東三条院殿跡 (京都市中京区)
ruins of residence of Higashi-sanjodono
東三条院殿跡  東三条院殿跡
50音索引,Japanese alphabetical order   Home 50音索引,Japanese alphabetical order   Home

「此附近 東三条殿址」の石標


【参照】平安時代の東三条殿の復元図(京都市平安京創生館)、案内パネルより
 中京区押小路通釜座西北角に「此附近 東三条殿址」の石標が立つ。 
 この地一帯には、平安時代、藤原氏の貴族邸宅の「東三条殿(ひがしさんじょうどの/とうさんじょうどの/とうさんじょうでん)」が営まれた。東三条院、東三条院殿、東三条第とも呼ばれた。
 敷地は広大であり、平安京左京3条3坊1町、南北2町に建てられていた。平安京の貴族邸宅の一つであり、寝殿造だったという。
◆歴史年表 平安時代初期、藤原良房(804-872)が邸宅にした。以後、摂関家嫡流に伝領される。(『二中歴』『拾芥抄』)
 第59代・宇多天皇(867-931)の後院であったともいう。(『日本紀略』)
 藤原兼通(925-977)が住んだともいう。(『日本紀略』)
 藤原兼家(929-990)の屋敷になる。兼家は東三条殿と称された。建物の西対を清涼殿に似せ、世の非難を浴びた。その後、忠平(880-949)、兼家(929-990)が伝領したという。(『二中歴』『拾芥抄』)
 第52代・醍醐天皇皇子・重明親王(906-954)の邸だったともいう。(『今昔物語集『中外抄』)
 947年、第62代・村上天皇女御・藤原述子(忠平の孫)が東三条第で没した。(『貞信公記』)
 兼家の娘・詮子(961-1001)が住み、女院号を与えられ「東三条院」と称した。
 969年頃、兼家は東三条第を改築し自邸にした。(『蜻蛉日記』)
 976年、第63代・冷泉天皇の女御・藤原超子(藤原兼家の長女)は、東三条殿で居貞親王(後の第67代・三条天皇)を生み、第3皇子・為尊親王、第4皇子・敦道親王も育つ。
 後に、冷泉天皇(950-1011)の後院になる。
 980年、第64代・円融天皇の女御・藤原詮子(兼家次女)は南院を里第とした。懐仁親王(後の第66代・一条天皇)を産む。(『大鏡』)
 984年、焼亡する。(『日本紀略』)
 985年、焼失を免れた東三条第南院の詮子と懐仁親王を、円融上皇(第64代)が訪れた。
 986年、懐仁親王が一条天皇に即位し、詮子は東三条第南院で皇太后に立后し、その後内裏に移る。南院(東三条南院東対)では居貞親王が元服・立太子した。(『日本紀略』)
 987年、兼家が東三条殿を新造し、一条天皇は行幸する。西対を内裏清涼殿に模して建てたため批判を浴びたという。南院に詮子が入る。(『大鏡』『本紀略』)
 990年、兼家没後、嫡男・道隆に継承されたという。一条天皇中宮・藤原定子は東三条第より入内した。
 991年、詮子は職御曹司で出家し、日本最初の女院になり、院号を「東三条院」とした。  
 993年、兼家の長子・道隆が継いだ東三条第南院が全焼する。本院は焼失を免れた。
 994年、東三条第の南院は再建された。
 995年、道隆は南院で病没、その年以降、道長(966-1028)の所有になったとみられる。邸内は豪華であり、池に竜頭船を浮かべた。天皇の行幸、公家の遊宴が盛んに行われた。(『本朝文粹』)
 999年、居貞親王(後の三条天皇)が東三条殿に入り御所となる。
 1002年-1005年、道長は東三条殿を改築し、西対を廃した。
 1005年、内裏火災のため、一条天皇の里内裏になり、東宮居・貞親王は南院に入った。
 1006年、道長の改築後、一条天皇の里内裏になる。
 1011年、居貞親王は一条院内裏で践祚の後、東三条殿、さらに内裏に移った。東三条殿は三条天皇中宮・藤原妍子(道長の娘)の御所として使用された。
 1013年、焼失した。その後、道長嫡男・頼通に譲られた。
 1025年、再建が始まる。
 1031年、焼失した。
 1038年-1043年、再建される。
 1043年、内裏の一条院焼亡により、東三条殿が第69代・後朱雀天皇の里内裏になる。
 1045年、後朱雀天皇は東三条殿で亡くなる。
 1099年、師通に譲られたが、3カ月後に師通が死去した。再び師実が所有した。
 1101年、師実の死後、正妻・源麗子の管理下に置かれた。
 1114年、麗子が没し、師通の嫡男・忠実の所有になる。
 1120年、嫡男・忠通に譲った。
 1149年、第76代・近衛天皇の元服のために1カ月間、里内裏になった。
 1150年、忠実は、忠通を勘当し、東三条殿を没収し頼長に与えた。
 1156年、鳥羽法皇(第74代)没後、東三条殿には頼長・崇徳上皇方の軍勢が集結、謀反を謀る。頼長の宇治滞在中に、第77代・後白河天皇の軍が東三条殿を接収した。後白河天皇・忠通側と崇徳上皇・頼長側による戦が起こり、天皇と藤原忠通らが殿舎に立籠もった。(保元の乱)。勝利した後白河天皇は、忠通に東三条殿を返還した。(『保元物語』)
 1157年、忠通は東三条殿の修理を行なう。1カ月ほど後白河天皇が里内裏として利用した。後、藤原聖子(皇嘉門院、忠通娘)に譲られた。その後、忠通・嫡男の近衛基実(近衛家始祖)に譲られた。
 1166年、基実没後、室・平盛子に譲られる。皇子・憲仁親王(後の第80代・高倉天皇)の立太子の儀が行なわれ御所となる。この後、焼失した。その後、再建されなかった。
 1177年、焼失したともいう。
◆藤原良房 平安時代前期の公卿・藤原良房(ふじわら-の-よしふさ、804-872)。通称は白河殿、染殿、諡は忠仁公。京都の生まれ。藤原冬嗣の2男、母は尚侍(ないしのかみ)・藤原美都子(みつこ)(阿波守・藤原真作の娘)/大庭(おおば)女王。814年、第52代・嵯峨天皇より皇女・潔姫(きよひめ)を降嫁される。826年、蔵人、中判事(ちゅうはんじ)、大学頭などを経て、第52代・仁明天皇の即位に伴い蔵人頭、834年、参議になる。835年、中納言、839年、陸奥出羽按察使に進む。842年、嵯峨上皇の死を契機にした承和の変で、伴・橘両氏の勢力を削ぐ。皇太子・恒貞親王を廃し、妹・順子の産んだ道康親王(第55代・文徳天皇)の立太子に成功し、自らは大納言に進む。848年、右大臣兼皇太子傅(ふ)になる。850年、仁明天皇が没し、文徳天皇が即位し外戚になる。第1皇子・惟喬親王を抑え、天皇と娘・明子(あきらけいこ)が産んだ第4皇子・惟仁親王(第56代・清和天皇)を生後8カ月で皇太子にした。854年、左大臣・源常(ときわ)の没後、右大臣のまま廟堂の首班の地位を占めた。857年、左大臣を経ずに人臣で初の太政大臣、従一位になる。858年、文徳天皇が没し、9歳の清和天皇が即位し、良房は太政大臣になる。866年、応天門の炎上事件に乗じ、伴善男を失脚させ、自らは正式に摂政になった。871年、准三后になる。872年、東一条第(平安左京一条三坊)で没した。『貞観格式』『続日本後紀』の編纂に参画した。69歳。
 正一位・忠仁公が贈られた。嵯峨天皇の信任を得た父の後を継ぎ、藤原北家の権力基盤を作る。妹・順子の入内、兄・長良の子の基経を養子とし、基経の妹・高子も清和天皇の女御として入内させた。良房の頃を「前期摂関政治」ともいう。邸宅の染殿(平安左京北辺四坊)は桜の名所として知られた。
 白河辺に葬られた。
◆重明親王 平安時代中期の皇族・重明親王(しげあきら-しんのう、906-954)。第60代・醍醐天皇の第4皇子。母は源昇の娘。908年、親王宣下、将保親王と称した。911年、重明と改名。921年、清涼殿で元服。928年、上野太守、930年、弾正尹、937年、弾正尹を辞官後、中務卿を歴任、943年、三品に叙され、後、式部卿に任ぜられた。太政大臣・藤原忠平の娘・寛子と結婚、945年、寛子没後、948年、寛子の姪・登子を後妻とした。長女・徽子女王(後に退下し、第62代・村上天皇に入内)、次女・悦子女王も斎宮に卜定。第61代・朱雀天皇、村上天皇の治世を補佐した。
 学識、楽才にも優れた。日記『吏部王記』を著す。49歳。
◆藤原兼家 平安時代中期の公卿・藤原兼家(ふじわら-の-かねいえ、929-990)。法興院(入道)、東三条殿、法号は如実。藤原師輔の3男。母は武蔵守藤原経邦の娘・盛子。同母弟に道兼、子に道長。968年、兄・兼通を超えて従三位、蔵人頭になり、969年、参議を経ずに中納言になる。左大臣・源高明が失脚した安和の変が起きた。970年、右大将、972年、大納言になる。長兄・伊尹(これただ)の没後、兄・兼通は内大臣関白になり、兼家は右大将のままだった。977年、兼通は臨終にあたり従兄・頼忠を関白とし、兼家を治部卿に左遷した。978年、兼家は、頼忠の恩恵により右大臣に任じられた。986年、第64代・円融天皇の女御・詮子(せんし)(兼家の娘)の子・懐仁親王(第66代・一条天皇)を帝位に就けるため、第65代・花山天皇の譲位を画策した。外孫である一条天皇の即位により頼忠は太政大臣、兼家は右大臣摂政になる。兼家は右大臣を辞し、三公之上に列せられ摂政のみになる。摂政が初めて独立し強い権威を持つ。東宮には娘・超子が産んだ第63代・冷泉天皇皇子の居貞親王(第67代・三条天皇)がなった。989年、頼忠の死後、兼家は太政大臣、990年、関白になる。病のために出家し、関白を子・道隆に譲る。その後、亡くなる。62歳。
 従一位。一条天皇即位の後、外祖父として摂政、関白太政大臣になり権力を振るう。以後、摂関はその子孫に限られた。9人の妻がおり、道長らの母・時姫、『蜻蛉日記』を著した道綱の母などがいる。豪邸の東三条第、二条京極第を営んだ。
 墓は宇治陵(宇治市)に包括されている。
◆東三条院
 平安時代中期-後期の女御・東三条院(ひがしさんじょういん、962-1001)。藤原詮子(せんし/あきこ)。太政大臣・藤原兼家の娘。母は藤原時姫。幼少期を東三条殿で過ごす。978年、第64代・円融天皇の女御となり、980年、従四位下に叙せられる。東三条邸で懐仁親王(のち第66代・一条天皇)を産む。だが、関白・藤原頼忠の娘・遵子に后の座を奪われ、父・兼家と共に里邸の東三条邸に篭り、天皇の召還にも応じなかった。986年、一条天皇即位により、皇太后の宣下を受けた。991年、円融法皇が没し出家。皇太后宮職を廃止し、太上天皇に準じ女院号の最初「東三条院」を授けられる。1001年、四十賀(よそじのが、40歳になった祝い)が行われた。別当・藤原行成(ゆきなり)の邸で亡くなる。宇治陵に葬られた。40歳。
◆一条天皇 平安時代中期-後期の第66代・一条天皇(いちじょう-てんのう、980-1011)。第64代・円融天皇の第1皇子。母は藤原兼家の娘・東三条院詮子(せんし)。984年、従兄・花山天皇の皇太子となり、詮子の父・兼家らの謀により、第65代・花山天皇が内裏を抜け出家したため、986年、7歳で即位。(寛和の変)。兼家が摂政となり執政し、その死後は子・道隆、その弟・道兼が摂関となる。後、その弟・藤原道長が内覧の関白となり権勢を振るう。1000年、中宮に道隆の娘・定子がいたが、道長は皇后とし、道長の娘・彰子(しょうし)を入れて中宮とし、「一帝二后」という前例のない事態となる。彰子は、第68代・後一条天皇、第69代・後朱雀天皇を産む。天皇は、1011年、病により退位、出家した。
 文芸、音楽に秀で笛を能くした。宮廷女性文学の最盛期にあり、紫式部、清少納言らの女房が後宮で活躍した。陵墓は円融寺北陵。32歳。
◆三条天皇
 平安時代中期-後期の第67代・三条天皇(さんじょう-てんのう、976-1017)。第63代・冷泉天皇の第2皇子。母は藤原兼家の娘・超子(ちょうし)。986年、従弟・第66代・一条天皇即位に際し、兼家の後押しで11歳で東宮となる。1011年、即位。1012年、伯父・藤原道長と対立し、道長の娘・御妍子(けんし)の立后に引き続き、天皇は女御・娍子(じょうし、藤原済時の娘)を道長の意に反して立后させた。道長らは参内せず、立后の儀を妨害した。道長は外孫・敦成親王(後の第68代・後一条天皇)の即位実現をのぞみ譲位を迫る。天皇は皇女・禎子(ていし)内親王を道長の子・頼通に降嫁させようとしたが、眼疾などの病も重なり、止む無く、1016年、道長の枇杷殿で譲位した。1017年、死去、船岡山で火葬にされ、北山に埋納される。陵墓は北山陵。42歳。
◆藤原道長 平安時代中期-後期の公卿・藤原道長(ふじわら-の-みちなが、966-1028)。御堂殿、法成寺殿。藤原氏北家の関白・太政大臣・藤原兼家の5男、母は藤原中正の娘・時姫。幼少期を東三条殿で過ごした。986年、父・兼家が第66代・一条天皇の摂政になり、987年、従四位から従三位になる。左大臣・源雅信(宇多源氏)の娘・倫子(正妻)と結婚する。988年、左大臣・源高明(醍醐源氏)の娘・明子(本妻)と結婚した。991年、権大納言に任じられる。995年、兄の関白道隆・道兼が相次ぎ疫病により没し、道隆の子・内大臣・伊周(これちか)と後継争いをする。姉・詮子(東三条院)の支援により内覧、右大臣、氏長者になり政権の首座に就く。996年、伊周の失脚により左大臣に昇る。1000年、長女・彰子が一条天皇の中宮として後宮に入り、一帝二后の制を始めた。1005年、祖先供養のために、宇治木幡に法華三昧堂(木幡寺、浄妙寺)を建てる。1012年、二女・妍子(よしこ)を第67代・三条天皇の中宮とした。1016年、彰子が産んだ外孫・敦成親王(第68代・後一条天皇)の即位に際し、道長は1年ほど摂政に就く。1017年、摂政を嫡子・頼通に譲り、実権は握り続ける。従一位、太政大臣になる。皇太子・敦明親王(三条天皇第1皇子)の辞退を図り、彰子の産んだ敦良親王(第69代・後朱雀天皇)を皇太弟とした。1018年、太政大臣を辞した。娘・威子が後一条天皇の中宮、その同母妹・嬉子が皇太弟(後朱雀天皇)の妃になる。道長は「望月の歌」「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」(『小右記』)と詠む。1019年、院源を戒師とし出家し、行観(すぐに行覚に改め)と称した。1020年、篤く仏教に帰依し、土御門殿の東に阿弥陀堂(無量寿院)に始まる法成寺(御堂)を造営した。1025年、娘・嬉子が親仁親王(第70代・後冷泉天皇)を産んで亡くなり、1027年、娘・妍子(三条天皇中宮)も相次いで亡くなる。この頃、道長は背中にできた癰(よう)に苦しむ。1028年、最期は、法成寺の九体阿弥陀堂に病床を移し、顔を西方浄土に向けて亡くなる。23年にわたって日記をつけ、後に『御堂関白記』と名付けられた。62歳。
 政治家としての優れた政策はなく、関白には就任していない。娘4人の彰子(一条天皇中宮)、妍子(三条天皇皇后)、威子(後一条天皇皇后)、嬉子(後朱雀天皇妃)、盛子を入内させた。3天皇の外戚になり、「一家に三后」を成し、藤原氏全盛の摂関を築く。詩、歌に優れ、漢詩は『本朝麗藻』、和歌は『後拾遺集』以下の勅撰集に採られる。中宮・彰子の側近に才媛の女房を集めた。紫式部を後援し、『源氏物語』にも関心を持つ。道長については『大鏡』、『栄花物語』に記されている。平安京内の数カ所に土御門殿など豪邸を構えた。
 遺骸は愛宕郡の鳥倍野で荼毘に付され、骨灰は宇治木幡の墓地に埋納された。現在は宇治陵(宇治市)に包括されている。
◆後朱雀天皇 平安時代後期の第69代・後朱雀天皇(ごすざく-てんのう、1009-1045)。第66代・一条天皇の第3皇子、母は太皇太后彰子(上東門院、藤原道長の女)。1017年、外祖父・藤原道長が三条院の皇子・敦明親王の東宮を退任に追い、9歳で同母兄・第68代・後一条天皇の皇太弟となる。1036年、即位。1037年、第67代・三条天皇皇女・禎子内親王(母は道長娘・妍子)を皇后とした。関白頼通の養女・嫄子(げんし/もとこ、一条天皇皇子・敦康親王の娘)を皇后とした。1045年、病により親仁親王(第70代・後冷泉天皇)に譲位。墓は円乗寺陵。37歳。 
◆藤原頼長 平安時代後期の公卿・藤原頼長(ふじわら-の-よりなが、1120-1156)。宇治左大臣、悪左府(あくさふ)。父は藤原忠実、母は藤原盛実の娘。異母兄・忠通は後継者に恵まれず、1125年、頼長を養子とした。1130年、元服して正五位下に叙せられ侍従・近衛少将・伊予権守に任官される。右近衛権中将。1131年、従三位。1132年、参議を経ずに権中納言に昇進した。1133年、徳大寺実能の娘・幸子を娶る。1134年、権大納言になる。姉・泰子(高陽院)が鳥羽上皇(第74代)の皇后に冊立され、皇后宮大夫を兼ねる。1136年、内大臣、右近衛大将を兼ねた。1139年、東宮傅、左近衛大将を兼任する。1143年、忠通に実子・基実が生まれた。1149年、左大臣に進む。1150年、第76代・近衛天皇に頼長の養女・多子が入内し女御になる。忠実・頼長と忠通の親子対立になる。父・忠実は摂関家の正邸・東三条殿などを接収、氏長者を剥奪し頼長に与え、忠通を義絶した。頼長は氏長者になり、1151年、内覧の宣旨を受けて執政の権を握った。1155年、近衛天皇の没後、天皇の死は忠実・頼長による呪詛とされ、頼長は内覧を停止された。1156年、鳥羽法皇没後、保元の乱になる。蔵人・高階俊成と源義朝の兵が東三条殿に乱入した。頼長は、第77代・後白河天皇の践祚により皇子の践祚の望みを絶たれた崇徳上皇と結ぶ。白河北殿は上皇方の拠点になる。白河北殿は炎上し、後白河天皇方の勝利に終わった。頼長は騎馬で御所から脱出する。矢により負傷、逃亡先の奈良坂で敗死した。37歳。
 「日本第一の大学生(だいがくしょう)、和漢の才に富む」(『愚管抄』)と評された。日記『台記(たいき)』がある。
 頼長の死後、子らは配流となる。1177年、朝廷は、崇徳上皇の怨霊を畏れ追号を「崇徳院」に改め、頼長には正一位・太政大臣が追贈された。
◆藤原忠通 平安時代中期-後期の公卿・藤原忠通(ふじわら-の-ただみち、1097-1164)。父は関白・藤原忠実、母は右大臣・源顕房の娘・師子の子。1107年、元服し、1110年、従三位、1115年、内大臣になる。1120年、父・忠実が蟄居になり、1121年-1158年、関白・氏長者になる。第74代・鳥羽、第75代・崇徳、第76代・近衛、第77代・後白河天皇に摂政・関白として務めた。左大臣・太政大臣を経て従一位に至る。1129年、白河法皇の没後、鳥羽院政により父・忠実が内覧として復帰し対立した。1150年、父より義絶され、氏長者は異母弟の頼長に奪われた。頼長は養女・藤原多子を近衛天皇の後宮に入れ、忠通は対抗し、藤原伊通の娘・呈子(九条院)を養女として後宮に入れた。1155年、近衛天皇の没後、鳥羽上皇に後白河天皇の即位を助言した。1156年、保元の乱の一因になる。崇徳上皇方に付き、敗れた父の所領を相続、父の流罪を防いだ。1158年、摂関職を子・基実に譲り、1162年、出家した。
  法性寺関白と称された。和歌、漢詩に優れ、能書家であり法性寺流と称された。子孫は近衛家、九条家に分かれ、五摂家となる。68歳。
◆近衛天皇
 平安時代後期の第76代・近衛天皇(このえ-てんのう、1139-1155)。第74代・鳥羽天皇の第9皇子、母は藤原長実の娘・美福門院得子。父・鳥羽上皇は、白河法皇(第72代)により即位させられた第75代・崇徳天皇を排除した。生後3カ月で立太子さられ、1141年、践祚、3歳で近衛天皇は即位した。以後、鳥羽法皇が専制した。近衛天皇が12歳で元服すると、藤原忠通・頼長兄弟は対立、頼長の養子・多子が皇后に、忠通の養女呈子が中宮に各々擁立される。1155年、天皇が17歳で亡くなる。崇徳上皇、藤原忠実・頼長父子らの呪詛と噂された。17歳。
 この摂関家の対立は、1156年保元の乱の遠因になる。墓は安楽寿院南陵。
◆平盛子 平安時代後期の女性・平盛子(たいら-の-もりこ、1156-1179)。白河殿、八条准后。父は平清盛、母は不詳。1163年、3歳の皇子(第80代・高倉天皇)を猶子とし、1164年、9歳で関白・藤原基実の妻になる。1166年、皇子立太子に伴い准三后、夫と死別する。盛子は、継子・基通(7歳)の養育名目で日本最大の摂関家領を伝領した。清盛は後見となり、荘園領横領と見られた。1167年、盛子は白河押小路殿に移り没した。24歳。
 没後、盛子領は後白河法皇(第77代)が没収したため、1179年、清盛は怒り法皇幽閉に繋がる。
◆東三条殿 平安時代、邸宅「東三条殿(ひがしさんじょうどの/とうさんじょうどの/とうさんじょうでん)」は、東三条院、東三条第、烏丸殿とも呼ばれた。
 平安京左京3条3坊1町、南北2町に建てられた。左京の三条(二条大路南側)にあり、この名で呼ばれた。現在の二条通、御池通、新町通、西洞院通に囲まれた東西130m、南北280mの細長い地域になる。
 平安京の貴族邸宅の一つであり、摂政・藤原良房に始まり、兼家の時に最大になった。建物は、寝殿造の代表的なものとされる。藤原氏代々の氏長者に伝わる。摂関家の邸宅として里内裏(第66代・一条天皇、第67代・三条天皇、第69代・後朱雀天皇、第76代・近衛天皇、第77代・後白河天皇)になり、立后、大饗などの儀式も行われた。第59代・宇多天皇、第63代・冷泉天皇の後院になる。1156年の保元の乱の舞台になり、後白河天皇側が接取し立て篭もった。
 西北隅に東三条院の鎮守社の角振(つのふり)社、隼(はやぶさ)社が祀られ、東隅に普賢堂が建てられていた。また、西には、閑院(南北2町)、堀河院(南北2町)などが営まれていた。
◆保元の乱 平安時代、1156年、京都で内乱の保元の乱(ほうげんのらん/ほげんのらん)が起こる。
 1086年の白河院(第72代)の院政開始により、朝廷は「治天の君(ちてんのきみ)」になる、院と天皇の二重権力が存在した。1129年に白河院没後、子・鳥羽上皇(第74代)が院政をしく。皇室内の皇位継承に関し、崇徳上皇(第75代)と第77代・後白河天皇が対立した。1156年鳥羽上皇没後、対立は顕在化し、崇徳上皇は摂関家の藤原頼長と結び、後白河天皇は藤原忠通と結ぶ。藤原両家には家督争いがあった。
 さらに源平の武士団が加わる。崇徳上皇側に源為義・平忠正の軍、後白河天皇側に源義朝・平清盛の軍が加わり戦乱になる。後白河天皇側は、崇徳上皇の白河北殿を夜襲した。崇徳上皇側が敗れ、崇徳上皇は讚岐に流される。頼長は宇治に逃れ戦傷死した。
 以後、武家政権の進出を促す。さらに、昇進した清盛と不遇の義朝の間の対立は、1159年の平治の乱になる。
◆伝承 東三条殿に式部卿の宮(重明親王、906-954)が住んでいた。背丈3尺(90㎝)ほどの五位の装束をした太った者が、庭の築山を時々行きかっていたという。宮は怪しみ、高名な陰陽師に依頼した。
 陰陽師はそれが物の怪であるとして、人に危害は与えないという。その霊は銅の精であり、屋敷東南隅の土中にいるという。宮が土を5-6寸(15-18㎝)掘らせると、果たして五斗(90ℓ)入り位の銅の提(ひさげ)が出てきた。
 以来、物の怪の姿は見られなくなったという。(『今昔物語』)


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 駒札、『京都市の地名』、『京都はじまり物語』、『京都大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『平安京を歩く』、京都市平安京創生館 、ウェブサイト「コトバンク」


関連・周辺  周辺堀河院・道元の堀河第  関連白河北殿跡  関連高陽院(かやのいん)跡   関連藤原氏栄域碑(宇治市)  関連宇治陵(宇治市)  関連歴代天皇データ    
 平安京オーバレイマップ  
東三条殿跡 〒604-0035 京都市中京区上松屋町,押小路通釜座西北角 
50音索引,Japanese alphabetical order  Home   50音索引,Japanese alphabetical order  Home  
    © 2006- Kyotofukoh,京都風光