安楽律院跡(比叡山延暦寺・横川飯室谷別所) (滋賀県大津市)
ruins of Anrakuritsu-in Temple
安楽律院跡 安楽律院跡 
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山門


玄門智勇筆の「秘蔵窟」の扁額








石段の参道



現在の本堂






堂内に安置されている坐像








山の中腹に石垣が組まれ、境内は広い。往時には多くの伽藍が建てられていたのだろう。


参道、杉林の中に立派な石段が残されている。



参道




藤原定家の歌碑



定家が愛したという定家峰



藤原定家の爪塚、定家が愛したという地、定家峰の裾にある。



墓石、詳細不明。


境内北にある墓地
 安楽谷(大津市坂本)にある安楽律院(あんらく-りついん)は、横川飯室谷(よかわ いむろだに)の別所になる。比叡山横川元三大師堂の東麓に位置している。かつて、「安楽院」と呼ばれた。
 天台律の総本寺だった。江戸時代中期、天台宗の教学刷新を目指した四分戒律兼学(4つの小乗律戒法)の寺として隆盛を極めた。その後、廃寺になり、いまは山門、小堂などがわずかに残る。 
◆歴史年表 平安時代、945年、3月、「天台安楽院」と記されている。(『日本紀略』)。ただ、当院ではないとみられている。
 985年、10月、安楽院は、藤原師輔一門の僧、叡(睿)桓、範好、忠正、延久、惟慶ら5人の僧により念仏道場として建立されたという。(「高山寺文書」中、996年の「僧範好等連署起請文」)
 986年、恵心僧都(942-1017、源信)が念仏結縁の行法を行う。恵心僧都も隠棲していたともいう。念仏会の縁起草案は慶慈保胤(寂心)によるという。
 996年、叡(睿)桓、範好、忠正、延久、惟慶ら5僧は「首榜厳院安楽谷起請文」を撰し、当院八カ条の起請制定された。
 室町時代、1571年以前、比叡山焼討前には、阿弥陀堂に阿弥陀如来を安置し、鐘楼、菩提樹、源信建立の二十五菩薩の石仏が描かれていた。(『比叡山三塔図屏風』、三千院蔵)
 江戸時代、1693年、輪王門跡・公弁法親王は、「大戒旧跡再興」の令旨を発し、安楽院を四分律兼学の律院とした。安楽律という厳格な戒律を唱え、妙立慈山の弟子・霊空光謙が住し復興した。師・妙立を中興第一祖にした。
 1697年、幕府により寺領が寄進されている。
 1698年、妙立の墓を北白川より当院に遷した。
 1699年、霊空光謙が戒律復興を唱え、「開山堂侍真条例」を定めた。以後、比叡山御廟浄土院の12年籠山制が確立する。
 1706年、玄門智幽が引き継ぐ。正殿が完成し、公弁法親王より「弘律場」の書を贈られた。
 1723年、東叡山浄名院を改め律院とした。
 1729年、日光山に興雲律院が建立される。
 1739年、輪王門跡・公遵法親王は、一紀12年の籠堂を終えた比丘は、国宝(山上にとどまり子弟教育をする菩薩僧)以外、当院での四分戒律を兼学することを命じた。同年、霊空が没し、弟子・智幽が継いでいる。
 1758年、安楽寺騒動が起きる。輪王門跡・公啓法親王により、兼学律が停められ、安楽院、末寺は大乗寺に改められる。安楽院住持には、安楽寺派を批判していた円耳が就いた。安楽寺派は、寺を去り、園城寺の華光院、妙蔵院などに移る。泰巌ら7人の僧は、江戸幕府に訴えた。
 1747年、公啓法親王が亡くなる。その後、公遵法親王が輪王子門主に還補することになった。
 1765年、泰巌ら安楽寺派7人の僧が、脱衣追放の刑に処せられている。
 1782年、幕府により今度は円耳が追放される。兼学律復帰になり、安楽寺派が復活した。
 以後、幕府は兼学律に反することを禁じた。安楽寺も律受学を強要することはなかった。寺勢は次第に衰え、一律院になる。
 現代、1949年、放火により釈迦三尊像を安置した本堂などを焼失した。
 現在、廃寺になっている。
◆安楽律 安楽律院の安楽律は、江戸時代の停滞した比叡山に、最澄の12年籠山の制を復活させた。籠山後も、奈良仏教の小乗戒律を守らせるものだった。厳格な戒律により教学刷新を目指した。だが、過度な小乗戒は、批判を浴び、やがて衰微、廃絶する。
 これを契機として比叡山の12年籠山制度が復し、東塔・浄土院の籠山僧・待真(じしん)の制度が始まる。
◆叡桓 平安時代中期の天台宗の叡桓(えいかん、?-?)。睿桓。母も往生者で釈妙といった。藤原師輔一門の僧。985年、比叡山横川(よかわ)に、叡桓ら5僧が安楽院を開く。戒律厳守し、ひたすら法華経を読誦したという。 安楽院の住侶、往生者だった。飯室上人、安楽上人と呼ばれた。 安楽律院境内に墓がある。
◆妙立慈山 江戸時代前期の天台宗の僧・妙立慈山(みょうりゅう-じざん、1637-1690)。号は唯忍子。美作国に生まれた。17歳で山城国・妙心寺派、花山寺の雷峯に師事、出家した。遊行の後、1664年、比叡山、泉涌寺、槇尾山西明寺の智本律師を経て、坂本に戻る。1678年、大乗戒ではなく南山の戒律を主張し、比叡山より大乗信者を惑わす異義者として追放される。園城寺、山城、摂津に移り、1680年、梶井宮の請により、小野に移った。東山・有門庵で没した。著『大乗止観頌註』など。
 天台三大部を研究した。天台僧の頽廃を糺すために、教学刷新を訴えた。小乗戒の戒律に律して四分律の戒を受具し、戒律兼学することを唱えた。
 安楽律院境内に墓がある。
◆霊空光謙 江戸時代中期の天台宗の僧・霊空光謙(れいくう-こうけん、1652-1739)。筑前に生まれた。1665年、14歳で福岡・松源院の豪光により出家し、光舜(こうしゅん)と称した。その後、光謙に改めた。17歳で比叡山に登る。1668年、比叡山・正覚院、観泉坊などに住した。1671年、守澄法親王の命で西塔・星光院の住職になる。1678年、妙立(みょうりゅう)の門に入る。十重禁戒を受けた。1682年、城西泉谷に移る。1690年、妙立の没後に後継者になった。天台座主より安楽院を興律の道場として認められる。1693年、輪王寺宮公弁法親王は安楽院を律場とした。妙立を中興第1世とし、光謙自らは第2世になる。律の道場とし江戸、日光にも律院を開く。1695年、『法華文句』を講じた。1706年、弟子・玄門に安楽院を譲り、伊勢、摂津、播磨などを教化した。1739年、一紀(12年)籠山を勤めた者は、安楽院で四分律を必ず兼学することが認められた。著作に『法華文句記講録」など多数がある。
 安楽律により比叡山中興をした。「元禄の三空(ほかに知空、慧空)」といわれた。小乗の四分律兼学の必要性を説く。厳しい戒律主義による僧風の刷新を掲げ、趙宗四明の天台学教学を取り入れた。
 安楽律院境内に墓がある。
◆玄門智幽 江戸時代前期-中期の天台宗の僧・玄門智幽(ちゆう、1666-1752)。伊勢に生まれた。1679年、13歳で伊勢国・一乗寺の順渉に仕えた。1680年、尾張・観心院の珍舞により剃髪した。15歳で比叡山西塔・喜見院に入る。1684年、妙立、その後、安楽院・霊空に師事した。1706年、安楽院3世院主になる。東叡山浄妙院、日光山興雲院にも住した。1714年、伝心院に移り、1752年、その地で没した。著『四明十義書聴記』など。
 安楽律を広め、50余りの寺を創建した。「安楽律院三大和尚(ほかに妙立、霊空)」とされた。
 安楽律院境内に墓がある。
◆円耳 安土・桃山時代-江戸時代の僧・円耳真流(1711-? )。伊勢に生まれた。比叡山横川・禅定院の智涛に師事した。1729年、禅定院の住持になる。戒壇院に大戒を受ける。一紀籠山後も四分戒律を兼学せず、安楽寺派を批判をした。曼殊院門跡公啓法親王に乞い、兼学律が停止されると、1758年、安楽院住持、浄土院別当になる。だが、1782年、安楽寺派の復活により追放された。以後、南禅寺の旧庵に移った。
 小乗律に偏した兼学律は最澄の主旨に背くとした。その廃止、大乗律への復帰を主張した。
◆藤原定家 鎌倉時代前期の公卿・歌人・藤原定家(ふじわらの-ていか/ さだいえ、1162-1241)。歌人・藤原俊成の次男。母は藤原親忠の娘。1178年頃より歌人となる。1180年、内昇殿が認められる。1183年、父が後白河上皇の命により編纂した『千載和歌集』を手伝う。1185年、殿上での闘乱事件により除籍された。1186年、摂政・九条兼実に仕えた。良経、慈円の知遇を受けた。後鳥羽上皇(第82代)に見出される。1201年より和歌所の寄人に選ばれ、『新古今和歌集』の編纂に加わる。1202年、中将、1211年、公卿、1220年、内裏二首御会での作が後鳥羽院の逆鱗に触れ閉門を命じられた。1232年、権中納言に昇る。第86代・後堀河天皇の勅により『新勅撰和歌集』を編じた。19歳よりの漢文日記『明月記』(1180-1235)を著す。邸宅は京内に数か所あり、晩年は一条京極に移る。嵯峨に山荘を営み百人一首を編んだ。
 後世、歌道の師とされる。墨蹟は「定家風」と呼ばれた。墓は相国寺・普広院にある。
 安楽律院近くの定家峰に爪墓がある。近くにその歌碑が立つ。
◆仏像 かつて本堂に恵心僧都(源信、942-1017)作という阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊を安置していた。1949年に焼失している。
 「千手観音像」(重文)を安置する。
◆文化財 鎌倉時代、13世紀の絹本著色「阿弥陀三尊二十五菩薩来迎図」(125.4×63.5㎝)(重文)には、阿弥陀仏、15体の菩薩が描かれている。阿弥陀仏らを乗せた雲は、左上よりS字に弧を描いて下り、左下の往生者を迎えようとしている。阿弥陀仏は右足を下げた半跏をとる。
◆墓 北奥に叡桓、妙立、霊空、玄門の墓がある。
 『今昔物語』に登場する恒舜の墓があるという。
◆藤原定家の爪墓 定家が愛したという地、定家峰の裾に鎌倉時代の公家・歌人・藤原定家(1162-1241)の爪墓がある。定家は比叡山を愛し、この地に隠遁したという。
 近くに藤原定家の歌碑(京極黄門定家碑)が立つ。「ふむだにも縁なるてふ此山の土となる身はたのもしきかな」と側面に刻まれている。近代、1889年に建立された。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『比叡山諸堂史の研究』『闘いと祈りの聖域 比叡山史』『近江・若狭・越前 寺院神社大事典』『昭和京都名所図会 3  洛北』『週刊 日本の美をめぐる 45 平等院と極楽往生』、ウェブサイト「コトバンク」


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