浴中であり、危機を察し、裸のまま裏階段を上り龍馬らに襲撃を告げた。
 捕吏はすでに階段を駆け上がってきた。龍馬は高杉晋作よりもらった上海土産の六連発拳銃で反撃し、三吉は槍で抵抗した。龍馬は左手を負傷する。捕方数人にも死傷者が出た。捕吏が銃撃音に怯んだ隙に、無傷の三吉は龍馬に肩を借し、2人は裏口階段より物置を抜け、隣家の雨戸を蹴破り裏通りに出た。三吉は途中の寺に探索者がいるのに気付き、方向を変えた。濠川、水門を伝い、寺田屋の北西にあたる西浜の材木小屋/納屋(濠川の左岸南方付近、大手筋川端)に潜んだ。三吉は龍馬を小屋に残し、小屋北東にあった薩摩藩伏見屋敷(南北99m、東西64m、推定1507坪)に駆け込み、薩摩藩に龍馬の救援を要請した。
 伏見屋敷の東側は濠川に面していた。伏見屋敷にはすでにお龍が逃げ込んでおり、龍馬襲撃の件を知らせていた。伏見屋敷の留守居役・大山彦八は、船に薩摩藩の旗印を掲げ、龍馬を救出し明け方に屋敷へ避難させた。その後、京都薩摩藩邸の西郷に事件を告げた。京都からは薩摩藩士・吉井幸輔が、医師、兵一小隊を伴い来た。龍馬の傷は深く、静脈も傷つき翌日まで止血しなかったという。その後、龍馬は、伏見屋敷内北東の「守(もり)」という小屋に、7日間ほどに匿われていたとみられる。
 伏見奉行所は伏見屋敷を取り囲み、再三に渡り龍馬を差し出すように迫った。薩摩藩側は拒否し、両者の対立はその後の大政奉還、鳥羽・伏見の戦いにつながる。1月29日(新暦3月15日)まで、龍馬とお龍は伏見屋敷に滞在している。その後、龍馬は薩摩藩が用意した駕籠により二本松藩邸(7000坪)(上京区)に移った。さらに薩摩藩大坂屋敷に移された。
 2月5日(新暦3月21日)、薩長同盟約定が正式に発足する。龍馬とお龍は、薩摩藩邸で行われた祝言後に、西郷の薦めにより、傷の治療も兼ねて薩摩・霧島温泉に旅立つことになった。2月29日、薩摩藩の蒸気船「三邦丸」は大坂を出港している。船には倒幕準備のために帰国する西郷、小松、龍馬、お龍、三吉、中岡慎太郎も乗船した。3月6日、船は下関に寄港し、三吉、中岡は下船し、長府藩にこの間の情勢報告している。
 龍馬とお龍は薩摩への旅を続け、日本初の新婚旅行(新暦3月-4月)になったという。
◆石碑 跡地に、近代、1894年に建立の「薩摩藩九烈士遺蹟志」が立つ。
 近代、1904年に建立の「昭憲皇太后」の金一封下賜の記念碑が立つ。
◆現在の寺田屋 現在、当地の西に隣接して「寺田屋」が建てられている。お登勢の息子夫婦が、1868年の焼失後に再建したという。近代、1906年より営業しているという。
 宿には、龍馬の護身用の短銃、宿の女将のお登勢が描かせたという龍馬の肖像掛軸がある。この絵をもとに、円山公園の銅像が制作されている。
◆年間行事 龍馬祭(11月15日の龍馬の命日頃)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 「寺田屋関係資料9種と若干のコメント 京都市歴史資料館、2008年」、『新版 京・伏見 歴史の旅』、『京都府の歴史散歩 中』、『伏見学ことはじめ』、『昭和京都名所図会 6 洛南』、『おんなの史跡を歩く』、『京を彩った女たち』、『京都歩きの愉しみ』、『京都大事典』、『あなたの知らない京都の歴史』、『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』 、『坂本龍馬大事典』、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺伏見土佐藩邸跡  関連・周辺伏見長州藩邸跡  関連・周辺薩摩島津伏見屋敷跡(伏見薩摩藩邸跡)  関連・周辺坂本龍馬避難の材木小屋跡  関連・周辺小枝橋  関連・周辺大黒寺(薩摩寺)  関連・周辺松林寺墓地  関連・周辺伏見  関連・周辺伏水(伏見)刑場  関連・周辺伏見港  関連・周辺伏見城・伏見桃山城・桃山  関連・周辺伏見奉行所跡・伏見工兵第十六大隊跡  周辺  関連酢屋・近江屋事件  関連近江屋跡・近江屋事件跡  関連楢崎家跡(お龍実家)  関連,relevance小松帯刀 寓居跡       
 
寺田屋跡 〒612-8045 京都市伏見区南浜町260-1
50音索引,Japanese alphabetical order Home  50音索引,Japanese alphabetical order Home 
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光