天満屋騒動の跡 (中井正五郎殉難の地) (京都市下京区)  
Traces of Tenmaya incident
天満屋騒動の跡  天満屋騒動の跡 
50音索引,Japanese alphabetical order  ホーム,Home 50音索引,Japanese alphabetical order  Home



「維新之史蹟 天満屋騒動之跡」


「勤王之士贈従五位 中井正五郎殉難之地(維新之史蹟  天満屋騒動之跡) 」

 江戸時代後期、この地(油小路花屋町北)には旅籠「天満屋(てんまや、天満屋惣兵衛)」があった。海援隊士、陸援隊士らは、天満屋で紀州藩公用人・三浦休太郎、新撰組を襲い戦闘になった。
 この天満屋事件(てんまやじけん、天満屋騒動)により、双方に死傷者が出ている。現在は、「中井正五郎殉難之地(維新之史蹟  天満屋騒動之跡) 」の石標が立てられている。
◆歴史年表 江戸時代後期、1867年4月23日(新暦5月26日) 、紀州藩船「明光丸」と海援隊操縦で初航海の「いろは(伊呂波)丸」は、備讃瀬戸の六島(現在の岡山県笠岡市) で衝突した。その後、いろは丸は宇治島沖で沈没する。三浦休太郎は折衝し、賠償金を支払う。(「いろは丸事件」)。
 1867年、11月15日(新暦12月10日) 、坂本龍馬、中岡慎太郎は京都・近江屋で暗殺された。(「近江屋事件」)。
 1868年、12月7日(新暦1月1日)夜、海援隊・陸援隊士ら総勢16人が、天満屋に止宿していた休太郎、護衛の新撰組ら6人を報復のために襲撃した。(「天満屋事件」)
◆陸奥宗光
 江戸時代後期-近代の和歌山藩士・政治家・陸奥宗光(むつ-むねみつ、1844-1897)。通称は陽之助、陸奥陽之介。紀伊(和歌山県・三重県)の生まれ。 父は紀州藩家老・伊達千広。15歳で江戸の安井息軒、水本成美に学ぶ。脱藩し尊王攘夷運動に身を投じた。1863年頃、坂本龍馬と知り合う。1863年、勝海舟の神戸海軍操練所に入る。1865年、龍馬に従い長崎で貿易結社「亀山社中」を結成した。1867年、龍馬の下で海援隊に入る。1868年、外国事務局御用掛になる。1871年、廃藩置県による初の神奈川県知事に就く。1872年、租税権頭に任じられて地租改正を建議した。1873年、政変により薩派が大蔵省を握り、陸奥は弾かれる。1875年、元老院議官、1877年、西南戦争に呼応した土佐立志社の政府転覆計画に加担した。1878年、拘引され、免官、下獄した。獄中でベンサムの功利主義の著作を翻訳する。 1883年、出獄後、イギリス、オーストリアに留学し、シュタインに国家学などに学んだ。1886年、外務省に入る。1888年、駐米公使になり日墨通商修好条約に調印した。1890年、山県内閣の農商務相、衆議院議員、松方内閣の農商務相になる。1892年、枢密顧問官、第2次・伊藤内閣の外相になる。1894年、日英通商航海条約締結に成功し、治外法権を撤廃(条約改正)した。1894年-1895年、日清戦争でイギリス、ロシアの中立化に成功し、下関講和会議では全権委員になり活躍した。1895年、伯爵。1896年、外務大臣を辞任した。著『蹇蹇録 (けんけんろく) 』。54歳。
◆三浦休太郎 江戸時代後期-近代の紀州藩士・官僚・三浦休太郎(みうら-やすし、1829-1910)。本姓は小川、安(やすし)。紀州(和歌山県)藩の支藩・伊予西条藩藩士・小川武貴の子。徳川慶福(家茂)の将軍継嗣擁立に関与した。紀州藩に籍を移されて藩要路に上る。1867年、藩船明光丸が海援隊操縦の「いろは丸」を沈没させた「いろは丸事件」の折衝を行う。賠償金を支払う。坂本龍馬暗殺の関与を疑われ、陸奥宗光ら海援隊士に襲われて負傷した。1870年、藩政に復帰した。後に新政府に出仕する。元老院議官、貴族院議員、東京府知事、宮中顧問官を歴任した。82歳。
◆中井庄五郎 江戸時代後期の十津川郷士・中井庄五郎(なかい-しょうごろう、1847-1868)。大和(奈良県)の生まれ。剣にすぐれ、勤王派と交わる。1867年、坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺され、その報復のために、1868年、海援隊士とともに和歌山藩士・三浦休太郎(安)を襲った。この時、護衛の新撰組隊士に殺された。21歳。
◆宮川信吉 江戸時代後期の新撰組隊士・宮川信吉(みやがわ-のぶきち/のぶよし/しんきち、1843-1868)。諱は頼温(よりあつ)。武蔵国(東京都・埼玉県・神奈川県)の生まれ。宮川弥五郎の次男。母リノは、近藤勇の叔母であり、信吉は近藤勇の従弟。天然理心流道場試衛館に入門し剣、書も習う。1865年、土方歳三らが江戸で新撰組隊士募集した際に入隊した。上洛に際し土方の秘書を務めた。1867年、油小路事件で伊東甲子太郎の暗殺に関与したとされる。1868年、「天満屋事件」により殺害されたという。25歳。
 墓は光縁寺(下京区)、竜源寺(東京三鷹)にもある。
◆天満屋事件 江戸時代後期、1867年4月23日(新暦5月26日) 、紀州藩船「明光丸」(880t)と海援隊操縦で初航海の「いろは(伊呂波)丸」(160t)は、備讃瀬戸の六島(現在の岡山県笠岡市) で衝突した。その後、いろは丸は宇治島沖で沈没する。坂本龍馬は紀州藩と鞆の浦で交渉し、決裂した。その後、土佐の後藤象二郎、紀州の茂田一次郎も交渉を重ね龍馬も同席している。紀州藩は、薩摩の五代才助に調停を依頼し、公用人・三浦休太郎は、8万3000両の賠償金を支払うことでようやく決着した。(「いろは丸事件」)。
 1867年、11月15日(新暦12月10日) 、龍馬、中岡慎太郎は京都・近江屋で暗殺された。(「近江屋事件」)。陸奥宗光は、事件の背後に休太郎がおり、見廻組に命じて決行されたと見ていた。
 近江屋事件の報復のために、宗光、海援隊・陸援隊士らは休太郎の襲撃を計画する。紀州藩は、会津藩を通して新撰組に、興正寺に宿泊していた休太郎の身辺警護を依頼した。
 天満屋事件の詳細については、文献により相違がある。『新選組始末記』での概要は次のようになる。
 江戸時代後期、1868年12月7日(新暦1月1日)夜、天満屋二階で、休太郎は、新撰組副長・土方歳三、斎藤一、原田左之助、吉村貫一郎、岸島芳太郎、相馬主計の6人と歓談していた。新撰組は斎藤のほか、大石鍬二郎、宮川信吉、中村小二郎、中条常八郎、梅戸勝之進、船津釜太郎の7人ともいう。
 午後7時、陸奥らは、小料理屋「河亀」(西洞院正面下ル)に集った。岩村精一郎、海援隊・陸援隊士の土佐藩・山脇太郎、山崎喜都馬、木川靖太郎、松島和助、藤沢潤之助、竹野虎太、斎原治一郎、十津川郷士・中井庄五郎、十津川郷士・前岡力雄、ほか16人だった。 
 亥の刻(午後9時-11時)に、山脇、中井、前岡、山崎橘馬、岡本某ら16人は、休太郎の止宿していた天満屋に向かう。
 土佐藩・山崎は天満屋二階に上がった。十津川郷士・中井は休太郎の頬を斬りつける。坐していた新撰組・土方は、脇差で中井の右手を斬り落とし、その後、斬首した。新撰組・原田は、土佐藩・岡本を斬り、岡本は階下に転げ落ちた。新撰組・岸島は十津川郷士・前岡に斬られている。
 軽傷を負った休太郎は紀州藩士4、5人とともに、紀州本陣の置かれた本願寺に逃れる。双方の斬り合いにより土佐藩士の死者は中井1人、重傷2人になる。
 その後、不動堂村より10数人、本願寺より数10人が後詰(うしろづめ、救援)に駆け付けた。堀河北小路の辻で海援隊・陸援隊士、新撰組・紀州藩氏が斬り合いになる。新撰組の死者1人、負傷者3人、紀伊勢も即死者、負傷者があったという。(『新選組始末記』)
 紀州藩は休太郎のほか、三宅精一、関甚之助も軽傷を負った。新撰組は宮川信吉、舟津釜太郎が死亡し、重傷1人、負傷者3人だったともいう。梅戸、斎藤が負傷したともいう。
 その後、いろは丸事件は、賠償金7万両で決着した。船主の大洲藩には土佐藩から4万2500両が返還されている。


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『新選組日誌 下』、『龍馬& 新選組 京都幕末案内』、『京都幕末維新かくれ史跡を歩く』、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺,relevance&surrounding area本光寺・油小路事件   関連・周辺,relevance&surrounding area興正寺  周辺,surrounding area   関連,relevance近江屋跡・近江屋事件跡  関連,relevance十津川屋敷跡地     
京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
 
map 天満屋騒動の跡(中井正五郎殉難の地) 〒600-8347 京都市下京区仏具屋町,油小路正面 
50音索引,Japanese alphabetical order ホーム,Home  top 50音索引,Japanese alphabetical order ホーム,Home  top
logo,kyotofukoh © 2006- Kyotofukoh,京都風光