堀河天皇 後圓教寺陵 (京都市右京区)  
Imperial mausoleum of Empeor Horikawa
堀河天皇 後圓教寺陵 堀河天皇 後圓教寺陵
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 龍安寺の北東の朱山に、後圓教寺陵(のち の えんきょうじ の みささぎ)がある。
 平安時代後期の第73代・堀河天皇(ほりかわ てんのう)が葬られている。同域に、第66代・一条天皇陵もある。龍安寺(竜安寺)朱山七陵の一つに数えられる。
◆歴史年表
 平安時代、1107年7月19日(新暦8月9日)、堀河天皇は堀河院で亡くなった。7月24日、香隆寺(こうりゅうじ)の坤(ひつじさる、南西)の野の山作所(さんさくしょ)で火葬にされた。収骨され、遺骨は、香隆寺の僧坊に安置された。(『帝王編年記』)。
 1113年、3月22日、遺骨は、仁和寺の円融院に遷された。(『百錬抄』)。三重石塔が立てられたという。仁和寺域の朱山に遷されたともいう。(『長秋記』)
 1149年、12月25日条、塚の地は「後円教寺」とある。(『本朝世紀』)
 その後、陵の所在地は不明になる。  江戸時代、元禄年間(1688-1704)、陵所は不明になる。
 1862年-1863年、文久の修陵に際して、一条天皇陵とともに、現在地が堀河天皇陵として修陵された。
 1864年、堀河天皇陵、一条天皇陵に各々拝所が設けられた。
 近代、1912年、2陵共用の拝所に変えられた。
◆堀河天皇 平安時代後期の第73代・堀河天皇(ほりかわ てんのう、1079-1107)。善仁(たるひと)。第72代・白河天皇の第2皇子。母は関白・藤原師実の養女・贈皇太后・賢子(けんし)。1085年、第71代・後三条天皇の遺子・皇太子・実仁(さねひと)親王が病死した。白河天皇は、後三条天皇の第3皇子・輔仁(すけひと)親王を差置き、1086年、8歳の善仁親王を立太子と同時に即日譲位した。外祖父で関白・師実が摂政になる。白河上皇が院政を敷き、院政の始まりといわれる。以後、17年間は東宮も置かれなかった。1087年、後三年の役が終了している。1089年、元服した。1099年、康和の荘園停止令により、新立の荘園が停止される。1105年以降、病がちになる。1107年、堀河院で亡くなる。
 関白・藤原師通、藤原通俊、大江匡房らが補佐し、僧徒の蜂起を制止した。政務は「末代の賢王」(『続古事談』)と称賛された。19歳年上の中宮・篤子内親王(後三条天皇皇女、堀河天皇の叔母)の影響もあり和歌を好み、歌人・源国信、藤原俊忠、源俊頼らにより堀河院歌壇を形成した。『堀河院艶書合』『堀河院百首』などが催された。勅撰集『金葉集』に収められた。笙、笛、神楽にも優れた。典侍・藤原長子の『讃岐典侍日記』は、天皇の死に至るまでの1カ月を回想している。29歳。
 陵墓は後圓教寺陵(右京区)になる。火葬塚(北区)がある。
◆香隆寺 葬送菩提の寺だった香隆寺(こうりゅうじ)の詳細は分かっていない。
 現在の等持院(北区)の北にあり、真言宗の寺院だった。空海弟子・教日の創建ともいう。平安時代、天暦年間(947-957)、寛空(884- 972)が宇多法皇(第59代)の勅願時として再興したという。仁和寺に属したとみられている。当寺で、第73代・堀河天皇(1079 -1107)の火葬が行われ、遺骨が仮安置された。平安時代には、付近一帯は皇室の荼毘所になっている。中世(鎌倉時代-室町時代)に廃絶したという。その後、寛空が兼帯していた上品蓮台寺(北区)に合併されたという。
 また、平安時代、貞観年間(859-877)、常住寺の十禅師伝灯法師延庭が、北山に興隆寺(こうりゅうじ)を創建した。この興隆寺とは、香隆寺の旧号ともいう。
◆龍安寺朱山七陵 龍安寺(竜安寺)朱山七陵は、龍安寺七陵ともいう。龍安寺の北、北東にある朱山(しゅやま)に点在する天皇陵、皇后陵、近くの火葬所をいう。
 後三条天皇陵、後冷泉天皇陵、後朱雀天皇陵、禎子内親王陵、一条天皇陵、堀河天皇陵、円融天皇火葬所になる。
◆陵墓 陵は朱山の山腹にあり、南面している。円墳(墳丘)は径20m、高さ4mある。三重石塔は立てられていない。周囲に土塁が築かれ、中央に隣接する一条天皇陵と共有の拝所が設けられている。
 平安時代、1107年7月19日(新暦8月9日)、堀河天皇は堀河院で亡くなる。香隆寺の坤(ひつじさる、南西)の野の山作所で火葬にされた。7月20日に拾骨され、当初は円融院内に埋葬予定になっていた。この地が3年間の凶方(きょうほう)とされたため、7月24日、遺骨は、香隆寺の僧坊に仮安置された。(『帝王編年記』)。また、同様に、当初は円融院山陵に遺骨安置しようとして方角を忌み、3年ほど香隆寺に安置されたという。(『中右記』)。火葬地は船岡山の辺りともいう。火葬塚が築かれ上に石卒塔婆が立てられた。1113年3月22日、遺骨は、香隆寺より仁和寺の円融院に遷された。(『百錬抄』)。埋葬され三重石塔が立てられたという。塔中に『法華経』、呪文・陀羅尼を納めた。同様に、仁和寺域の朱山に遷されたという。(『長秋記』)。1149年12月25日条に塚の地は「後円教寺(ごえんきょうじ)」とある。(『本朝世紀』)。その後、陵の所在地は不明になる。江戸時代、元禄年間(1688-1704)の諸陵探索でも陵所、火葬塚についても諸説があった。1862年-1863年、文久の修陵に際して、一条天皇陵とともに、現在地が堀河天皇陵として修陵された。火葬塚は四角塚(しかくづか、北区等持院東町)とされた。1864年、堀河天皇陵、一条天皇陵に各々拝所が設けられた。近代、1912年、2陵を中央にして、土塁を築き2陵共用の拝所に変えられている。


71 後三条天皇(在位 :1068-1072)→72 白河天皇 (在位 :1072-1086)→ 73 堀河天皇 (在位 :1086-1107) →74 鳥羽天皇 (在位 : 1107-1123)

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『検証 天皇陵』『天皇陵 謎解き完全ガイド』『歴代天皇125代総覧』『京都市の地名』『歴代天皇年号事典』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 堀河天皇 後圓教寺陵  〒616-8001 京都市右京区龍安寺御陵ノ下町13
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