雲母寺跡 (京都市左京区) 
ruins of Ummo-ji Temple  
雲母寺跡 雲母寺跡 
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近年まで、碑は近くの別の場所に立てられており、その後現在地に移されたという。


周辺に残る石垣跡、遺構かどうかは不明。
 比叡山に向かう雲母坂登山道の入口に、「雲母寺(うんもじ/うんぼじ/きららじ)跡」という小さな碑が立てられている。
 かつて、比叡山の西側一帯は、大津の坂本(東坂本)に対して西坂本(西の坂本)といわれた。延暦寺の末寺が多数建てられていたという。当寺は「雲母坂不動堂」とも呼ばれた。
 天台宗。本尊は不動明王立像。
◆歴史年表 平安時代末期、847年、円仁が唐より帰国し、登山の際にこの地で休息したという。
 883年、元慶年間(877-884)とも、天台宗の相応により、円仁ゆかりの地に創建された。比叡山延暦寺東谷西谷に属した。
 江戸時代初期、文人・石川丈山(1583- 1672)筆による「雲母寺」の横額が掲げられていたという。
 近代以降、荒廃する。
 1885年、滋賀県に編入され、延暦寺直轄になる。
 その後、間もなくして廃寺になった。◆相応 平安時代前期の天台宗の僧・相応(そうおう、831-918)。南山大師、建立大師、無動寺大師。近江国に生まれた。845年、15歳で比叡山に登り鎮操(ちんぞう)に師事した。毎日、中堂に花を供え円仁に認められる。855年、17歳で円仁を師として得度受戒し、相応と称した。『法華経』の第二十常不軽(じょうふぎょう)菩薩品に感銘する。12年籠山修行した。858年、12年籠山を中断し、請われて第55代・文徳天皇の女御・多賀幾子(藤原良相の娘)の病を加持し、広く知られる。859年以降、比良山安曇川の上流葛川、吉野金峰山で修行する。861年、第56代・清和天皇の招きにより内裏に参内した。葛川(かつらがわ)、吉野金峰山で修行の後、863年、比叡山で等身の不動明王像を刻む。865年、無動寺明王堂を建立し、本尊として安置した。天狐が憑依したという文徳天皇皇后明子(染殿皇后、藤原良房の娘)を加持、治癒したという。883年、東塔常行堂の改造を行った。887年、891年、日吉社の造営を行う。また、朝廷に願い出て最澄に伝教大師、円仁に慈覚大師の大師号を贈るよう尽力した。889年、第59代・宇多天皇の加持の功により内供奉になる。911年、公請を断ち不断念仏を修した。
 天台修験の開祖、比叡山回峰行の祖とされる。
◆雲母寺 雲母寺(きららじ/うんもじ)は、平安時代末期の883年、元慶年間(877-884)とも、天台宗の相応により創建される。この地は、847年、円仁が唐より帰国し、登山の際に休息した地という。比叡山延暦寺東谷西谷に属した。「雲母坂不動堂」とも呼ばれる。地蔵堂も建てられていた。
 雲母坂の登り口、音羽谷にあった。門、堂は南面し、2600坪の境内を有したという。
 江戸時代初期の文人・石川丈山(1583- 1672)筆による「雲母寺」の横額が掲げられていたという。
 近代以降、荒廃する。1885年に滋賀県に編入され、延暦寺直轄になる。その後廃寺になる。
◆仏像・石仏 ◈本尊「不動明王立像」(八尺、約2.4m)が祀られていた。平安時代の伝教大師(最澄)の自作ともいう。
 廃寺に伴い、本堂(雲母不動堂)と本尊の不動明王は、赤山禅院(左京区修学院)に遷された。
 ◈西光が京都七口に建立した地蔵堂の一つがあった。その本尊「地蔵菩薩」は、帰命院(左京区山端森本町)に遷される。いまは「山端(やまばな)地蔵」と呼ばれている。
 ◈「阿弥陀石仏」は、平安時代末期、1126年の銘があり、禅華院(左京区修学院)に遷されたという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『昭和京都名所図会 3 洛北』『近江・若狭・越前 寺院神社大事典』『京都大事典』 、ウェブサイト「コトバンク」


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map 雲母寺跡  京都市左京区修学院梅谷  
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