本圀寺 (京都市山科区) 
Honkoku-ji Temple 
本圀寺 本圀寺
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山門(赤門・開運門)


山門




仁王門(三解脱門)


仁王門扁額「正嫡付法」


仁王門


仁王門


仁王門





本師堂(立像釈迦堂)






大本堂(本堂)


本堂内陣、三賽尊




弐天門


勅使門


一切経蔵(重文)



一切経蔵



納骨堂



旧鐘楼



旧鐘楼、梵鐘



旧鐘楼堂
 山科疏水を越え、坂の参道を登ると25000坪の広大な境内の本圀寺(ほんこくじ)がある。かつて「本国寺」と記した。勅願道場として栄え、「西の祖山(そざん)」「西の総本」ともいわれている。山号は大光山という。
 日蓮宗の大本山(霊蹟寺院)。本尊は大曼荼羅。
 洛中法華21ヶ本山。日蓮宗京都16本山の一つ。本圀寺求法院は日蓮宗京都六壇林の一つ。
◆歴史年表 鎌倉時代、1253年、日蓮(1222-1282)が、鎌倉松葉ヶ谷(まつばがやつ)に法華堂を建立したのを前身とする。(寺伝) 
 1261年、日蓮の伊豆法難により、寺は破却されている。
 1263年、再興され、大光無量山本国土妙寺と改め、日蓮の布教伝道の根本道場になる。
 1271年、再び破却された。日蓮は佐渡に配流された。
 1307年、再建され、将軍家の祈願所となる。第96代・後醍醐天皇(在位1318-1339)の勅願所になる。
 鎌倉時代末期、右大臣・今出川兼季(菊亭兼季)の菩提所になる。
 南北朝時代、1345年、4世・日静の時、北朝第2代・光明天皇の勅により、京都六条に永代寺領を贈られ鎌倉より移る。「本国(國)寺」と改称した。寺域は広大で、東西2町・南北6町(堀川小路西、六条坊門小路南、大宮大路東、七条大路北の12町とも)にわたり、御所の坤(裏鬼門)の方角に配置され、皇室鎮護の霊場となった。
 1381年頃、四条門流の妙顕寺とともに京中で四条門流として日蓮宗を代表する寺になる。
 室町時代、1536年、7月22日-28日、南近江の守護六角氏らが、京都の法華宗二十一本山を焼き討ちした天文法華の乱では、法華一揆の拠点寺となり最後まで奮戦した。だが、焼失し、堺・成就寺に避難する。
 1542年、勅許により帰洛の許可が下り、再建に着手する。
 1547年、京都六条に再建され、本尊遷座された。
 1565年、徳川光圀が母の追善供養を行う。
 1568年、織田信長の再上洛にともない、本國寺は室町幕府15代将軍・足利義昭の仮居所(六条御所)になる。
 1569年、 室町幕府第15代将軍・足利義昭の仮の御所(六条御所)、仮幕府の置かれた本國寺を、三好三人衆が急襲した。明智光秀は防戦する。信長は岐阜より軍を率いて京都に戻り鎮圧する。(「本國寺の変(六条合戦)」)。変後、織田信長は二条御所(二条城)を築城し、部材の一部は移された。義昭は御所に移した。
 室町時代末、寺の周囲に環濠が築かれ、寺内町が形成された。
 安土・桃山時代、1582年、豊臣秀吉は上洛の際の宿所にあてる。市中掌握と山崎城の築城を急ぐ。
 1591年、本願寺造立のため、南二町の寺領を割譲される。
 江戸時代初期、本国寺と記されていた。
 江戸時代、徳川家、豊臣秀吉の姉・日秀尼(1534-1625)、加藤清正(1562-1611)らの庇護を受け伽藍を拡充した。
 1633年、末寺269を数えた。(「京都本国寺末寺帳」)
 1636年、入洛した朝鮮通信使の400人の随員の定宿地になる。
 1643年、朝鮮通信使が定宿する。
 1655年、朝鮮通信使が定宿した。
 1682年、朝鮮通信使が定宿した。
 1685年、 徳川光圀から圀の一字を下され、本圀寺と改めた。
 1711年、朝鮮通信使が定宿する。
 1748年、朝鮮通信使が定宿した。
 1788年、 天明の大火により経蔵などをわずかに残して焼失する。
 1811年、朝鮮通信使が定宿した。
 1863年、本圀寺事件が起きた。宿泊中の鳥取藩側用人・黒部権之介らが、河田景与ら因幡二十士に襲われ、暗殺された。
 近代、1904年-1905年、日露戦争後、ロシア軍捕虜の収容を行う。本圀寺が本所になる。のちに伏見俘虜収容所に移された。
 現代、1945年、太平洋戦争末期の五条通の強制疎開で塔頭などが減少した。
 1960年、財政難により鎌倉移転の騒動になる。
 1971年、旧地六条(下京区、西本願寺第2境内)より、境内の8割を売却し、現在地(山科区)に移転する。
 1981年、復興した。
 1994年、旧地で発掘調査が行われ、埋め戻された堀跡が見つかった。
◆日静
 鎌倉時代後期-南北朝時代の日蓮宗の僧・日静(にちじょう、1298-1369)。号は妙竜院。駿河国の生まれ。父は上杉頼重、母は足利氏の娘。将軍・足利尊氏の叔父にあたるともいう。駿河国・本覚寺の治部公日位、鎌倉・本勝寺の摩訶一房日印に師事、本勝寺を譲られる。1328年、日印の没後、越後国・三条本成寺を譲られた。1338年、日祐に招かれて上洛した。1345年、本勝寺を六条に移し、本国寺(後の本圀寺)と改称し6世に就く。尊氏の帰依、公武の外護により寺運隆盛になる。1348年、北朝第2代・光明天皇より三位僧都に任命された。天皇から日蓮正嫡の綸旨を受ける。日蓮宗の2大門流・六条門流の祖。著「六条要文」。
 墓は法華寺(東山区)にある。
◆加藤清正
 安土・桃山時代-江戸時代の武将・加藤清正(かとう きよまさ、1562-1611)。尾張の生まれ。豊臣秀吉と血縁関係ともいう。9歳より秀吉に仕え、元服し加藤虎之助清正と名乗る。1583年、賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人に数えられた。1588年、肥後北半国領主を任じられ熊本城主。1592-1598年、文禄の役・慶長の役で朝鮮に出兵した。1600年、関ヶ原の戦いで小西行長らと確執し東軍につき、小西滅亡後は54万石の大大名となる。1611年、二条城で秀吉遺児・秀頼と徳川家康を会見させ、帰国後病急死した。熊本城など築城でも知られた。
◆仏像・木像
 ◈本堂に、「釈迦如来像」、「多宝如来像」が安置されている。室町時代、1366年、一塔両尊本尊として造立された。願主は日静、仏師は、院派系統の仏師とみられる法眼定慶による。
 日蓮はその最期、日朗に「三箇の霊宝」(立像釈尊、立正安国論、法難赦免状)を託した。立像は持仏とされ、伊豆海中より顕れたものという。
 ◈日蓮真筆の「鴛鴦ご本尊」は、鎌倉時代、1287年に日朗へ授与された曼荼羅御本尊、表装の布に鴛鴦(おしどり)の織紋(本圀寺金襴)がある。
 ◈「日蓮大聖人像(生御影の御尊像)」は、日朗(1245 -1320)が彫刻したという。1282年、日蓮が池上での入滅に先立ち、自ら開眼したという。
 ◈「勝利大黒天像」は、室町時代、諸宗との問答対決の際に、日印が懐中にしのばせていたものという。執権・北条高時の命により、1318年から翌年にかけて諸宗との問答対決が行われた。幕府は、日蓮門下の敗北と追放、宗門禁断を謀った。だが、日朗の弟子・摩訶一阿闍梨日印(1264- 1329)は、これを論破し、勝利を得たことから、勝利大黒像と呼ばれるようになった。
 ◈「人麿像(人麿塚)」は旧・柿本社に祀られていた。六条の本圀寺柿本町は、飛鳥時代、歌人・柿本人麿(660?-720?)の旧宅跡という。平安時代、旧・柿本社を歌人・紀貫之(872?-945?) が勧請し、さらに後世の歌人・藤原俊成(1114-1204)が神殿を再興、日静が法華勧請をなしたという。
 ◈南北朝時代作とみられる「九名皐諦尊女立像」は、「女人守護、炎中出現のくみょう様」と呼ばれる。鬼子母神堂に鬼子母神十羅刹女像とともに安置されている。九名皇諦尊女は、法華経・陀羅尼品になる。室町時代、1536年、天文法華の法難に際し、火中から姿を現し危難を救った守護神という。火と煙の中で体をねじって出現した姿のまま祀ってあるという。平安時代、813年、当初は東寺内に建立された法華堂が前身という。お題目を唱える人を救うとされる。縁日は毎月8の日。
 鎌倉時代、1251年、日蓮は東寺に遊学し、東密を修めた。その際に、法華堂道場に止宿し、別当・真広法印により学んだという。1281年、真広は身延山に日蓮を訪ね、その弟子となり、「本尊(若宮本尊、竹筒本尊)を授かった。その後、住坊を法華道場(法華寺)とした。日蓮を開山、自らは2世とした。その本尊はその後、当寺に遷された。
◆建築 ◈「山門(赤門・開運門)」は、1996年に移築再建された。加藤清正が朝鮮侵略した文禄・慶長の役(1592-1598)で出陣する際に、門を開いて出征し、凱旋までは開けることがなかったため、以後「開かずの門」と呼ばれた。
 
◈「仁王門(三解脱門)」は、2003年に建立された。扁額「正嫡付法」が掛かる。
 ◈「経蔵」(重文)が建つ。室町時代、1464年、8代将軍・足利義政は、9世・日暁に天下静謐の祈祷を依頼し、その恩賞として一切経(朝鮮本)、経蔵を寄進した。1536年の天文法難で罹災する。江戸時代、1607年、扇谷上杉家の太田資次が再建した。1788年の天明の大火を免れた唯一の建造物になる。1976年に移転再建されている。輪蔵式経蔵であり、内部に一切経を納めた582の引き出しのある創建当初の八角形の輪蔵が保存されている。輪蔵を一回転させると一切経をすべて読んだのと同じ功徳があるという。彩色、装飾、壁面の羅漢、天人の画も残る。三間四面、単層、屋根は宝形造、本瓦葺で、正面に一間の庇を葺きおろす。
 ◈「本師堂(立像釈迦堂)」は、1971年に建立された。10間4面。
 ◈「大本堂(本堂)」は、1973年に建立された。日朗、日印、日静、日伝が祀られている。13間4面。
 ◈「清正公廟」は、安土・桃山時代-江戸時代初期にかけての武将・大名の加藤清正(1562-1611)が両親の遺骨、自身の肉歯、毛髪を石室に納め、生き墓「真生廟」を建立した。安土・桃山時代、1592年、清正は、文禄・慶長の役(1592-1598)の際、16世・日禛より首題七字の旗を受けた。日禛は妙経一万部読誦会を修し、戦勝祈願をしたという。
 ◈「大客殿(旧書院)」は、1971年移築再建された。
 ◈「旧書院」は、1971年-1976年に再建された。
 ◈「鐘楼堂」は、1996年に建立された。
 ◈「九頭龍銭洗弁財天」は、1996年に勧請された。
◆文化財 日蓮は最期に日朗に「三箇の霊宝」(立像釈尊、立正安国論、法難赦免状)を託した。
 「輪宝ご本尊の裏書」(1278)、日蓮真筆 「立正安国論」観心本尊鈔(1269)、窪田統泰画「日蓮聖人註画讃」全五巻・三十二段(1536)など。
 
「梵鐘」は、秀吉の姉の村雲瑞龍院寄進という。鐘名は「大光山本圀寺」といい、徳川光圀の名の由来になったという。
◆六条門流 日蓮宗の2大門流、妙顕寺の四条門流に対して、本圀寺は六条門流といわれ、その祖は日静に始まる。5世・日伝に最盛期を迎えた。
 名僧として日重(1549-1623)、日乾(にっけん、1560-1635)、日遠(にちえん、1572-1642)などを輩出した。なお、近代まで日蓮宗布教院が常設されていた。
◆天文法華の乱 室町時代、京都の町衆(土倉)を中心とする日蓮宗徒は法華一揆を起こし、百姓・地侍の一向一揆、土一揆に対抗した。日蓮宗徒の勢力拡大に対し、次第に山門(延暦寺)との対立が起こる。
 1532年、京都の日蓮宗徒は、山科本願寺を焼き討ちし、その後も堺、石山本願寺を攻めて勢力拡大する。1536年、日蓮宗徒と延暦寺僧との宗論後、延暦寺は京都の日蓮宗弾圧を決定した。1536年7月22日-28日、天文法華の乱(てんぶん/てんもん ほっけのらん)が起こる。延暦寺宗徒は、近江国守護・六角定頼、三井寺勢の支援を得て、京都の日蓮宗寺院21寺を襲撃破却した。戦乱は22日の松ヶ崎より始まり、28日まで本国寺は持ちこたえた。日蓮宗徒は敗北し、京都より放逐され堺に逃れた。
 乱以後、1542年に洛中還住の勅許が下りるまで、日蓮宗は京都で禁教とされた。
◆本國寺の変 室町時代、1565年、永禄の変で、二条御所の3代将軍・足利義輝が、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)らに襲撃される。義輝は討死し、御所は焼失した。その後、六条の本国寺を仮の御所(六条御所)とした。
 1568年に足利義昭は、織田信長に擁立されて上洛し、居館として本国寺を使った。義昭は征夷大将軍に就く。
 1569年、信長は岐阜に帰る。その不在を狙った三好三人衆、斉藤龍興らが本国寺を襲撃した。細川藤賢、明智光秀がこれに応戦、細川藤高、三好義継、池田勝正らが来援した。事件は、義昭側の勝利に終わる。信長は岐阜より、大雪の道を2日で本国寺に駆け入ったという。六条合戦ともいう。
◆本圀寺事件 江戸時代末期、1863年、因幡鳥取藩の佐幕と尊攘派の内部対立により、本圀寺に宿泊していた鳥取藩側用人・黒部権之介ら4人が、知恩院塔頭・良正院に集まった若手の河田左久馬ら因幡二十士により襲われ、暗殺された。
 1866年、河田ら4人は遺族により仇討されている。因幡二十士事件ともいう。
◆朝鮮通信使 江戸時代、1636年-1764年に、朝鮮通信使は7回に渡り、400人の随員が当寺に定宿にしていた。本圀寺の松陽院、本実以院、松林院、本鳥栖院、久成院などが利用された。
 将軍名代として京都所司代が一行に挨拶し、饗宴を催した。
 随員の一人、金仁謙『日東壮遊歌』(1764)によれば、当時は相輪を持つ五層楼門があり、よい趣の庭があったという。
◆ロシア軍俘虜 1904年-1905年の日露戦争後、本圀寺はロシア軍捕虜の収容を行い本所になる。将校55人、下士官、兵士54人が収容されていた。捕虜は、のちに伏見俘虜収容所に移された。
◆不思議 不思議の伝承がある。
 「大黒天立像」は大黒堂にある。安土・桃山時代、天正年間(1573-1593)、老翁が寺に像を売りに来た。住持・日栖は、霊像のためすぐに得たいというと、翁は明日、お金を貰いにくるという。名を尋ねると紙筆を借り和歌を書き残した。「遥遥と北野の松の下住居 宿は葎(むぐら、雑草)のかげの菅原」。翁は菅原道真だった。/「出陣門」は、赤門をいう。加藤清正は、本尊参詣後、この門より朝鮮に出陣したという。以来、一般人は通さなかった。/「人麿社」は、平安時代の紀貫之(868頃-945)の勧請による。藤原俊成も参詣し、社を修復した。後、堀川出水にあり、流される。荒廃し、塚だけが残され、人麿塚(下京区柿本町)と呼ばれた。足利尊氏は、本圀寺を鎌倉より移す際に、社を再興し、和歌を詠じた。「行水の柳に淀む根をとえばいつか昔の人丸の塚」。/「太閤部屋」があったという。木下藤吉郎時代に吉祥院に住んだ頃、炊事をした部屋、隠れていた部屋ともいう。
 「鳥帽子石」は、塔頭・真如院の庭にある。足利義昭が烏帽子をかけた石という。また、安土・桃山時代、1560年、義昭は本圀寺に参詣し、鳥帽子石を気に入り、寺の宝物も持ち帰ろうとした。日乗は諫めたものの義昭は聞き入れず、日乗を寺より追った。石も3つに割る。その夜、山内の狐が集まり、義昭の頭に石を載せ、胸を押すなどした。義昭は耐えられず、日乗を赦し、宝物も返した。/「鶴井」は、塔頭・多門院にある。名水「鶴井」は織田有楽斎が茶の湯に用いた。本堂西には「亀井」(田面の清水)があり、合わせて「鶴亀井」と呼ばれた。なお、塔頭・持珠院に「松蔭井」、真如院に「真如水」があった。/「古井の尊像」とは、旧塔頭・瑞雲院にある。日蓮上人坐像が祀られている。室町時代、永禄年間(1558-1570)、日乗が大宮八条付近を通ると、法華経の読経が古井戸の水底より聞こえる。井戸に入り捜すと像があり、持ち帰り安置した。足利義昭和も信仰した。井戸には稲荷神が祀られ古井稲荷社と呼ばれた。
◆墓 当寺で得度した室町時代-江戸時代の村雲尼(日秀、1534-1625)の墓がある。豊臣秀吉(羽柴秀吉)の姉になる。
◆遺構 1994年の旧地(下京区)東端での発掘調査により、16世紀前半に埋め戻された堀(南北34m、幅6m、深さ2m)、境内内部の南北の堀(幅2.5m)が見つかった。
 旧地には、室町時代、1536年、比叡山衆徒、南近江の守護六角氏らによる京都の法華宗二十一本山を焼き討ちした天文法華の乱に備えた構え跡の遺跡がある。本國寺城と呼ばれ、法華宗、足利義昭、羽柴秀吉により築城された。
◆年間行事 年頭会(1月13日)、大荒行「星祭祈祷会」(2月24日)、春季彼岸施餓鬼法要(3月結岸)、立像釈尊降誕会(4月8日)、清正公大祭(6月24日)、盂蘭盆会施餓鬼法要(8月24日)、秋季彼岸施餓鬼法要(9月結岸)、宗祖御会式(10月13日)、清正公大祭(11月24日)。


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都大事典』『朝鮮通信使と京都』『秀吉の京をゆく』『京都歴史案内』『京都府の歴史散歩 中』『京都時代MAP 安土桃山編』『京都の寺社505を歩く 下』『京の怪談と七不思議』


  関連・周辺       周辺       関連法華寺     関連勧持院〔本圀寺〕       関連瑞雲院〔本圀寺〕     関連真如院      関連延暦寺・横川(大津市)      関連良正院      関連法華寺     関連勝龍寺城・勝竜寺城公園       関連涌泉寺(松ヶ崎檀林)      関連常照寺(鷹峯檀林)       関連善正寺(東山檀林)      関連護国寺(山科檀林)      関連北真経寺(鶏冠井檀林)          

旧鐘楼堂

旧鐘楼堂

大客殿(旧書院)


方丈大奥

旧書院


寺務所・庫裡

三五の鹿点回廊

日蓮像


九名さん

人形塚

九頭龍銭洗弁財天

九頭龍銭洗弁財天、お金をざるに入れ霊水で洗い、浄財袋に入れて持つと、財運に恵まれるという。

清正公廟、清正宮

清正公廟

清正公廟

清正公廟

清正公廟

清正公廟

鐘楼
九名大尊神
九名大尊神

九名皇諦尊女
九名大尊神



背後の山並み



琵琶湖疏水にかかる正嫡橋

琵琶湖疏水


   

【参照】本圀寺旧跡地(下京区柿本町、堀川五条)
平安京オーバレイマップ
 本圀寺 〒607-8403 京都市山科区御陵大岩6   075-593-9191
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