日吉大社 (滋賀県大津市)
Hiyoshi-taisha Shrine
日吉大社 日吉大社
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二の鳥居


社号標




大鳥居


大鳥居


大鳥居




神奈備山の八王子山が望める。


神奈備山、神体山の八王子山(牛尾山、381m)、山頂下に巨大な磐座があり牛尾宮・三宮を祀る。


東に見える琵琶湖越しの近江富士・三上山(432m)の山容。


日吉馬場(ひよしのばんば、ひえのばんば)、春には桜並木になる。奥に琵琶湖が見えている。かつて、比叡山延暦寺の法華大会(10月1日-6日)に落ちた天台僧は、この脇の不浄道を通り故郷へ帰って行ったという。


日吉馬場の両端にある44基の石造常夜燈は、かつて山王二十一社の社頭に立てられていたもので、近代、1868年以後の廃仏毀釈によってここに集められたという。


大鳥居周辺

早尾地蔵堂(子育て地蔵、早尾地蔵尊、六角地蔵堂)、平安時代初期の天台宗の開祖・最澄(767-822、伝教大師)自作の石地蔵尊といわれる。伝承がある。地蔵尊は戦国時代の天台僧で西教寺開山・真盛(1443-1495、円戒国師・慈摂大師)として現れ、入寂の後に再び地蔵尊に戻されたという。最澄が童子養育に心を注ぎ刻んだということから、子育て地蔵ともいわれる。


早尾地蔵堂


穴太衆積みの石垣


地蔵尊像


求法(ぐほう)寺走井堂


求法(ぐほう)寺走井(はしりい)大三(がんさん)大師堂(走井堂、求法寺)(重文)、本尊は自作という元三大師木像、脇仏は如意輪観音、三十三所観音、不動明王。安土・桃山時代、1571年に織田信長により焼失し、江戸時代、1714年に再建された。屋根は入母屋造。正面に軒唐破風、こけら葺。もとは、天台宗第4世・座主の安恵の里坊だったという。比叡山中興の祖・18世座主の慈恵大師(912-985、元三大師)が休憩し入山修行を決意したとして、求法堂とも名づけられた。また、橋殿、走井の地名に因み、走井堂ともいう。


大三大師堂


大三大師堂、正堂(内陣)前面に礼堂(外陣)がつながり凸型になっている。間口三間、奥行三間、入母屋造。礼堂は間口五間、奥行三間、中央部の三間、一間を内陣に取り込み、礼堂は柱を省略し、虹梁、太瓶束にしている。西教寺本堂(1739)にもみられる棟梁・中島次郎左衛門の手による。


大三大師堂


境内脇に、比叡山延暦寺根本中堂への表参道・東坂(本坂、東塔坂)がある。ここから延暦寺までは約3.5km、2時間の道のり。途中に、52段の石段の垢坂、南禅坊、閼伽坂、女人禁制(4月8日には禁が解かれた)の比叡山で最澄と母が会ったという花摘堂跡、覚運廟、天梯権現社(比叡山三大魔所)、円仁廟への分かれ道、聖尊院堂、法然堂などを経て、文殊堂、東塔・根本中堂に至る。


延暦寺東塔・根本中堂への石標


摂社・早尾神社


摂社・早尾神社、祭神は素戔鳴尊(すさのおのみこと)


大宮橋周辺

宝篋印塔
仏教施設の遺構


大宮川に架かる大宮橋(重文)、日吉三橋のひとつ。安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)に豊臣秀吉が木橋を寄進したという。江戸時代、1669年に現在の石橋に掛け替えられたという。


大宮橋の石の欄干


清流、大宮川の流れ


穴太衆積の石垣、自然石を野積みした石垣と水路(溝)は境内の随所に見られる。水は大宮川から引かれている。


走井橋(重文)、日吉三橋のひとつ。石造反橋、幅は4.6m、長さは13.8m。橋脚は6本、桁はなく、橋脚の頭に継ぎ材を置き、反りのある橋板を渡している。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、豊臣秀吉が木橋を寄進し、江戸時代、1669年に現在の石橋に掛け替えられたという。
 走井の名は、清めの泉走井の井水による。山王祭では、この川中で神職、駕輿丁による禊(4月12日)が行われる。比叡山回峯行もこの橋を渡るという。



走井橋、大きく湾曲した巨木の松の枝


走井祓殿社、大杉の間に挟まれるようにしてある。祭神は瀬織津比咩(せおりつひめのかみ)、速開都比咩(はやあきつひめ)、気吹戸主(いぶきどぬし)、速佐須良比咩(はやさすらひめのかみ)の4座。


双葉葵紋、東本宮系にはカモの神も祀られている。


走井の泉


二宮橋(重文)、日吉三橋のひとつ。豊臣秀吉寄進により安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)に木橋として架橋されたという。江戸時代、1669年、石橋に架け替えられた。花崗岩製、幅5m、長さ13.9m。

山王鳥居周辺


山王鳥居(惣合鳥居、合掌鳥居)、明神鳥居の上に三角の破風形、中央の束を立てる。


山王鳥居は、仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を表しているともいう。山王信仰の象徴とされている。合掌鳥居といわれるのは、神仏習合の信仰の象徴として、合掌する形を表すことに由るともいう。


江戸時代、寛政年間(1789-1800)の常夜灯


神馬舎


神猿舎


神猿舎には、神猿のニホンザル二匹が飼われている。安土・桃山時代、また江戸時代以降という。


猿塚、死んだ猿が埋葬されているという。もとは古墳という。



子安子立社、祭神はいざなぎ尊、いざなみ尊
 比叡山延暦寺の東、大津市坂本の日吉大社(ひよしたいしゃ)は、平安京の表鬼門(東北)に位置し、方除・厄除の大社とされてきた。また、比叡山延暦寺天台教学の護法神でもあった。 
 八王子山の麓、大谷川と小谷川の間に13万坪の境内を有し西本宮と東本宮を中心として、本宮摂末社40社が建ち並んでいる。
 全国に約3800社ある日吉、日枝、山王神社の総本宮になっている。旧社格は官幣大社。平安時代、二十二社の下八社のひとつとされ、平安時代から中世においては日本最大の神社だったという。
 主祭神は、西本宮に大己貴神(おほあなむちのかみ、大国主神)、東本宮に大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀る。
 神仏霊場会149番、滋賀17番。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 古墳時代(3世紀後半-7世紀半)、磐座を祀る神奈備の八王子山(牛尾山)は地主神の比叡山の神(大山咋神)が祀られていた。
 350年、八王子山より大山咋神を里宮に勧請し、彦神(男神)の和魂(にぎみたま)を祀ったという。
 飛鳥時代、667年に近江京遷都後、翌668年、第38代・天智天皇は大津京鎮護のため、大和三輪山の大神(おおみわ)神社から大己貴神(大物主大神)を大宮(西本宮)に勧請した。京都上賀茂神官・宇志丸(うしまる)が禰宜に就いた。大己貴神は大比叡(おおびえ)神とされ、地主神・大山咋神は小比叡(おびえ)神と呼ばれ、東本宮(二宮)に祀られた。
 奈良時代の『古事記』(712)には、大山咋神(山末之大主神<やますえののおおぬしのかみ>)が、日枝(ひえ)山(比叡山)に坐していると記されている。
 平安時代、785年、最澄は比叡山に草庵を結び、788年、一乗止観院を建立すると、日吉社を比叡山寺の護法神とし、日吉大神を「山王権現」と称した。
 794年、平安京遷都により、当社が京都の表鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として崇敬された。延喜式神名帳では名神大社に列格し、二十二社の一社ともなった。
 880年、西本宮の大比叡神・大己貴神が正一位に昇り、東本宮の小比叡神・大山咋神は、従四位になる。
 887年、天台僧・相応は、大宮権現に卒塔婆を建立し、法華経一部を納めたという。二宮権現神殿を改修したという。
 仁和年間(885-889)、宇佐八幡宮より田心姫神が勧請され、宇佐宮が建立された。
 891年、天台僧・相応は、大宮権現神殿を完成させたという。
 942年、天台宗の神宮寺、根本多宝塔が建立された。
 978年、延暦寺の良源は、日吉社山王三聖祭を盛大に行う。
 11世紀、熊野信仰とともに日吉信仰も起こる。
 1039年以降、室町時代中期までは、二十二社中の下八社のひとつとされた。
 1053年、八王子山に牛尾宮が建立された。
 1067年、焼失している。
 1071年、第71代・後三条天皇が最初の行幸を行った。僧官が初めて配置され、行幸を観賞した。
 1072年、日吉山王祭は官幣が奉じられた。
 1074年、踏歌の節会に端を発し、日吉祭が新宮に移された。その後の、祭りも園城寺により妨害され、延暦寺と園城寺の間で抗争となった。
 1081年、八王子山に園城寺の悪僧が籠り、朝廷は前陸奥守源頼俊に追補させた。
 1091年、第72代・白河法皇(1053-1129)が参籠した。その後もたびたび行幸し、公卿も参詣参籠した。
 1092年、境内での神人殺人事件に端を発し、日吉神人が二度京都に下った。
 1094年、日吉社の神輿が中堂に振り上げる。
 1095 延暦寺僧徒が、日吉社の神輿を担いで入京している。
 1105年、山王社の神輿が洛中に入った。これが初例ともいう。
 1109年、山宮の牛尾宮、三宮宮の里宮である十禅師宮(樹下神社)が建立された。
 1113年、清水寺別当人選に端を発し、清水寺本寺・興福寺大衆と延暦寺衆徒が宇治で合戦になる。
 1123年、 延暦寺僧徒が日吉社の神輿を担いで入京した。
 1160年、後白河法皇が行幸している。以後、たびたび行幸、参籠している。
 鎌倉時代、1224年、天台僧の山王礼拝講が始まる。神仏習合が強まり、神前で社僧による法華経も誦した。本地垂迹説、仏・菩薩を本地とし、神は衆生救済のための仏の生まれ変わりとする山王思想が広がった。
 第82代・後鳥羽上皇(1180-1239)は、日吉社に度々参詣した。僧兵の武力を頼みにしたという。
 1203年、八王子山に城が築かれ、堂衆が籠城し、朝廷方の軍との間に合戦があった。
 1221年以降、後鳥羽上皇が鎌倉幕府討幕の兵を挙げた承久の乱が起きた。
 1259年、焼失している
 室町時代、隆盛を極め東、西両本宮を中心とし、境内108社、境外108社の摂末社、多宝塔、鐘楼、彼岸所などの仏教施設も建ち並んだ。
 1394年、3代将軍・足利義満が夫人、義持らを伴い参詣している。延暦寺の大衆・坐禅院直全、円明坊兼慶、杉生坊暹春(すぎうぼう せんしゅん)が準備にあたる。
 1401年、2月、足利義満が参籠した。5月、義満は北山第より参籠する。この時、日明貿易再開のための国書「日本准三后道義書上」を作成したとみられている。
 1421年、足利義持が参籠した。
 1431年より、境内の祭神を社参する秘密社参が行われるようになる。
 応仁・文明の乱(1467-1477)後、坂本は京都を逃れた公家が滞在した。長引く戦乱により以後廃れている。
 1493年、債権や債務の放棄を命じる徳政令(1491)を求め、志賀徳政一揆が起こり焼失している。
 1494年、一揆により焼失した。
 1538年、足利11代将軍・義晴が社参している
 1564年、足利13代将軍・義輝が社参している。
 1571年、元亀の兵乱では、織田信長は、浅井、朝倉と通じた延暦寺、日吉社、坂本の民家も含め焼き討ちし、虐殺を行った。
 安土・桃山時代、1582年、祝部行丸(はふりべゆきまる)による再建願が勅許された。
 1586年、西本宮が再建され、翌1587年に日吉祭も復活した。
 江戸時代、1601年までに社殿は復興された。
 1681年、社家によるご神体改めの習合撤廃事件が起こる。
 1684年、延暦寺とのご神体改めをめぐる争論に敗れたため、樹下家、生源寺家の7人が遠島流罪、追放などの厳しい処分を受けた。
 1685年、延暦寺は日吉社に対して神仏習合の山王一実神道に基づくことを厳守させる「掟」を下し、日吉社は祭祀以外の権限をすべて奪われた。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈では、全国に先駆けて仏教施設の破却が行われている。仏像、仏具、経典の多くは破壊、焼却された。さらに延暦寺から独立する。それまでの神名の日吉山王大権現は、日吉大社に改称された。東本宮と西本宮の祭神は入れ替えられ、西本宮の大山咋神を主祭神とし、東本宮の大己貴神は摂社・大神神社の祭神に格下げになった。別当、社僧は還俗になった。
 1926年に祭神は復している。 
 1937年、天台座主による参拝が行われた。
 1941年、天台座主、一山僧による五色の奉幣と神前読経が復活した。
 1947年、神仏習合の法儀である山王礼拝講が復活している。
◆磐座・大山咋神 神奈備山、神体山の牛尾山(八王子山、日枝山、381m)がある。地主神が坐す日枝山とされた。(『古事記』)。山頂東下に磐座の金大巌(こがねのおおいわ)がある。
 磐座を挟んで2社の奥宮(牛尾神社、三宮神社)がある。山宮・牛尾神社に対して現在の東本宮は里宮として建立されたとみられる。三宮神社の里宮は樹下神社になっている。山宮と里宮の歴史的な経緯については、里宮が先行したともみられている。
 なお、八王子山の北東、比叡山中の横高山(767m)近くに、垂釣岩(鯛釣岩)という大岩があり、これも磐座という。『古事記』(712)中の、大山咋神(山末之大主神)が鎮座した神奈備山、「近淡海国の日枝の山」とは、この小比叡山、波母山(はもやま)ではないかともいう。かつては、ここに二宮権現という社があったという。
 大山咋神は、また、葛野の松尾山(松尾大社)にも鎮座し、カモ氏の鳴鏑(なりかぶら、丹塗りの矢の精、雷神)を用いる神といい、カモ氏、渡来系の秦氏との関連もあるともいわれている。大友郷(坂本)にも、漢人系渡来人が住んでいた。
◆波止土濃 西本宮近くの大宮川には石橋の橋殿橋(はしどのばし)が架けられている。かつて、大宮川には屋形の橋が架かっていたという。現在は、橋が川の途中で失われた形になっている。
 橋殿とは波止土濃(はしどの)とも書き、「波止まりて土こまやかなり」と読むという。西本宮祭神の大己貴神勧請にまつわる伝承がある。
 飛鳥時代、668年、近江京遷都後に、第38代・天智天皇は大津京鎮護のために大和三輪山の大神(おおみわ)神社から大己貴神を大宮(西本宮)に勧請した。大己貴神は、大比叡(おおびえ)神、大物主大神ともいわれる。
 琵琶湖上に顕れた大己貴神は、社家の宇志丸の導きにより、湖上の五色の波を尋ねやがて大宮川を遡る。五色の波が途絶えたというこの地に辿り着く。ここは、土細やかな霊地だとして現在の西本宮が建立されたという。
◆日吉七社・山王七社・祭神 現在の祭神は、西本宮に大己貴神(第1位)、東本宮に大山咋神(第2位)を祀る。宇佐宮に田心姫神(第3位)を祀り、上位の三柱を「山王三聖」といった。その下に七社、さらに二十一社がある。
 2本宮と5摂社は「日吉七社、山王七社」と呼ばれている。上の七社をいい、東本宮系では、東本宮(二宮)、樹下宮(十禅師)、牛尾宮(八王子)、三宮宮(三宮)西本宮系では、西本宮(大宮)、宇佐宮(聖真子)、白山宮(客人、まろうど)。また、摂社・末社あわせ21社を上・中・下7社ずつに分ける。
 八王子山は、古くより比叡山の神(大山咋神)が降り立つ神体山として崇められていた。やがて、八王子山には荒魂が祀られ、里宮には大山咋神の和魂が祀られた。新たに大神神社から大己貴神を勧請し勧請殿の大宮(西本宮)に祀られる。大己貴神は、朝廷との結びつき深い神であり、朝廷の鎮守神でもあった。大山咋神和魂は、遥拝殿の二宮(東本宮)に祀られることになる。大己貴神は、大比叡(おおびえ)神と呼ばれ、それに比して大山咋神は小比叡(おびえ)神となった。前者は、大物主大神、大国主神、後者は山末之大主神とも呼ばれた。
 神仏習合時代に、大己貴神は、本地仏の釈迦如来、大山咋神は、薬師如来としても祀られた。
 近代、東本宮と西本宮の祭神は入れ替えられ、西本宮の大山咋神を主祭神とし、東本宮の大己貴神は摂社・大神神社に格下げになった。また、本地仏は廃された。主祭神についてはその後戻されている。
 東本宮系にはカモの神も祀られている。氏神神社に鴨建角身命(かもたけつぬみのみこと)、樹下神社に鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)、樹下若宮に鴨玉依彦神(かもたまよりひこのかみ)、産屋神社に鴨別雷神(わけいかづちのかみ)。鴨別雷神にとって鴨玉依姫神は母、鴨玉依彦神は伯父、鴨建角身命は祖父になる。東本宮の大山咋神と鴨玉依姫神は夫婦。
 4月の山王祭では、午の神事(12日)に、八王子山から二基(大山咋神荒魂、鴨玉依姫命)の神輿が下山し、東本宮の拝殿に安置される。婚儀、「尻つなぎの神事」の後、翌13日の神輿入れ神事では、御生れ祭りにより若宮(別雷神)が生まれる「宵宮落とし」が行われる。
◆山王神道 奈良時代末期、インドを発祥とする本地仏が日本にすでに伝えられていた。神々とは、仏の衆生のみならず、本地インドの仏、菩薩が日本に迹(あと)を垂れ、救済のために仮に現れたもの(権現)とする本地垂迹説だった。
 平安時代初期、南都六宗に抗して新しく台頭した天台宗は、比叡山延暦寺を開くにあたり、地主神の比叡の神を取り込む。日吉山王社は天台教の護法神になる。
 山王については、最澄が入唐した天台山国清寺で地主山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)を守護神として祀っていたことに因み、比叡山の守護神・日吉大神を「山王権現」と称したことに始まる。
 平安時代中期、神社内に神宮寺が建立され、神仏習合の傾向が深まる。
 平安時代末期から鎌倉時代にかけて、天台神道(山王一実神道)が成立した。釈迦仏は、日吉山王権現大比叡神の本地仏とされる。神仏習合の三王(和光同塵)とは、大山咋神(大比叡神)、大己貴神(小比叡神)、宇佐八幡(聖真子=阿弥陀如来)を主体とした。
 鎌倉時代後期から南北朝時代、吉田神道から出た延暦寺僧の慈遍、さらに吉田兼倶の唯一神道との融合があった。
 また、「山王」の「山」の文字は、縦の「三」と横の「一」の組み合わせであり、逆に「王」は、横の「三」と縦の「一」の組み合わせであるとした。この三画は空仮中の三諦(空諦・仮諦・中諦。あらゆる事象を3つの観点から捉え、相互に完全無欠)であるとし、天台教学の一念三千(日常の人の心中には、全宇宙の一切の事象が備わる)、また、一心三観(円融三観、一切の存在には実体がないと観想する空観(くうがん)、仮に現象しているとする仮観(けがん)、この二つも一つであるとする中観(ちゅうがん)を、同時に体得すること)を表しているとした。
 江戸時代、徳川家康没後の神号を巡り、天台宗の天海は臨済宗の金地院崇伝、家康側近の本多正純らと争う。天海は、「権現」として山王一実神道で祀ることを主張し、神号を「明神」とした吉田神道を退けた。天海は、家康を「東照大権現」としして祀り、久能山より日光山に改葬し、以後、勢力を伸長させた。
◆神宮寺 神宮寺は、最澄の父・三津百枝が子宝を祈念し、八王子山背後の西の渓谷に草庵「神宮禅院」を結んだ。その結果、最澄を授かったという。
 当初は薬師如来が祀られ、最澄は十一面観音堂を建立した。また、母・妙徳が籠ったという大黒堂も建てられていたともいう。また、不動堂、二宮塔、日本一州総社、拝殿、舞殿もあったという。少なくとも平安時代、830年以前に、境内八王子山中、また西本宮付近に、神宮寺が存在していたともいう。
 942年、根本多宝塔が建立されている。鎌倉時代、1329年に再建され、安土・桃山時代、1571年の焼き討ちにより焼失、その後は再建されなかった。
 現在は、山王三聖を祀る小祠がある。近年の調査により、室町時代の遺構が確認された。さらにその下に平安時代、奈良時代の遺構もあるとみられている。
 そのほか、西本宮近くに金堂、七重塔、大宮多宝塔、大宮と客人宮に護摩堂、山王七社に夏堂、聖真子宮に本地堂、東本宮近くに地蔵堂などが建てられていた。
◆日吉 古くは「日枝」「比叡」「裨衣」と書き、「ひえ」と呼ばれていた。平安時代以前は「比叡明神」「比叡大神」などと書かれた。平安時代、785年、延暦寺創建により、「日吉山王」「日吉権現」といわれる。957年、「日吉神社」が『延喜式』に初出した。また、931年に『偵信公記抄』に「比叡社」と初出する。平安時代以降は「え」を「吉」の字に替え、「ひよし」と呼び併用された。鎌倉時代以降は「日吉社」と書かれた。
 近代以降は「日吉(ひえ)神社」となり、戦後、全国の摂社末社と区別するため現在の「日吉大社(ひよし たいしゃ)」になった。
◆琴御館宇志丸 飛鳥時代の日吉社社家始祖とされる琴御館(ことのみたち)宇志丸(宇志麿)。常陸国の国師だったというただ、異説もある。鴨賀島8世の孫、上賀茂の祝(はふり)ぶあったともいう。琴御館とは家に伝来の琴があったことによるという。
 第34代・舒明天皇(593- 641)の時、常州より三津浜(唐崎)に移り、庭に松(唐崎の松)を植えたという。また、常陸を追われて唐崎に着いたともいう。
 662年(?)、大比叡大明神(大己貴神)が松に影向し、宇志丸の導きにより西本宮に鎮座したという。宇志丸は、二宮、聖真子、八王子も建立したという。
 平安時代後期、琴御館宇志丸から23代目・祝部希遠の時、社家は、生源寺家(中祖・希遠)と樹下家(中祖・成遠)の二流に分かれたという。宇志丸妻の女別当(わけまさひめ)は後に唐崎神社の祭神になった。
後白河天皇 平安時代の第77代・後白河天皇(ごしらかわ てんのう、1127-1192)。熊野大社とともに日吉社の崇敬篤く、1160年に京都に新日吉神宮を創建し、日吉大神の分霊を祀った。日吉大社と新日吉神宮併せて、50回あまりの行幸を行った。
 後白河法皇撰の「梁塵秘抄」には、「東の山王恐ろしや、二宮客人の行事の高の王子、十禅師山長石動の三宮、峯には八王子ぞ恐ろしき。神のめでたく験ずるは…日吉山王賀茂上下…」 (神分三十六首)とその神威への畏怖のを歌っている。
◆相応 平安時代前期の天台宗の僧、天台修験の開祖・相応(そうおう、831-918)。南山大師。近江国に生まれた。845年、15歳で比叡山に登り鎮操に師事、17歳で得度受戒し相応と称した。858年、第55代・文徳天皇の女御・多賀幾子(藤原良相の娘)の病を加持した。861年には第56代・清和天皇の招きにより内裏に参内している。葛川、吉野金峰山で修行の後、865年、無動寺谷明王堂を建立しした。
 文徳天皇皇后明子(染殿皇后、藤原良房の娘)を加持したという。山王権現を崇敬し、887年、891年と日吉社の造営を行っている。889年、第59代・宇多天皇の加持の功により内供奉となる。
◆祝部行丸 室町時代-安土・桃山時代の日吉社社家・祝部行丸(ほふりべ ゆきまる、1512-1592)。詳細は不明。社家・生源寺行貫の子。日吉社社家始祖・琴御館(ことのみたち、宇志丸)の37代に当たるという。
 本地垂迹、北斗信仰、天台教学の神仏習合の影響を受け、山王七社と北斗七社の対応、また、日吉社を皇城鎮護社とも考えていた。
 1571年の元亀の乱、信長の比叡山焼き討ちの際には、長男行広とともに伊香立(大津市)に逃れたという。その後、出雲、美濃、尾張、越前、加賀、山城などを巡り、1575年に坂本に戻った。当初は、伊香立村八所神社に山王七社を勧請した。日吉社の再興に尽力し、1582年の信長没後、1586年に大宮正遷宮を果たし中興の祖となった。
 墓は、聖衆来迎寺(下坂本)にある。
◆新田義貞 境内に新田義貞願文碑が立てられている。
 南北朝時代の武将・新田義貞(1301-1338)は、1317年頃家督を継ぎ、上野国新田荘の一族惣領となる。1332年、幕府による河内の楠木正成攻めに対して中途で帰国した。その後、幕府に抗し挙兵、足利尊氏の子・千寿王軍と合流、北条軍を破る。尊氏の六波羅攻めと呼応し、14代執権・北条高時の鎌倉幕府を滅亡させた。
 第96代・ 後醍醐天皇の建武政府では、越後・上野の国司に任じられた。1335年、南北朝内乱では南朝方の侍大将になる。天皇を擁して比叡山に立てこもり、両朝の一時的和睦の際、後醍醐天皇の皇子・恒良親王を擁して越前に下向し、足羽七城の戦いで敗れ、藤島城付近の燈明寺畷で戦死した。
 新田義貞は、秘密裏に当社に参拝し、南朝方の巻き返しを図り戦勝祈願文を奏上したという。その際に、名刀「鬼切」を奉納している。
◆平家 延暦寺は平家の氏寺であり、日吉大社は氏社に準じた。また、強訴の際には、山法師は平家一門との争いを引き起こした。
◆焼き討ち 安土・桃山時代、1570年6月、織田信長は姉川の戦で北近江・浅井、越前国・朝倉の連合軍に勝利した。だが、三好方との野田城・福島城の戦いでは敗れ、また、連合軍は織田方の宇佐山城を落城させた。延暦寺は、浅井、朝倉方に味方している。
 9月、信長が、坂本の両軍を攻めた志賀の陣では、連合軍は比叡山に逃れる。信長は延暦寺に両軍の引渡しを要求するが拒否される。こう着状態になり、12月、一度和睦になる。
 翌1571年9月、信長は再び坂本へ侵攻する。坂本の町、日吉大社に火を放った。僧衆、神官、坂本の人々は、八王子山頂へ逃れ立てこもったが多くが殺害された。社家50数人も行方不明になった。延暦寺の伽藍の多くも焼かれ、僧、女子供など多数が殺されたという。以後、日吉神社は滅し、社領は没収され明智光秀などに配分された。 
 延暦寺と信長が対立した契機は、信長が比叡山領を横領したからともいう。また、当時の比叡山の宗教的な堕落に起因しているともいう。近年の発掘で、延暦寺での焼き討ち、大量殺戮については疑問も出されている。ただ、日吉社の焼き討ち、八王子山での殺戮は否定されていない。焼き討ちについて、佐久間信盛、武井夕庵、明智光秀らが信長にとどまるよう諫言したともいう。
◆豊臣秀吉 安土・桃山時代の豊臣秀吉(とよとみ ひでよし、1536/1537-1598)は、焼き討ちの際に、陸路の香芳谷(樺尾谷、樺生谷)を攻めたが、人々の避難を見逃したといわれている。また、織田信長死後、秀吉は日吉社の復興に尽力し木橋などを寄進している。
 復興に東奔西走した社家・祝部行丸が秀吉の幼名が日吉丸であり、あだ名が猿であったとして、日吉社と秀吉の縁を説いたといわれている。また、伝承として秀吉の母が日吉大社の社家の出身だったからともいわれている。
廃仏棄釈 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈は、日吉社に多大の損失を与えた。これには江戸時代、1681年に日吉社社家による、ご神体改めの習合撤廃事件が遠因にあるという。以後、延暦寺は日吉社に対する厳しい管理体制を敷いた。全国に先駆けた廃仏棄釈は、その処遇への反動ともみられている。
 1868年、本殿の鍵は延暦寺が管理していた。日吉社社司・生源寺希徳らと100人余りの農民が社殿に押し入り、下殿の本地仏、経巻、仏具、さまざまな献納品などを焼き払った。それらを燃やす煙は、数日にわたり立ち昇っていたという。ただ、坂本の人々の多くは破却に批判的だったという。
◆建築 西本宮、東本宮、宇佐宮の3本殿は「日吉三聖」と呼ばれ、独特の建築様式日吉造、聖帝造(しょうたいづくり)になっている。これらは、平安時代以来の王朝邸宅の建築様式という。また、890年の相応の造営によるともいう。入母屋造の一種で、周囲は板壁に囲われている。正面中央にのみ扉を設け、内陣の前面と両側面に庇(外陣)を取り付け、それに比して背面は切り落とした様に見える。屋根には千木、堅鰹木がない。三間二間の身舎(みや、家屋の中心)の前、両側に一間の庇が突き出ており、一連の屋根でおおう。さらに、正面に一間の向背が付く。背面は「すがる破風」といい、両端に庇の屋根がついている。母屋柱根元には小縁を回らし、礎石が見えない。
 床下は、下殿(げでん)といわれ格子や戸がつく。下殿は山王七社にのみ見られる。内陣下の床下に設けられ、内部は板間になり、四方は板張りにより閉ざされている。近代以前にはここに本地仏を安置していた。
◆鳥居 鳥居は山王鳥居の型式になる。合掌鳥居、破風鳥居、総合鳥居、日吉鳥居とも呼ばれる。
 山王鳥居とは、合掌した三角形部分の上を開くと「山」の字になり、下を開くと「王」の字になるためともいう。合掌鳥居といわれるのは、神仏習合の信仰の象徴として、合掌する形を表すことに由る。仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を表す惣合ノ神門、吽字門(うんじもん)を表し、山王信仰の象徴とされる。最澄が生み出したともいう。
 山王鳥居は、明神鳥居の笠木の上の中央に棟柱(棟束)を立て、左右より材を合掌形に組む。その上に裏甲(うらごう)という雨覆を被せる。その頂上に烏頭(からすがしら)という反りのある木を置く場合もある。当社では置かない。型式は南北朝時代にはすでに成立していたともいう。
◆神輿 全国神輿の起源といわれる山王神輿は、現在は神輿収蔵庫に安土・桃山時代の7基が収蔵されている。正式には「日吉山王金銅装神輿(こんどうそんしんよ)」(重文)という。
 平安時代、791年 第50代・桓武天皇の勅願により西本宮、東本宮の御輿2基が造られ、唐崎に渡御したという。
 1115年、7基が揃う。1123年に第72代・白河法皇が造り替えたという。
 平安時代、延暦寺の下級の僧侶(悪僧、僧兵)や日吉社の神人が武装し、洛中の朝廷、権門に対して強訴を繰り返した。これらは、山門の南都、寺門との対立の際に利用された。白河院政の頃(1086-1840)、7基の御輿による「神輿振り」が行われた。時には、源平に阻まれ、鴨川の河原に神輿を置いて帰ったという。神輿振りは40回以上にのぼったという。  白河法皇ですら「天下の三不如意」として、「賀茂河の水、双六の賽、山法師(比叡山の僧兵)。是ぞ朕が心に随わぬ者」と嘆いたという。(鎌倉時代中・末期?『源平盛衰記』)
 室町時代、1571年、元亀の兵乱では、織田信長の日吉大社、延暦寺焼き討ちにより、すべての神輿も焼失した。
 安土・桃山時代、1586年の西本宮再建時に新たに造られた。1589年さらに二基が新造されている。
 山王祭に使われている神輿は、1973年に新造されたもので、重量は600㎏に軽量化されている。
◆神猿 神という字には申(さる)が含まれている。山王神に釈迦が変じ、猿の姿で降りたという。それは、陰陽道の伝送の申(4月)であり、山王の縁日は申の日となった。猿は五行中の金神であり、朽ちず常住不滅の仏身に等しいとされた。
 平安京の表鬼門(東北)に位置している日吉大社と猿のかかわりは深い。方除・厄除としての神猿は、御所鬼門の猿ヶ辻の魔去るの木像、また、赤山禅院の拝殿屋根に祀られている瓦彫の猿とも呼応している。
 京都・行願寺の平安時代中期の僧・行円が、日吉と宦者(つかはじめ)の神猿を結びつけたともいう。(『和漢三才図絵』)
 神猿(まさる)と呼ばれ、日吉山王大神の第一の使い、神使とされている。猿はすべての厄魔を取り去る「魔去る」、また「勝る」に通じ、魔除け、必勝の信仰になった。山王祭も、申の日に執り行われていた。
 境内には、いくつかの猿にまつわる事象がある。西本宮楼門の屋根裏には、隅木に棟持猿(むなもちざる)という彩色された猿の彫刻が四隅にあり、棟を支えている。
 江戸時代以来、境内の神猿舎には二匹のニホンザルが飼われている。山王鳥居近くに猿塚があり、大きな平石は猿の霊を弔っている。西本宮近くには、があり、比叡山の猿の好物だという。
◆鬼門 古代中国では、北東方角を鬼門と呼び、異界の鬼が人間界に行き来する出入り口があると考えられていた。また、陰陽道では、東北の艮(うしとら)とは、北方の陰から東方の陽に転ずる急所とされ畏れられていた。節分とは、冬至を真北とすると北東(丑寅)に当たるため鬼を払う。平安時代、鬼門信仰により、平安京の北東の門封じのため幾重もの社寺が配された。
◆聖女社 平安時代中期の天台宗の僧・尊意(866/876-940)は、926年に天台座主となり14年間在任した。ある時、女人禁制の比叡山内で美女の乗る車が空から降りる夢を見た。尊意が咎めると、美女は稲荷神といい舎利会を拝むためという。仏法を護持すると答えたので、日吉社に聖女社として祀ったという。
◆桂 ご神木は桂とされている。伝承がある。大和三輪より琵琶湖に顕れた大己貴神は、社家・宇志丸の教えた波止土濃近くで、桂の枝を地面に挿すと桂が育ったという。この地に宝殿を建て、桂の木で神像を彫ったという。
 山王祭は「桂の祭」と呼ばれている。西本宮例祭(4月14日)の「申の神事」では、桂の奉幣という神事が行われる。参列者は、冠や衣服に桂の枝を飾り、神縁を結ぶ。
◆七 山王七社、山王二十一社中の上七社、中七社、下七社にみられるように、七の数にまつわる事例が多い。七は北斗七星と地の山王七社が呼応しているとする天台教学の思想に基づくという。ちなみに、本殿の昇段は7段、獅子・狛犬の尾も7束になっている。
◆回峰行 延暦寺の北嶺行者は千日回峰行の際に当社に立ち寄り、東本宮、山王21社すべてに参詣し、坂本、八王子山を経て比叡山、根本中道へ向かう。
◆文化財 鎌倉時代の「日吉山王曼荼羅」、「日吉山王本地仏曼荼羅」。
 山王曼荼羅は、神仏習合の山王神道を絵図で描いている。山王の神々を神影像で構成した山王垂迹曼荼羅、本地仏により構成した山王本地曼荼羅、境内の神苑と社殿を描いた山王宮曼荼羅がある。
◆年間行事・山王祭 山王祭(3月上旬-4月15日)は日本最大の祭りといわれ、20余りの祭礼により構成されている。もとの地主神の祭礼に、新たな祭神の祭礼が加わり、さらに天台宗の儀式も取り入れられた神仏習合の祭礼になっている。東本宮系祭祀は「山から里へのみあれ(御生れ、神の誕生・来臨)」(景山春樹)ともいわれ、それに対して西本宮系祭祀は「うみ(湖)から山麓へのみあれ」(嵯峨井建)ともいう。
 神輿により、東本宮御祭神・大山咋神、妃神の鴨玉依姫命が奈良から勧請され、婚姻、出産の物語を再現しているといわれる。
 神輿上げ(3月上旬)では、八王子山に牛尾神輿と三宮神輿の二基が担ぎ上げられる。例祭(4月12日- 15日) (山王祭)では、午の神事(12日)に、八王子山から二基の神輿が下山し、東本宮の拝殿に安置される。「尻つなぎの神事」では、神輿の前と後ろの轅(ながえ)をつないで「御生れのまつり」が行われる。
 神輿入れ神事(13日)では、大政所(宵宮場)に4基の神輿(三宮、牛尾宮、東本宮、樹下宮)が安置され、夜に若宮(別雷神)が生まれるという「宵宮落とし」が行われる。
 14日、西本宮の例祭では神饌が供され、宮司の祝詞奏上、奉幣使の祭詞奏上に続いて、延暦寺僧が五色御幣を行い、天台座主が般若心経を読経する神仏習合の行事がある。その後、7基の神輿(西本宮、東本宮、宇佐宮、牛尾宮、白山姫宮、樹下宮、三宮宮)が琵琶湖を舟で渡る神輿御渡が行われる。神輿は日吉大社に戻り、15日、各社を巡行する。これらは、三輪神社から大己貴神(おほあなむちのかみ)を当社に勧請したことを再現しているという。
 山王礼拝講(5月26日)では、西本宮での大社宮司の祝詞奏上のあと、比叡山僧侶による法華八講、散華行道の法会という神仏習合の祭儀がおこなわれる。伝承によれば、平安時代、1025年、社家・祝部希遠(まれとう)の時、山王大権現が顕れ、比叡山僧が修学修練を怠っていると嘆き去ると、八王子山の木々が枯れたという。延暦寺の僧は怖れ、日吉社で八講を修したところ山の緑が戻ったという。
◆古墳 境内八王子山麓を中心に3世紀から7世紀にかけての古墳「日吉大社古墳群」約70基がある。直径5mから12mの小規模な円墳で、いまも横穴式石室が残されている。最大の円墳は18.2mの直径がある。
 古墳と当社成立は偶然ではなく、何らかの関連があり、祖霊、死霊への畏怖、守護の意図があるともみられている。
◆最澄ゆかりの遺跡 周辺に、日本天台宗開祖・最澄ゆかりの遺跡がある。八王子山山中に、最澄の父・三津首百枝が男児(最澄)の出生を祈願したという神宮禅寺(神宮寺)の遺跡がある。最澄が生誕した地といわれる坂本の生源寺(しょうげんじ)には、最澄の産湯の井戸が残されている。日吉馬場に最澄の胞衣(えな)塚と伝えられる祠(幸塚、和産塚)が祀られている。
 最澄が出家し、行表に師事した国分寺址(大津市石山、晴嵐小学校)がある。女人禁制の比叡山で、子・最澄に会うために母・藤子は山を登り、浄刹結界を越えたという。母子が対面したという花摘堂跡が本坂の山中にある。
 また、生源寺すぐ近くに、最澄の母を祀った市殿神社、北近くに父を祀った百枝社がある。京阪坂本駅南東に産湯の窯を埋めたという伝教石櫃(せきびつ)がある。百枝の邸宅を寺としたいう紅染寺(こうぜんじ)跡(坂本7丁目)がある。
◆坂本 延暦寺が開かれ以来、坂本は門前町として表詣道になった。安土・桃山時代、1571年の織田信長による焼き討ち後、天海により坂本の復興が行われている。延暦寺表参道(日吉の馬場)、八条通などの道を中心として、天台座主のための滋賀院、山を下りた僧のために慈眼堂などの多くの里坊、東照宮が建立された。
◆穴太衆積 参詣路、境内の随所に南坂本の穴太(あのう)の石工集団、穴太衆が石積みした穴太積(穴太衆積)石垣(大津市指定文化財)が見られる。
 延暦寺創建以来、石垣の構造物などを手掛けてきた。自然石を積み上げた野面積みであり、容易に崩れないといわれている。安土・桃山時代、1576年の織田信長の安土城築城の際にも関わったとみられている。ただ、今日ではさまざまな石工集団の手によるもので、そのなかに穴太衆も参加していたとみられている。
◆桜楓 4月初旬、桜150本が日吉馬場にあり、山桜、染井吉野、紅しだれなどが咲く。  
 11月中旬から下旬に、湖西随一という3000本の紅葉の名所になる。
◆年間行事 日吉東照宮大戸開神事(1月1日)、山王祭山王祭奉幣式(3月第一日曜)、山王祭(4月12日-4月15日)、山王礼拝講(5月26日)、裏千家献茶祭(5月29日)、日吉東照宮例祭(6月1日)、唐崎神社みたらし祭(7月28-7月29日)、講員大祭(11月第2土曜日)、表千家献茶祭(11月17日)。月次祭(毎月1日、14日)。
 

*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*参考文献 『比叡山諸堂史の研究』『闘いと祈りの聖域 比叡山史』『日吉大社と山王権現』『日吉山王祭』『古社名刹巡礼の旅 比叡の山 滋賀 日吉大社 延暦寺』『阿闍梨誕生』『足利義満と京都』 『寺社建築の鑑賞基礎知識』『鳥居』『京都の地名検証 2』 
  
 

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惣社、山王二十一社を祀る。

神宮寺跡?
西本宮周辺

祇園岩、古来より祇園の神で神仏習合神・牛頭天王(ごずてんのう)が宿る磐座として崇められきたという。石にたまる水で眼を洗うと目に良いとされ、別名・眼洗石ともいう。牛頭天王は、祇園社の除疫神、蘇民将来説話の武塔天神、また、インド祇園精舎の守護神、陰陽道の天道神、神仏習合により薬師如来の垂迹、新羅の曽尸茂利(そしもり、牛頭)ともされ、日本神話の神素戔鳴尊と習合した。近代以降の神仏分離、廃仏棄釈により、牛頭天王は封印され、祭神は素戔鳴尊に再編された。

大威徳石(だいいとく)仏法守護の五大明王である大威徳明王が宿る霊石という。大威徳明王(やまーんたか)は降閻魔尊といい、文殊菩薩の眷属とされ、六面六臂六足で水牛に跨る。怨敵降伏など戦いの仏として祀られた。

古墳?


石造宝塔、鎌倉時代のものという。延暦寺の飛地境内になっている。神仏分離令(1868)後の廃仏毀釈を免れた仏教施設という。

手水舎

橋殿橋、橋殿は「波止土濃(はしどの)」とも書き、「波止まりて土こまやかなり」と読むという。かつて、大宮川には屋形の橋が架かっていた。現在は、石橋が途中まで架けられている。
 琵琶湖上に顕れた大己貴神の当社への勧請に関わる。大己貴神は、宇志丸の導きにより湖上の五色の波を尋ねこの川を遡り、波が途絶えたこの地に辿り着いた。土細やかな霊地としてここに西本宮が建立されたという。

大宮川


西本宮楼門(重文)、二階建階上に縁、屋根ひとつの三間一戸、入母屋造、檜皮葺、丹塗り、極彩色の蟇股、安土・桃山時代、1586年頃の建立という。


楼門、棟持猿という4匹の猿が四方に配され棟を支えている。

樹齢500年以上という柿の原種、比叡山に生息する猿の好物という。

柿の実

西本宮拝殿(重文)、方三間、一重、入母屋造、檜皮葺、妻入、柱間は四方とも開放し、屋根妻飾は木連(きつれ)格子(狐格子)、回り縁は高欄付、折上小組格天井、安土・桃山時代、1586年建立。

ご神木の桂の木、愛染桂ともいう。縁結びのご神木、大己貴神が地面に挿した桂が育ち大木になったという。

西本宮本殿(国宝)、祭神は大己貴神
勧請殿。桁行五間、梁間三間、檜皮葺の日吉造。三間、二間の身舎(もや)の前面、両側面に一間の庇、一間の向拝と浜床、縁高欄を巡らせている。背面中央の庇部分の軒を切り上げ、この部分が垂直に断ち切られたような形で、さらに縋(すがる)破風(本屋根から突き出た部分に付く片流れの破風)になっている。柱は総円柱で礎石に立ち小縁をめぐらす。腰長押、内法長押、柱頭に舟肘木。正面に蔀戸、左右に板扉、後端に横連子の窓、天井は折上小組格天井、外陣は化粧屋根裏。
 安土・桃山時代、1571年の織田信長の比叡山焼き打ちにより焼失後、1586年に再建、1597年に改造された。



七社の本殿上には木製の獅子・狛犬が対で祀られている。本殿の右は「獅子」、左は「狛犬」と呼ぶという。本来は本殿内陣に祀られ、その後、本殿の上に置かれた。さらに、境内全体の守護のために本殿の前や、境内入口などに置かれたという。そのため、木製から石造りに変えられた。本殿上の木製の獅子・狛犬とは、その過渡の形態という事になる。

前面に一間の向拝が付く。軒端には近代以前、七社にのみ正面軒上に3面の懸仏(かけぼとけ、仏像、名号・神像、梵字などを円盤状にあらわし、神社・仏寺の内陣に懸けたもの、御正体)、また鰐口(わにぐち、堂前に太い綱とともにつるしてある円形の大きな鈴)が掲げられていたという。西本宮には、三尺三寸(1m)ほどの釈迦、不動、毘沙門天三面が掲げられていた。


西本宮本殿背後、後ろ側に庇は付かない。縋(すがる)破風になっている。

縁高欄

一番下の向拝下の床を浜床(鐘打)という。より地面に近いこの浜床でも祝詞奏上、奉幣などの神事が行われる。湖西地方の古社にみられるという。7段の階段(木階)上は大床と呼ばれている。


下殿(げでん)、中央付近に入口の帳(布)がある。周囲は板張りで囲まれている。内部床は板張りで、かつては畳も敷かれていたという。山王七社の床下にのみ造られている。近代以前はここで仏式の法儀が行われ、須弥壇にはそれぞれの本地仏が祀られていた。西本宮本殿には釈迦如来が祀られていた。江戸時代、山王祭では下殿に宮仕が集まり、二十一社に神酒を供えていたという。

下殿、献饌のための台、「案(あん)」

社殿、浜床の周りを溝が囲んでいる。

溝には、水が引かれている。

竹台、本殿の両端に二つある。石柵の中に笹竹が植えられている。最澄(767-822) が中国天台山から持ち帰ったとされ、「丸く真っ直ぐに筋目正しく生きよ」との意という。

大宮竈殿社、祭神は奥津彦神(おきつひこのかみ)、奥津姫神(おきつひめのかみ)
宇佐宮周辺

拝殿(重文)、桁行三間、梁行三間の方三間、一重、入母屋造、妻入、檜皮葺、柱間は吹放し(開け放し)、回り縁に高欄、小組格天井、妻飾は木連(きつれ)格子(狐格子)、安土・桃山時代、1598年建立。

本殿(重文)、祭神は田心姫神(たごころひめのかみ)は大己貴神の妃神。桁行五間、梁行三間、檜皮葺、日吉造。三間、二間の身舎(もや)の前面、両側面に一間の庇、正面階段前に吹寄格子の障壁、安土・桃山時代、1598年年建立。
 最澄入唐の際に、宇佐八幡宮に航海安全祈願したことにより、円珍により平安時代、貞観期(859-877)に勧請されたともいう。 

下殿の床下に大きな露岩がある。ただ、磐座ではないという。


宇佐竈殿社
祭神は奥津彦神(オキツヒコノカミ)、奥津姫神(オキツヒメノカミ)、修復中 

気比社、祭神は第14代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、? - 200)

包丁塚
白山宮周辺

宵宮道、石段、石垣が白山宮に続いている。

白山宮拝殿(重文)、方三間(桁行三間・梁間三間)の入母屋造、妻入、檜皮葺、安土・桃山時代、1598年建立。

摂社・白山宮本殿(白山比咩神社、客人権現)(重文)、祭神は白山姫神、勧請殿。11世紀後半、慶命により加賀の白山比咩神(しらやまひめのかみ)を勧請したという。平安時代、858年、相応により勧請されたとも、1039年までに、宮龍法師広秀により創始されたともいう。祭祀の祭にも開扉されず「開かずの御殿」ともいわれている。
 三間社流造、檜皮葺、三間、二間、向拝一間、浜床、前室正面に蔀戸、安土・桃山時代、1598年建立。

霊丈石、白山姫神の勧請にまつわる雪丈岩

滝口

剱宮社、祭神は瓊々杵尊(ににぎのみこと)  

小白山社、祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)

八坂社

北野社

校倉

救済地蔵

忍耐地蔵

境内の杉木立の中を谷川から引かれた清らかな水が流れている。

恵比須社、祭神は事代主神(ことしろのぬし) 
御輿収蔵庫周辺



日吉山王金銅装神輿(重文)、江戸時代、17世紀、東本宮神輿、ほかに西本宮神輿、宇佐宮神輿、白山姫神輿、樹下神輿、牛尾神輿、三宮神輿。



南北朝時代の武将・新田義貞(1301-1338)の「新田義貞願文碑」、南朝方の第96代・後醍醐天皇の巻き返しを図り奏上した必勝祈願文。 
東本宮周辺

楼門(重文)、(三間一戸形式)、入母屋造、檜皮葺、安土・桃山時代、天正・文禄年間(1573--1593)建立。

楼門

三猿の絵馬

神猿の置物

樹下神社本殿・拝殿は八王子山のある西に、東本宮本殿・拝殿は北を向いている。東本宮の位置は小谷川の氾濫により中世以降に移動している可能性があるという。以前は現在地より北西方向にあったとみられている。

樹下神社拝殿(重文)、三間の入母屋造、檜皮葺、妻入。安土・桃山時代、1595年建立。平安時代、1184年、後白河法皇は行幸し、この拝殿で「十講」を行ったという。

樹下神社拝殿、神輿が置かれている。

樹下神社(樹下宮、十禅師神社)本殿(重文)、祭神は鴨玉依姫和魂(かもたまよりのひめにぎみたま)、遥拝殿。三間流造、檜皮葺、安土・桃山時代、1595年建立。
 八王子山の山宮の三宮宮には、鴨玉依姫荒魂が祀られており、この地はその真東に位置した里宮になっている。十禅師とは、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を権現とし、国常立尊(くにのとこたちのみこと)から数えて第10の神、地蔵菩薩の垂迹。殿下奥(西側)の土間には霊泉「亀井」が湧く。
「日吉の社に詣づる僧死人をとり棄つる事」

 京の法師が世俗を離れて日吉社へ百日参りをしていた。80日目に泣いているある若い女と出会う。母を病で亡くしたばかりだという。だが、神事のため誰も係わろうとせず、女一人身で途方に暮れているという。僧は、参籠の途中であったが、神に許しを請い、日が暮れてから葬ってやった。
 僧は、死にかかわったため参籠を中断しようとしたが、「死ぬことの穢れは仮の戒め」として、神仏に許しを請い、夜明けに沐浴潔斎をして日吉社に向かった。
 神がかりをしていた二宮の十禅師の巫女が、突然、僧を呼び止めた。巫女は、僧が夕べ行ったことを見たという。「だが、恐れることはない。感心なことをした。自分はもともと日本の神ではない。衆生のあわれみを救済するために出現した。忌むこともまた仮の方便であり、仏法の悟りあるものは自ずと分かる。だが、口外はしてはならない。愚者は咎める必要のないことを知らない。それに、善悪の判断はその人によって違うから」と諭した。
 僧は、涙を流しながら日吉社の境内を出たという。
           (鎌倉時代、鴨長明、『発心集四』) 

樹下神社、下殿

樹下神社、下殿の霊泉「亀井」

大物忌神社、祭神は天知迦流水姫(あまのちかるみずひめのかみ)

東本宮拝殿(重文)、方三間の入母屋造、檜皮葺、妻入、安土・桃山時代、1596年頃建立。

東本宮本殿(国宝)、祭神は大山咋神(和魂)、遥拝殿。桁行五間、梁間四間、左右に一間の廂の日吉造(聖帝造、しょうたいづり)、檜皮葺、安土・桃山時代、1595年建立。
 八王子山の大山咋神荒魂を祀る牛尾宮の里宮になっている。


東本宮本殿、前に付いた向拝。

東本宮本殿の組高欄


東本宮本殿、回廊背後の中央三間部分の廻縁と高欄は一段高く造られている。縁からは北を望む形になり、遥祭殿の機能をもたらされていたともみられている。下殿の須弥壇には仏(薬師如来)が祀られていたという。近代、神仏分離令(1868)後の廃仏棄釈により破却された。

内御子社、祭神は猿田彦神

神饌所

神饌所

日吉雄梛、女性が男性の幸せを祈る木、夫婦和合木。雌雄二葉を斎戒奉封した梛葉守(なぎのはまもり)がある。

日吉雌梛、男性が女性の幸せを祈る木。

多羅の木、タラヨウ、多羅葉、モチノキ科モチノキ属の常緑高木、葉の裏に傷をつけると黒く変色し、インドで経文を書くのに使われた。葉書の木とも呼ばれる。

穴太衆積、境内周囲にも積まれている。

末社・竈殿社(二宮甕殿社)、祭神は奥津彦神(おきつひこのかみ)、奥津姫神(おきつひめのかみ) 

末社・樹下若宮社、祭神は鴨玉依彦

亀井霊水、伝教大師(最澄)参拝の折、池中から霊亀が現れ、占いにより閼伽井としたという。

稲荷社、祭神は宇賀之御魂神(うかのみたま)

摂社・新物忌神社、祭神は天知迦流水姫(あまちかるみずひめ)

末社・下七社、巌滝社、祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、・湍津島姫命(たぎつしまひめのみこと)、夢妙幢(妙幢童菩薩)
 

須賀社

猿の霊石、2mの大石、猿がしゃがんだ姿に似ているという。岩には、回峯行者が礼をするという。

摂社・中七社の八柱社、祭神は五男神三女神、

氏神神社(山本神社)、祭神は鴨建角身神(かもたけつぬみ)、日吉社社家始祖の琴御館宇志丸(ことのみたちうしまろ) 
 

末社・氏永社、祭神は祝部希遠(はふりべ まれとう)、平安時代後期の日吉社社家・生源寺家祖の祝部希遠とは、当社社家の祖・琴御館宇志丸から23代目の人物。

日吉大社古墳群

東本宮の裏にも森の中に、古墳時代後期の横穴式石室が残されている。本殿は古墳と対峙した形になっている。
牛尾宮周辺

八王子山への参道八丁坂、急な坂道の九十九折を登り、岩境、牛尾宮、三宮宮までは30分かかる。

牛尾宮遥拝所(右)、坂の登り口にある。

三宮宮遥拝所(左)


八丁坂の登り口に建てられている神輿蔵

山道の参道、八王子坂、社殿までは1キロ、約30分の上り坂が続く。山王祭では、神輿が坂を引き上げられ下る。

牛尾宮(右)と三宮宮、境内の西にある八王子山の山頂下に建てられている。牛尾宮の祭神・大山咋神と三宮宮の祭神・鴨玉依姫は夫婦。摂社・牛御子社に山末之大主神荒魂を祀る。
 山王祭では、夜に行われる「午ノ神事」(4月12日)で、牛尾宮の神輿、三宮宮の神輿が拝殿から出御し、坂を下り東本宮拝殿へ向かう。

牛尾宮(牛尾神社)拝殿(重文)、祭神はもとは地主神、大山咋神荒魂(おおやまくいのかみあらみたま)を祀る。平安時代、1053年に建立された。
 三間社流造、檜皮葺、1595年建立(1691年とも)。拝殿(右半分)は桁行三間、梁間五間、一重、入母屋造、檜皮葺、懸造(舞台造)、拝殿は後部の本殿正面縁を取り込んでいる。


牛尾宮本殿、祭神は鴨玉依姫荒魂(かもたまよりのひめあらみたま)。拝殿(右手)と本殿(正面)は崖地に建てられ、建物は一体化している。本殿は拝殿(右手)の入母屋造の妻を正面にしている。唐破風屋根が付けられている。入母屋造、檜皮葺、低いが下殿もある。安土・桃山時代、1595年建立。

三宮宮(三宮神社)、祭神は鴨玉依姫荒魂(かもたまよりのひめあらみたま)


三宮宮本殿(重文)、唐門、安土・桃山時代、1599年建立。低いが下殿がある。下は、本殿内部。

三宮宮

樹下神社拝殿に置かれた牛尾宮神輿(左)と三宮神輿


山頂からの琵琶湖の眺望、下は近江富士として知られる三上山(432m)が正面の樹間に見える。この山にも磐座がある。平安時代中期の武将・藤原秀郷(俵藤太)による大ムカデ退治伝説があり、ムカデ山ともいわれている。

金大巌(こがねのいわくら、こがねのおおいわ)、神奈備山の八王子山(378m)の山頂下に神が降臨したという高さ10mの巨大な磐座があり、東本宮に対して大岩が立てられている。。八王子山山頂は、境内の西になる。神宮寺がかつて建立されていた。山頂近くに神宮禅院跡があるらしい。 
 境内は東に展望が開いている。



【参照】比叡山中の横高山(767m)近くの垂釣岩(鯛釣岩)という大岩、磐座という。*激しくブレています。

八王子山山頂最澄はかつてこの山から大宮渓谷、悲田谷を経て、尾根越えで東塔北谷に至ったという。

八王子山山中にある石組、神宮禅寺の遺構?
最澄の父・三津首百枝は、八王子山西に草庵(後の神宮禅院、神宮禅寺、神宮寺)を結び、男児出生を寺に祈願し、7日間参籠したという。5日目に霊夢を得て男児(最澄)を授かったという。また、最澄は後に、比叡山に入る前に、父の指示によりここに入り、修行を行ったという。近年、八王子山で発掘調査が行われた。

御灯道、八王子山中腹から西本宮に通じている。
大政所

末社・流護因社、祭神は護因法師、日吉社に奉仕した社僧。

摂社・産屋神社の祭神は鴨別雷神(かもわけいかづちのかみ)、山王祭では、宵宮落し神事でみあれ(御生、神の誕生・来臨)の神。

鼠社(子社)、祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)
逸話が残されている平安時代、第72代・白河天皇の頃(1073 -1087)、三井寺の頼豪は皇子の生誕を祈念し、成就したことから天皇により戒壇の建立を許された。だが、延暦寺の横槍が入る。頼豪は怒り、100日の行を修するが、その護摩の火により焼死したという。その怨念は鉄の牙をもつ84000匹の鼠に化身し、叡山の仏像、経典を食い尽くしたという。そこで、山の高僧が猫に化し、この鼠の社に封じ込めたという。


祇園石

琵琶湖
日吉七社・山王七社
上七社 中七社 下七社
牛尾宮牛尾神社 八王子山 牛御子社 八王子山 摂社・樹下若宮 東本宮境内
三宮宮三宮神社 八王子山 大物忌神社 東本宮境内 竈殿社
(二宮竈殿)
東本宮境内
本宮・東本宮 東本宮境内 新物忌神社 東本宮境内 氏神神社 東本宮参道
樹下神社 東本宮境内 八柱社 東本宮参道 末社・竈殿社
(大宮竈殿)
西本宮境内
本宮・西本宮 西本宮境内 宇佐若宮 西本宮東 厳滝社 西本宮境内
宇佐宮 宇佐宮境内 早尾神社 境外
気比社 宇佐宮境内
白山姫神社
(白山宮)
白山宮境内 産屋神社 境外 剣宮社 白山宮境内

奥宮系
社名 祭 神 旧 称 社 格 所在地 本 地 仏
牛尾宮、牛尾神社 大山咋神荒魂 八王子 摂社・上七社 八王子山 千手観音菩薩
/下殿に千手観音菩薩
三宮宮、三宮神社 鴨玉依姫神荒魂 三宮 摂社・上七社 八王子山 普賢菩薩か大日如来
/下殿に普賢菩薩
牛御子社 山末之大主神荒魂 牛御子 摂社・中七社 八王子山 大威徳天
東本宮系
東本宮 大山咋神(山末之大主神) 二宮(小比叡、おびえ) 本宮・上七社 東本宮境内 薬師如来
/下殿に薬師如来
樹下神社 鴨玉依姫神
十禅師 摂社・上七社 東本宮境内 地蔵菩薩
/下殿に本地・土間之神体
大物忌神社 大年神
大行事 摂社・中七社 東本宮境内 多聞天(毘沙門天)
新物忌神社 天知迦流水姫神 新行事 摂社・中七社 東本宮境内 持国天か吉祥天
樹下若宮 鴨玉依彦神 小禅師 末社・下七社 東本宮境内 弥勒菩薩か龍樹
竈殿社 奥津彦神・奥津姫神 二宮竈殿(悪王子) 末社・下七社 東本宮境内 日光菩薩・月光菩薩
八柱社 五男三女神 下八王子 末社・下七社 東本宮参道 虚空蔵菩薩
氏神神社 鴨建角身命・琴御館宇志丸  山末 摂社・下七社 東本宮参道 大日如来か摩利支天
巌滝社 市杵島比売神・湍津島姫神 岩滝 摂社・下七社 東本宮参道 弁才天
産屋神社 鴨別雷神 王子 摂社・下七社 境外
不動明王
西本宮系
西本宮 大己貴神
大宮(大比叡) 本宮・上七社 西本宮境内 釈迦如来
/下殿に釈迦絵像・大黒尊像
宇佐宮 田心姫神
聖真子 摂社・上七社 西本宮東 阿弥陀如来
/下殿に阿弥陀如来
白山宮、白山姫神社 白山姫神 客人(まろうど) 摂社・上七社 宇佐宮東 十一面観音
/下殿に垂迹
早尾神社 素盞鳴尊 早尾  摂社・中七社 境外 不動明王
宇佐若宮 下照姫神 聖女 末社・中七社 宇佐宮境内 如意輪観音か大日如来
竈殿社 奥津彦神・奥津姫神 大宮竈殿 末社・下七社 西本宮境内 大日如来
気比社 仲哀天皇 気比 末社・下七社 宇佐宮境内 聖観音か如意輪観音か阿弥陀
剣宮社 瓊々杵尊 剣宮 末社・下七社 白山宮境内 不動明王
   
日吉大社 〒520-0113  滋賀県大津市坂本5-1-1  077-578-0009
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