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善正寺 (京都市左京区) Zensho-ji Temple |
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善正寺 | 善正寺 |
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![]() ![]() ![]() 善正寺・学室石碑 ![]() 「妙慧山 善正寺」の寺号板 ![]() 「豊臣秀次公、村雲門跡瑞龍寺 御墓所」の寺号板 |
善正寺(ぜんしょう-じ)は神楽岡と黒谷の丘陵地帯に建つ。豊臣秀吉の実姉・智(とも、日秀尼)、その子・秀次に所縁の寺になる。山号は妙恵山という。 日蓮宗本圀寺派、本尊は三宝尊、十界大曼荼羅とも。 「東山檀林」と呼ばれ、日蓮宗京都六壇林の一つに数えられた。 ◆歴史年表 創建の詳細は不明。 かつて、法勝寺の西にあり、善勝寺と称したともいう。官人・藤原保卿(?-988)の建立によるという。後に善正寺と改め、日蓮宗に改宗したともいう。(『雍州府志』中の『薩戒記』の引用) 安土・桃山時代、1595年/16世紀(1501-1600)末、日秀尼は高野山で自害した子・豊臣秀次の菩提を弔うために、当初は嵯峨亀山(嵯峨・二尊院とも)に一宇を建立する。開山は本圀寺・28世・日鋭という。 秀次の法名より善正寺とした。 1600年、現在地に移転した。日秀尼は日鋭を開山とし、善正寺を建立したともいう。寺号は、秀次法名「善正寺殿高巌道意」に因むという。本圀寺に属した。(『拾遺都名所圖會』巻2) 江戸時代、1624年/寛永年間(1624-1644)、4世・日演が中興し、東山檀林(学室善正講寺)を開檀する。山城国(京都)六檀林の一つになる。以後、多くの学僧が集まる。花時に参詣した人々には数日間の法談が行われ、「さくら談義」と呼ばれた。 近代、1872年/1873年、学制発布により東山檀林は廃檀する。以後、衰微し、境内は半減する。 現代、1976年、境内の南半分に市立白河養護学校が開校した。 ◆日鋭 安土・桃山時代の日蓮宗の僧・日鋭(?-?)。詳細不明。男性。本妙寺日鋭。本圀寺・28世になる。1595年、善正寺の開山になる。 ◆日秀尼 室町時代後期-江戸時代前期の日蓮宗尼僧・日秀尼(にっしゅうに、1533-1625)。女性。俗名は智(とも)、本名は智子、字は妙慧、道号は村雲、通称は村雲尼、院号は瑞龍院。尾張(愛知県)の生まれ。父・木下弥右衛門、母・天瑞院(大政所)、豊臣秀吉の姉。農民・弥助(後の武将・三好吉房、犬山城主)に嫁ぐ。1568年、長男・秀次、1569年、次男・秀勝、1579年、3男・秀保を産んだ。1588年、秀保は羽柴秀長の養子に入れた。1590年、秀次の尾張転封後は犬山城に移る。1591年、秀吉が嫡子・鶴松を喪い、秀次・秀勝を養子に入れる。1592年、秀勝は文禄の役で病死(戦死とも)、1595年、秀次は秀吉に高野山で切腹させられる。夫は連座し讃岐に配流された。(豊臣秀次切腹事件)。秀保も病死(十津川温泉で事故死とも)した。聚楽第を出て、嵯峨野に善正寺を建立し、秀次一族の菩提を弔う。秀次の首は庵の傍らに埋葬し供養した。1596年、本圀寺の16世・日禎(にちじょう)により得度する。村雲に瑞龍寺を建立した。1598年、第107代・後陽成天皇より瑞龍院の院号を受け、瑞龍院妙慧日秀と名乗る。天皇は寺領を寄進した。1612年、夫没後、1615年、大坂の陣で秀頼ら親族を失い、豊臣方の山口兵内の妻・お菊(孫娘)も処刑された。92歳。 瑞龍寺中興三大比丘尼の1人。墓は瑞龍寺(滋賀県)、本圀寺(山科区)、善正寺(左京区)に供養塔がある。 ◆豊臣 秀次 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・豊臣 秀次(とよとみ-ひでつぐ、1568-1595)。男性。初名は次兵衛、通称は孫七郎。「殺生関白」と呼ばれた。父・三好吉房(一路) 、母・豊臣秀吉の姉・瑞龍院日秀。初め宮部継潤の養子、後に三好康長(笑厳)の養子になる。1583年、伊勢攻略・賤ヶ岳の戦いに加わる。1584年、小牧・長久手の戦で指揮を誤り、徳川家康の軍に大敗し、秀吉の戒めを受けた。1585年、紀州征伐、四国征伐の活躍により羽柴の名字を許され、秀吉の諱の一字より秀次と名乗る。近江八幡山城を築き城主になる。従三位中納言に叙任され、近江中納言と呼ばれた。1586年、参議、1587年、島津征伐に出陣し、権中納言になる。1590年、主将として小田原征伐などに功をあげた。奥州に出陣し、1591年、九戸政実の乱を平定した。織田信雄の旧領尾張・北伊勢5郡を与えられ清須城に入る。秀吉は淀殿との間の子・鶴松を3歳で失う。秀吉は秀次を養子とし正二位左大臣に叙任し、関白職を譲り豊臣家を継がせる。秀次は聚楽第に住し政務を執る。秀吉自らは太閤と称した。1592年、聚楽第に第107代・後陽成天皇の行幸を仰ぐ。1593年、淀殿が秀頼を産む。秀吉は秀次に関白職を譲ったことを悔やむ。秀吉は秀頼と秀次の娘との婚約を進めたものの、次第に両者の間に亀裂が入った。1595年、秀吉は秀次に反逆の疑いをかけ、官位を剥奪する。秀次は高野山・青厳寺へ追放され、切腹の命を下され、柳の間で自害した。(豊臣秀次切腹事件)。28歳。 秀次の2人の子・妻・側室30数人も京都三条河原で斬首された。 秀次の五家臣も殉職した。秀次の死については暗殺説もある。秀次は多才な人物で剣術、歌道をよくし、名筆、古典籍を収集するなど文化的趣味も豊かだったという。学芸を奨励した。 善正寺(左京区)の善正殿(秀次廟)に供養墓がある。 ◆羽柴 秀勝 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・羽柴 秀勝(はしば・ひでかつ1569-1592)。男性。幼名小吉、岐阜宰相と呼ばれた。父・三好吉房、母・豊臣秀吉の姉(瑞竜院日秀)の次男。秀次の弟。1585年、織田信長の4男・秀吉の養子だった於次秀勝の没後、秀吉が養子に迎えた。秀勝と名乗らせ、遺領を相続させた。一時、領地の不満を申し立て、秀吉の不興を買った。1590年、小田原攻め後、甲斐一国を与えられた。1592年、旧2月、秀吉側室淀殿の妹小督(お江、崇源院)と結婚した。旧3月、朝鮮半島に渡り、唐島(巨済[コジュ]島)で戦病死した。 墓は善正寺(左京区)にある。 ◆三好 吉房 室町時代後期-江戸時代前期の武将・三好 吉房(みよし-よしふさ1534-1612)。詳細不明。男性。通称は弥助、木下弥助、武蔵守、号は一路(一路常閑)、三位法印一路。尾張国(愛知県)の生まれともいう。馬貸・馬丁・百姓ともいう。木下藤吉郎(豊臣秀吉)の姉・とも(日秀尼)と結婚した。1564年、秀吉の馬牽として士分に取り立てられる。1568年、治兵衛(豊臣秀次)、1569年、小吉(秀勝)、1579年、辰千代(秀保)が生まれた。秀次が三好康長の養子になり、以後は三好姓を名乗る。1582年、秀吉は中国大返しで姫路に帰った秀吉は、吉房にも留守居を命じた。1590年、尾張犬山城主になる。1591年、犬山城主を秀勝に譲り、尾張清洲城主になる。1593年、加増された。1595年、旧4月、秀保は病死した。旧7月、秀次が高野山で切腹になり、吉房は連座し所領没収・改易になり、四国の讃岐国に流され軟禁された。(豊臣秀次切腹事件)。1598年、秀吉の死後、赦免され京都に戻った。1600年、本圀寺に一音院を建立した。晩年、法華行者になり、下野国(栃木県)足利で没した。 墓は本圀寺の妙恵会総墓所(下京区)にある。 ◆日演 江戸時代前期の日蓮宗の僧・日演(?-? )。詳細不明。男性。顕寿院日演。善正寺4世。1624年/寛永年間(1624-1644)、善正寺を中興し、東山檀林(学室善正講寺)を開檀する。 ◆今出川 晴季 室町時代後期-江戸時代前期の公卿・今出川 晴季(いまでがわ-はるすえ、1539-1617)。男性。初名は実維。父・左大臣・今出川公彦(きんひこ)。侍従、美作守、権中納言などを歴任した。1545年、晴季に改名する。1548年、従三位、1555年、権大納言に就任した。1568年、第106代・正親町天皇の第1皇子・誠仁親王の別当になる。1585年、従一位、右大臣に就任し、豊臣秀吉の関白職就任に尽力した。1595年、娘婿・豊臣秀次が自害させられた事件に連座し、越後国に配流になる。1596年、罪を許され帰洛した。1598年、右大臣に還任した。死後は景光院と称された。79歳。 墓は善正寺(左京区)にある。 ◆江村 専斎 安土・桃山時代-江戸時代前期の儒医・江村 専斎(えむら-せんさい、1565-1664) 。男性。名は宗具、別号は倚松庵。京都の生まれ。子に江村樸斎・剛斎・訥斎。秦宗巴(はた-そうは)に曲直瀬(まなせ)道三流医術を学ぶ。加藤清正、美作・津山藩主・森忠政に仕えた。細川幽斎、木下長嘯子らと親交した。長寿の秘訣を後水尾上皇(第108代)に奏聞し、鳩杖を下賜された。和歌もよくした。伊藤坦庵により談話『老人雑話』がまとめられた。100歳。 本人、一族の墓は善正寺(左京区)にある。 ◆仏像・木像 ◈本堂に「法華首題碑」、名釈迦として知られた「釈迦如来像」、「阿弥陀如来像」を安置する。 ◈本堂に「豊臣秀次公木像」(48.8㎝)が安置されている。日秀が安土・桃山時代、1597年旧2月に彫らせた。五条坊門仏師・民部法眼作による。 寄木造、彩色、玉眼入。 ◈「日秀寿像(瑞龍院日秀寿像)」(40㎝)は、安土・桃山時代、1601年の65歳の寿像であり、日秀自ら彫らせた。右手に宝棒、左手に経巻を持つ。 寄木造、彩色、玉眼入。 ◈「金銅釈迦仏」(30㎝)は、本尊傍らの厨子内に納められている。江戸時代前期、元和年間(1615-1624)に、肥前国玉名郡中村浜の海底より現れたという。元政上人筆の縁起文が残る。 ◆建築 旧表門、表門のほか、本堂、大師堂、善正殿(秀次廟)は近年に建立された。ほかに鐘楼、庫裏などが建つ。 ◆日秀尼・善正寺 安土・桃山時代、1592年旧2月に、日秀尼(1533-1625)の母・大政所(1513-1592)が没した。同年旧7月には、日秀尼の次男・秀勝(1569-1592)も出陣していた朝鮮唐島で戦病死した。1595年旧4月に、3男・秀保(1579-1595)は十津川温泉で事故死した。同年旧7月に、長男・秀次(1568-1595)は、高野山で切腹に追い込まれた。さらに、秀次の5人の子、妻妾・子女34人らも三条河原で斬殺された。(豊臣秀次切腹事件)。夫・三好吉房(1534-1612)はこの事件に連座し讃岐に配流される。 日秀尼は、数年の間に親族の多くを失う。嵯峨野に隠棲し、秀次の首級を庵の傍らに埋葬したという。以後、二尊院の僧により供養を続けたという。1596年に本圀寺の日禎(?-?)に帰依し得度する。1598年、豊臣秀吉(1537-1598)の没後に第107代・後陽成天皇(1571-1617)に下賜された今出川村雲の地に、瑞龍寺を建立し移り住んだ。 その後、岡崎村に本圀寺の日鋭(?-?)を招き善正寺を建立する。嵯峨野より秀次の首級も移して供養し菩提寺にした。その後、度々寺を訪れ、一族の冥福を祈ったという。 ◆瑞龍寺 日秀尼(1533-1625)は、安土・桃山時代、1598年に、日蓮宗の瑞龍寺(ずいりゅう-じ)も建立している。正式には、村雲御所瑞龍寺門跡瑞龍寺という。現在は、滋賀県近江八幡市に移された。 瑞龍寺は当初、嵯峨の村雲(現在の二尊院付近)に開かれた。安土・桃山時代-江戸時代初期の第107代・後陽成天皇(1571-1617)により村雲の寺地・瑞龍寺の寺号・寺領1000石を贈られた。日秀尼は自らの菩提寺にした。皇女や公家子女が入寺・住職になり尼門跡になる。村雲卸所とも呼ばれた。 江戸時代、西陣(堀川今出川付近)に移転している。現代、1961年、堀川通の拡張工事に伴い、近江八幡市の要請により、豊臣秀次(1568-1595)ゆかりの八幡山城本丸跡(滋賀県近江八幡市)へ再移転した。当時の11世門跡・九条日浄尼代(1896-1962)が中興し、移転に尽力したという。 なお、日秀尼が隠棲した嵯峨野の跡地には、嵯峨村雲別院が創建された。 ◆墓 ◈善正殿(秀次廟)に秀次の供養墓(五輪塔)、その5人の子(仙千代丸、百丸、十丸、土丸、露月院)、日秀尼(1世・瑞龍院日秀尼)、秀次の父・三好吉房(1522-1612)、秀次の弟・秀勝(1569-1592)など一族の供養塔が立つ。 ◈室町時代-江戸時代の公卿・菊亭(今出川)晴季(1539-1617)、儒医・江村専斎(1565-1664)、その子・全庵の墓がある。 ◈村雲瑞竜寺歴代として、2世・瑞円院日怡尼(九条幸家三女)、3世・瑞照院日通尼(二条康道子女)、4世・瑞法院日寿尼(鷹司教平の女子)、5世・瑞現院日顕尼(鷹司房輔の女子)、6世・瑞應院日慈尼、7世・瑞妙院日護尼(二条吉忠の女子)、8世・常孝院日照尼(有栖川宮音仁親王王女・茂美宮)、9世・瑞政院日尊尼(伏見宮貞敬親王王女・為宮)、10世・瑞法院日栄尼(伏見宮邦家親王王女・万佐宮)、11世・瑞珠院日浄尼(仙石政敬の女子)、12世・瑞興院日英尼(小笠原長幹の女子)、13世・瑞華院日凰尼(桜緋紗子)などが葬られている。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *非公開。境内の撮影禁止。 *参考文献・資料 『京都古社寺辞典』、『秀吉の京をゆく』、『昭和京都名所図会 2 洛東 下』、『京都の寺社505を歩く』、『京都大事典』 、『京都戦国武将の寺をゆく』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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