藤原氏栄域碑 (京都府宇治市)  
Fujiwara clan monument
藤原氏栄域碑 藤原氏栄域碑
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藤原氏栄域碑



 宇治市の宇治陵1号陵(総遥拝所)のすぐ西側に、小さな「藤原氏栄域碑」が立てられている。
 宇治陵所内に散在して、平安時代前期-後期の8人の藤原氏出身者も葬られているという。
◆歴史年表 
詳細は不明。
 平安時代前期、826年、8月30日(旧暦7月24日)、藤原冬嗣が亡くなった。
 891年、2月24日(旧暦1月13日)、藤原基経が亡くなる。
 平安時代中期、909年、4月26日(旧暦4月4日)、藤原時平が亡くなった。
 990年、7月26日(旧暦7月2日)、藤原兼家が亡くなる。
 995年、5月12日(旧暦4月10日)、藤原道隆が亡くなる。
 平安時代後期、1028年、1月3日(旧暦12月4日)、藤原道長が亡くなった。
 1074年、3月2日(旧暦2月2日)、藤原頼通が亡くなった。
 1101年、3月14日(旧暦2月13日)、藤原師実が亡くなる。
 現代、1951年、8月、藤原後裔有志・篤志者により「藤原氏栄域碑」が立てられた。
◆藤原冬嗣 
奈良時代-平安時代前期の公卿・藤原冬嗣(ふじわら-の-ふゆつぐ、775-826)。通称は閑院大臣。北家・右大臣・藤原内麻呂の2男、母は飛鳥部奈止麻呂の娘/百済永継(くだら-の-えいけい)。806年、従五位下、第52代・嵯峨天皇の信任篤く、810年、平城太上天皇の変(薬子の変)を契機として、四位下で新設の初代・蔵人頭(くろうどのとう)に任じられる。式部大輔を経て、811年、参議になった。814年、従三位、自邸の閑院(平安左京三条二坊)に嵯峨天皇を迎え詩宴を催している。816年、権中納言、819年、正三位、大納言、821年、右大臣、825年、正二位で左大臣になった。「弘仁格式(きゃくしき)」「内裏式」を撰進し、漢詩は『文華秀麗集』、詩は『凌雲集』などに入る。52歳。
 没後に正一位、太政大臣を追贈された。嵯峨天皇、第53代・淳和天皇の信を得た。娘・順子は第54代・仁明天皇の妃になり、道康親王(第55代・文徳天皇)を産む。次男・良房は嵯峨天皇皇女・潔姫(きよひめ)を妻に迎え、皇室との関係を深めた。藤原氏による摂関政治、北家繁栄の基礎を築く。一族子弟のための勧学院、施薬院、氏寺・興福寺に南円堂を建てた。
 墓は宇治陵(宇治市)に包括されている。同域内の夫婦塚(赤塚)は冬嗣、妻・藤原美都子の夫婦墓ともいう。
藤原基経 平安時代前期の公卿・廷臣・藤原基経(ふじわら-の-もとつね、836-891)。幼名は手古、諡号は昭宣公、通称は堀河太政大臣。京都の生まれ。藤原長良の3男、母は第58代・光孝天皇の外祖父・藤原総継の娘・乙春(おとはる)。叔父・藤原良房の養子になり、氏長者になった。851年、第55代・文徳天皇から加冠されて元服した。852年、蔵人、その後、左兵衛少尉、侍従、左兵衛佐、少納言を歴任した。858年、蔵人頭、播磨介、左近衛中将などを経て、864年、参議になる。866年、応天門の変で、父・良房と大伴氏、紀氏を排し、藤原氏政権の基礎を築く。従三位、中納言になる。868年、左大将、869年、按察使、870年、大納言、872年、正三位右大臣になった。876年、妹・高子が産んだ第57代・陽成天皇の践祚とともに摂政になる。880年、太政大臣に任じられた。事実上の人臣(臣下)最初の関白になる。883年頃から、陽成天皇と不和になり出仕せず、884年、時康親王を立て第58代・光孝天皇とした。事実上最初の関白になる。885年、光孝天皇に献進した「年中行事障子」は以後、宮廷行事の規範になった。887年、陽成天皇の没後、基経の意思により第59代・宇多天皇が嗣立される。基経は関白に任じた勅書に対し不満を持つ。橘広相の作成文に「阿衡(あこう)の任」とあり、古代中国の単なる名誉職の官名として、政務を怠業した。関白の権威を天皇に認めさせ、譲歩させて勅書を改めさせた。(「阿衡事件」)。888年、娘・温子が入内し、以後、天皇家に対する藤原氏の発言力が確立した。890年、病により関白を辞した。准三宮になる。56歳。
 死後、越前国に封じられ、昭宣公の諡号を賜わる。藤原北家による摂関政治を確立した。菅原道真らと親交した。撰修『日本文徳天皇実録』。邸宅の堀河院、閑院(かんいん)を所有した。第54代・仁明天皇の笙の師だった。
 墓は宇治陵(宇治市)に包括されている。
◆藤原時平 平安時代前期-中期の公卿・藤原時平(ふじわら-の-ときひら/しへい、871-909)。通称は本院大臣、中御門左大臣。太政大臣・藤原基経の長男、母は人康親王(第54代・仁明皇子)の娘。父の威光により、第58代・光孝天皇に重用された。886年、元服に際し光孝天皇自ら加冠役を務めた。正五位下。887年、従四位下、左近衛中将、蔵人頭になる。890年、従三位、891年、基経が没し参議になる。第59代・宇多天皇は、藤原氏の専権抑制のために菅原道真を抜擢した。892年、権中納言、897年、大納言、左大将、氏長者になる。第60代・醍醐天皇下で、899年、左大臣になり、「延喜の治」を推進した。右大臣に任じられた道真を排斥し、901年、道真を讒言(ざんげん、告げ口)により大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷する。902年、最初の荘園整理令など、律令制の再編強化のために諸法令を出し「延喜の治」を推進した。その後、政治的に失墜し、急逝した。著『時平草子』『外記蕃記(げきばんき)』など。39歳。
 没後、正一位、太政大臣を追贈された。国史の編纂として『日本三代実録』『延喜式(えんぎしき)』の撰修に関与した。その死は道真怨霊の祟りとされ、子孫も転落し消滅した。
 墓は宇治陵(宇治市)に包括されている。宇治陵35号陵は「時平塚」ともいう。
◆藤原兼家 平安時代中期の公卿・藤原兼家(ふじわら-の-かねいえ、929-990)。法興院(入道)、東三条殿、法号は如実。藤原師輔の3男。母は武蔵守藤原経邦の娘・盛子。同母弟に道兼、子に道長。968年、兄・兼通を超えて従三位、蔵人頭になり、969年、参議を経ずに中納言になる。左大臣・源高明が失脚した安和の変が起きた。970年、右大将、972年、大納言になる。長兄・伊尹(これただ)の没後、兄・兼通は内大臣関白になり、兼家は右大将のままだった。977年、兼通は臨終にあたり従兄・頼忠を関白とし、兼家を治部卿に左遷した。978年、兼家は、頼忠の恩恵により右大臣に任じられた。986年、第64代・円融天皇の女御・詮子(せんし)(兼家の娘)の子・懐仁親王(第66代・一条天皇)を帝位に就けるため、第65代・花山天皇の譲位を画策した。外孫である一条天皇の即位により頼忠は太政大臣、兼家は右大臣摂政になる。兼家は右大臣を辞し、三公之上に列せられ摂政のみになる。摂政が初めて独立し強い権威を持つ。東宮には娘・超子が産んだ第63代・冷泉天皇皇子の居貞親王(第67代・三条天皇)がなった。989年、頼忠の死後、兼家は太政大臣、990年、関白になる。病のために出家し、関白を子・道隆に譲る。その後、亡くなる。62歳。
 従一位。一条天皇即位の後、外祖父として摂政、関白太政大臣になり権力を振るう。以後、摂関はその子孫に限られた。9人の妻がおり、道長らの母・時姫、『蜻蛉日記』を著した道綱の母などがいる。豪邸の東三条第、二条京極第を営んだ。
 墓は宇治陵(宇治市)に包括されている。
◆藤原道隆 平安時代中期の公卿・藤原道隆(ふじわら-の-みちたか、953-995)。中関白、町尻殿。摂関・藤原兼家の嫡男、母は藤原中正の娘・時姫。984年、兼家の外孫皇子が皇太子に立ち、従三位に昇り春宮権大夫に任じられた。986年、父・兼家が摂政になり、道隆は非参議、権中納言、権大納言と異例の昇進を遂げた。989年、内大臣になる。990年、内大臣のまま父から関白を譲られ氏長者になった。父没後、第66代・一条天皇に入内した娘・定子は中宮になる。991年、弟・道兼に内大臣を譲る。993年、道隆は摂政を辞し、再び関白になった。中関白家の全盛になる。995年、次女・原子は、東宮の居貞親王(第67代・三条天皇)に入る。道隆は病により政務を嫡子・伊周(これちか)に委任し、関白職の後継者にする意思を示した。道隆は関白を辞し、氏長者の地位を道兼に譲った。43歳。
 正二位。道隆の死後、関白の地位はその遺志に反し弟・道兼に移る。以後、中関白家の失墜につながる。父が建てた法興院内に積善寺を創建した。道隆については、『大鏡』『枕草子』に記されている。
 墓は宇治陵(宇治市)に包括されている。
◆藤原道長 平安時代中期-後期の公卿・藤原道長(ふじわら-の-みちなが、966-1028)。御堂殿、法成寺殿。藤原氏北家の関白・太政大臣・藤原兼家の5男、母は藤原中正の娘・時姫。幼少期を東三条殿で過ごした。986年、父・兼家が第66代・一条天皇の摂政になり、987年、従四位から従三位になる。左大臣・源雅信(宇多源氏)の娘・倫子(正妻)と結婚する。988年、左大臣・源高明(醍醐源氏)の娘・明子(本妻)と結婚した。991年、権大納言に任じられる。995年、兄の関白道隆・道兼が相次ぎ疫病により没し、道隆の子・内大臣・伊周(これちか)と後継争いをする。姉・詮子(東三条院)の支援により内覧、右大臣、氏長者になり政権の首座に就く。996年、伊周の失脚により左大臣に昇る。1000年、長女・彰子が一条天皇の中宮として後宮に入り、一帝二后の制を始めた。1005年、祖先供養のために、宇治木幡に法華三昧堂(木幡寺、浄妙寺)を建てる。1012年、二女・妍子(よしこ)を第67代・三条天皇の中宮とした。1016年、彰子が産んだ外孫・敦成親王(第68代・後一条天皇)の即位に際し、道長は1年ほど摂政に就く。1017年、摂政を嫡子・頼通に譲り、実権は握り続ける。従一位、太政大臣になる。皇太子・敦明親王(三条天皇第1皇子)の辞退を図り、彰子の産んだ敦良親王(第69代・後朱雀天皇)を皇太弟とした。1018年、太政大臣を辞した。娘・威子が後一条天皇の中宮、その同母妹・嬉子が皇太弟(後朱雀天皇)の妃になる。道長は「望月の歌」「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」(『小右記』)と詠む。1019年、院源を戒師とし出家し、行観(すぐに行覚に改め)と称した。1020年、篤く仏教に帰依し、土御門殿の東に阿弥陀堂(無量寿院)に始まる法成寺(御堂)を造営した。1025年、娘・嬉子が親仁親王(第70代・後冷泉天皇)を産んで亡くなり、1027年、娘・妍子(三条天皇中宮)も相次いで亡くなる。この頃、道長は背中にできた癰(よう)に苦しむ。1028年、最期は、法成寺の九体阿弥陀堂に病床を移し、顔を西方浄土に向けて亡くなる。23年にわたって日記をつけ、後に『御堂関白記』と名付けられた。62歳。
 政治家としての優れた政策はなく、関白には就任していない。娘4人の彰子(一条天皇中宮)、妍子(三条天皇皇后)、威子(後一条天皇皇后)、嬉子(後朱雀天皇妃)、盛子を入内させた。3天皇の外戚になり、「一家に三后」を成し、藤原氏全盛の摂関を築く。詩、歌に優れ、漢詩は『本朝麗藻』、和歌は『後拾遺集』以下の勅撰集に採られる。中宮・彰子の側近に才媛の女房を集めた。紫式部を後援し、『源氏物語』にも関心を持つ。道長については『大鏡』、『栄花物語』に記されている。平安京内の数カ所に土御門殿など豪邸を構えた。
 遺骸は愛宕郡の鳥倍野で荼毘に付され、骨灰は宇治木幡の墓地に埋納された。現在は宇治陵(宇治市)に包括されている。
◆藤原頼通 平安時代中期-後期の公卿・藤原頼通(ふじわら-の-よりみち、992-1074)。幼名は田鶴(たづ)君、宇治殿、宇治の関白、宇治大相国、法名は蓮花覚、寂覚。京都生まれ。藤原道長の長男、母は左大臣・源雅信の娘・倫子(りんし)。13歳で春日祭使に選ばれた。1003年、正五位下、侍従、右近衛少将、1006年、従三位に昇る。1009年、権中納言、1013年、権大納言、1014年、左近衛大将、1015年、左大将になった。1017年、内大臣に任じられ、父・道長が第68代・後一条天皇の摂政を辞し、後を譲り受けた。氏長者になる。1019年、関白、1021年、従一位に叙せられ、左大臣になる。居邸の高陽院を造営した。1037年、養女・嫄子(げんし)が第69代・後朱雀天皇に入内する。1051年、具平(ともひら)親王の娘との間に生まれた寛子(かんし)が第70代・後冷泉天皇の皇后になる。1052年、道長の宇治の別荘を寺院に改め平等院と名付けた。1061年、太政大臣になり、1062年、辞した。1067年、第70代・後冷泉天皇の行幸を平等院迎え、准三宮になる。1068年、藤原氏を外戚としない第71代・後三条天皇の践祚を目前に、嫡子・師実に関白職を譲ることを条件に弟・教道に関白を譲り、平等院に隠棲する。だが、頼通の生前に実現しなかった。1072年、出家し、蓮華覚、のち寂覚と称した。83歳。
 外戚になった道長の権勢下で後一条・後朱雀・後冷泉3代の天皇の半世紀に及ぶ摂政・関白になる。入内した娘らに皇子がなく、天皇外祖父として権勢を振るえなかった。荘園・高陽院を経営した。歌壇を後援した。
 墓は宇治陵(宇治市)に包括されている。
◆藤原師実 平安時代後期の公卿・藤原師実(ふじわら-の-もろざね、1042-1101)。京極殿、後宇治殿、法名は法覚。摂政・頼通の3男/6男、母は因幡守・藤原種成(たねしげ)の娘・祇子(きし)。1053年、元服し、1055年、従三位になる。1069年、左大臣、1071年、妻・源麗子(村上源氏)の姪・賢子(師房孫、顕房の子)を養女として、東宮(第72代・白河天皇)妃に入れる。1075年、叔父・教通(のりみち)の死により内覧、氏長者、関白になった。1086年、養女・賢子の産んだ善仁親王(第73代・堀河天皇)の即位により摂政になる。1088年、太政大臣になる。1089年、太政大臣を辞任し、1090年、摂政から関白になった。1094年、長男・師通(もろみち)に関白を譲り、京極殿、宇治別荘に住む。以後も政務に影響力を持ち続けた。1101年、病気により宇治の別荘で出家し没した。日記『京極関白記』、家集『京極前関白集』など。60歳。
 従一位。摂関の時、白河天皇の勢力拡大に抵抗せず、院政成立の一要因になる。仏教の信仰篤く、有職故実、詩歌、音楽、書に優れる。
◆藤原氏栄域碑 「藤原氏栄域碑」は、宇治陵1号陵(総遥拝所)のすぐ西側に立てられている。
 碑の表に、平安時代前期-後期の藤原氏出身の8人の名が連記されている。「閑院贈太政大臣冬嗣 昭宣公関白基経 本院贈太政大臣時平 法興院摂政兼家 南院関白道隆 法成寺関白道長 宇治関白頼通 後宇治関白師實」とある。
 宇治陵陵所内には藤原氏北家関係者の火葬墓が散在している。各々埋葬者がどの陵所になるかについては特定されていない。
 碑の裏面に、平安時代「伝寛弘2年(1005年)造立浄妙寺堂桂礎石 木幡区供与石塔婆共」とある。1951年8月に、藤原後裔有志・篤志者により立てられた。賛助として宇治市有志者、平等院、京阪電鉄・京阪自動車京阪宇治交通(株)の名がある。
 藤原冬嗣(775-826)について、同域内にある「夫婦塚(赤塚)」が冬嗣、妻・藤原美都子の墓ともいう。ほかに、藤原基経(836-891)は宇治陵36号陵?が墓ともいう。藤原時平(871-909)は宇治陵35号陵?ともいう。「時平塚」と呼ばれている。藤原兼家(929-990)、藤原道隆(953-995)、藤原道長(966-1027)は宇治陵32号陵?ともいう。ほかに、藤原頼通(992-1074)、藤原師実(1042-1101)らになる。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 碑文、『京都府の地名』、『昭和京都名所図会 7 南山城』、『京都事典』、ウェブサイト「コトバンク」

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