白河天皇 成菩提院陵 (京都市伏見区)  
Imperial mausoleum of Emperor Shirakawa
白河天皇 成菩提院陵 白河天皇 成菩提院陵
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「白河天皇 成菩提院陵」の石標





【参照】浄菩提院塚陵墓参考地
 竹田浄菩提院町(たけだ じょうぼだいいんちょう)に、成菩提院陵(じょうぼだいいん の みささぎ)がある。平安時代後期の第72代・白河天皇(しらかわ てんのう)が葬られている。
◆歴史年表 平安時代、1108年、第72代・白河天皇は、鳥羽に三重塔寿陵の建立を計画した。
 1111年、8月、落成する。天皇は、この地の三重塔に納骨するように遺詔する。
 1129年、7月7日、白河天皇は、西三条殿内裏で亡くなる。7月15日、衣笠山東麓(北区)の御墓所(ごむしょ)で荼毘に付され、香隆寺(こうりゅうじ)に仮安置され埋葬される。
 1131年、7月9日、鳥羽・成菩提院(成菩提院陵)の三重塔に改葬された。
 鎌倉時代、1249年、三重塔は焼失し、その後、再建されなかった。所伝も失われる。
 その後、陵の所在地は不明になる。
 江戸時代、1697年、諸陵探索では、三重塔を鳥羽天皇陵とし、現在の白河天皇成菩提院陵は近衛天皇陵にされた。
 1862年-1863年、文久の修陵により、現在地が白河天皇陵として修補された。
 また、1864年、「塔の壇(とうのだん)」と呼ばれていた現在の陵を白河天皇陵と改定し、修陵されたともいう。
 現代、1983年から、発掘調査が行われた。
◆白河天皇 平安時代後期の第72代・白河天皇(しらかわ-てんのう、1053-1129)。貞仁(さだひと)。六条院。法名は融観。第71代・後三条天皇の第1皇子、母は摂関家ではない、中納言・藤原公成の娘・贈皇太后・茂子(もし)。1069年、皇太子に立てられる。1072年、20歳で践祚(せんそ、皇嗣が天皇の地位を受け継ぐ)、即位した。摂関家の勢力減退に乗じ、実権を伸ばした。後三条上皇の意向により、東宮は異母弟・実仁(さねひと)親王になった。1075年、法勝寺の創建に着手する。同年以降、荘園整理令を発した。1076年、嵯峨行幸を行う。1077年、六勝寺の初めになる法勝寺を創建した。1078年、清涼殿で殿上歌合が催された。1085年、実仁親王が病死する。父の遺言に背き、1086年、8歳の自らの第3皇子・善仁(たるひと)親王(第73代・堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位した。中宮・賢子(けんし/かたいこ)との間の皇子だった。自らは院政を敷く。1087年、別業の鳥羽殿(南殿)を建立する。1095年頃、白河に白河殿を建立した。1096年、皇女・郁芳門院(いくほうもんいん)の死を悼み、出家し法皇になり、融覚と称した。1107年、堀川天皇が亡くなり、5歳の孫・宗仁(むねひと)親王(第74代・鳥羽天皇)を即位させた。1120年、関白・藤原忠実が失脚し、摂関家の権勢は低下した。1123年、曾孫・顕仁(あきひと)親王(第75代・崇徳天皇)と、3代にわたり43年間の強権的な執政を行う。院政の始まりになる。1129年、西三条殿内裏(西対 [にしのたい])で亡くなる。衣笠山山麓で荼毘に付され、香隆寺に埋葬される。その後、1131年、成菩提院(成菩提院陵)(伏見区)に改葬された。追号は、白河の地に因んで生前に白河院(しらかわいん)と定められた。77歳。
 「治天の君(院政を執り行う上皇)」といわれた。「賀茂川の水、双六の賽、山法師(延暦寺衆徒の強訴)は、これ朕が心に従わざるもの」(天下の三不如意)と嘆いた。延暦寺衆徒の強訴に対し、源平の北面の武士を登用し、騒乱に備えた。荘園の整理を断行する。院御所は主に六条院とした。200カ所以上の倉を有し、熊野参詣は9度行う。中下級貴族の院近臣が形成された。白河に白河殿を営む。国王の氏寺といわれた法勝寺など多くの造寺造仏、写経を行う。院政の舞台になった鳥羽離宮などの大土木工事を行う。『後拾遺和歌集』『金葉和歌集』の撰進を命じ、勅撰集『後拾遺』に採録された。日記に『白河院御記』がある。
◆陵 御陵は東面し、一辺33mの方丘になる。周囲に濠がある。考古学・文献史学的に見て疑問の余地のない陵とされている。
 創建時は、一辺56mの方形であり、さらに周囲に8.5m幅の濠が掘られていたという。濠内部に石(1m)を積み上げていた。
 平安時代、1129年7月7日に、第72代・白河天皇は、西三条殿内裏で亡くなる。衣笠山東麓の御墓所(ごむしょ)で荼毘に付された。天皇遺詔の納骨塔は凶方にあたるため、香隆寺に仮安置され埋葬される。吉方を待ち、鎌倉時代、1131年に建立された三重塔に、7月9日、香隆寺より遺骨を遷して埋葬された。
 遺骨は地中深くに埋葬されたという。塔下には石筒(せきとう、1.2m)を設け、骨壺を納めた。上に銅筥(どうばこ、銅板経納入)、銅小塔(どうしょうとう、金胎両界の阿弥陀仏像を納入)を安置し、石蓋(いしぶた)を載せて土で埋めたという。(『長秋記』)
 鎌倉時代、1249年に三重塔は焼失し、その後、再建されなかった。後に、陵の所在地は不明になる。江戸時代、1697年、諸陵探索では、三重塔を鳥羽天皇陵とし、現在の白河天皇成菩提院陵は近衛天皇陵にされていた。1862年-1863年、文久の修陵により、現在地が白河天皇陵として修補された。この時、方形(一辺33m)、濠が改修されている。また、1864年、「塔の壇(とうのだん)」と呼ばれていた現在の陵を白河天皇陵と改定し、修陵されたともいう。
◆成菩提院 成菩提院(東殿御堂)は、平安時代末、白河上皇が鳥羽東殿の地に創建した。1108年に三重塔、1111年、1112年にも多宝塔2基が建てられている。1129年に上皇の没後、塔はその御骨塔になり、拝堂として南面堂(7間4面)が建立された。半丈六の阿弥陀三尊像、等身の阿弥陀如来像4体が安置されていた。1131年、落慶供養され成菩提院と名付けられる。中世(鎌倉時代-室町時代)に衰微したという。
 成菩提院は、九品寺(南区)の前身という。
◆遺跡 1983年から白河天皇陵周辺での発掘調査が行われた。御陵の外側に堀(幅8m、深さ1.5m)があり、内側には階段状の石垣(1辺55m)が積まれていた。
 堀からは、三重塔に葺かれていた有段瓦、仏像の手、和琴、漆器、飾り金具、土器などが出土した。


71 後三条天皇(在位:1068-1072)→72 白河天皇(在位:1072-1086)→73 堀河天皇(在位:1086-1107)→74 鳥羽天皇(在位:1107-1123)→75 崇徳天皇(在位:1123-1141)


*原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献  『検証 天皇陵』『歴代天皇125代総覧』『天皇陵 謎解き完全ガイド』『京都大事典』『図説天皇陵』『歴代天皇年号事典』『掘り出された京都』、ウェブサイト「コトバンク」


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map 白河天皇 成菩提院陵 〒612-8445 京都市伏見区竹田浄菩提院町
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