常照寺 (京都市左京区)
Josho-ji Temple
常照寺 常照寺
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山門、桜






紅葉





山門


山門、帰依した吉野太夫が23歳のときに寄進した。









本堂


寺紋は井桁に橘


本堂、日潮筆扁額「栴檀林」


鬼子母尊神堂






妙法龍神社、龍神を祀る。 


鎮守社の常富大菩薩


宝蔵


茶席「遺芳庵」



茶室「聚楽亭」



茶室「聚楽亭」



霊鷲山の庭








開山廟、日乾上人の五輪の塔の墓が祀られている。
 常照寺(じょうしょうじ)は鷹峯にある。境内は5700坪(1万8000㎡)ある。かつては数万坪を有したという。
 檀林の寺と称され、かつて「鷹峯檀林」が置かれた。日蓮宗京都六壇林の一つに数えられた。名妓・吉野太夫に由縁あり「吉野の寺」とも呼ばれている。山号は寂光山という。
 日蓮宗、本尊は十界大曼茶羅。
 吉野太夫にあやかり、諸芸上達(和歌、茶、書、舞)、合格祈願などの信仰がある。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 江戸時代、1615年、徳川家康は本阿弥光悦に、鷹峯の地を野屋敷として与える。光悦は、本阿弥一族、工匠、豪商らとともに移り住む。
 1616年、光悦よりこの地に土地寄進を受ける。光悦の養子・光瑳が発願主になり「法華の鎮所」として創建した。
 1627年、光瑳の発願により、身延山久遠寺第21世・寂照院日乾(にちけん)を開山として招き、法華の鎮所を建てる。日乾は、「寂光山常照寺」と名付ける。境内に宗僧のための壇林(鷹ヶ峰壇林、講主・智見院日暹)を創設した。学問所として「常照講寺」と呼ばれたともいう。
 後に、僧侶を養成する山城六壇林のひとつ「鷹峰壇林」になる。最盛期には30余りの堂宇が建ち並び、厳しい戒律の下で数百人の学僧が学んだ。
 1628年、壇林の講主を日揚が引き継ぐ。同年、寛永期(1624-1644)とも、島原の2代目・吉野太夫の巨額の寄進により吉野門(吉野の赤門)が建立される。(『常照寺縁起』)
 1711年、当寺は「六所随一なり」と記されている。(『山州名跡志』)
 近代、1873年、明治期(1868-1912)初期とも、壇林は廃止された。
 1917年、山門が再建された。吉野太夫の墓が改葬される。
 現代、1953年、入寺した奥田恵遠住持により復興される。
 1969年、「帯塚」が建立された。
 1971年、吉野太夫と灰屋紹益の供養のために「比翼塚」が立てられる。
◆日乾 室町時代-江戸時代の日蓮宗の僧・日乾(にちけん、1560-1635)。若狭に生まれた。1569年、長源寺・日欽により出家した。本満寺の日重に師事、天台三大部を修めた。本満寺13世。三井寺、南都に遊学し、1585年、本国寺の学道求法講院(後の求法壇林)講主になる。慶長年間(1596-1615)、摂津国能勢で請雨法を修し霊験あり、覚樹庵(後の無漏山真如寺)創建になる。1602年、身延山久遠寺21世。一時京都に戻り、1609年、久遠寺に再任された。1618年、静岡貞松山蓮永寺を中興する。1627年、鷹峯に檀林を開く。1630年、江戸城での不受不施派との対論(身池対論)では、身延側の一人として勝利した。号は寂照院。日蓮宗中興三師のひとり。常照寺に葬られる。
◆本阿弥光悦 安土・桃山時代-江戸時代の文化人・本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ、1558-1637)。刀剣の鑑定、磨砺、浄拭、工芸を家職とした京都の本阿弥家に生まれた。京屋敷は現在の実相院町(上京区)にあり、熱心な法華信者だった。「寛永の三筆」(ほかに近衛信尹、松花堂昭乗)のひとりとされ、書画、漆芸、作陶、茶の湯にも秀でた。古田織部、織田有楽斎につき、千宗旦とも交わる。角倉了以の子・素庵(1571-1632)に協力し出版した嵯峨本(典籍や謡本を雲母摺りした料紙に書を印刷)、琳派(りんぱ)の俵屋宗達の下絵に揮毫した和歌巻、色紙、蒔絵、彫刻、茶碗などもある。
 島原の吉野太夫を身請けした紺灰業の豪商・灰屋(佐野)紹益は、光悦の甥になる。吉野太夫を妻として迎えた際には光悦が仲介している。
◆本阿弥光瑳 江戸時代前期の工芸家・本阿弥光瑳(ほんあみ こうさ、1578-1637)。本阿弥光悦の養子、後継者。家業の刀剣研磨・鑑定、書も光悦弟子中で随一とされた。
◆日暹 江戸時代の僧・日暹(にっせん、?-1648)。智見院日暹上人。心性院日遠の弟子。小西檀林7世、本満寺11世、身延山26世。1627年、鷹峰壇林の2世講主になる。63歳。
◆日揚 江戸時代の僧・日揚(にちよう、?-1639)。立性院日揚上人。日乾の弟子。小西檀林9世。1628年、鷹峰壇林の3世講主。
◆吉野太夫 江戸時代の女性・二代目吉野太夫(よしの たゆう、1606-1643)。松田徳子。京都・方広寺付近の生まれ。父は西国の武士・松田武左衛門。1613年、7歳で父没後、六条三筋町扇屋林家に禿(かむろ)として預けられ、「林弥」と名乗る。1620年、14歳で太夫になった。当初は「浮舟」と呼ばれる。廓の桜を見て「ここにさへさぞな吉野は花盛り」と詠み「吉野」を襲名した。島原、六条三筋町の「六条の七人衆」の筆頭、「寛永三名妓」の一人で、「天下随一の太夫」と謳われた。美貌と品格、和歌、俳諧、書、茶湯、琴、琵琶、笙、香道、華道囲碁、双六など諸芸に秀でた。名声は江戸、遠くは中国にまで及ぶ。紺灰業の豪商・灰屋(佐野)紹益は、後水尾上皇の弟・関白近衛信尋と吉野を争う。1631年、紹益に26歳で身請けされ、その妻になる。東山・音羽川畔に暮らした。常照寺の日乾に帰依し、1628年、23歳で山門を寄進する。
 遺言により常照寺に葬られた。38歳。常照寺に片岡仁左衛門により建立された吉野太夫と紹益の墓「比翼塚」(1971)も立つ。
◆灰屋紹益
 江戸時代前期の豪商・灰屋紹益(はいや じょうえき、1610-1691)。佐野重孝。京都の生まれ。父は本阿弥光悦の甥・光益。のち佐野紹由の養子になる。智恵光院上立売に住む。光悦に親しみ、松永貞徳、烏丸光広、飛鳥井雅章らに和歌を学んだ。第108代・後水尾天皇、八条宮智忠親王らと交わる。1631年、名妓と謳われた吉野太夫を近衛信尋と争い身請けし妻にした。1642年、妻没後、晩年に後妻を娶る。茶の湯、蹴鞠、文筆にも優れ『徒然草』を擬して随筆『にぎはひ草』2巻(1682)を著し、茶の湯、和歌、蹴鞠などについて詳細に述べた。墓は立本寺(上京区)にあり、常照寺に供養塔が立つ。
 吉野太夫を喪った際に、吉野の荼毘の灰を飲み干し歌を詠む。「都をば 花なき里となしにけり 吉野を死出の 山にうつして」。
◆仏像・木像 釈迦如来、多宝如来、日蓮上人像も安置する。
◆壇林 江戸時代、1627年、常照寺に鷹峰壇林が開設された。初代講主は日乾、2世・日暹、3世・日揚と引き継がれた。学問所として「常照講寺」と呼ばれたともいう。
 後に、僧侶を養成する山城六壇林のひとつ「鷹峰壇林」になる。壇林は、「学室」、「庠(まなびや)」とも呼ばれる僧の学舎であり、鷹峰壇林は山城六壇林のひつとされた。かつては広大な敷地に衆妙堂、玄義寮など30数棟の伽藍が建ち並んでいた。
 学僧は13年以上も入寮し、学業のみならず、勤行、日常の礼儀作法、立振る舞い、給仕、掃除などの教育を受けた。これらは厳しい「山門永則」に定められていた。近代、1873年に廃止されている。
◆鎮守社 鬼子母尊神堂には、鬼子母尊神像(鬼形鬼子母尊神、双身鬼子母尊神)と眷属の十羅刹女を祀る。鬼子母尊神は子を殺して食うという悪鬼だったという。だが、仏の教えにより懺悔、改心し、以後、子育て、子授けの守護神になった。
 
鎮守社に常富大菩薩を祀る。江戸時代、享保年間(1716-1735)、壇林内で不思議なことが続いた。学頭の日善が智湧という学僧の部屋を覗くと、白狐が書見していた。日善に姿を見られた智湧(白狐)はやむなく寺を去る。摂津の妙見山で修行を行い、常富大菩薩になったという。寺には、智湧が去る際に書き残したという道切証文、起請文がある。末文には「爪の印」があるという。
 
妙法龍神社は、龍神を祀る。
◆建築 山門、本堂、宝蔵、茶室、庫裡などが建つ。
 現在の「本堂」は、創建時の講堂を改築している。
 「吉野門(吉野の赤門)」と呼ばれる朱塗りの山門がある。島原の二代目吉野太夫が帰依し、江戸時代、1628年、また寛永期(1624-1644)に寄進した。日乾は、檀家に借財し、太夫の座敷に上がっていたという。それに心打たれた太夫が寄進したという。かつては、二階造の楼門になっていた。1917年に再建されている。
◆茶室 吾妻屋「聚楽亭」、吉野窓を設えた茶席「遺芳庵」もある。
 吉野窓とは、吉野太夫が好んだ大円窓(おおまるまど)をいう。窓の下の部分が円ではなく、わずかに直線に切られている。「満れば欠くるが如し」といわれ、完全な円は悟りを意味し、不完全な円は悟りに至らないことを示す。吉野太夫は自らを戒め、あえて円を欠いたという。
◆庭園 中庭の「霊鷲(りょうじゅ)の庭」がある。釈迦が説法を説いた霊鷲山山頂にあるという、翼を広げた鷲の姿の巨石に似てることから名付けられた。
 山門内の庭園は、苔により鷹峰三山を表している。その中心に帯石の塚石(四国吉野産の吉野石、6t)が据えられている。近現代の作庭家・中根金作(1917-1995)による。
◆文化財 「日蓮聖人消息断片」。
 「学室」の扁額は本阿弥光悦筆による。
 本堂に掲げられている扁額「栴檀林」は日潮筆による。栴檀の双葉からは芳香りを放つという。
 本阿弥光悦画の「蓮乗日輪」は、蓮の上に赤い日輪が載る。蓮弁にたらし込みの技法が用いられている。
 「吉野太夫消息」。
 掛軸の「吉野太夫像」は、太夫没後に灰屋(佐野)紹益が描かせた立ち姿絵になる。現存するのは林司馬(1906-1985)による写しで、花供養当日に公開される。徳力富吉郎(1902-2000)による模写もある。
 灰屋紹益「月の歌」。
◆日乾と吉野太夫 常照寺の開祖・日乾と吉野太夫には逸話が残る。
 ある時、島原の吉野太夫のもとを貧僧が訪れ、吉野を一目みたいと告げた。主人は断るが帰らないため、吉野太夫が中に招き入れた。僧は吉野太夫を見るには、100文の金が要ると聞いたとして、銭を差し出した。
 吉野はそれを戻し、僧のあとをつけさせた。僧は常照寺の開祖・日乾とわかる。以来、吉野は日乾に深く帰依し、自らの没後は当寺に葬られることを望んだという。 
◆帯塚 全国でも唯一の帯を供養する「帯塚」がある。1969年に立てられた。帯は女性の体を締めて命を守る。帯の産地である西陣の繁栄も祈念している。
 帯を締めた形に似る塚石は、四国吉野川産の吉野石(6t)を用いている。内観方氏の夢告に、東福寺門前に立つ女性の姿があった。江戸時代の衣装を纏う美しい女性だった。実際に出かけてみると、石置き場にこの石が置かれていたという。
◆白馬伝説 境内北に白馬池がある。この付近に白馬に乗った仙人が住しており、この名が付いたという。かつて、池は埋め立てられようとしたが残された。畔に白馬観音像が祀られている。
◆鷹峰 鷹峰の地名は、毎年鷹がこの地に飛来し、多くの雛を育てたことによるという。付近一帯は、古くより朝廷の狩り場として禁野になっていた。
◆花木 境内には、吉野太夫を偲んで植えられたという吉野桜、枝垂れ桜、ソメイヨシノ、八重桜、山桜などがあり、桜の名所になっている。
 青モミジ、紅葉も美しい。
 山茶花、椿、霧島ツツジ、オダマキ、ガマズミ、ホウチャクソウ、山吹、シラン、シヤガ、皐月、ガクアジサイ、白蓮、桔梗、花ワラビ、萩、ホトトギス、ムラサキシキブ、紅葉、南天、千両、万両、十両なども植えられている。
◆墓 日乾廟所(開山廟)の墓がある。
 吉野太夫(戒名「唱玄院妙蓮日性信女」)の墓がある。吉野の墓は、当初、墓地の南西隅に密やかにあった。1917年に現在地の日乾上人廟の南に移された。この時、赤色素焼の古壺が出土し、中に白骨が入っていたという。
 なお、紹益、佐野家の墓は立本寺にある。二人の墓は別れていたため、1971年、14代・片岡仁左衛門(1910-1993)により常照寺に、吉野と紹益の供養のための「比翼塚」も建立された。仁左衛門は二人を題材にした狂言「さくら時雨」を演じた記念に立てた。
◆年間行事 新年祝祷会(1月1日)、節分会星祭(2月3日)、花祭り(4月8日)、吉野太夫花供養(太夫道中、供茶法要)(4月第3日曜日)、帯まつり(帯の時代風俗行列、帯供養(5月)、日蓮聖人御入滅報恩会式(10月13日前後の日曜日)、開山忌(11月26日)、寺宝展(11月)。


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の古寺から 23 常照寺』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 上』『昭和京都名所図会 3 洛北』『京都大事典』『古都歩きの愉しみ』『京都の寺社505を歩く 下』『京都隠れた史跡の100選』『おんなの史跡を歩く』『京都琳派をめぐる旅』『女たちの京都』『週刊 京都を歩く 37 紫野周辺』


  
 光悦寺      源光庵     角屋(島原)       高台寺       足抜地蔵・灰屋辻子(図子)       関連涌泉寺(松ヶ崎檀林)       関連善正寺(東山檀林)      関連本圀寺(本圀寺求法院)      関連護国寺(山科檀林)       関連北真経寺(鶏冠井檀林)         

吉野太夫の墓、法名は「唱玄院妙蓮日性信女」。

比翼塚、灰屋(佐野)紹益と吉野太夫二人の名が刻まれている。

紹益の歌碑、「都をば 花なき里となしにけり 吉野を死出の 山にうつして」

「蔵の財より身の財すぐれたり 身の財より心み財第一なり」、日蓮

帯塚

サクラ

「吉野太夫花供養」
 常照寺  〒603-8468 京都市北区鷹峯北鷹峯町  075-492-6775  8:30-17:00
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