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| 広沢池・遍照寺山 (京都市右京区) Hirosawanoike Pond |
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| 広沢池 | 広沢池 |
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![]() 遍照山と広沢池 ![]() 「廣澤の池 大本山 大覚寺」の石標 ![]() 遍照山(右)と愛宕山 ![]() 遍照山、この岸付近で近年、遍正寺の礎石が発見された。 ![]() 「広沢の池の水草吹きよせて風よりはるる波の月影」、後京極良経。松尾芭蕉「名月や池をめぐりて夜もすがら」 ![]() ![]() ![]() 広沢池 、OpenStreetMap Japan ![]() 平安郷 ![]() 平安郷 ![]() 平安郷 ![]() ![]() 池面の凍結 ![]() ![]() 冠雪した愛宕山、広沢池 ![]() 観音石仏 ![]() 観音島の壹美白弁財天社 ![]() 池ざらい ![]() 五山送り火(8月16日) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 池近くにある「植藤」・佐野藤右衛門庭の桜 ![]() ![]() 田園風景 |
嵯峨野大覚寺の東西にある人工池の広沢池 (ひろさわ-の-いけ)は、日本三沢のひとつ(大分県・初沢池、奈良県・猿沢池)とされる。いまも、灌漑用の溜池として利用されている。 東西、南北ともに300m、広さ13ha、周囲1.2㎞(1.3㎞)、貯水量15万t、最深部は池の南の水深1.8mになる。 ◆歴史年表 詳細は不明。 奈良時代、8世紀(701-800)、嵯峨野を開拓した渡来系氏族・秦氏の支族が、池を開削したという。支族は、朝原(あさはら)山の名により、朝原を姓にしたという。(『続日本紀』766年の条) また、平安時代、989年、10月、第59代・宇多天皇の孫で真言宗の僧・寛朝(かんちょう、916- 998)僧正が、朝原山の麓の山荘を改めて寺院にした。寺名を遍照寺(へんじょう-じ)といい、その際に開削した池ともいう。(『拾芥抄』『山州名跡志』)。異説もある。池は、「遍照寺池」と呼ばれたという。朝原山は、嵯峨富士、遍照寺山とも呼ばれた。池には金色の観世音菩薩を祀る観音島があり、橋が架けられ、観月の名所になっていた。畔に多宝塔、釣殿、大覚寺の観月所だった潜竜亭が建てられていた。 998年、寛朝没後、寺は次第に衰微する。 鎌倉時代、第91代・後宇多天皇により復興された。 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により再び荒廃した。 現代、1955年、嵯峨用水により、清滝川の水がトンネルにより広沢の池にも流入するようになった。このため、周辺の灌漑用水不足が解消された。南側の農地では、いまも京野菜、水稲などが耕作されている。 ◆寛朝 平安時代中期の真言宗の僧・寛朝(かんちょう、916-998)。男性。遍照寺、遍照寺僧正、広沢御坊(ひろさわ-ごぼう)。父・敦実親王(第59代・宇多天皇の子)。祖父・寛平法皇(宇多法皇)の下で11歳で出家得度し、寛空から両部灌頂を受けた。939年、第61代・朱雀天皇の勅命により、平将門の乱平定の祈祷により乱を治めたという。940年、東国鎮護のために成田山新勝山を開山した。948年、寛空に伝法灌頂を受ける。967年、仁和寺別当になり、981年、東寺長者に就任した。宮中での第64代・円融天皇の病気平癒祈祷の際に、壇法を修し眼前に不動明王が顕れ、たちどころに治癒したという。円融天皇は帰依する。985年/986年、東寺真言宗初の大僧正になる。987年、第66代・一条天皇の勅により、六大寺の僧を東大寺大仏殿に集め降雨を祈願すると、翌日夕刻、大仏殿に遠雷轟き大雨になったという。989年、広沢池畔、遍照山山麓の山荘を改め、遍照寺を建立した。83歳。 事相(じそう、密教修法)、教相(密教理論)に優れ、真言宗古義派の根本二流の一つ「広沢流」の始祖になり、遍照寺はその本源地になった。広沢流は後に6流に分かれる。仁和寺、西寺、東寺長者、東大寺別当などを兼任した。第61代・朱雀天皇などの歴代天皇の戒師、潅頂の阿闍梨も務める。一律上人より声明を学び、密教声明を整え『理趣経(りしゅきょう)』を作曲し、東密声明道の中興と称された。弟子に深覚、雅慶などがいる。 ◆後宇多 天皇 鎌倉時代中期-後期の第91代・後宇多 天皇(ごうだ-てんのう、1267-1324)。男性。世仁(よひと)、大覚寺殿。父・第90代・亀山天皇、母・京極院藤原佶子(きつし)(左大臣・藤原実雄の娘)の第2皇子。1274年、8歳で即位した。父・亀山上皇による院政が敷かれる。即位は、亀山天皇系(大覚寺統)、後深草天皇系(持明院統)の対立の端緒になった。文永の役(モンゴル来襲)が起こる。1275年、後深草上皇(持明院統)は、幕府に働きかけ、皇子・煕仁(ひろひと)親王を皇太子にした。1281年、弘安の役(モンゴル来襲)が起こる。1287年、煕仁親王(第92代・伏見天皇、持明院統)に譲位後、1298年、胤仁(たねひと)親王(第93代・後伏見天皇、持明院統)が続けて即位した。1301年、後宇多上皇は幕府に抗議し、両統迭立により第1皇子・邦治(くにはる)親王(94代・後二条天皇、 大覚寺統)を即位させた。院政を執る。1307年、姈子内親王が没し、悼み、仁和寺で落飾する。金剛性と称し、大覚寺に入寺、門跡になる。1308年、第2皇子・尊治(たかはる)親王(96代・後醍醐天皇、大覚寺統)は、第95代・花園天皇(持明院統)の皇太子に立つ。亀山上皇は自らの皇子・恒明(つねあき)親王を推し、大覚寺統の内部にも対立が生じた。東寺灌頂院で伝法灌頂を受法した。1318年、後宇多上皇は伏見上皇(持明院統)と談合し、皇子・尊治親王(96代・後醍醐天皇、大覚寺統)の即位させ、第94代・後二条天皇の第1皇子・邦良(くによし)親王(大覚寺統)を皇太子に立てた。当初は院政を敷く。1321 年、院政を廃して後醍醐天皇の親政にした。 弘法大師(空海)に深く帰依した。雷雨の中、高野山にも自力で登った。大覚寺の付近に宮室があり、密教の研究に専念する。伽藍僧坊の造営、法印・法眼・法橋などの称号・位階を設け、称号の授与に関する権限を大覚寺に与える「永宣旨」(えいせんじ)を出した。春秋に灌頂法を行う。日記に『後宇多天皇宸記』、宸筆の『庄園敷地施入状』『後宇多天皇宸記』などがある。和歌は『続後拾遺集』『新後撰集』などに収められている。大覚寺御所で亡くなる。58歳。 陵墓は蓮華峰寺陵(右京区)になる。 ◆佐野 藤右衛門 近現代の造園家・作庭家・16代・佐野 藤右衛門(さの-とうえもん、1928-2025)。男性。京都市の生まれ。父・15代・佐野三郎(藤右衛門)。家業は仁和寺出入りの庭師「植木屋の藤右衛門」。京都府立農林学校(現・京都府立大学)を卒業する。第二次世界大戦末期、義勇軍として満州派遣される予定だった。1945年、病気により京都帝大附属摂津農場(高槻市)で終戦を迎えた。帰郷後、父のもとで庭師として研鑽を積む。1957年、パリの国連教育科学文化機関(ユネスコ)本部の日本庭園(イサム・ノグチ設計)など海外でも活躍する。1981年、16代を襲名した。1989年、黄綬褒章、1997年、ユネスコのピカソ・メダルを授与される。1999年、勲五等双光旭日章を受章する。2005年、京都迎賓館の庭園を棟梁として造成した。2007年、京都府文化賞功労賞、2012年、みどりの文化賞を受賞した。2020年、京都市文化功労者になる。晩年、御室桜・佐野桜など祖父の代から世話をしてきた名桜16種類の桜柄を描いた、手描き友禅黒地振り袖の制作に関わった。著『桜のいのち庭のこころ』など。97歳。 造園業(株)植籐(うえとう)造園の会長。「桜守」として知られ、祖父・14代(藤太郎、1874-1934)に始まる桜の保存活動を引き継ぐ。金沢兼六園の「菊桜」、円山公園の「祇園しだれ桜」の保存、桂離宮、修学院離宮の整備も手掛けた。 ◆遍照寺山 遍照寺山は、古く「朝原山(あさはら-やま/ちょうはら-やま)」と呼ばれた。「千代原山」とも称された。 朝原は、渡来系の秦氏支族、朝原氏に因むともいう。地名の朝原に因むともいう。 真言宗の僧・寛朝により遍照寺が建立されてからは、「遍照寺山」と称された。 ◆遍照寺旧境内建物跡 遍照寺山には、平安時代中期、989年、寛朝により創建された遍照寺の旧跡がある。旧地の広沢池西北岸の林に、「遍照寺旧境内建物跡」の石標が立てられ、礎石が残されているという。 現代、1991年に遺構が確認され、建物跡が見つかった。一辺の長さ12mの方形の基壇があり、一間四面の御堂が建てられていたという。京都市指定・登録文化財に登録された。 現在、「建物跡」は私有地にあり立入禁止になっている。なお、山の中腹に寛朝が座禅に用いたという「座禅石」、天に昇ったという「登天松(とうてんまつ)」の遺跡がある。 ◆古墳群 池の周辺には「嵯峨野古墳群」の一角「広沢支群」など多くの古墳が点在している。 池の北に「遍照寺山支群」、北西の「長刀坂(なぎなたざか)支群」は、古墳時代の小円墳が31基が見つかっている。池の北東に「山越支群」、「御堂ヶ池支群」21基、池の東の「印空寺古墳」は円墳(直径25m)がある。池の西には、古墳時代中期の「嵯峨七ッ塚古墳群」があり、かつては横穴式石室のある円墳(直径20-30m)が7基が存在した。 池の南には、古墳時代後期の「広沢古墳群」が4基存在していた。7世紀(601-700)初頭の築造とみられている。円墳(直径30m)は、南南東に開口し、無袖型に近い横穴式石室(前兆2m、奥壁幅2.4m)がある。発掘調査により石棺破片(竜山石製組合式家形石棺)、鉄斧、鉄釘、須恵器、土師器などが見つかった。 その西に、「稲荷古墳群」があり、円墳(直径25m)、横穴式石室があり、現在はその上に稲荷社が祀られている。さらに、池の南西にあった古墳時代後期の円墳「一本木古墳」は、円墳(直径25m)、横穴式石室があった。その後消失している。 ◆安倍晴明 平安時代の陰陽師・安倍晴明(921-1005)は、遍照寺の寛朝に招かれて寺を訪れたという。 若い公達(貴族)、僧が晴明に対して、式神により呪殺が出来るかと問う。呪術により蛙(蟇)を殺せるかという。晴明は、虫ぐらいなら可能であるという。一枚の木の葉をちぎり、呪文を唱えて蛙目がけて投げた。すると、蛙は木の葉の下敷きになり潰されていたという。(『宇治拾遺物語』) ◆観音石仏 観音島に「観音石仏」が立つ。江戸時代前期、1641年に、樋口平太夫により但称が造仏した。鳴滝五智山より遷されている。遍照寺山にあった蓮華寺の石仏という。平太夫は、蓮華寺(右京区)の再興に関わっている。頭上に十一面の化仏、両脇に千手、1.6m、安山岩製。 ◆植生 魚類は、コイ、フナ、モロコが生息している。 水性植物は、ヨシ、マツモ、ヒシ、ジュズダマなどが見られる。 鳥類は、留鳥のカイツブリ、コサギ、カルガモ、アオサギ、カワセミ、ゴイサギ。夏鳥は、アマサギ、オオヨシキリ。冬鳥はコガモ、マガモ、クイナなどがいる。 、貝類は、カラスガイ、トブガイ、モノアラガイ、タニシ、カワニナがいる。 昆虫は、ゲンゴロウ、タガメ、ヤゴなどがいる。 そのほか、スジエビ、アメリカザリガニ、ウシガエル、イシガメ、クサガメなどが確認されている。 ◆桜 池の南堤は、桜の名所として知られている。 池の南東には「植藤」・佐野藤右衛門庭の桜の丘がある。 池の北東には平安郷の枝垂桜が期間に公開されている。 ◆文学 ◈谷崎潤一郎(1886-1965)『細雪』に、池畔のサクラ、ツバキが描かれている。 ◈瀬戸内寂聴(1922-2021)『しだれ桜』には、佐野藤右衛門の桜園、広沢池の畔の桜並木が登場する。 ◆映画 ◈現代劇映画「緋牡丹博徒 一宿一飯」(監督・鈴木則文、1968年、東映京都)では、主演・お竜(藤純子)により広沢池での撮影が行われた。 ◈時代劇映画「座頭市 喧嘩太鼓」(監督・三隅研次、1968年、大映)の撮影が行われている。 ◈山本周五郎原作『町奉行日記』、黒澤明ら「四騎の会」(1969)企画は、時代劇映画「どら平太」(監督・市川崑、2000年、製作委員会)に結実した。町方奉行・望月小平太(役所広司)、芸者・こせい(浅野ゆう子)のやりとりが広沢池で撮影された。 ◆年間行事 ◈広沢池灯籠流し(8月16日、7時)は、お盆の精霊送りの行事として行われる。回向(塔婆施餓鬼供養)の後、広沢池一面に五色の流し灯籠を浮かべる。 ◈「池ざらい(鯉揚げ)」(年末)で知られている。池では鯉、鮒などの養殖が行われており、池の水を抜き、魚を水揚げするのが風物となっている。 池ざらい(水抜き)の意味は、池底の泥を洗い流すこと、冬の間の池干しにより、太陽光と酸素を池の底に補充することにより、池底の微生物による泥の分解を促進させる。 *年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『洛西探訪』、『古都歩きの愉しみ』、『昭和京都名所図会 4 洛西』、『京都大事典』、『京都府の歴史散歩 上』、『文学散歩 作家が歩いた京の道』、『日本映画と京都』、『京都シネマップ 映画ロマン紀行』、『京都絵になる風景』、『史跡探訪 京の七口』 |
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