鷺森神社・鷺の森 (京都市左京区) 
Saginomori-jinja Shrine
鷺森神社 鷺森神社 
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神号「鬚咫天王(しゅだ/すだ てんのう)」の鳥居扁額














八雲殿



八雲殿





手水舎



手水舎



手水舎



手水舎



拝殿

 鷺森神社(さぎのもり じんじゃ)は、比叡山の南西麓、東山に源を発する音羽川、一条寺川に挟まれた地にある。かつて、比叡山に向かう雲母坂の登り口に当たっていた。 
 「修学院村天王社」、「修学寺の天王」とも呼ばれていた。比叡山麓(左京区)七里の産土神の一つとされた。修学院、山端(やまばな)の産土神とされた。旧村社。 
 祭神は素盞嗚尊(すさのおのみこと)。かつては、牛頭天王(ごずてんのう)、また、鬚咫天王(天皇)(しゅだ/すだ てんのう)を祀ったともいう。(『拾遺都名所図会』)。近代、鬚咫天王と同一視された素盞鳴尊を祭神とした。 鬚咫天王は素盞嗚尊の神号になる。
 京都洛北・森と水の会。
 家内安全、旅行安全、厄除、諸願成就の信仰がある。御朱印が授けられる。
◆歴史年表 平安時代、貞観年間(859-877)、創建されたという。「鷺森」の名の由来は、古来より神使とされる鷺が、鎮守の森に群集していたことに因むという。社域はかつて赤山禅院付近にあり、当初は牛頭天王を祀った。
 南北朝時代、鷺森、八瀬、降松、藪里などに比叡山から洛中に至るまで、諸大将の陣が敷かれ拠点になっていた。(『太平記』巻15)
 室町時代、1470年、多賀豊後守高忠は、如意ヶ獄に出陣し、鷺の森の通路が封鎖されたという。(「大乗院寺社雑事記」)
 応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失した。その後、修学院離宮付近の山中に遷される。
 江戸時代、元禄年間(1688-1704)、1689年とも、後水尾上皇(第108代)による修学院離宮造営(1653-1655)に伴い、現在地を贈られ遷った。年米3石を贈られる。
 1729年、霊元上皇(第112代)は度々当社を訪れ、「をりゐるを みし鷺の森 すきかてに わけきてけふは むかふ神垣」と詠んだ。
 1775年、享保年間(1716-1736)とも、現在の本殿、拝殿、手水舎が築造される。
 現代、1967年、本殿が改築される。回廊が造営された。
◆多賀高忠 室町時代の武士・多賀高忠(1425-1486)。京極家に仕え、幕府侍所所司代を務める。1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)では京極持清とともに細川方に属した。1472年、持清没後、京都に隠棲した。1485年、復し、侍所所司代に再任になり、山城国一揆の平定に当たった。
◆建築  ◈ 「本殿」は、江戸時代、1775年に建てられた。一間社流造。
  ◈ 「拝殿」も、江戸時代、1775年に建てられた。
  ◈ 「手水舎」は、江戸時代、1775年に建てられる。入母屋造。
◆鬚咫天王 当社は「鬚咫天王(天皇)(しゅだ/すだ てんのう)」を祀ったともいう。(『拾遺都名所図会』)。このため、「鬚咫天王」とも称した。
 『日本書紀』(神代の巻)に素戔嗚尊(すさのおのみこと)を「八握の鬚髯(やつかひ/やつか のひげ)が生い茂り」とあり、神号「八握鬚髯」と呼ばれたことに因むともいう。また、社殿の五葉松の葉形が 、あたかも鬚髯(しゅぜん、あごひげ・ほおひげ)のようであるとして名付けられたともいう。
 「咫(あた)」とは、上代の長さの単位であり、親指と中指とを広げた長さになる。
◆境内社 天照皇太神宮(天照大神)、熊野皇太神(熊野皇大神)、住吉大明神(住吉大神)、八幡太神(八幡大神)、豊稲荷神社(倉稲魂命、うかのみたまのみこと)を祀る。
◆七里の産土神 かつて比叡山麓(左京区)に七里(ななさと)の産土神が祀られていた。
 七社とは、一乗村・八大神社、高野村・御霊社(現在の祟道神社)、修学院村・天主社(現在の鷺森神社)、舞楽寺(ぶがくじ)・天王社(八王子社、後に現在の八大神社に合祀)、藪里・比良木天王社(牛頭天王社、後に現在の八大神社に合祀)、山端・牛頭天王社、白川村・天王社(現在の北白川天満宮)になる。
 祭礼(七里祭、さんやれ祭)(3月5日)では、修学院天王社に各社の神輿が集まった。
◆縁結びの石 境内の「縁結びの石」は、「八重垣(やえがき)」とも呼ばれている。この石に触れて祈ると、悪縁を絶ち、良縁、夫婦和合・円満を得られるとされる。八重垣の上に社務所で求めた黒石を置き、黒石の上より手を当て、八重垣に触れて心中で祈願する。その石をお守りに入れて持ち帰る。
 神話がある。祭神・素盞嗚尊(すさのおのみこと)は、高天原(たかまがはら)より出雲国・肥の川上流に降り立った。嘆き悲しんでいる老夫婦の神、脚摩乳(あしなづち)と手摩乳(てなづち)に出遭う。かつて、神には8人の娘がいた。毎年、八岐大蛇(やまたのおろち)は、娘たちを次々に襲い食べたという。最後に末娘・稲田姫命(いなたひめのみこと)一人が残された。やがて、稲田姫命も同じ運命になる。
 素盞鳴尊は、稲田姫命と婚姻することを約束し、大蛇退治を行う。二人が結ばれ、住居を構えた須賀で素盞鳴尊が詠んだという歌がある。「八雲たつ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣つくる その八重垣を」。この出雲の須賀の地に、新婚の宮を作ろうとすると、雲が幾重にも立ち昇り、あたかも八重垣を作るように見える。私たち夫婦の住む八重垣である。その八重垣のみごとさよ。
◆御幸橋 境内を流れる宮川に架かる石橋は、「御幸橋」と呼ばれている。橋は、かつて修学院離宮内の正面入り口、音羽川に架かっていたという。
 後水尾上皇、霊元法皇も行幸の際に渡ったとされる。現代、1967年に境内に移設された。
◆歌 当社が歌に詠まれている。
 「比叡の山は 冬こそいとど 寂しけれ 雪の色なる 鷺の杜より」(『拾玉集』)、平安時代-鎌倉時代の天台座主・慈円(1155-1225)
 江戸時代前期の第112代・霊元天皇(1654-1732)。「をりゐるも 所からなる さぎのもり 問はでもおのが  名のるはかりに」(1724年)、「をりゐるを みし鷺の森 すきかてに わけきてけふは むかふ神垣」(1729年)
◆鷺森 境内の社叢は、「鷺の森」と呼ばれた。現在では、ヤマザクラ、カエデも植えられており、紅葉の名所としても知られている。
 本殿前のご神木のスギの大木は、「区民の誇りの木」に指定されている。ほかに、モミ、タラヨウもある。
◆祭礼 かつては、3月5日に七里祭(ななざとまつり、さんやれ祭)が行われ、七里の神輿が当社に集まっていたという。
 現在は、5月4日に宵宮祭、5日に神幸祭(「さんやれ祭」)が行なわれている。神幸列は赤山禅院を参詣後、修学院御旅所、鷺森神社へ向かう。管笠・紅襷姿の男児は扇を手にし、手鉦や太鼓の囃に合せて「サンヨレ、サンヨレ」と声を掛け、所作を行いながら神輿を先導していく。拝殿では舞楽の奉納も行われる。
修学院紅葉音頭  御旅所(修学院集会所)で、8月27日の7時から行われていてる「修学院紅葉音頭(もみじおんど)・大日踊」(京都市登録無形民俗文化財指定の)がある。
 囃子はなく、音頭取の音頭に合せ、浴衣と団扇、手拭に鮮やかな紅葉の描かれた井出達の女性たちは、櫓の周りに輪を描き、独特の手の振りで静かに舞い続ける。
 踊りは、修学院紅葉音頭保存会により継承され、賀茂(9月8日)でも伝承されている。踊りの起源は、江戸時代初め、修学院離宮の後水尾天皇を歓迎して始められたという。当時、庶民の間で流行っていた踊りや音頭に、はやり歌、歌舞伎の台詞などの節が加えられたという。
◆年間行事 歳旦祭(1月1日)、祈年祭(春祭)(2月11日)、宵宮祭(5月4日)、神幸祭(例祭)(5月5日)、新嘗祭(秋祭)(11月23日)、御火焚祭(御火焚神事)(12月5日)。
 

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*年間行事(拝観)などは、中止、日時・内容変更の場合があります。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『昭和京都名所図会 3 洛北』『京都大事典』『京都の寺社505を歩く 上』『京都 神社と寺院の森』『京都の隠れた御朱印ブック』、ウェブサイト「コトバンク」


雲母坂     修学院離宮     曼殊院            

ご神木の杉の大木
「縁結びの石(八重垣)」

拝所、本殿

拝所

拝所

拝所

本殿

本殿

八幡大神

住吉大明神

天照皇太神宮

熊野皇太神

御幸橋


霊元天皇歌碑、「おりゐるを 見しさきのもり すきかてに わけきて今日は むかぶ神垣」

「音羽川」の石柱

御旅所

【参照】御旅所(修学院集会所)、修学院紅葉音頭(もみじおんど)・大日踊。
鷺森神社 〒606-8061 京都市左京区修学院宮ノ脇町16  075-781-6391
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