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赤山禅院 (京都市左京区) Sekizanzen-in Temple |
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赤山禅院 | 赤山禅院 |
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![]() 鳥居は比叡山延暦寺の結界を意味している。 ![]() 「赤山大明神」の扁額 ![]() ![]() 山門 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 逆立ちした狛犬 ![]() ![]() ![]() 拝殿 ![]() 拝殿 ![]() 拝殿 ![]() 拝殿、「皇城表鬼門」と看板 ![]() 拝殿、屋根に瓦彫の神猿 ![]() ![]() ![]() カエデとカンザクラ ![]() カンザクラ ![]() 雲母(きらら)不動堂 ![]() 雲母(きらら)不動堂 ![]() ![]() 雲母不動堂、本尊・不動明王 ![]() 雲母不動堂 ![]() 雲母不動堂、十二支の蟇股 ![]() ![]() 再起延命地蔵 ![]() ![]() 阿闍梨が千日回峰行で使った草鞋という。 ![]() 地蔵尊(本地堂) ![]() 地蔵尊 ![]() ![]() ![]() 神殿(本殿) ![]() 神殿、「皇城表鬼門」の木札 ![]() ![]() 神殿、切妻 ![]() 神殿、懸仏(かけぼとけ)の種字「カ」 ![]() 神殿、獅子 ![]() 神殿、背後の下殿 ![]() 神殿 ![]() 神殿、正念珠 ![]() 神殿 ![]() ![]() ![]() 福禄寿殿(堂) ![]() 福禄寿殿(堂) |
修学院の北西隣に、赤山禅院(せきざんぜんいん)がある。「赤山明神社」「赤山大明神」「赤山さん」「修学寺」などとも呼ばれている。 内裏の東北、表鬼門の方角にあたり皇城守護、方位除けの寺だった。比叡山の西麓は、かつて「西坂本」といわれた。日吉社とともに天台宗比叡山延暦寺の伽藍守護、鎮護社だった。延暦寺千日回峰行の平安京側の根拠地になっていた。 天台宗、比叡山延暦寺東塔西谷所属、比叡山延暦寺の別院。天台宗修験道本山管領所。本尊は赤山明神(唐名は泰山府君 [たいざんぶくん/たいざんふくん])を安置している。 神仏霊場会第107番、京都第27番。福禄寿殿は都七福神めぐりの一つ、福禄寿神を祀る。京の通称寺霊場元札所、表鬼門の赤山さん。京都洛北・森と水の会。 王城鎮守、方除けの神、近世以降は懸寄せ(かけよせ、集金)の神、商売繁盛、延命長寿、交通安全、航海安全、家内安全、病気平癒、ぜんそく封じなどの信仰を集めている。 ◆歴史年表 平安時代、この地には、大納言・南淵年名(みなふちの-としな、808-877)が晩年に「小野山荘」を営んだ。 868年/813年、円仁(えんにん、慈覚大師)の遺命により、弟子の天台座主・安慧(あんえ/あんね)は、小野山に赤山法華院の赤山明神(唐名は山の神・泰山府君、太山府君)を勧請して創建したという。(『慈覚大師伝』『山門堂舎由緒記』)。同年、868年、第56代・清和天皇は、社殿を建立した。正四位の神階を授けられたという。(『赤山禅院略縁起』) 877年、年名は小野山荘に、貴族・学者・大江音人ら6人を招き、白楽天に倣い日本初の「尚歯会(しょうしえ)」を開催した。年名の没後、延暦寺が山荘を買収した。 888年、円仁の赤山禅院建立の遺志を継ぎ、弟子・安慧が、赤山明神を勧請したともいう。天台の鎮護社になる。 924年、新羅明神社が創建される。(『園城寺伝記』) 993年、智証(円珍)門徒・成算は、悪僧とともに赤山禅院を襲い、円仁の遺物、赤山大明神の笠、笏を破壊した。その後、円仁派が反撃し、比叡山の円珍派の坊舎を破壊した。赤山明神に正四位上の神階が授けられた。 鎌倉時代、1217年、後鳥羽上皇(第82代)の病気平癒祈願では、前陰陽博士・安倍道昌(業弘の子)による「泰山府君祭」で平癒した。以後、「赤山権現祭」は官祭になった。(『吾妻鏡』) 1261年、延暦寺の訴えにより、赤山権現祭は官祭になるともいう。(『歴代皇記』) 江戸時代、後水尾上皇(第108代、在位 :1611-1629)の修学院離宮御幸に際して、社殿修築と、赤山大明神の勅額を贈られた。 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈後に荒廃した。赤山明神の寺号は、赤山禅院に改められた。 1885年、延暦寺の直轄になる。 ◆円仁 平安時代前期の天台宗の僧・円仁(えんにん、794-864)。慈覚大師。下野国(栃木県)に生まれた。9歳で大慈寺の広智に学び、808年、15歳で唐より帰国した比叡山の最澄に師事し、その最期まで14年間仕えた。815年、東大寺で具足戒を受ける。比叡山で12年の籠山行に入る。だが、5年後、法隆寺、四天王寺での夏安吾(げあんご)講師、東北への教化を行う。一時、心身衰え、829年、横川に隠棲した。苦修練行を続け、夢中に霊薬を得て回復し、『法華経』書写を始め、小塔(如法堂)を建て写経を納めたという。836年、837年に渡唐に失敗、838年、最後の遣唐使として渡る。その後、遣唐使一行から離れ、840年、五台山を巡礼し、国清寺で学ぼうとしたが許可が下りなかった。現地では仏教弾圧(武宗・会昌の廃仏)があり、日本と新羅はこの間に国交断絶していた。円仁は、還俗させられる。長安で天台宗、真言密教などを学ぶ。山東半島、赤山新羅坊の新羅寺・赤山法華院で新羅仏教を学ぶ。847年、帰国、仏典、金剛界曼荼羅など多数を持ち帰った。新羅声明を天台声明として取り入れ、その祖になる。848年、比叡山に戻り、円珍に密教を教えた。854年、3世・天台座主に就く。862年、東塔に天台密教の根本道場・総持院を建立した。東京・瀧泉寺、山形・立石寺(円仁の遺体納葬の入定窟がある)、松島・瑞巌寺など多くの寺を開いた。『顕揚大戒論』ほか、9年6カ月の唐滞在記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)を著す。70歳。 没後、日本初の大師号(慈覚大師)を贈られた。入唐八家(最澄・空海など)の一人。 ◆安慧 平安時代前期の天台僧・安慧(あんえ/あんね、795-868)。俗姓は大狛(おおこま)。河内(大阪府)の生まれ。下野・大慈寺(小野寺)の広智(こうち)に師事した。13歳で比叡山の最澄、円仁に師事する。844年、出羽講師、862年、内供奉十禅師、864年、天台座主4世になる。著『顕法華義抄』『即身成仏義』。74歳。 ◆南淵年名 平安時代前期の公卿・漢学者・南淵年名(みなふち-の-としな、808-877)。因幡守・南淵永河(ながかわ)の子。823)年,坂田の姓を南淵に改めている。832年、文章生になる。筑前、尾張などの国司、勘解由(かげゆ)長官、右大弁を歴任した。864年、参議、866年、応天門の変に際して伴善男を尋問する。868年、従三位中納言、876年、大納言になる。『貞観格』『貞観式』の制定、『日本文徳天皇実録』の編纂にも関わる。71歳。 877年、この地にあった小野山荘に、貴族・学者の大江音人など知識人6人を招き、白楽天に倣い日本初の「尚歯会(しょうしかい)」(賀寿の詩会)を開催した。 ◆張保皐 新羅の重臣・張保皐(ちょう-ほこう、790?- 841?/846?)。趙宝高。唐の軍人。その後、新羅では青海鎮大使の時、海賊を取り締まった。唐に新羅人居留地を作り、支配し、日本、唐、新羅の三国間貿易で巨万の利益を得た。839年、王位争いでは興徳王太子・祐徴を助け、閔哀王を討つ。娘を文聖王妃にしようとして暗殺された。 ◆仏像・神像 ◈「泰山府君(たいざんふくん)」は、神殿(本殿)に祀られている。中国陰陽道の祖神になる。 ◈「不動明王」は、雲母(きらら)不動堂に安置されている。かつて、寺院の修学院に安置され、廃寺に伴い雲母寺に遷され本尊になる。近代、1885年に雲母寺が廃寺になり、当院に遷された。 ◈「駒滝不動尊」は、御滝堂に安置されている。 ◈「福禄寿神」は、福禄寿殿(堂)に祀られている。都七福神の一つ、福禄寿神仙になる。赤山明神は天では福禄寿星、地では泰山府君とされ同じ神であるという。 ◆建築 山門、手水舎、拝殿、書院、地蔵堂(本地堂)、本殿(神殿)、弁天堂、福禄寿殿、金神社、相生社、不動堂(雲母不動堂)、御滝籠堂などがある。 ◈「拝殿」は、四間、瓦葺。 ◈「本殿(神殿)」は金堂様式になる。背後には祭祀が行われたとみられる下殿がある。懸仏(かけぼとけ)の種字「カ」が掛けられている。懸仏は平安時代の神仏習合の本地垂迹から生まれた。近代以前は、寺社には祀られ、1868年の神仏分離令後の廃仏毀釈により神社からは一掃された。 ◈「雲母(きらら)不動堂」は、雲母寺より移築されたという。移築部分は堂の背後にあたる。十二支の蟇股がある。 ◆赤山明神 御神体の赤山明神(泰山府君)は武将を象る神像であり、延命富貴の神という。 陰陽道の神である泰山府君は、天帝の孫であり、中国泰山(赤山[斥山] とも、山東省泰安市)の守護神になる。代々の皇帝が天の守護を祈る山になっていた。上代、東方は万物の始めとされ、人の生命気魄は五獄中の東獄(泰山)神とされた。また、赤山法花院において、新羅人が礼拝していた土俗的な神ともいう。姿は、頭に唐冠、朱の唐服、笏を持つ。また、左手に弓、右手に矢を持つ毘沙門天のような武神としても描かれた。 円仁は、比叡山を泰山に見立てた。泰山は道教の聖地五岳のひとつであり、陰陽道祖神・泰山府君は、病い、寿命など生死に関わる神、土俗的な山神とされた。陰陽道では、北極星(北辰)として、北辰玄極祭の祭神になった。泰山府君を祀る泰山府君祭は、陰陽師の行う代表的な祭りになっている。 赤山明神は天台宗の守護神であり、中世には道教の泰山府君と同一視された。仏教、神道、陰陽道、室町時代以降は福神とも習合する。赤山明神は、地蔵菩薩、輔星(北斗七星)、福禄寿などの神仏とも混淆した。神仏習合の三十番神の25番にも加えられている。 円仁が日本に戻る際に船が遭難しかける。この時、舳先に赤山明神が現れ守護した。赤山明神は、西の麓(西坂本)に住むと告げたという。(『源平盛衰記』)。円仁は比叡山の守護、天台密教の守護のために、泰山府君を唐から勧請しようとした。だが、果たせずに亡くなる。その弟子の天台座主・安慧が引き継ぎ勧請し、神殿を造り祀った。 以後、赤山明神は延暦寺別院になり、比叡山の西の鎮守社になる。ちなみに、東の鎮守社は近江・日吉社とされた。現在、比叡山山頂横川に、赤山明神を祀る祠がある。赤山禅院はその本拠であり、比叡山西麓の総鎮護になる。また、園城寺(三井寺)の伽藍鎮護の護法神は同神であり、新羅(しんら)明神と呼ばれている。この寺門派の新羅明神に対し、山門派の拠点として赤山明神が祀られたともいう。 泰山府君の逸話が残る。平安時代、白河院(第72代、在位:1073-1087)の時、三井寺・頼豪阿闍梨(1002-1084)は、戒壇を立てたいと願い出る。だが、白河院は延暦寺を慮り許さない。頼豪は皇子を祈殺すると言い残し、三井寺の持仏堂に籠もり念じた。江ノ中納言房卿が寺に遣わされ様子を覗うと、頼豪は果たして念じている。白河院は案じ、戒壇を許すことにした。その後、夢告があり、赤衣姿、左脇に弓を挟み鏑矢を引き絞った翁が現れた。自らを西塔の赤山(泰山府君)と名乗り、戒壇強要した悪僧を射止めるという。このため白河院は、前言を翻し、三井寺に戒壇を立てることを許さなかった。 平家の頃、公卿・源雅頼(1127-1190)に夢告があった。赤衣の官人(泰山府君)が現れ、義朝に御剣を預けたが、朝家に背いたため取り返して平清盛(1118-1181)に預けた。再び朝政を乱したとして、御前(源雅頼、1127-1190)が取り返し源頼朝(1147-1199)に渡すようにと告げた。以来、巷間、平家は終わりと噂されたという。 ◆新羅神社 境内の新羅神社(新羅明神社)は、平安時代、924年の創建という。 円仁と新羅との関りは深い。新羅(しらぎ/しんら、356-935)は、古代朝鮮半島南東部にあった国家をいう。838年に円仁は、還学僧として入唐し、山東半島の港町・赤山(新羅商人留地、赤山新羅坊)で新羅人の中に暮らした。 張保皐(ちょう-ほこう、趙宝高、弓福、?-841)は、入唐請益僧・円仁が短期帰国の予定のため、長期不法在唐を助けた、また公験(パスポート)を発効させたという。保皐は新羅寺・赤山法華院に寄進し、円仁はその赤山法華院で新羅仏教を学ぶ。また、新羅声明を天台声明に取り入れた。 保皐は、円仁の9年6カ月の求法の旅を物心両面にわたり支援した。円仁の帰国時、すでに暗殺されていた保皐に代わり、直属の家来・将張詠が奔走し、円仁は新羅船による帰国を果たした。 847年、円仁は帰国後、新羅人が祀っていた赤山明神を日本に勧請することを願った。だが、果たせずに亡くなる。 なお、園城寺の伽藍鎮守は新羅(しんら)明神として祀られている。また、円仁は、唐より摩多羅神(またらじん)を将来し、比叡山、赤山、太秦・広隆寺の3か所に祀ったともいう。摩多羅神は、天台宗儀式の玄旨帰命壇(げんしきみょうだん)の本尊であり、念仏の守護神とされる。 ◆鬼門・神猿 当院の拝殿屋根には、瓦彫(陶製)の猿が安置されている。鬼門の方角である北東(艮)とは反対の方角である西南西(申[さる])を鬼門除けとした。鬼門除けのために比叡を守る日吉(ひえ)神使、大明神の眷属になる猿像が祀られた。猿は左手に邪気を祓う神楽鈴、右手に神の依り代になる御幣(幣串)を持つ。 古代中国では、北東方角を鬼門と呼び、異界の鬼が人間界に行き来する出入り口があると考えられていた。陰陽道では、北東の艮(うしとら)とは、北方の陰から東方の陽に転ずる急所とされ畏れられ、鬼門には方位の神の鬼門神・金神(きんじん/こんじん)を祀り固めた。この方角への出発、建築、移転、嫁入りは「金神七殺」を招くとものとして忌まれた。また、猿は夜明けを告げて叫ぶとされた。猿は闇を払い、日の出をもたらす生物であり、闇の悪鬼を祓う魔除けの眷属と考えられた。節分とは、冬至を真北とすると、北東(丑寅)に当たるために鬼を祓う意味があった。 平安時代には鬼門信仰により、平安京の北東の鬼門封じのために幾重もの社寺が配されていた。京都御所の鬼門である猿ヶ辻、その北東方向の位置に幸神社が祀られ、さらに北東に赤山禅院、さらに北東に比叡山延暦寺(日吉大社)が位置している。都の北東のほぼ直線上に4つの猿が祀られている。猿は、北東よりの邪気の侵入に対して四重に防御しているとされている。 また、猿は王城守護のために、京都御所の鬼門守護「猿が辻」の猿と向き合っているともいう。猿はかつて夜な夜な暴れ悪戯を繰り返したという。以来、猿が逃げ出さないようにと、御所同様に当院の猿も金網に囲まれ封じられている。猿は厄除け、疫除け、商売繁盛の神でもある。「厄難が去る」として信仰される。 御手洗井戸屋形、屋根瓦にも2匹の愛嬌ある猿の屋根瓦が載っている。 ◆西坂本 赤山禅院の周辺は、比叡山の西側にあり、坂本(東坂本)に対して「西坂本(西の坂本)」といわれた。延暦寺の守護神は、日吉山王神(東坂本)と赤山明神(西坂本)とされている。 叡山三千坊と呼ばれ、延暦寺系の寺院が多く建てられていた。 ◆雲母寺 雲母寺(きららじ、不動堂)は、平安時代前期、847年に、円仁が唐からの帰国後、比叡山に登る際に休憩した地であるという。また、雲母寺(うんもじ)ともいい、平安時代前期、883年、また元慶年間(877-884)に、天台宗の相応により、雲母坂の登り口、音羽谷に創建されたという。 門、堂は南面し、江戸時代前期の文人・石川丈山(1583-1672)筆による「雲母寺」の横額が掲げられていたという。伝教大師(最澄)自作ともいう本尊・不動明王立像(八尺、約2.4m)が安置されていた。 近代、1885年に廃寺になる。本堂(雲母不動堂)と本尊・不動明王は赤山禅院に遷された。いまは、境内の雲母(きらら)不動堂に不動明王を安置する。 ◆修学院 天台宗の修学院(しゅうがくいん)は、平安時代の第66代・一条天皇(在位986-1011)の頃に創建された。播磨守・佐伯公行が、延暦寺の勝算僧正(しょうさん、939-943)に帰依し、勝算を開山とした。桧峠の西にあったという。 永延年間(987-989)に官寺になる。その後、数百年して廃寺になり、地名の「修学院」のみが残った。本尊の不動明王像は、雲母寺に、その後、赤山禅院に遷された。 ◆五日払い 赤山明神の賽(祭)日、5日に参詣して懸(かけ)取りに回ると、集金(懸寄せ)がよくできるといわれる。赤山(せきざん)を「しゃくせん(借銭)」と読み替え、貸金が取り立てられる商売保護、繁盛の神としての信仰も集めた。 これが商習慣の「五日払い」「五十払い(ごとばらい)」「五十日(ごとおび)」の起源とされている。このため、赤山明神は、掛取神(かけとりがみ)とも呼ばれた。 ◆正念珠 境内に「正念珠」がある。参拝する場合には、手の数珠を繰り赤山明神の真言を唱え、この正念珠をくぐり本殿で拝する。 本尊の誦修法(正念誦)を終え、境内を一巡した後に、入口の「還念珠」で数珠を持ち、功徳を衆生に回向するために発願文を唱える。 ◆千日回峯行 比叡山延暦寺の「千日回峯行」では、回峯700日までの比叡山内の巡拝(自利行)に加え、比叡山より雲母坂を往復し、諸仏諸菩薩を巡拝する約40㎞の「赤山苦行」(化他行)がある。赤山大明神に花を供するためという。 また、900日目の大行では、約60㎞の「京都大廻り」が修される。行者は夜半に比叡山無動寺谷の明王堂を出峯し、約30㎞の山廻りで明王堂に一度戻る。さらに京都へ下り、京都側の結界である赤山禅院では草履を履き替え、お加持(三力の統一、行者の法界力、一般社会の法界力、不動明王のご加護力)を行う。赤山禅院を出て、約30㎞の京都市内の神社仏閣を巡拝する。 比叡山からの主な行程は、明王堂を朝に出峯し、比叡山、雲母坂、赤山禅院、真如堂、行者橋、八坂神社、庚申堂、清水寺、六波羅蜜寺、因幡薬師、神泉苑、五条天神、北野天満宮、西方尼寺、上御霊神社、下鴨神社、河合神社などを経て、夕方に宿舎に着く。翌日は夜半に宿舎を出発し、逆に巡拝しながら午前中に無動寺谷の明王堂に戻る。 また、百日回峯行の75日目に行われる「京都切廻り」では、一日のみの京都の社寺巡拝が上記と同じ道順で行われている。 ◆都七福神まいり 室町時代に、京都では民間信仰として七福神信仰が始まったとされ、「都七福神」は最も古い歴史がある。恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、寿老人、福禄寿の七神の信仰があり、その後、各地に広まったという。 現在の「都七福神めぐり」は、京都恵比須神社の恵比須神、松ヶ崎大黒天妙圓寺の大黒天、六波羅蜜寺の弁財天、東寺の毘沙門天、萬福寺の布袋尊、赤山禅院の福禄寿、革堂(行願寺)の寿老人になっている。福がもたらされるという正月の参詣と毎月7日の縁日がある。 当院の本尊・赤山大明神は七福神の一つ福禄寿ともされる。境内に福禄寿殿が建てられ多くの福禄寿神仙が祀られている。福禄寿は三徳(幸運、高禄、長寿)のご利益があるという。福禄寿の姿をした木製手作りの「姿みくじ」(高さ5㎝、直径2㎝)が授けられる。 ◆狛犬狛犬 逆立ちした狛犬がある。 ◆尚歯会 唐の白楽天(772-846)は、6老人を招き「七叟尚歯会(しちそう-しょうしえ)」を催した。それに倣い、平安時代、877年3月、この地にあった南淵年名(みなふちの-としな、808-877)の小野山荘に、年名は老賢6人を招いた。日本初の「尚歯会(しょうしえ)」を開催した。「歯」は年齢、「尚」は尊ぶの意味であり、「年歯(ねんし)の高きを尊ぶ」を表した。敬老の意であり、高齢者が集い詩歌管弦を楽しむ。敬老会の発祥になった。 集ったのは、貴族・学者の大江音人(おおえの-おとんど、811-877)、公卿・藤原冬緒(ふじわらの-ふゆお、808-890)、文人・公家の菅原是善(すがわらの-これよし、812-880)、貴族・文室有真(ふんやの -ありざね/ありま、 ?-?)、菅原秋緒(すがわらの-あきお)、大中臣是尚(おおなかとみ-これなお)になる。なお、年名は、この年の4月に亡くなっている。 以後、平安時代、969年に藤原在衡(あきひら、892-970) は「粟田山荘」で、平安時代1130年に公卿・藤原宗忠(むねただ1062-1141 )は「白河山荘」で尚歯会を催した。 ◆気学発祥地 境内に「気学発祥地」の碑が立つ。気学(きがく、九星・気学)とは、1909年に園田真次郎によりまとめられた。1924年に九星術を基本とした占術になる。生年月日の九星、干支、五行を組合わせた占術であり、方位の吉凶を占った。 ◆赤山の香水 拝殿近くに、「赤山の香水」の碑がある。 ◆樹木 紅葉の名所として知られている。ヤマモモがある。 ◆アニメ 赤山禅院参道周辺は、アニメーション『東のエデン』(原作・神山健治、制作・Production I.G、2009年4月- 6月、2013年7月- 9月、全11話、劇場版2009年、2011年)の舞台になった。 ◆年間行事 初詣(1月1日)、新春大護摩供(八千枚大護摩供、比叡山大阿闍梨により法修)(1月5日)、節分会(2月3日)、泰山府君祭・端午大護摩供(5月5日)、ぜんそく封じ・へちま加持(へちまが供えられ、大阿闍梨によるぜんそく封じの加持、へちま御牘・破魔矢の授与、御神酒・へちま汁・抹茶接待が行われる)(中秋名月)、数珠供養(11月23日)、紅葉祭(11月23日)。 泰山府君五日講御縁日(毎月5日)、比叡山大阿闍梨御加持日(毎月15日)、赤山大明神縁日御加持日(毎月25日)、雲母不動尊縁日御加持日(毎月28日)。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『比叡山諸堂史の研究』、『闘いと祈りの聖域 比叡山史』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都市の地名』、『北嶺のひと 比叡山・千回峰行者 内海俊照』、『京都古社寺辞典』、『京都府の歴史散歩 中』、『洛西探訪』『昭和京都名所図会 3 洛北』、『近江・若狭・越前 寺院神社大事典』、『日本の名僧』、『京都「癒しの道」案内』、『京都の寺社505を歩く 上』、『京都・美のこころ』、『史跡探訪 京の七口』、『京都隠れた史跡の100選』、『古都歩きの愉しみ』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』、『京の福神めぐり』、『週刊 古社名刹巡拝の旅 21 大原道 京都』 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() 福禄寿殿(堂) |
![]() ![]() 福禄寿神仙、姿みくじ |
![]() 弁財天堂 |
![]() 弁財天堂 |
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![]() 御滝堂、駒滝不動尊 |
![]() 御滝堂、駒滝不動尊 |
![]() 駒滝不動尊 |
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![]() ![]() 相生社、縁結びの神 |
![]() 歓喜天 |
![]() 八幡大菩薩、天照皇大神宮、春日大明神 |
![]() 金(こん)神社、鬼門、方除の神、また、家を護り、家に金具を打つことを防ぐ神。 |
![]() 右より、十禅師権現、住吉大明神、新羅(しんら)大明神、賀茂大明神、平野大明神、西宮大明神、松尾大明神。新羅神社は、平安時代、924年創建という。 |
![]() 稲荷社、財産安泰の神 |
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![]() 還念珠 |
![]() ![]() 手水舎、お猿 |
![]() 「我邦尚歯会発祥之地」 |
![]() 「小野山荘旧蹟」 |
![]() 「気学発祥地」の碑 |
![]() 十六羅漢、三十三観音 |
![]() 宝篋印塔 |
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