高倉天皇 後清閑寺陵 (京都市東山区)  
Imperial mausoleum of Emperor Takakura
高倉天皇 後清閑寺陵 高倉天皇 後清閑寺陵
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「六條天皇陵」「高倉天皇陵」の石標


高倉天皇の後清閑寺陵


後清閑寺陵


後清閑寺陵、覚明水 
 清閑寺の北に後清閑寺陵(のち の せいかんじ の みささぎ)がある。平安時代後期の第80代・高倉天皇が葬られている。高倉院法華堂、清閑寺法華堂とも呼ばれた。
 隣接して同域内に六条天皇清閑寺陵がある。
◆歴史年表 平安時代後期、1181年、1月14日、高倉天皇が六波羅第の平頼盛邸で亡くなる。遺骸は清閑寺で殯(もがり)が行われた。本葬まで遺骸を棺に納め仮安置し、陵の完成まで高官による誄(しのびごと)が行われた。その後、法華堂に安置される。(『山塊記』『高倉院升遐記(しょうかき)』)
 鎌倉時代、1195年、僧供により祭祀が催された。(『玉葉』)
 1246年、僧供により祭祀が催される。(『葉黄記』)
 後に、法華堂は失われる。祭祀は続けられた。
 江戸時代、元禄年間(1688-1704)、陵所は不明になる。
 1862年-1863年、文久の修陵で修復された。
 幕末、聖護院宮が管理する。
 近代、1896年、修陵が行われ、六条天皇陵と陵域を分ける。土塀の築造、唐門などが建てられた。後清閑寺陵と呼ばれる。12月、勅使が遣わされ奉告祭が行われる。
◆高倉天皇 平安時代後期の第80代・高倉天皇(たかくら てんのう、1161-1181)。憲仁(のりひと)。第77代・後白河天皇の第7皇子、母は平時信(ときのぶ)の娘・尊称皇太后・建春門院滋子(しげこ)。滋子の姉は平清盛の妻・時子。3歳で清盛の娘で関白基実の妻・盛子の猶子になる。1166年、第79代・六条天皇の皇太子になる。1168年、六条天皇の譲位を受けて8歳で即位した。1172年、最盛期の清盛の娘・徳子(建礼門院)を中宮にする。院政を敷く父・後白河法皇と清盛の対立が起こる。1177年、鹿ヶ谷事件が起こる。1178年、徳子が産んだ生後間もない皇子・言仁(ときひと)親王(第81代・安徳天皇)を皇太子にした。1179年、清盛は後白河法皇の院政を止め、法皇を鳥羽殿に幽閉した。(治承三年の政変)。1180年、3歳の第81代・安徳天皇に譲位した。清盛の請により、安芸・厳島神社に上皇初の御幸をする。京都近辺の寺院勢力は反平氏に動き、以仁王、源頼政の挙兵、福原遷都と相次ぐ。平氏政権が揺らぎ始める。1181年、六波羅第の平頼盛邸で亡くなる。詩歌管絃、笛に優れた。
 陵墓は後清閑寺陵(東山区)になる。遺骸は、清閑寺の法華三昧堂の堂下に埋葬される。1863年に修復された。
◆小督局
 平安時代末期の女官・小督局(こごう の つぼね、1157-1205∼?)。小督。桜町中納言・藤原成範の娘。美貌と琴の名手として知られた。第80代・高倉天皇中宮・建礼門院徳子(平清盛娘)の侍女になる。平清盛娘婿・冷泉隆房の愛妾で、後に高倉天皇の寵愛を受けた。隆房は自死する。中宮の父・平清盛は怒り、宮中より小督を追放する。呼び戻された小督は、隠し部屋に潜み、1177年、天皇との間に範子内親王を産む。清盛により再び追放され、嵯峨野に隠棲した。清盛は天皇を退位させる。1181年、天皇没後、御陵のある清閑寺に移り、菩提を弔ったという。また、清盛により清閑寺に追放されたともいう。御陵の傍らに墓という宝筐印塔が立つ。
 生涯について真偽は不明。悲哀は『平家物語』巻六、『たまきはる』、能「小督」にも取り上げられている。小督は嵯峨野に隠れ住む。天皇の命を受け探していた北面の武士・源仲国は、琴の音を頼りに居所を尋ねた。小督は天皇のもとへ戻るが、中宮より先に子を宿したとして清盛は清閑寺に送り出家させられる。天皇は憔悴し早世する。
 小督は、清盛に追われ、清閑寺で出家させられたという。その後、嵯峨に身を隠し、21歳の若さで当寺で亡くなったという。清閑寺の山門を入ったところに小督の供養塔(宝筐印塔)が立つ。謡曲では、高倉天皇は自らの墓を、小督の棲んだ当寺に葬るように遺言したという。現在、高倉天皇陵の東傍らにも小督局墓と伝えられている宝篋印塔がある。
◆陵墓 ◈旧清閑寺境内にあり、方丘(間口20m、奥行15m)で南面している。周囲には土塀があり、中央西寄りに墳丘の石積み土壇(一辺4.5m/5m、高さ0.5m/0.6m)が築かれている。かつての法華堂基壇の一部という。南面して唐門があり、石段が付けられている。考古学・文献史学的に見て疑問の余地のない陵といわれている。
 平安時代後期、1181年1月14日、高倉天皇が六波羅第の平頼盛邸で亡くなる。清閑寺で殯(もがり)が行われた。本葬まで遺骸を棺に納め仮安置し、陵の完成まで高官による誄(しのびごと)が行われた。その後、法華堂に安置される。(『山塊記』『高倉院升遐記(しょうかき)』)
 鎌倉時代、1195年、僧供により祭祀が催された。(『玉葉』)。1246年、僧供により祭祀が催される。(『葉黄記』)。後に、法華堂は失われ、祭祀は続けられる。なお、高倉天皇陵と隣接する六条天皇陵について、両天皇は同じ法華堂に合葬されていたともいう。
 江戸時代、元禄年間(1688-1704)、陵所は不明になる。1862年-1863年、文久の修陵では修復された。幕末には、聖護院宮の管理下に置かれた。近代、1896年、修陵が行われ、六条天皇陵と陵域を分け、現在の形状になる。土塀の築造、唐門なども建てられている。後清閑寺陵と呼ばれた。12月、勅使が遣わされ奉告祭が行われている。
 ◈墓所の東側には、伝承として高倉天皇が寵愛した女官・小督局(こごう の つぼね、1157-? )の石造の小宝篋印塔1基が立てられている。後世の供養塔とみられている。


77 後白河天皇 (在位:1155-1158) →78 二条天皇 (在位:1158-1165) →79 六条天皇 (在位:1165-1168)→80 高倉天皇 (在位:1168-1180)→81 安徳天皇(在位:1180-1185)


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献  『検証 天皇陵』『天皇陵 謎解き完全ガイド』『歴代天皇125代総覧』『京都市の地名』『図説天皇陵』『歴代天皇年号事典』『山科の歴史を歩く』 、ウェブサイト「コトバンク」


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map 高倉天皇 後清閑寺陵 〒605-0922 京都市東山区清閑寺山ノ内町
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