京都えびす(恵美須)神社 (京都市東山区)
Kyoto Ebisu-jinja Shrine
京都えびす神社 京都えびす神社 
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冠木門


冠木門の背後

冠木門


西門


西門


西門








鳥居に掲げられているえびすの顔(尊顔)


拝殿




本殿


本殿


本殿南の板、板を手で叩いて、再度お願い事をする。


天満宮



天満宮



天満宮



天満宮



天満宮


天満宮


天満宮


白太夫社


岩本稲荷明神社


北野天満宮遥拝所


北野天満宮遥拝所



北野天満宮遥拝所



猿田彦神社



八幡神社









財布塚


名刺塚


「十日えびす」
 京都えびす神社(きょうと-えびす-じんじゃ)は、「恵美須神社」、「京都ゑびす神社」、とも称される。「えべっさん」の名で親しまれている。航海・旅行の安全にご利益があるとして、「旅えびす」とも呼ばれる。「日本三大えびす(ほかに、西宮神社、大阪今宮神社)」の一つに数えられている。 
 祭神は、八代言代主大神(やえことしろぬしのおおかみ)、大國主大神(おおくにぬしのおおかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)になる。
 都七福神まいりの一つ、えびす神。
 商売繁盛、平和祈願、家内安全、旅行安全、航海安全、交通安全、豊漁、家出人探し(足とめ天神)などの信仰がある。御朱印が授けられる。
◆歴史年表 鎌倉時代、1202年、栄西による建仁寺創建の際に、境内に鎮守社として恵美須神を祀り創祀された。当初は「蛭子社」と称した。
 室町時代、1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)の戦火により建仁寺が焼失した。建仁寺の再建の際に、当社は現在地に移転したという。
 江戸時代、1788年、天明の大火で難を逃れた。
◆栄西 平安時代後期-鎌倉時代前期の臨済宗の僧・栄西(えいさい/ようさい、1141-1215)。男性。号は葉上房、字は明庵。幼名は千寿丸。千光祖師ともいわれる。備中(岡山県)の吉備津神社の社家・賀陽(かや/かよう)氏の生まれ。天台宗の安養寺の静心につく。11歳で安養寺・静心に師事した。1153年、13歳で比叡山に上り、1154年、出家し栄西と称した。1157年、法兄・千命により密教を学ぶ。1159年、比叡山北谷八尾の竹林房、顕教の有弁に学ぶ。比叡山を下り、1167年、故郷の安養寺で灌頂を受け、備前・金山寺、日応寺、伯耆の大山寺で行を行う。1168年、宋船で宋に半年間留学し、天台山、阿育王山で臨在禅に触れる。現地で東大寺の重源と遭う。台密葉上流を開く。1175年より、今津の誓願寺に住した。1185年、第82代・後鳥羽天皇の勅により神泉苑で祈雨修法を行う。葉上(ようじょう)の号を贈られる。1187年、再び南宋に入宋するが、念願したインド行きはかなわなかった。天台山、天童山に入り、大蔵経を3度読破する。臨済宗黄竜派、万年寺の虚庵懐敞(きょあん-かいへい)に禅を学び、印可を得た。1191年、帰国し臨済宗を開宗した。1192年、筑前に報恩寺を建てた。平戸の庵(後の千光院)で日本初の臨在禅(禅規)を行う。1194年、栄西、達磨宗の大日能忍らは、延暦寺衆僧により禅宗弘法を禁じられた。やむなく、1195年、日本初の禅寺・聖福寺を博多に建立した。臨済禅は公家に拮抗する鎌倉幕府、2代将軍源頼家に信を得る。1199年頃、鎌倉に移る。1200年、北条政子発願により鎌倉・寿福寺を開く。源頼朝一周忌の導師を勤めた。1202年、幕府の外護により建仁寺などを建立し、重源を継いで、1206年、奈良・東大寺の僧正にも就いた。1208年、法勝寺の再建にも関わる。1211年より、宋より帰国した泉涌寺開山・俊を建仁寺に招き律学を講じさせた。1213年、権僧正。日本臨済宗千光派の祖。鎌倉の寿福寺で亡くなったとも、建仁寺で亡くなったともいう。75歳。
 境内、建仁寺・開山堂に栄西を祀る。建築を学び、『喫茶養生記』(1214)を著し茶を勧めた。門弟2000人、孫弟子1万人にものぼったという。
◆えびす神 建仁寺を建立した栄西は、宋に留学した。帰国途上の船中で、大風により船が沈没しそうになる。その時、高波の底にえびす神が現れたという。栄西がえびす神を船に祀ると嵐はおさまった。以来、えびす神は建仁寺境内に鎮守社として祀られたという。
 えびす(戎、恵比須)は、イザナギノミコトとイザナミノミコトの最初の子・ヒルコノミコトをいう。3歳になっても、立つことも声を出すこともできなかった。このため、葦舟に乗せられ海に流されたという。
 中世以降、えびす神信仰が生まれ、唯一日本生まれの神として七福神に加えられる。左手に鯛、右手に釣竿を持つ。漁業を好み、産物を米穀と交換したことから、海上、漁業、商業、商売繁盛の守護神になった。
 「十日えびす」(1月8日-12日)の信仰はかつて今宮神社より、江戸時代中期に京都にも伝えられたともいう。えびす神は1月10日寅の刻(午前4時)生まれという。それにあやかり、十日えびすの信仰が始まる。「初えびす」ともいう。福笹は、「商売繁昌、笹もってこい」の掛け声の通りに、家運隆昌、商売繁盛の象徴になる。
 えびす神と笹(吉兆笹)を結びつけたのは、当社の18代神主の創意によるという。笹は目出たい縁起物、松竹梅の竹の葉になる。笹は、節目正しく真直に伸び、折れずに常に青々と繁り、葉が落ちない。さらに、葉の形は小判の形をしているため縁起を担がれた。ほかに、縁起物の御札の「福俵」「福銭」「御影」「大宝」など縁起札が授与される。東映女優が乗る「宝恵籠(ほうえかご)」が出る。
 笹とえびす神の形も、当社独自の「御札」より広まったという。30代宮司により、「のこり福」も考案された。これらの風習は、社前の露天商が全国に普及させたという。
 「二十日えびす」(10月19日-20日)も京都の祭礼という。江戸時代初期に、京商人は「渡り商い」をして、旧10月に帰京した。商人らは、えびす神を祀り、商売繁盛、旅の平安の御礼詣りをした。それが全国に普及したという。祭礼中は、「福笹」「銭袋」「お礼」など縁起物の御札が授与され、五穀豊穣を願いえびす囃子が奉納される。
 なお、近代、明治期(1868-1912)以降/大正期(1912-1926)以降、冠者殿社(下京区)の「誓文払い」と当社の大祭の日の「えびす講大売り出し」が結びついたという。一年を通して、商い上の駆け引きでついた嘘の罪を祓い、神罰を逃れる信仰だった。その参詣が当社にとって代わったともいう。
◆禹 中国古代の伝説上の帝王・禹(う、?-?)。詳細不明。禹王。姓は姒(じ)、別名は文命。西方の異民族の出身ともいう。父・鯀(こん)。尭帝の時代に黄河の大洪水が起こり、父・鯀が治水にあたり失敗する。その後、舜帝は禹に治水を命じた。禹は部下の益(えき)・后稷(こうしよく)とともに刻苦13年で成功した。水を導き、農業・産業を整備した。その功により舜帝から天子の位を譲られ、夏王朝を創始したという。
 治水に当たり、自らは衣食を粗末にし、身を粉にして働いたとされ伝説化した。尭・舜と並び太古の聖王とされる。禹の死後、子・啓が諸侯から推されて天子になり、中国の世襲王朝の始まりになったという。
◆末社 末社は4社ある。
 ◈「岩本社(岩本稲荷明神社、岩本稲荷大明神)」の祭神は、平安時代前期の歌人・在原業平(825-880)になる。
 かつて六波羅蜜寺の東、阿仏屋敷(松原通東大路西入ル付近?)に祀られていた。屋敷稲荷神であり、屋敷には、鎌倉時代の女性歌人・阿仏尼(1222?-1283)が住んでいたという。阿仏尼作という在原業平像が伝えられている。当社は、上賀茂神社(北区)の末社になるという。
 ◈「小松天満宮」は、祭神に菅原道真を祀る。堂内に道真像が安置されている。「菊池天満宮」とも呼ばれる。道真像は、道真の臣だった菊池武則邸の井戸から出たためという。近代、1880年に当社に遷された。
 像は、「天拝山荒行の像」とも呼ばれている。無実の罪により大宰府に配所になった道真が、天拝山荒行中の姿を表し、恐ろしい形相をしている。
 供物は精進物に限定されている。「足止め天神」とも呼ばれている。「足止め」の信仰がある。対の木像狛犬の足に名前と生年月日を書いて括りつける。男性は右足、女性は左足に括りつける。この後、毎日お参りを続けると、家出人が帰ってくるという。無実の人の罪が晴れるともいう。縁固めの信仰もあり、芸舞妓の参拝もある。
◆都七福神まいり 室町時代以来の七福神の民間信仰は、京都が発祥地といわれている。当社も「都七福神めぐり」の一つとして知られている。
 室町時代、京都では民間信仰として七福神信仰が始まったとされ、都七福神は最も古い歴史がある。恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁財天、寿老人、福禄寿の七神の信仰であり、その後、各地に広まったという。
 現在の都七福神は、京都恵比須神社(東山区)の恵比須神、松ヶ崎大黒天妙圓寺(左京区)の大黒天、六波羅蜜寺(東山区)の弁財天、東寺(南区)の毘沙門天、萬福寺(木幡)の布袋尊、赤山禅院(左京区)の福禄寿、革堂(行願寺)(中京区)の寿老人になる。福がもたらされるという正月の参詣と毎月7日の縁日がある。
◆文化財 ◈拝殿の天井に、近現代の日本画家・堂本印象(1891-1979)筆の「招福龍絵」がある。
 ◈剣鉾「兎鉾」の身銘は、江戸時代中期、1743年になる。
 ◈剣鉾「兎鉾」の茎銘は、江戸時代後期、1855年になる。現在は使用されていない。
 ◈剣鉾「龍鉾」の茎銘は、近代、1886年、身141.1㎝、茎46.2㎝、全長187.3㎝になる。箱書に、明治期(1896-1912)に架空線障害などにより巡行が中断し、欄縁付の枠造りの台車に改修されたと記されている。正面に金幣一対が取り付けられ、四方に胴巻・水引幕が巡らされている。
◆えびす神 
◈えびす(えべっさん)は、高齢で耳が不自由とされる。このため、本殿の正面で一度参拝後に、本殿南の板を手で叩いて、再度お願い事をする。
 
◈鳥居に掲げられている「えびすの顔(尊顔)」は、現代、1982年に奉納された。
 熊手に網の籠(福箕)が付けられている。この籠をめがけて下からお賽銭が投げ上げられる。お賽銭がうまく入ると祈願成就するともいう。
◆天明の大火 江戸時代後期、1788年の天明の大火で被害を受けなかった。火元の団栗辻子(どんぐり-の-ずし)に近いにもかかわらず被災しなかった。これは、勢多判官為兼(せた-はんがん-ためかね)が、水神の禹(う)王廟をこの付近に祀ったためとされた。恵比寿神社は、実は禹王廟であり、焼失を免れたのも水徳神の禹王のおかげとされた。(『万民千代乃礎』)
◆財布塚 財布塚には、日頃使用している財布に感謝の念を捧げ開運を願う。財布塚に、使い古した財布を奉納する。
 京都の実業家・吉村孫三郎(1884-1989)の揮毫がある。
◆名刺塚
 名刺塚には、日頃使用している名刺名刺に感謝し、開運を願う。使い古した名刺を奉納する。現代、1978年に創建された。
 実業家・松下幸之助(1894-1989)の揮毫による。名刺祭(9月27日)。
◆祭礼 ◈十日えびす祭典(初えびす)(1月8日-12日)は、えびす大神が海から訪れた日を祝う。8日、招福祭(宝恵かご社参、湯立て神楽神事、餅つき神事)。9日、宵ゑびす祭(招福まぐろ奉納、宝恵かご社参、祭典執行)。10日、十日えびす大祭(初えびす)(福笹の授与、祭典執行)。11日、残り福祭(福笹と福餅の授与・祭典執行)。12日、撤福祭(祭典執行)になる。
 ◈例大祭・神幸祭(5月第3日曜日)では、現在は剣鉾の唐扇鉾(大和町)、兎鉾(亀井町)、博団山(はくだん-やま、ダシ)(博多町)、龍鉾(小松町一部-四町)、柏鉾(北御門町)、松月鉾(東轆轤町・中轆轤町・西轆轤町)が各町に飾られる。
 唐扇鉾は、昭和期(1926-1989)初期まで巡行し、町内の男性が差していたという。
◆年間行事 十日えびす祭典(初えびす)(1月8日-12日)、節分祭(2月節分)、例大祭・神幸祭(5月第3日曜日)、夏越大祭(6月30日)、二十日えびす祭典(えびす講)(海に帰る日を祝う。)(10月19日-20日)、火焚祭(11月16日)。
 都七福神めぐりの縁日(毎月7日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『京都大事典』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『京都の寺社505を歩く 上』、『剣鉾まつり』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』、『京都ご利益徹底ガイド』、『京の福神めぐり』、『京都の隠れた御朱印ブック』 、『京都の災害をめぐる』、ウェブサイト「コトバンク」


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京都えびす神社 〒605-0811 京都市東山区小松町125,大和大路通四条下ル四丁目   075-525-0005  8:30-17:00
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