白河殿跡・白河南殿(蓮華蔵院)跡・六勝寺跡 (京都市左京区) 
The ruins of Shirakawa-nanden・Rikusho-ji Temple
白河殿跡・白河南殿跡・六勝寺跡 白河殿跡・白河南殿跡・六勝寺跡 
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鴨東運河(琵琶湖疏水)、岡崎公園はかつての白河法皇による法勝寺跡


琵琶湖疏水付近にかつて白河南殿跡があったという。


延勝寺跡、疏水沿い二条橋南


「京都市勧業館みやこめっせ」の北西にある延勝寺跡碑


白河南殿跡碑、疏水沿い熊野橋西詰南


尊勝寺跡碑、京都会館


疏水沿い、得長寿院(とくじょうじゅいん)観音堂跡、徳成橋東詰南


動物園内、噴水池東にある「法勝寺九重塔跡」の碑


市立動物園内、噴水池にある転用された法勝寺塔の石材の一部。現在は、花崗岩の布石の一部とみられる石が、池の石橋として使われている。


動物園北にある「此附近 白河院址」の碑(日本私立学校振興・共済事業団)


法勝寺金堂基壇跡(京都市動物園北側)、平安時代後期、高さ2m、長さは55mある。基壇は砂土、粘土を版築している。この基壇上に、金堂(東西51m、南北25m)が建てられていた。


白河南殿跡、ファルコバイオシステムズ前、
白河南殿(白河泉殿)、石は雨落溝に使われていた自然石の一部という



【参照】六勝寺、法勝寺復元図、法勝寺は右端になる。南より南大門、八角九重塔、金堂、講堂、薬師堂、北大門が直線状に並んでいる。京都アスニー



【参照】法勝寺復元模型、京都アスニー



【参照】法勝寺の八角九重塔の復元模型、京都アスニー



塔の高さ比較。左端は法勝寺の八角九重塔(81m)、中央は現存する東寺の五重塔(56m)、右端は現存する醍醐寺の五重塔(42m)。京都アスニー


【参照】法勝寺跡の蓮華文軒丸瓦、京都アスニー



【参照】法勝寺の礎石という。大蓮寺(左京区)


【参照】東側からの俯瞰。中央の四角内が法勝寺の金堂基壇跡、道路を隔てて左に現在の京都市動物園がある。上部奥(道路の延長線上の小さな黄色い四角の塗りつぶし部分)に西大門があった。京都アスニー



【参照】北側からの俯瞰。手前の黄色い点線内が法勝寺の八角九重塔地業跡になる。中央上部に現在の京都市動物園の観覧車が見えている。京都アスニー
 平安時代、白河(しらかわ)は、平安京と東海道・東山道を結ぶ重要な地にあたっていた。白河(白川)、現在の岡崎付近は「京白河」と呼ばれ、別業(別荘)の建ち並ぶ地だった。東西、南北の地区割りがされおり、六勝寺(りくしょうじ/ろくしょうし)、白河殿(しらかわどの)などが建てられていた。
◆歴史年表 平安時代初期、白河は「天狗のすみか」と呼ばれていた。その後、貴族の別業などが建てられる。
 1074年、左大臣・藤原師実は白河の地を第72代・白河天皇に献上する。
 1075年、白河天皇は法勝寺の造営を始める。
 1077年、白河天皇の法勝寺(左京区岡崎法勝寺・南御所町など)が建立される。「国王の氏寺」と呼ばれた。金堂、講堂、五大堂、阿弥陀堂、法華堂、築地、門が造営される。12月、落慶供養が行われた。
 1083年、法勝寺の八角九重塔(80m以上)、薬師堂が建立される。供養が行われた。(『法勝寺供養記』)
 1185年、地震で九重塔以外の大半の建物が倒壊する。
 1095年頃、白河上皇の院御所の白河南殿(白河泉殿)が創建される。供養が行われた。
 1102年、第73代・堀河天皇(1079-1107)の尊勝寺(最勝寺町・岡崎西天王町)金堂などが建立される。供養が行われた。
 1118年、第74代・鳥羽天皇(1103-1156)の最勝寺(最勝寺町)金堂などが建立になる。供養が行われた。白河北殿(白河泉殿)が創建される。
 1126年、円勝寺三重塔(東塔)が供養される。
 1128年、待賢門院(1101-1145)の円勝寺(岡崎円勝寺町・岡崎成勝寺町)が建立された。
 1132年、鳥羽上皇の得長寿院が建立になる。
 1139年、第75代・崇徳天皇(1119-1164)の成勝寺(岡崎円勝寺町・岡崎成勝寺町)が建立になる。供養された。歓喜光院が創建される。
 1144年、白河北殿が焼失する。
 1149年、第76代・近衛天皇(1139-1155)の延勝寺(岡崎円勝寺町・岡崎成勝寺町)金堂などが建立された。供養が行われた。
 1156年、保元の乱により崇徳上皇の方の本拠になった白河北殿は焼失する。
 1163年、延勝寺の九体阿弥陀堂が建立される。
 1169年、八角九重塔に落雷がある。
 1178年、八角九重塔は大風により損壊する。
 1185年、大地震により、法勝寺の廻廊、鐘楼、阿弥陀堂、常行堂、中門、などが倒壊する。八角九重塔も損壊する。得長寿院が倒壊する。
 鎌倉時代、1208年、八角九重塔が落雷により焼失した。執行・法印・章玄は衝撃のあまり亡くなる。
 1213年、後鳥羽上皇により八角九重塔が再建される。栄西により修復供養が行われた。
 1268年、八角九重塔に落雷がある。
 南北朝時代、1342年、八角九重塔、法勝寺伽藍が焼失した。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で八角九重塔は完全に焼失する。
 16世紀(1501-1600)、法勝寺は廃寺になったという。1531年、放火により焼失したという。
 近代、1903年、かつての法勝寺の南半分に京都市動物園が開園した。
 現代、1955年、岡崎グランド(旧最勝寺境内)に置かれていたという鵺塚(ぬえづか)、秘塚(ひめづか)が発掘調査された。
 1959年、京都会館の建設に伴い発掘調査が行われた。
 1992年、鵺塚、秘塚が発掘調査された。その後、塚は削られ、遺物は仲恭天皇陵に埋納された。
 2010年、法勝寺八角九重塔の基壇跡(掘込地業の一部)が動物園内観覧車付近で確認された。
◆白河天皇 平安時代の第72代・白河天皇(しらかわ てんのう、1053-1129)。第71代・後三条天皇の第1皇子、母は中納言・藤原公成の娘・茂子。1072年、20歳で即位した。1075年、法勝寺の創建に着手する。父の遺言に背き、1086年、8歳の子・善仁(たるひと)親王(第73代・堀河天皇)に譲位後、自らは白河院として院政を敷いた。1087年、別業の鳥羽殿(南殿)を建立する。1107年、5歳の孫・第74代・鳥羽天皇を即位させ、1123年、曾孫・第75代・崇徳天皇を即位させ、3代にわたり43年間の強権的な執政を行う。院領荘園の主であり、天皇家・院宮家の頂点にあり「治天の君(ちてんのきみ)」といわれた。院御所は主に六条院とした。200カ所以上の倉を有し、1077年、六勝寺の初めである法勝寺、1095年頃、白河に白河殿を建立した。熊野参詣は9度行う。延暦寺衆徒の嗷訴(強訴)に苦慮し、源平の武士を登用しその台頭を促す。
 西三条殿内裏で亡くなる。衣笠山山麓で荼毘に付され、香隆寺に埋葬される。その後、1131年、成菩提院(成菩提院陵)に改葬された。
◆六勝寺 皇室の御願寺として、六つの大寺「六勝寺」(りくしょうじ/ろくしょうじ)が相次いで造営された。いずれの寺名にも、「勝」が用いられたことから六勝寺と総称される。境内の規模は、現在の岡崎公園を中心とする東西1.4㎞、南北0.7㎞に及ぶ。一帯は、院政期に、宗教施設であるとともに政庁、宮殿の役割も担う。
 六勝寺とは、平安時代、1077年の第72代・白河天皇(1053-1129)の「法勝寺(ほっしょうじ)」(左京区岡崎法勝寺・南御所町など)、1102年の第73代・堀河天皇(1079-1107)の尊勝寺(そんしょうじ)」(最勝寺町・岡崎西天王町、現在の京都会館付近)、1118年の第74代・鳥羽天皇(1103-1156)の「最勝寺(さいしょうじ)」(最勝寺町、現在の岡崎グラウンド付近)、1128年の待賢門院(1101-1145)の「円勝寺(えんしょうじ)」(岡崎円勝寺町・岡崎成勝寺町、現在の市立美術館付近)、1139年の第75代・崇徳天皇(1119-1164)の「成勝寺(せいしょうじ)」(岡崎円勝寺町・岡崎成勝寺町、二条通南の現在の府立図書館付近)、1149年の第76代・近衛天皇(1139-1155)の「延勝寺(えんしょうじ)」(岡崎円勝寺町・岡崎成勝寺町)をいう。
 白河の地は北から南、東から西に傾斜しており、東西に二条大路末という通りが通じていた。その東端に中心になる法勝寺が建ち、威容を誇る八角九重塔が建っていた。ほかの寺院は傾斜地に階段状に建てられていた。六勝寺では、金堂を中心に伽藍が建てられ、園地は法勝寺、円勝寺にだけ造られた。僧房は法勝寺のみに限られていた。
 造営費用は、受領、皇族、公卿、有力武士の寄進により、結果として受領の成功(じょうごう)、重任(ちょうにん)が常態化した。後に、武家の台頭につながる。
 ほかに、1132年に鳥羽上皇の「得長寿院」が建てられている。平忠盛寄進により、千体の聖観音が安置され、蓮華王院に匹敵したという。周辺にはほかにも多くの院御所、寺社が建ち並んでいた。
◆法勝寺 「法勝寺」は、平安時代、1077年に建立された。六勝寺の筆頭寺院であり、最も格式高く大規模であり、「国王の氏寺」と呼ばれた。境内に園地、僧房があり、国家的な仏教儀式が執り行われていた。
 南白河、現在の京都市動物園付近、二条通を挟んだ南北にあったとみられている。境内は南北480m、東西240mと広大で、二条通北側には金堂があった。現在も2mの基壇跡(東西56m、南北30m)の石垣が遺されている。
 もとは藤原氏の別邸があり、藤原師実(もろざね)により白河天皇に献上された。六勝寺のうちで最初に造営され、最も広大な寺域を持ち豪華な造りだった。播磨守・高階為家(1038-1106)が造営した。
 当初、金色三丈二尺の本尊・ 毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)・胎蔵界四仏を安置する金堂(7間4面、東西56m・南北30m)、金色釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩を安置する講堂、不動尊・四大尊安置の五大堂、金色丈六の阿弥陀如来九体安置の阿弥陀堂、法華経を納めた多宝塔安置の法華堂、八角九重塔、鐘楼、経蔵などが建ち並んだ。その後、薬師堂、常行堂、北斗曼荼羅堂、小塔院なども建てられた。伽藍配置としては、南大門、塔、金堂、講堂、薬師堂が線上に建ち、金堂の左右に二階の軒廊、南端に鐘楼、経蔵が建てられていた。
 寺司、供僧、住学生は延暦寺、園城寺、興福寺、東寺などが担った。潅頂堂では、朝廷に関わる結縁潅頂が行われていた。
 瑤池の中央には、現存する東寺の五重塔(56m)をはるかに凌ぐ、81mの高さ、一辺12.5mの八角九重塔(1083年)が建っていた。相輪だけでも20mあったという。初層には裳階(もこし)が付き、檜皮葺の十層に見えた。だが、1169年、1174年に落雷被害がある。1185年の地震で、塔は半壊、塔以外の大半の建物も倒壊する。鎌倉時代、1208年に塔は落雷により焼失した。再建された塔も、1213年、1342年に再び大半が焼失する。その後、再建されることはなく、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で完全に焼失した。安土・桃山時代、1590年に後陽成天皇の詔勅により法勝寺の寺籍は近江坂本の西教寺に移され廃絶した。
 市立動物園内に法勝寺の遺跡がある。噴水池には転用された法勝寺八角九重塔の石材の一部が残されている。かつて「塔の壇」と呼ばれる塔の土壇があった。1946年、第二次世界大戦後、進駐軍により破壊された。2010年の発掘調査では動物園内観覧車付近より、塔の掘込地業(基壇基礎)の一部が発見された。また、現在、花崗岩の布石(階段の化粧石)の一部とみられる石が、池の石橋としていまも使われている。
 寺の運営は、非常勤別当、権別当、常勤の執行(しぎょう)、三綱(上座、寺主、都維那)によった。執行には、平清盛の推挙により俊寛僧都(1143-1179)が任じられた。
◆尊勝寺 「尊勝寺」は、平安時代、1101年に建立された。法勝寺に次ぐ境内があった。境内に園地があり、国家的な仏教儀式が執り行われていた。
 遺構としては潅頂堂跡、五大堂跡、1104年建立の九躯阿弥陀堂跡(東西6間、南北15間以上、桁行35間とも、母屋南北48.6m、東西9.3m、庇を含め南北64.4m、東西25.5m)があり、堂は三十三間堂の起源になった。九体阿弥陀堂で現存唯一の浄瑠璃寺・阿弥陀堂の4倍の面積があり、史上最大規模だったという。観音堂跡(東西33m、南北19m)、塔跡などの遺構が見つかっている。
 東西に二基の五重塔が建てられていた。潅頂堂では、朝廷に関わる結縁潅頂が行われた。ほかに、金堂、講堂、廻廊、中門、曼荼羅堂、薬師堂、鐘楼、経堂、南大門などが建てられていた。
◆最勝寺 最勝寺は、鳥羽天皇の御願により、法勝寺の西、尊勝寺の南、現在の京都美術館付近にあった。平安時代、1118年に建立された。
◆円勝寺 「円勝寺」は、待賢門院の御願により、平安時代、1128年に建立された。五重の中御塔、東御塔、西御塔などが建てられていた。現在の府立図書館付近になる。
◆成勝寺 「成勝寺」は、平安時代、1139年に建立された。崇徳天皇御願であり、円勝寺の西にあった。
◆延勝寺 「延勝寺」は、六勝寺のうち最後に建てられた。近衛天皇の御願寺として、平安時代、1149年に完成した。
 境内は広大で、現在の勧業館の西、疏水沿いを東北端として、西は二条通の西方、南は現在の疏水最南端(仁王門通)付近とみられている。
 金堂、東塔(三重塔)、中塔(五重塔)、西塔、一字金輪堂、廻廊などからなり、平安時代、1163年に平忠盛により九体阿弥陀堂が近衛家から移築・改築された。中世の兵火などで焼失し、その後廃絶した。
◆得長寿院 「得長寿院(とくじょうじゅいん/とくちょうじゅいん)」は、鳥羽上皇(1103-1156)の御願寺だった。平安時代、1132年に平忠盛(1096-1153)が岡崎徳成町付近に建立する。白河南殿の東に千体観音堂(三十三間堂)が建てられ、1001体の十一面観音、等身聖観音千体が安置された。
 当時、三十三間堂は蓮華王院(現在の三十三間堂)とともに二つ存在する。なお、後白河院は、父・鳥羽上皇の得長寿院三十三間堂を参考にして蓮華王院(三十三間堂)を建立したとされている。得長寿院三十三間堂は忠盛が造営を請負い、蓮華王院(三十三間堂)はその子・清盛が請け負っている。
 平安時代、1185年、得長寿院は地震により倒壊し、以後廃絶した。2つの三十三間堂は、この時、21年間に渡り並存していた。
◆白河南殿 「白河殿」は、中央の南北道路の今朱雀大路の東に、六勝寺などの寺院があり、西には院御所の白河北殿、白河南殿が配置されていた。
 北は近衛大路末、南は三条坊門小路末、西は鴨川、東は白川まであり、東西1.5km、南北1kmの規模があった。後に北は吉田まで及んだ。鎌倉時代までは、寺院があり、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)後に荒廃する。
 ◈「白河南殿(しらかわ なんでん)」は、平安時代、1095年に建てられている。法勝寺の西方に位置した。「白河泉殿」、「白河御所」、「南本御所」とも呼ばれ、白河上皇の院御所として、院政のもう一つの舞台になる。1114年、阿弥陀堂、1130年、三重塔が建てられている。二町四方の広さがあった。
 かつての大僧正覚円 (1031-1098)の房舎を改めたもので、敷地の西には新堂といわれた蓮華蔵院(三十三間堂)の前身になる阿弥陀堂も建立されていた。
 白河天皇は子・堀河天皇、孫・鳥羽天皇、曾孫・崇徳天皇と3代にわたって幼帝を擁し、43年間も政治の実権を握る。白河法皇が「天下の三不如意―賀茂川の水、双六の賽、山法師」と嘆いたのも、それ以外のすべては自らの意のままになるということを意味した。
 ◈「白河北殿」は、白河上皇の後に鳥羽上皇の政庁になる。平安時代の1118年に建てられた。付属の寺院である宝荘厳院があった。
 平安時代、1156年、保元の乱(ほうげんのらん)の際には、崇徳上皇と高松殿(西の洞院大路三条)に陣取る後白河天皇が対立する。上皇方の白河北殿は奇襲をかけられ、藤原家成邸に放たれ、火が燃え移り焼失した。この時の上皇方の総大将格は藤原頼長だった。天皇方は平清盛、源義頼、源義康で、以後、武士政権の誕生になる。
 今日、当時を伝える遺構はほとんど残されていない。
◆鵺塚 現在の岡崎グランドは、最勝寺跡といわれている。現代、1955年、グランドの整備工事に伴い、鵺塚(ぬえづか)、秘塚(ひめづか)が発掘調査された。1992年にも発掘調査が行われている。何らかの祭祀に使われていたとみられている。その後、塚は削られ、遺物は仲恭天皇陵に埋納された。
◆善勝寺 平安時代、1191年頃、建礼門院(平徳子、1155/(1157-1213)は、大原・寂光院より岡崎・善勝寺に移ったという。当寺は白河法皇の修理大夫・藤原顕季(あきすえ、1055-1123)を家祖とし、四条家の菩提寺になる。法勝寺の西南(円勝寺町)にあった。鎌倉時代、1219年の大火により善勝寺は類焼している。
 このため、建礼門院は現在の高台寺にあった雲居寺(うんごじ)の北、鷲尾の金仙院に移った。金仙院は、中納言・藤原家成(1107-1154)が建立している。建礼門院は、1213年に金仙院で亡くなり、四条家の墓に葬られた。陵は、現在の高台寺境内、傘亭、時雨亭付近にあったという。


※「上皇」は、皇位を退いた天皇の尊称。「法皇」は出家した上皇。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の古代社寺 京都の式内社と古代寺院』『遺跡から見た京都の歴史』『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『京都・山城寺院神社大事典』『歴史のなかの宗教 日本の寺院』『院政期の京都 白河と鳥羽』『社寺』『平安京散策』『平安の都』『京都まちかど遺産めぐり』『京都歩きの愉しみ』『あなたの知らない京都府の歴史』


  白河院跡・法勝寺跡・白河院庭園      琵琶湖疏水          安楽寿院        三十三間堂(蓮華王院)            
 
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白河南殿(蓮華蔵院)跡  京都市左京区岡崎成勝寺町付近 
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