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土御門天皇 金原陵・金原寺 (京都府長岡京市) Imperial mausoleum of Emperor Tsuchimikado |
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土御門天皇 金原陵 | 土御門天皇 金原陵 |
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長岡京市の金ケ原金原寺(かねがはら-こんげんじ)の丘陵地に、鎌倉時代の第83代・土御門天皇を葬る金原陵(かねがはら -の-みささぎ)がある。 ◆歴史年表 鎌倉時代、1231年、10月11日、第83代・土御門天皇が配流先の阿波国の行宮で亡くなる。遺骸は、阿波の池の谷で火葬された。遺骨は、京都に入ることを許されなかった。(『紹運要略』) 1233年、12月12日、天皇の母・承明門院が天皇の遺詔により、字・金原寺に金原法華堂(金原御堂)を建立した。遺骨が遷され埋葬される。その後、天皇即位、元服などに際して、国土安泰のために陵に告陵使(こくりょうし)が発遣された。 後に、堂宇の管理のために金原寺が創建されたという。 1274年/1281年、蒙古襲来に際して告陵使が発遣された。 中世(鎌倉時代-室町時代)、御堂、御陵も荒廃する。 江戸時代、金原法華堂は荒廃しており、御陵の封土はすでになく、石棺が露出していた。「石塚」と呼ばれていた。 1863年/文久年間(1861-1864)、金原法華堂として修陵される。寺跡の石塚を御堂跡として土御門天皇陵に定めた。 ◆土御門天皇 鎌倉時代前期-中期の第83代・土御門天皇(つちみかど-てんのう、1195-1231)。男性。為仁(ためひと)。京都の生まれ。父・第82代・後鳥羽天皇、母・内大臣・源通親の娘(実父は法印能円)の在子(ざいし、承明門院)の第1皇子。1198年、4歳で鳥羽天皇の皇太子になり即位した。父・後鳥羽上皇の院政下に置かれる。上皇は、異母弟・守成を寵愛し、その命により、1210年、守成(もりなり)親王(第84代・順徳天皇)に譲位した。1221年、承久(じょうきゅう)の乱で、上皇の倒幕計画に関与しなかった。乱後、後鳥羽上皇・順徳上皇の配流を聞き、自ら幕府に申請して土佐国に配流になる。後に阿波国に移り、同地で没した。土佐院、阿波院とも呼ばれる。和歌にすぐれ、『土御門院御百首』などがある。「新三十六人撰」のひとり。阿波(岡山県)で没した。37歳。 阿波の池の谷で火葬され、遺骨は母・承明門院により金原陵(長岡京市)に移葬された。火葬塚(鳴門市)があり、阿波神社が祀られている。鳴門市里浦町にも伝承地がある。 ◆承明門院 鎌倉時代前期-中期の女院・承明門院(しょうめい-もんいん、1171-1257)。女性。名は在子(ざいし)、法名は真如妙(観)。京都の生まれ。父・法勝寺執行・法印能円(のうえん)、母・第82代・後鳥羽天皇の乳母・藤原範子(範兼の娘)の子。1183年、父・能円が平氏と共に都落し、母・範子が離婚、権臣・源(土御門)通親と再嫁した。在子も通親の養女になる。宰相局と称し、後鳥羽天皇の後宮として、1195年、第1皇子・為仁(第83代・土御門天皇)を産む。為仁は通親に養育された。1198年、為仁が即位し、1199年、従三位、准后になる。この頃、後鳥羽上皇は藤原範季の娘(修明門院)を寵愛した。1202年、院号宣下。1211年、出家し法名真如観と号した。1221年、承久の乱後、土御門天皇の子らを保護・後見した。1242年、鎌倉幕府の後押しにより、その中の第88代・後嵯峨天皇(邦仁宮)が即位した。京都で没した。87歳。 ◆陵墓 八角丘であり、南東面している。空堀がある。 鎌倉時代、10月11日、第83代・土御門天皇が配流先の阿波国の行宮で亡くなる。遺骸は、阿波の池の谷で火葬された。遺骨は、京都に入ることを許されなかった。(『紹運要略』)。鎌倉時代中期、1233年12月12日、天皇の母・承明門院が天皇の遺詔により、字・金原寺に金原法華堂(金原御堂)を建立した。仏教建築の御堂、塔などを建立し、地下に埋葬した堂塔式陵墓になる。遺骨が遷され埋葬される。その後、天皇即位、元服などに際して、国土安泰のために告陵使(こくりょうし)が発遣された。後に、堂宇の管理のために金原寺が創建されたという。鎌倉時代中期、1274年、鎌倉時代後期、1281年、蒙古襲来に際して告陵使が発遣された。中世(鎌倉時代-室町時代)、御堂、御陵も荒廃する。 江戸時代、金原法華堂は荒廃していた。御陵の封土はすでになく、石棺が露出していた。小丘に大石が露岩し「石塚(いしづか)」と呼ばれた。(『歴代廟陵考補遺』)。一時は、嵯峨・二尊院(右京区)の後山の石塔が陵所にされたこともあった。江戸時代後期、1863年/文久年間(1861-1864)、金原法華堂として修陵される。寺跡の石塚(八角形)を御堂跡として土御門天皇陵に定め修陵された。 ◆承久の乱 鎌倉時代前期、1221年に起きた承久の乱(じょうきゅう-の-らん)は、朝廷と鎌倉幕府との争乱になった。後鳥羽上皇(第82代)は、以前より公家勢力の回復を図り、鎌倉幕府打倒の機をうかがっていた。 1198年、上皇は院制を始める。1199年に初代将軍・源頼朝が亡くなり、有力御家人が相次いで反抗し幕府内が混乱した。1219年、朝廷重視に傾いていた3代将軍・源実朝の暗殺事件が起きる。犯行は、実朝の甥・公暁(実朝の兄・実朝の子)による。上皇は幕府の内紛に乗じ、1221年5月15日に2代執権・北条義時の追討(誅殺)命令を発し挙兵した。上皇軍は畿内周辺の武士・在京中の御家人1万9000騎が応じた。幕府軍は19万騎が東海道(10万)・東山道(5万)・北陸道(4万)の3方面に分かれ京都に進軍した。 幕府軍は北条政子・義時を中心に固く結束し、朝廷方は瀬田・宇治の戦いなど要所で敗れた。1カ月後の6月15日に上皇は謀臣に欺かれたとの院宣を出して降伏している。幕府は第85代・仲恭天皇の廃位、後鳥羽上皇・土御門上皇(第83代)・順徳上皇(第84代)の3上皇も配流にした。上皇らの荘園3000余が没収され、以後、朝廷の財政基盤は揺らぐ。朝廷方公卿・武士の所領も没収され、新補地頭が設置される。1319年-1322年頃に、幕府は朝廷監視のために六波羅探題の設置などを行った。 以後、公家政権は衰え、北条氏執権体制が進展した。幕府の勢力は一挙に西国にも拡大し、全国制覇の基礎を固めた。 ◆断層 京都盆地中部西縁に、灰方断層・光明寺断層・西山断層・金ヶ原断層がある。これらは、北西延長部で1つになり、老ノ坂断層(亀岡断層)になる。さらに亀岡盆地の東縁、北西の京都・西山断層帯北西半部(亀岡断層帯)に繋がっている。断層の長さ20km。 京都盆地南西隅、天王山の東北側山麓に金ヶ原断層があり、その東側の光明寺断層とともに、盆地側が低下する低断層崖が見られる。 81 安徳天皇(在位:1180-1185)→82 後鳥羽天皇(在位:1183-1198)→83 土御門天皇(在位:1198-1210)→84 順徳天皇(在位:1210-1221)→85 仲恭天皇(在位:1221-1221) *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『検証 天皇陵』、『天皇陵 謎解き完全ガイド』、『昭和京都名所図会 6 洛南』、『京都おとくに歴史を歩く』、『図説天皇陵』、『古代史研究の最前線 天皇陵』、『歴代天皇年号事典』、『京都の歴史災害』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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