良正院 (京都市東山区)
Ryosho-in Temple
良正院 良正院 
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表門










玄関






本堂


庭園




鎮守社



鎮守社





【参照】瓜生石(うりゅういし/ うりゅうせき)、良正院門前の華頂道の中央の横断歩道傍
 知恩院の黒門下に建つ塔頭・良正院(りょうしょういん)は、徳川家康の娘・督姫(とくひめ)追善のために創建された。
 浄土宗総本山派、本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 室町時代、1428年、春浩翁軒善誉九感の創建による。当初は「浩翁軒」と呼ばれた。
 安土・桃山時代、1595年、浩翁軒の住持に得入宗把が就く。
 江戸時代、1615年、徳川家康四女・督姫が二条城で亡くなり、家康は知恩院満誉尊照を導師として葬儀を執り行う。遺骸は知恩院山上に葬られ、墓碑が立てられた。法名は「良正院殿智光慶安大禅定尼」と号した。
 1631年、1624年とも、督姫の子・岡山藩主・池田忠雄は、母・督姫の菩提を弔うため、2代将軍・徳川秀忠の許を得る。浩翁軒の寺域を拡張し、1町四方(100m)に新たに伽藍を建立した。寺号は、母の法号「良正院殿智光慶安大禅定尼」により良正院とした。知恩院方丈に安置の督姫の位牌、御影を当院に遷し、以後、香花所になる。浩翁軒の得入宗把(そうは)が改めて住持となる。
 1633年、焼失している。その後復興される。
 1863年、本圀寺事件で、良正院に集まった河田左久馬ら因幡二十士が、鳥取藩側用人・黒部権之介らを暗殺した。良正院本堂「竹の間」で、志士の一人奥田萬次郎は自刃した。
 近代、1926年、境内に保護少年指導施設が発足する。
 1928年、歌碑「戦友」が建立される。 
 現代、1968年、境内に社会福祉法人・大照学園授産部(通所授産施設)を開設する。京都市内では初めての認可施設となる。
 1980年、本堂、表門が重要文化財指定を受ける。
◆得入宗把 江戸時代の浄土主の僧・得入宗把(?-1647)。詳細不明。浩翁軒と号した。1595年、1603年、1647年、浩翁軒の住持。知恩院の満誉、城誉、然誉、雄誉に仕えた。知恩院境内拡張(中の段)の功により、徳川家康より「宗把」の二字を贈られる。
◆督姫 安土桃山時代-江戸時代前期の女性・督姫(とくひめ、1565-1615)。父は徳川家康。母は側室の西郡局(鵜殿長持の娘)の二女。三河国に生まれた。於普宇、富子とも称した。和睦のため、1583年、北条氏直に嫁ぎ二女を産む。1591年、氏直没後、徳川家へ戻る。1594年、豊臣秀吉の仲人により織田信長に仕えた池田輝政に再嫁し5男2女をもうけた。1613年、輝政が亡くなり落飾する。1614年、父・家康上洛の際に、対面のために二条城滞在中に病により亡くなる。
 家康は知恩院に命じ同院山上に葬らせた。法名は「良正院殿智光慶安大禅定尼」。墓所は良正院にある。
◆池田忠雄 江戸時代の大名・池田忠雄(いけだ ただかつ、1602-1632)。播磨姫路藩主・池田輝政の3男(6男とも)。母は徳川家康娘の督姫。1607年、松平姓をゆるされる。1610年、洲本藩主、1615年、兄忠継を継ぎ、備前岡山藩主池田(松平)家2代となる。1630年、寵童の小姓・渡辺源太夫が藩士・河合又五郎に殺害される。以後、河合をかくまった旗本と対立した。1632年、忠雄は仇討を遺言として亡くなる。1634年、源太夫の兄・渡辺数馬らは「鍵屋の辻の決闘」により本懐を遂げる。墓所は岡山の清泰院にある。
◆本圀寺事件 江戸時代末期、1863年8月17日夜、因幡鳥取藩内の佐幕と尊攘派の対立にまつわる事件が起きた。本圀寺に宿泊していた鳥取藩側用人・黒部権之介ら4人が、知恩院塔頭・良正院に集まった若手の河田左久馬ら因幡二十士により襲われ暗殺された。襲った側は良正院に戻り処分を待った。翌早朝、八月十八日の政変が起こる。8月20日、そのうちの一人、奥田萬次郎は、黒田を殺害した自責の念により本堂「竹の間」で自刃した。
 なお、1866年、河田ら4人は遺族により仇討されている。因幡二十士事件ともいう。
◆真下飛泉
 近代の教育者・作詞家・真下飛泉(ましも ひせん、1878-1926)。瀧吉。京都府加佐郡河守町(現福知山市大江町)の農家二男に生まれる。1893年、准教員候補者となる。1895年、京都府尋常師範学校入学、1899年、卒業し有済小学校教員になる。関西青年文学界堺支部に入会した。1900年、与謝野鉄幹に師事、明星派の影響を受けた。1902年、新詩社京都支部に参加する。1903年、結婚。師範学校付属小学校に移る。1904年、唱歌「出征」を発表。1905年、歌集「戦友」を出版した。1917年、尋常小学校訓導、校長となる。1923年、讒訴により飛泉の転任命令が出され、京都市当局と対立した。学区会議員、新聞社も飛泉を支持した。与謝野寛により市長への公開状も出された。1924年、退職し紛糾は終結、私立東山中学校教員となる。1925年、京都議会議員に最高得票により当選した。教育改革に取り組む中、翌1926年、急逝した。
 良正院に寄寓した。知恩院山内に墓がある。
◆建築 本堂、車寄、玄関は二条城三の丸より移したともいう。異説もある。
 ◈「本堂」(重文)は、江戸時代、1631年に建立された。二条城より移築したともいう。方丈型本堂で、備えた上段に座敷飾りを設けた。東より竹の間、奥(北)に四季草花の間(床付)、中央に松の間、奥に仏間(杉の間)、西に鉄線蓮の間、山水の間(床棚付)がある。中央の間正面は3間、中央に桟唐戸、両脇にかつて蔀戸があった。南に鶯張りの廊下(広縁)がある。天井は南室に棹縁、間仕切上部に竹の節欄間、南北室境に筬欄間、長押の六葉、襖引手に三葉紋建立当初の障壁画が残されている。塔頭本堂の数少い遺構とされている。桁行21.4m、梁間15.5m、一重、入母屋造、本瓦葺。
 ◈「南面玄関」は桁行二間、梁間一間、正面唐破風造、背面が本堂に接続している。桟瓦葺。
 ◈「表門」(重文)は、江戸時代、1631年-1644年に建立された。一間一戸、桁行34m、梁間5.1m、切妻造、本瓦葺、薬医門。
 ◈「鎮守堂」(府指定文化財)がある。
◆文化財 「池田忠雄画像」1幅、「良正院文書」。
◆障壁画 江戸時代、京狩野の「三益(さんえき)」により描かれたという襖絵がある。竹の間に金地著色「竹林図」、四季草花の間に紙本著色「四季花鳥図」、松の間に金地著色「松図」、仏間(杉の間)に金地著色「鉾杉図」、鉄線蓮の間に金地著色「鉄線朝顔図」、山水の間に紙本水墨図「山水図」がある。
 杉戸絵は「虎図」、その裏面に「水鳥図」、ほかに「水仙図」「鶴図」「高士図」がある。さやの間板絵に「柳に小禽図」がある。
 1622年に描かれたともいう。妙心寺塔頭・天球院の障壁画の「籬(まがき)に草花図」「竹林群虎の図」と良正院の「鉄線朝顔図」「竹林図」の類似性も指摘されている。天球院開基の天久院は池田信輝の三女になる。良正院仏間(杉の間)の「鉾杉図」は、妙蓮寺書院の障壁画「鉾杉図」との類似性がある。
 良正院の障壁画は、かつて狩野山楽筆によるとされた。山雪派の流れをくむ者とも、三益ともされる。三益とは、初代・山楽(1559-1635)の子・伊織(光孝、三益とは山益の誤記ともいう)との見方もある。
◆歌碑「戦友」 門前右脇に鞍馬石の歌碑「戦友」が立てられている。石碑には「こゝはお国を何百里」と歌詞の一部が刻まれている。揮毫は軍人・作家の桜井忠温(1879-1965)による。碑の高さ2.7m、幅0.9m。   
 「戦友」は、真下飛泉(ましも ひせん)の作詞、三善和気(みよし かずおき)の作曲による。歌詞は14番まである。歌は、日露戦争(1904-1905)の最中に発表され大流行した。真下は、義兄となる木村直吉に1905年の日露軍の奉天会戦(中国の瀋陽)について聞き詞を書いたという。真下は、晩年、寺院の近くに暮らした。1928年、京都府師範学校付属小の教え子1824人により碑が立てられた。
 作曲した三善和気 (みよし かずおき、1881-1963)は、京都市の小学校(中学校とも)で音楽を教えていた。後、ピアニストになり、宝塚音楽歌劇学校講師になったという。
 歌は子どもたちから流行した。やがて、演歌師により全国に普及する。歌は厭戦的とみなされ、陸軍は将兵が歌う事を禁じた。ただ、太平洋戦争中に軍隊内では事実上黙認されていた。
 戦後、占領軍により軍歌が禁じられる。庶民は歌い続けた。森重久彌のレコードが大流行する。占領軍は寺に対し、飛泉の石碑が軍国主義を鼓舞するとして破却を要求した。だが、当時の住職は反戦歌としてこれを拒否したという。 

 1.ここはお国を何百里  離れてとほき満州の 赤い夕日に照らされて  友は野末の石の下  
 2.思へばかなし昨日まで  真先駈けて突進し 敵を散々懲らしたる  勇士はここに眠れるか  
 3.あゝ戦の最中に  隣りにをった此友の 俄かにハタと倒れしを  我はおもはず駆け寄って  
 4.軍律きびしい中なれど  これが見捨てて置かれうか 「しっかりせよ」と抱き起し  仮繃帯も弾丸の中  
 5.折から起る突貫に  友はやうやう顔上げて 「お国の為だかまはずに  おくれてくれな」と目に涙  
 6.あとに心は残れども  残しちゃならぬ此からだ 「それぢゃ行よ」と別れたが  ながの別れとなったのか  
 7.戦すんで日が暮れて  さがしにもどる心では どうぞ生きってゐてくれよ  物なと言へと願うたに  
 8.空しく冷にて魂は  故郷へ帰ったポケットに 時計ばかりがコチコチと  動いてゐるもなさけなや  
 9.思へば去年船出して  お国が見にずなった時 玄海灘に手を握り  名をなのったが始めにて  
 10.それより後は一本の  煙草も二人わけてのみ ついた手紙も見せ合ふて  身の上ばなしくりかえし  
 11.肩を抱いては口ぐせに  どうせ命は無いものよ 死んだら骨を頼むぞと  言ひかはしたる二人中  
 12.思ひも寄らず我一人  不思議に命ながらへえて 赤い夕日の満州に  友の塚穴掘ろうとは  
 13.くまなく晴れた月今宵  心しみじみ筆とって 友の最期をこまごまと  親御へ送る此手紙  
 14.筆の運びはつたないが  行燈のかげで親達の 読まるる心おもひやり  思はずおとす一雫
瓜生石 
瓜生石(うりゅういし/うりゅうせき)は、良正院門前の華頂道の中央の横断歩道傍に残されている。直径1.5mある巨岩で、地中に埋められて上部だけが露岩している。
 石は「知恩院七不思議の一つ」といわれている。石には一夜にして瓜がなり、「牛頭天王」の文字があった。そのため、瓜は牛頭天王を祭神とする粟田神社に奉納されたという。以後、瓜生石と呼ばれた。マグマに接した岩石が、熱により変成作用を受けた接触変成岩で、チャートと石灰岩が混じった複合岩体という


*非公開
*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『障壁画全集 知恩院』『京都大知典』『京の門』『京都の明治文学』『昭和京都名所図会 1 洛東 上』、ウェブサイト「真下飛泉資料室」、ウェブサイト「高木敏雄HomePage」


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