勝龍寺城・勝竜寺公園 (長岡京市)
Shoryuji Castle
勝龍寺城 勝龍寺城
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「明智光秀公三女玉お輿入れの城」の碑。


大手橋、堀に架けられている。


高麗門


二層櫓(資料館)、板塀、高麗門


北の堀


軒丸瓦の九曜紋、瓦の丸二紋


北の冠木門

北門、石垣上には櫓、板塀が築かれていた。城内には堀を渡り、正面の門を入り、左手にあった第二の門を通らなければならなかった。
 1582年、山崎の合戦に敗れた明智光秀は、城に退却し、夜陰に乗じてこの北門から脱出した。溝尾庄兵衛以下5、6人の供しか連れなかった。この時、城攻めをした黒田勘兵衛高は、今後の攻略を有利に運ぶために、あえて北門の包囲網を甘くしていたとの説もある。


北門、石垣、土塁、第一の門を潜ると直進できず左に折れ第二の門に行く手を遮られた。これを枡形虎口といい、城内への侵入者を防御し、迎撃するための工夫だった。


本丸の周囲には、堀、土塁の上に石垣を築いた鉢巻石垣、板塀、隅櫓が建てられている。


本丸北側に再現された土塁上の隅櫓、多聞櫓、板堀


板壁の鉄砲狭間


北東の多聞櫓、板堀
 石垣の上に土塁が築かれ、さらにその上に石垣を築く鉢巻石垣となっている。


本丸から沼田丸へは土塁の斜面に石を使った階段がある。土塁頂上に上がり、沼田丸へは橋を使って渡った。土塁上には2層櫓、隅櫓などが建てられていたとみられている。


本丸から沼田丸への土塁


土塁上


本丸の井戸跡


発掘の際に出土した石塔、石仏群、築城の際にこれらも石垣などの石材の一部として利用されていた。


本丸(右)と田沼丸の間の土塁


本丸(右)と田沼丸の間の土塁


田沼丸の空堀


田沼丸の井戸跡、隣にある「ガラシャおもかげ水」には、周辺の人達が水汲みに訪れている。


本丸跡の細川忠興・玉(ガラシャ)像、本丸


細川忠興・玉(ガラシャ)肖像、資料館


出土した石塔、石仏など、資料館


出土した瓦、陶器類、資料館


藤孝時代の城、中央に本丸、その左に田沼丸、上にも土塁、堀が築かれている。右上が現在も土塁遺構がある神足神社に当たる。東(右)に小畑川、西に犬川が流れている。資料館
 平城の勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)は、山陰・山陽に至る南北の西国街道と山陽道から京都へ通じる久我畷(こがなわて)が交差し、京都の南西部を守る天王山に次ぐ要衝の地に位置していた。このため、南北朝時代以来、数々の戦の陣城となった。
 現在、遺構の一部は勝竜寺城公園(1.4ha)に整備されており、曲輪、堀、空堀、土塁の遺構が保存されている。広遠に大手橋、城門、多聞櫓、板掘などの模擬建造物が建てられている。
◆歴史年表 築城の詳細不明。
 南北朝時代、1339年、北朝の武将・細川頼春(1304/1299-1352)、師氏(913-970)兄弟が、淀川沿いの男山、山崎方面に進出してきた南朝方に対抗するために、北朝・足利尊氏方の前線基地として築いたともいう。
 室町時代、1457年、山城守護・畠山義就(1437-1491)が乙訓郡代役所として築いたともいう。同記についての記述が「東寺百合文章」に初見される。
 1470年、応仁・文明の乱(1467-1477)で、細川勝元を総大将とする東軍は、西軍の糧道遮断のため天王山に築城した。山名宗全を総大将とする西軍は、山城守護・畠山義就を城主とし、西岡地方支配のため城に陣し、修築したともいう。東軍の西岡衆・野田泰忠により攻城されたという。勝龍寺城搦手北之口で合戦があったという。
 1497年、足利義澄から細川元有(1459-1500)に城、3000貫が与えられた。
 1551年頃、三好長慶方の山城国人が城の普請に関わる。
 1558年頃、城は三好三人衆のひとり、岩成友道(?-1573)に城を横領されたともいう。
 1560年、織田信長は柴田勝家に城を攻めさせた。
 1562年、三好氏と畠山氏の対立激化により、三好方の今村慶満(生没年不詳)が入城した。
 1566年、三好勢によって勝龍寺城が落城し、三好三人衆のひとり岩成友通が城主となったともいう。
 室町時代、1568年、信長が15代将軍・足利義昭を奉じて上洛した上洛戦により、西岡一帯を攻略する。柴田勝家、蜂屋頼隆らは城を攻め友通は降伏する。信長により細川藤孝(1534-1610)に城が与えられる。
 1569年、六条合戦では、岩成友通ら三好三人衆は信長不在を狙って足利義昭宿所の本圀寺を襲った。だが、藤孝、美濃より雪中を引き返した信長に敗れる。藤孝、三好義継(?-1573)、池田勝正(1539/1530-1578年)?らが勝龍寺城に入る。
 1570年、足利義昭が一宮より帰り勝龍寺城に入る。
 1571年、藤孝が勝龍寺城に帰城する。信長は藤孝に城の普請を命じ城の大規模な改修が行われる。桂川より西の在所から人夫を徴発し、勝龍寺城を普請する。縄張は重臣・米田求政(こめたひでまさ、?-1590)による。舞曲十番が催される。以後、城は信長の山城支配の拠点となった。
 安土・桃山時代、1573年、藤孝は桂川西地一職の地位と知行を信長から与えられた。藤孝(長岡と改称)が元勝龍寺城主・石成友通を淀に討つ。
 1575年、神主・神道家の吉田兼見(1535-1610)が勝龍寺城に赴き、沼田丸で長岡藤孝と面会する。
 1576年、藤孝が日本書紀神代巻中の不明点質問のため、吉田兼見を勝龍寺城に招く。
 1578年、城の藤孝嫡男・忠興のもとに明智光秀娘・玉が輿入れする。
 1581年、藤孝が丹後・田辺城へ移り、村井貞勝の家臣・矢部善七郎(生没年不詳)、猪子兵助(?-1582)が守将になる。 
 1582年、本能寺の変の頃、京都所司代・村井貞勝の支配下だった。本能寺の変では、明智光秀が属城とし、山崎の戦いでは光秀軍は後詰めの城として城の南の恵解山(えかいやま)古墳に本陣を置き、陣城を築いたといわれている。6月12日、勝龍寺の西で足軽が鉄砲を撃ち合う。6月13日、秀吉軍に光秀軍は敗れ、光秀は城に一時退却する。光秀は5、6人の近臣とともに夜、城を脱出する。後は重臣・三宅綱都朝が守ったが、秀吉の攻城により落城した。
 1589年、秀吉による淀城(淀古城)築造の資材として廃城になる。
 江戸時代、1633年、永井直清(1649-1671)が山城長岡藩主となり2万石を与えられた。直清による築城が始まる。幕府は、堀を触らないこと、古城北へ屋敷を取ることを命じた。このため、7月、城の北側に屋敷(神足館、神足駅東付近)が造られる。
 1649年、直清が摂津高槻藩に転封にともない廃城になる。
 現代、1979年、発掘調査により、石仏、石材などが発見された。
 1992年、本丸跡が勝竜寺城公園として開園する。
◆細川頼春 鎌倉時代から 南北朝時代の守護大名・細川 頼春(ほそかわ よりはる、1304/1299-1352)。父は細川公頼。室町幕府侍所頭人、阿波・伊予などの守護。細川氏の一門で室町幕府管領家の祖。官位は従四位下讃岐守、刑部大輔。1352年、南朝方の京都攻めの際に、足利義詮を守って討死した。
◆畠山義就  室町時代の武将・畠山義就(はたけやま よしひろ/よしなり、1437-1491)。畠山持国の子。叔父・畠山持富の次男・政長との家督争いから、畠山家は分裂した。山名持豊とともに、政長・細川勝元と戦い、応仁・文明の乱(1467-1477)の契機となる。1470年、勝龍寺城城主となる。乱後、河内、大和を転戦し陣中で病没した。
◆岩成友通  室町時代の武将・岩成友通(いわなり ともみち、?-1573)。三好三人衆のひとり。三好長慶・義継父子に仕える。1565年、松永久秀らと義継を擁し将軍・足利義輝を殺害した。1566年、久秀らと和泉国で戦う。1567年、池田勝正と東大寺で松永久秀軍と合戦。1568年、足利義昭を擁して上洛しようとする織田信長を近江国六角義賢と結んで阻止、勝竜寺城を攻撃されて降伏した。1569年三好長逸らと本国寺在陣の義昭を襲っうが敗退。1573年の義昭の反信長の兵に呼応するが、細川藤孝らに敗れ淀城は落城、戦死した。
◆細川幽斎 室町時代の武将・細川幽斎(ほそかわ ゆうさい、1534-1610)。藤孝(ふじたか)。父は三淵晴員。母は 将軍足利義晴の側室(清原宣賢の娘)、実父は義晴ともいう。1539年、細川元常の養子となる。1554年、家督を相続。1565年、将軍義輝暗殺後、その弟・一条院覚慶(義昭)を大和興福寺より救出する。1568年、織田信長の援助を得て義昭の上洛に成功した。1573年、義昭が信長に追われると信長家臣 となり西岡(長岡)を得る。1580年、藤孝は明智光秀とともに丹波、丹後平定を成した功により、信長より丹後一国を与えられた。1582年、本能寺の変では姻戚の明智光秀の誘いを断わり、剃髪し丹後に隠居した。1583年、豊臣秀吉より西岡を与えられる。秀吉の九州攻め、小田原攻め、文禄の役にも加わる。1600年、関ケ原の戦では徳川家康方につき、田辺城に籠城したが生還する。
◆沼田麝香 戦国時代の細川幽斎の正室・沼田麝香(ぬまた じゃこう、1544-1618)。父は若狭国熊川城主沼田光兼。1562年頃に藤孝に嫁いだ。1563年、嫡子・細川忠興を出産。1600年、忠興妻・ガラシャが自害したことを受けて、1601年、忠興の家臣小倉入部により受洗した。洗礼名はマリア、細川マリアと呼ばれた。
細川忠興  江戸時代の大名・細川忠興(ほそかわ ただおき、1563-1646)。三斎。藤孝(幽斎)の長男として京都に生まれる。細川輝経の養子となる。明智光秀の娘・玉(細川 ガラシア)を妻とした。1580年、丹後を与えられる。1582年、本能寺の変後、豊臣秀吉は玉の殺害を命じたという。だが、忠興は玉子を離別し幽閉した。1589年、秀吉は幽斎と忠興に改めて丹後国を 安堵した。1593年、朝鮮に出陣、1596年、越中守となる。秀吉没後、徳川家康に接近し、1600年、関ケ原の戦に加わる。だが、玉は人質として大坂城に入らず自刃した。戦後、その功により、豊前、豊後を与えられ中津城に配した。小倉城を築き本城とした。1620年、家督を譲り、中津に移り三斎宗立と号した。1632年、八代城に入り隠居領を領した。八代で亡くなる。
 教養人・茶人としても知られ、利休七哲の一人に数えられる。利休切腹の命の際には、利休を忠興と古田織部だけが見舞ったという。
◆細川ガラシャ 室町時代-安土・桃山時代の女性・細川ガラシャ(ほそかわ がらしゃ、1563-1600)。明智珠、玉、玉子。明智光秀の三女として越前に生まれた。母は煕子(ひろこ)。美貌の誉れ高く、1578年、15歳で父の主君・織田信長の仲介により、16歳で勝龍寺城の細川忠興に嫁いだ。1580年、長男・忠隆、その後2人の子が生まれた。1582年、父・光秀の起こした本能寺の変後、忠興の父・幽玄は光秀に与せず、玉の母、兄弟姉妹も自害した。忠興は豊臣秀吉への恭順を表すため、「逆臣の娘」となった玉を丹後味土野(みどの)に一時幽閉する。1584年、豊臣秀吉の取成しにより大坂玉造の細川邸に戻された。1587年、侍女・清原いと(マリア)の手引きにより、天満のイエズス会の洗礼を受ける。忠興は当初、受洗に反対したが、玉は信仰をやめず、夫は後に観念した。洗礼名ガラシャとは、神の恵みの意味という。邸内に孤児院を開く。1600年、徳川家康と対立した石田三成により、屋敷が包囲される。三成は諸大名の妻たちを人質に取り、家康打倒を目論む。玉は、夫が不利になることを悟り人質を拒否した。屋敷に火を放ち、信仰上自害が許されないため、家老・小笠原少斎に介錯を頼んだ。辞世の句「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」。38歳。忠興は大坂でキリシタンによる葬儀を営んだ。
◆明智光秀 安土・桃山時代の武将・明智光秀(あけち みつひで、1528?-1582)。美濃の土岐一族とされる。越前の朝倉義景、織田信長に仕え、足利義昭にも奉仕した。1568年、信長入京にも関わる。信長と義昭との対立の際にも斡旋した。1570年、信長の摂津、近江の出陣以来、各所での戦に関わる。1571年、信長により坂本城を与えられる。1575年、九州の名族惟任姓と日向守を与えられた。1575年、信長に丹波攻略を命じられ、口丹波、亀山、八木、山国を攻略一国支配を認められた。1580年、備中、1581年、因幡鳥取城攻撃の秀吉を助ける。1582年、信長の命の中国攻略中の秀吉支援に反した。明智軍は備中に向かわず、亀山城から老ノ坂を経て本能寺を急襲した。信長は自刃、二条御所の信忠も自滅させた。
 秀吉との山崎の合戦に敗れ、比田則家の進言により、反撃を諦め一旦勝龍寺城に入る。秀吉軍は城を包囲した。夜、溝尾勝兵衛ら近臣の5、6人とともに城を脱し、久我縄手、伏見大亀谷、坂本城に落ち延びる途中の小栗栖(伏見区)で、土民の襲撃によって負傷し、溝尾の介錯により自刃したとも、殺害されたともいう。
◆清原マリア 安土・桃山時代の清原マリア(きよはら まりあ、生没年不明)。いと。父は、公卿で儒学者の清原枝賢(えだかた、1520-1590)。親戚筋の細川家に奉公し、後に明智玉の侍女となる。1587年、大坂の教会で洗礼を受け、マリアと称した。同年、玉に自ら洗礼を授けた。ガラシャ(玉)次男・興秋にも洗礼を授けた。
◆永井直清  江戸時代前期の大名・永井直清(ながい  なおきよ、1591-1671)。永井直勝の次男。兄・永井尚政。2代将軍・徳川秀忠に仕え、小姓、書院番、1633年、長岡藩主、勝龍寺城を賜る。1649年、摂津高槻藩藩主となる。永井家初代。京都所司代代理,大坂城代代理をつとめた。山崎八幡宮修復、東寺五重塔の再建に尽力した。猿楽能の巧者。
◆築城年 勝龍寺城の築城年については3説ある。
 南北朝時代、1339年、北朝の武将・細川頼春、師氏兄弟が、南朝方に対抗するために築いたという。
 室町時代、1457年、山城守護・畠山義就が乙訓郡代役所として築いたという。
 室町時代、1470年、応仁・文明の乱(1467-1477)中、西軍の畠山義就は、西岡地方支配のために築城したともいう。
◆勝龍寺城構造 現在の勝龍寺城は、本丸を沼田丸が階段状に囲む梯郭式平城になっている。東西は120m、南北80mの長方形になっている。標高は20mの平城になっている。幅12mの水堀が北、東、南にある。土塁は北、東、西にあり、西のものは最大で高さ10m、幅5mある。南にも土塁はあったとみられている。
 これは、室町時代、1571年、細川藤孝により、それ以前の方形単郭館(東西218m、南北90m)を大規模に改造したものとみられている。殿主(天守)様の高層建築物も存在したとみられている。1574年、三条実澄が殿主で古今集切紙を伝授したという。1571年に明智光秀が築城した近江坂本城に携わった瓦工人も、勝龍寺城に関わったとみられている。勝龍寺城は、1576年、織田信長が築城した安土城に先立つ城郭建築とされている。
 城の北は開き、東に小畑川、西に犬川がY字に合流する自然の堀内に築かれていた。北から松井屋敷、米田屋敷、中村屋敷が建ち並び、その南に本丸、その西隣に沼田丸、その北に沼田屋敷、本丸南に勝龍寺、築山屋敷があった。また、北方に外郭と神足屋敷が置かれた。
 藤孝時代の本丸は、東西105m、南北70mあり、周囲に深さ3m、幅15mの堀が掘られていたとみられる。その内に盛土した4m-5mの土塁が造られていた。西の土塁は南に迫り出しており、防御上最も高く造られていた。堀と土塁で囲まれた本丸内には、南に南門、北西に北門があり、南東隅に隅櫓が建てられていた。周囲の土塁上には多聞櫓が築かれていた。
 本丸北西隅に北門があった。城に入るには、まず堀を渡り第一の門を潜る。2m以上の土塁に周囲を閉ざされた四角い広場に一度入る。敵が門より侵入した場合には、この場所で四方より攻撃を受けた。さらに、左手に折れ第二の門を潜って城内に入ることができた。これは枡形虎口といわれ、戦国時代末期に西日本を中心に造られた。門や口を2重に構えることで、城内への侵入を阻むとともに、守備側の敵への攻撃を有利にするものだった。1582年、山崎の合戦で城内に退避していた明智光秀は、夜陰に乗じてこの北門より城を脱したといわれている。ただ、城攻めをした敵方の黒田勘兵衛高により、翌日以降の攻略を有利に運ぶため、あえて包囲網を甘くしたともみられている。 
 本丸内北東隅、東には4mの土塁が築かれ、斜面には7段の石垣が造られていた。土塁の上は10m四方あり、角に隅櫓とつながった多聞櫓という長屋風の建物が築かれ、敵の監視目的とと攻撃用途の建物だったとみられている。建物内には弓矢、槍、鉄砲、火薬が保管されていた。また、土塁斜面途中には平坦部を設け、井戸も造られていた。
 本丸内にも南北方向に堀があり、幅4m、深さ2mあった。
 沼田丸は、本丸南西に位置していた。本丸から沼田丸へは土塁の斜面に石を使った階段があり、土塁頂上に一度上がり、沼田丸へ橋を使って渡っていた。土塁上にも隅櫓など高層の建物があったとみられている。本丸と沼田丸の間には、帯曲輪(おびくるわ)といわれる南北の区画があり、幅5mの両側は堀に挟まれていた。この曲輪は城などの一定区域の周囲に築いた土や石の囲いで、一つの曲輪の外側に帯状に設けられていたものをいう。ここには、東西に架橋されていたとみられている。
 本丸西隣の沼田丸の名は、細川藤孝の妻・沼田氏に与えた屋敷があったことに由来するとされている。東西50m、南北65mあり、周囲には土塁が築かれ、堀により囲まれていた。堀は西南と北、東に確認されており、幅5m、深さ2mあり、石垣ではなく素堀りの堀だった。北には沼田屋敷が隣接していたとみられている。
 井戸跡も見つかっている。沼田丸のものは、直径0.9m、深さ2m、底に太い丸太を井桁に組み、石を積み上げていた。これらの石には石仏や五輪塔が流用されていた。本丸内にも同様な形式の井戸が3か所あった。これらは、藤孝による改修時のものとみられている。なお、近年の発掘の際にも湧水が確認されたという
◆勝竜寺城の戦い
 室町時代、1568年9月26日-29日の勝竜寺城の戦いは、織田信長が足利義昭を奉じて上洛の際に、信長の命により、家臣の柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚らに、岩成友通が守る勝竜寺城を攻めさせた。29日、信長自ら5万兵を率いて城を攻略し、三好三人衆は降伏、開城した。
◆山崎の合戦 安土・桃山時代、1582年6月2日、本能寺で明智光秀により織田信長が討たれた。3日、信長の命により中国地方備中高松城攻め最中の羽柴秀吉は、すでに本能寺の変について察知していた。4日、秀吉は戦を中断し、毛利氏と和睦し急遽京都へ戻る。(「中国返し」)。他方、光秀の軍は近江を制し、10日、秀吉の動静を知る。光秀は、淀城、勝竜寺城の修築に取り掛かり、男山の兵を撤収させた。12日頃、円明寺川(現・小泉川)を挟み、秀吉は宝積寺に、明智は御坊塚(下植野)に本陣を構え対峙した。
 13日午後4時頃、雨中、秀吉軍4万、光秀軍1万5千の軍勢で戦闘が始まる。光秀が頼みとしていた細川忠興・幽細、洞ヶ峠に陣をしいた筒井順慶の援軍は得られなかった。両軍一進一退後、淀川沿いに布陣していた秀吉軍の一部が円明寺川を渡河して奇襲をしかけた。数時間後、明智軍は総崩れとなり、勝竜寺城に一時退却する。明智軍の士気低下から兵の脱走、離散が相次いだ。
 光秀は夜陰に乗じ城より近江へと逃れた。近江坂本城、安土城の明智秀満の軍と合流しようとした。途中、光秀は小栗栖で土民の竹槍により殺害された。また、負傷し自害したともいわれている。14日、秀吉の軍は、坂本城に秀満を追い、一族を自刃させた。さらに、別軍が丹波亀山城の明智光慶を自刃に追い込む。秀吉の軍は、16日に長浜城を攻め近江を平定した。
◆遺構 公園内の遺構は、虎口跡、東と北に水堀、東、西、北に土塁、堀、井戸跡、北方外郭として、神足神社南側に東西の土塁と空堀、土橋などが残る。
◆神足館 江戸時代、1633年、永井直清は、勝龍寺城に入る。その後、洪水に被災したため、城の北に新たに神足館(こうたりやかた)という城館を建てた。1649年に高槻に移るまで居城した。
◆年間行事 長岡京ガラシャ祭(11月3日-13日)。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『桔梗の花さく城』『勝龍寺城今昔物語』『秀吉の京をゆく』『京都おとくに歴史を歩く』『おんなの史跡を歩く』『京に燃えたおんな』『京を彩った女たち』『女たちの京都』


   関連・周辺神足神社(長岡京市)      周辺勝龍寺(長岡京市)      関連明智光秀首塚     関連明智光秀之塚(胴塚)、明智藪        

【参照】神足神社に残る土塁、土塁上より見る。

【参照】神足神社、土橋の遺構、空堀に土盛りして通行できるようにした部分、横矢掛りになっていた。

【参照】神足神社、溝の空堀、右に土盛りの土塁遺構
 勝龍寺城・勝竜寺城公園 〒617-0836 京都府長岡京市勝竜寺13-1   075-952-1146
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