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閑院内裏址 (京都市中京区) Site of Kanin Residence |
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閑院内裏址 | 閑院内裏址 |
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![]() 「此附近 閑院跡」の石標、境内東 ![]() 【参照】平安時代の閑院の復元図(京都市平安京創生館)、案内パネルより ![]() 【参照】「古城町」の地名 |
西福寺境内の東に「此附近(このふきん) 閑院内裏址(かんいん-だいり-あと)」の石標が立つ。 この地には、平安時代の公卿・歌人の藤原冬嗣(ふじわら-の-ふゆつぐ)の邸宅「閑院」(平安左京三条二坊)があった。その後も、鎌倉時代初期まで藤原氏の邸宅が置かれた。後、さまざまな歴史の舞台になった。 ◆歴史年表 平安時代、藤原冬嗣(775-826)が邸宅「閑院」を創設した。その後、藤原一族の間で伝領された。 814年、冬嗣は閑院に第52代・嵯峨天皇を迎えて詩宴を催した。 その後、第71代・後三条天皇(1034-1073)以来、第73代・堀河天皇(1079-1107)、第80代・高倉天皇(1161-1181)、第82代・後鳥羽天皇(1183-1198)などの里内裏として使われた。 1186年、後鳥羽天皇の里内裏の時、地震により倒壊する。その後、源頼朝が大江広元を奉行として再興した。 1190年、頼朝は上京し、この地で天皇に拝謁した。 鎌倉時代、1208年、焼失した。 1259年、放火により焼失し、以後、再建されることはなかった。 安土・桃山時代、1583年、豊臣秀吉は寺を小川寺内に移転させる。跡地(現在地)に二条新邸(妙顕寺城)を築造し京都の政庁にした。(『兼見卿記』『貝塚御座所日記』) 1587年、聚楽第の築造に伴い二条新邸の政庁としての役割は終わる。秀吉は大坂城から聚楽第に移る。 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、この地に西福寺が建立される。 江戸時代、秀吉邸跡地には牢屋敷が建てられる。 1708年、牢屋敷は天明の大火により焼失し、六角獄舎に移された。 現代、1915年、11月、京都市教育会(寄附者・柏木亀蔵)により石標が立てられた。 ◆藤原 冬嗣 奈良時代-平安時代前期の公卿・藤原 冬嗣(ふじわら-の-ふゆつぐ、775-826)。男性。通称は閑院大臣。父・北家・右大臣・藤原内麻呂、母・飛鳥部奈止麻呂の娘/百済永継(くだら-の-えいけい)の2男。806年、従五位下、第52代・嵯峨天皇の信任篤く、810年、平城太上天皇の変(薬子の変)を契機として、四位下で新設の初代・蔵人頭(くろうどのとう)に任じられる。式部大輔を経て、811年、参議になった。814年、従三位、自邸の閑院(平安左京三条二坊)に嵯峨天皇を迎え詩宴を催している。816年、権中納言、819年、正三位、大納言、821年、右大臣、825年、正二位で左大臣になった。「弘仁格式(きゃくしき)」「内裏式」を撰進し、漢詩は『文華秀麗集』、詩は『凌雲集』などに入る。52歳。 没後に正一位、太政大臣を追贈された。嵯峨天皇、第53代・淳和天皇の信を得た。娘・順子は第54代・仁明天皇の妃になり、道康親王(第55代・文徳天皇)を産む。次男・良房は嵯峨天皇皇女・潔姫(きよひめ)を妻に迎え、皇室との関係を深めた。藤原氏による摂関政治、北家繁栄の基礎を築く。一族子弟のための勧学院、施薬院、氏寺・興福寺に南円堂を建てた。 墓は宇治陵(宇治市)に包括されている。同域内の夫婦塚(赤塚)は冬嗣、妻・藤原美都子の夫婦墓ともいう。 ◆豊臣 秀吉 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・豊臣 秀吉(とよとみ-ひでよし、1537-1598)。男性。幼名は日吉丸、初名は木下藤吉郎。小猿と呼ばれた。父・尾張国(愛知県)の百姓、織田信秀の足軽・木下弥右衛門、母・百姓の娘・なか(天瑞院)。1551年、家出し、後に今川氏の家臣・松下之綱、1554年、織田信長に仕える。1561年、浅野長勝の養女・ねねと結婚し、木下藤吉郎秀吉と名乗った。戦功を重ね、1573年、小谷城主、羽柴姓と筑前守、信長の天下統一にともない西国転戦した。1582年、備中高松城の毛利軍と戦いの最中に本能寺の変が起こり和睦した。軍を返し山崎で明智光秀を討つ。1584年、小牧・長久手で織田信雄、徳川家康の連合軍に敗れる。1585年、紀州根来と雑賀、四国・長宗我部元親を服した。関白に進む。1586年、聚楽第、広寺大仏造営に着手し、太政大臣に昇り豊臣の姓を賜わる。1587年、九州征討、聚楽第が完成する。10月、北野天満宮で北野大茶湯を催した。1588年、第107代・後陽成天皇が聚楽第を行幸する。検地、刀狩を行う。1590年、小田原の北条氏直らの征討、朝鮮使を聚楽第に引見した。1591年、利休を自刃させる。1592年、文禄の役を始めた。甥の養子・秀次に関白職を譲り、太閤と称した。1593年、側室淀殿に秀頼が生まれると、1595年、秀次を謀反人として切腹させ、妻妾子女らも処刑した。1597年-1598年、朝鮮を攻めた慶長の役に敗れた。1598年、3月、醍醐寺で「醍醐の花見」を行う。8月、伏見城で没した。62歳。 「普請狂」と称された。京都で「都市改造」を行う。1585年-1591年、洛中検地・洛中地子免除(1591)、1586年よりの方広寺大仏建設、1586年-1587年、聚楽第・周辺の武家邸宅街建設、1589年、禁裏・公家町の修造整備、1590年、新町割建設(短冊形町割)、1590年、三条大橋などの橋梁・道路建設、1591年、御土居築造、寺院街(寺町・寺之内)建設、1595年、方広寺大仏、1597年、伏見城を建てた。ほか、関所廃止、楽市・楽座制、重要都市・鉱山直轄、貨幣鋳造、太閤検地・刀狩、伏見の城下町化、宇治川の整備、倭寇取締、朱印貿易などを進めた。没後、豊国廟に豊国大明神として祀られた。 ◆閑院 この地には、奈良時代-平安時代前期の公卿・歌人の藤原冬嗣(775-826)の邸宅があり、平安左京三条二坊にあり、現在の古城町、下古城町、周辺の6町に跨っていた。当初から閑院(かん-いん)と呼ばれていたという。「閑なる所」にあり名付けられた。庭内に泉が湧き、閑雅な風情から名付けたともいう。壮大な池の畔に柳が植えられ、松は音をたて、炎暑の日でも冷感を感じるほどだったという。 藤原基経(836-891)、公季(956-1029)、兼通(925-977)が買い取り、朝光(951-995)に伝領された。実季(1035-1092)、基房(1145-1230)が引き継いだ。 第71代・後三条天皇(1034-1073)以来、第72代・白河上皇(1053-1129)、第73代・堀河天皇(1079-1107)、第80代・高倉天皇(1161-1181)、第82代・後鳥羽天皇(1183-1198)、第83代・土御門天皇(1195-1231)などの里内裏としても使われる。 鎌倉時代前期、1186年、後鳥羽天皇の里内裏の時、地震により倒壊する。その後、源頼朝が大江広元を奉行として再興した。1190年、頼朝は上京し、この地で天皇に拝謁した。鎌倉時代、1208年、焼失した。鎌倉時代中期、1259年、放火により焼失し、以後、再建されることはなかった。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 案内板、『京都府の歴史散歩 上』、『京都』、『京都大事典』 、京都市平安京創生館、『京都 秀吉の時代-つちの中から』、ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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