涌泉寺・松崎寺・妙泉寺・本涌寺・五山送り火「妙法」 (京都市左京区)
Yusen-ji Temple
涌泉寺 涌泉寺
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生師廟


生師廟


生師廟


山門












本堂(踊堂)


本堂(踊堂)


本堂(踊堂)






鐘楼



鐘楼、梵鐘



「南無日像菩薩」の墓石


「題目踊」(8月15日、8月16日)


「妙」、西山、火床は125

「法」、東山、火床は75
 五山送り火(8月16日)の「妙」「法」が点る万灯籠山(まんどろやま、西山、水源地山、133m)、大黒天山(東山、186.5m)の麓近くに涌泉寺(ゆうせんじ)はある。山号は松ヶ崎山という。 
 当寺には3つの寺の歴史がある。涌泉寺は、妙泉寺(みょうせんじ、円明寺、松崎寺)と本涌寺(ほんゆうじ)が合併し、両寺より「涌」「泉」を一字ずつ取って名付けられた。
 日蓮宗、本尊は十界曼荼羅を安置する。
 「松ヶ崎檀林(だんりん)」と呼ばれ日蓮宗京都六壇林の一つに数えられた。洛陽中では最も古い。
◆妙泉寺の歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、805年、黄門侍郎牒利(こうもん じろう のりとし)により、天台宗の松崎寺(まつがさきでら)が創建されたともいう。
 992年、6月、中納言・源保光(みなもと の やすみつ)により創建されたともいう。寺号は松崎寺(松ヶ崎寺)とも、円明寺(えんみょうじ)ともいう。天台宗延暦寺派だった。保光が創建供養を行う。(寺伝、『日本紀略』『権記』)。観音菩薩を本尊とし、京都での日蓮宗寺院としては最も古い。同年、現在の松ヶ崎堀町(松ヶ崎小学校)の地に、天台宗叡山三千坊の一つ歓喜寺が建立されたともいう。
 後に、寺号が歓喜寺に改められたともいう。延暦寺末寺になる。(『京童跡追』)
 鎌倉時代、永仁年間(1293-1299)、弘安年間(1278-1288)とも、松ヶ崎村の歓喜寺住職・実眼が夢告により、日像の弟子になる。以後、日蓮宗に改宗し、寺名も妙泉寺に改めた。(『山州名跡志』)
 1307年、1306年とも、実眼が天台宗より日蓮宗に改宗し、妙泉寺に改めた。(『京都府愛宕郡志』)。日像の二夜三日の説法(12年をかけたとも)により、470余人の村人すべてが改宗したという。「円法華(まるぼつけ)の村」になる。松ヶ崎は、洛西・鶏冠井集落とともに、日像による日蓮宗教化の先鞭地として、洛外での法華宗拠点になる。後に法華宗は、洛中に本山だけで21か寺を数え、京都は「題目の巷(だいもくのちまた)」といわれる。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で被災する。
 室町時代後期、法華宗の不受不施(ふじゅふせ)の法理により、山門(比叡山延暦寺)と対立した。衆徒は次第に武装化する。檀家を失った比叡山の僧兵は、松ヶ崎村への4回の報復焼き討ちを行った。
 1536年、天文法華の乱では、山門、南近江の守護六角(ろっかく)氏らによる本山の焼き討ちが起きた。(『鹿苑日録』『後奈良院宸記』)。7月22日早朝、松ヶ崎城が襲撃される。村人は城に立て籠もり抵抗した。落城し、寺も焼失し、全村が焼き払われた。近江の軍勢は、三条口・四条口より洛中に入り、法華宗徒の集中した下京、上京の大半が焼失した。
 承応年間(1652-1655)、後水尾天皇(第108代)、中宮・東福門院は、当寺に御幸し、題目踊を見たという。その際に、「御幸の松」(松ヶ崎小学校内)を植えたという。
 安土・桃山時代、1575年、豊臣秀吉により寺は再興される。(『京都府愛宕郡志』)。聚楽第厨庫が移され本堂になった。以後、妙伝寺末寺になる。(『雍州府志』)。寺領4石があった。(『京羽二重』)
 近代、1875年、妙泉寺塔頭六坊のうち、実成院、宝泉院、玉禅院、大乗院、止静院の五坊と合併し、妙泉寺(現在の松ヶ崎小学校の地)になる。(『松ヶ崎妙泉寺塔中の合併について』・府庁文書)
 1918年、松ヶ崎小学校の拡張工事に伴い、妙泉寺は、本涌寺(現在地)と合併移転した。両寺より一字ずつとり寺号を涌泉寺に改めた。
◆本涌寺の歴史年表 当初は、松崎山杉谷僧郡山の草庵だった。
 安土・桃山時代、1574年、現在地に妙泉寺12世・教蔵院日生によって堂が創建された。(『京都府愛宕郡志』)。本涌寺は、立本寺(上京区)の末寺に属する。法華宗の僧侶養成のための学問所、洛陽檀林(だんりん)の一つであり、最も古い松ヶ崎檀林が開かれた。(『雍州府志』)。
 1654年、講堂(現在の涌泉寺本堂)が建てられる。(『京都府愛宕郡志』)。
 1681年、黒川道祐が当寺を訪れて記している。(『東北歴覧之記』)
 江戸時代前期、11代化主・日意の時、講堂、学室、食堂などが整う。
 近代、1876年に壇林は廃止された。ただ、一時期(1896-1897)、小壇林が復活している。
 1918年、妙泉寺と合併し、涌泉寺になった。
◆源保光 平安時代中期の公卿・源保光(みなもと の やすみつ、924-995)。代明(よりあきら)親王の第2王子。母は藤原定方の娘。醍醐源氏。蔵人頭、970年、参議、のち中納言、従二位。桃園中納言と呼ばれた。
◆実眼 鎌倉時代の日蓮宗の僧・実眼(じつがん/ じつげん、?-?)。当初は松ヶ崎村の歓喜寺住職。永仁年間(1293-1299)、夢告により、日像の弟子になる。1307年、日蓮宗に改宗し、寺号を妙泉寺に改めた。
日像 鎌倉時代の日蓮宗の僧・日像(にちぞう、1269-1342)。肥後房、肥後阿闍梨。下総国に生まれた。7歳で日蓮の六大弟子のひとり日朗に師事した。1275年、身延の日蓮の弟子になり、日蓮が経一丸と命名し本尊を授与する。1282年、日蓮没後、日朗に再び師事。北陸を経て、1294年、入洛、日蓮の遺命により日蓮宗最初の京都弘通(ぐつう、布教)、宗義天奏(天皇への布教)を行う。松ヶ崎・歓喜寺(妙泉寺)、洛西・真経寺、深草・極楽寺(宝塔寺)を日蓮宗に改宗させた。町衆に信徒拡大し、一時の京都は「法華題目の巷」と呼ばれた。1307年頃、乙訓山崎付近で布教を行う。比叡山延暦寺などの圧力により、1307年、土佐配流、1308年、紀伊流罪、1321年、洛内追放と3度の弾圧と赦免「三黜三赦(さんちつさんしゃ)の法難」を受ける。1311年、妙顕寺を開創し、教団発展の礎を築く。深草・宝塔寺に葬られる。
 一門は四条にあったことから四条門流と呼ばれた。1358年、弟子・大覚の祈雨の功により菩薩号が贈られた。
◆日生 室町時代-安土・桃山時代の学僧・日生(にっしょう、?-1595)。立本寺の日経、妙覚寺の日典に師事し、叡山にも学ぶ。1577年、要行院日統が開いた房総の飯塚檀林、その後、飯高檀林に移る。1580年、松ヶ崎に戻り教学した。初代化主(けしゅ)になる。京都・立本寺、岡山・蓮昌寺に移り、晩年は松ヶ崎に戻り、この地で没した。号は教蔵院(きょうぞういん)。
◆妙泉寺の伝承 妙泉寺の改宗についての伝承がある。
 ある時、円明寺(松ヶ崎寺)の住職・実眼に夢告があった。夢中に白狐に乗る老翁が現れ、明日より洛中に出たなら、日輪像を拝するようにと告げた。実眼が町に出ると、日郎弟子・日像が三条の辻で弘通(ぐつう)説法を行っていた。実眼は説法を聞いて、日像を寺に招き村人を集める。日像は3日間にわたり説法を行い、全村人が日蓮宗に改宗したという。(『山州名跡志』)
◆仏像・木像・石仏 ◈本尊の「十界曼荼羅」は、旧妙泉寺に伝わる。日像自筆という。
 ◈「日生上人坐像」がある。
 ◈境内、境内周辺に鎌倉時代の石仏が残る。旧妙泉寺の遺仏という。
◆建築 旧妙泉寺には、明治期(1868-1912)に本堂(聚楽第の厨庫)、客殿、妙見堂、七面堂、開山堂などが建てられていた。旧本涌寺には、本堂、講堂(涌泉寺の現本堂)、客殿、庫裡、鎮守堂、開山堂、妙見堂などが建てられていた。
 現在は、表門、本堂、鐘楼などが建つ。
 ◈涌泉寺の現「本堂(踊堂)」は、旧本涌寺の檀林講堂が移築された。日蓮宗檀林講堂の遺構としては、日本最古、唯一の建築という。江戸時代、1654年、後水尾上皇中宮・東福門院(1607-1678)の女院御所の余材により建てられたという。六間取り。
松ヶ崎檀林 法華宗の僧侶養成のための学問所、洛陽檀林(だんりん)の一つで、最も古い松ヶ崎檀林が開かれた。
 檀林講堂は修行の場になり、最盛期には2000人の学僧が学んでいたという。日暮、日英などの高僧も輩出し、日純、日陽らが化主(けしゅ、学頭)になった。
 江戸時代前期、11代化主・日意の時、講堂、学室、食堂などが整う。壇林には、能化(のうげ、教師)、所化(しょげ、学僧)が集い、玄妙堂、白頭軒、半月軒などの寮もあった。
◆大黒天 最澄作と伝えられる大黒天が祀られ、京都七福神めぐりの一番札所になっている。
◆文化財 日像筆本尊「曼荼羅」は、旧妙泉寺より遷された。
 近世の「松ヶ崎檀林関連古文書」、記録、聖教類、門人帳、檀林規則、宗門聖教類。
 旧学寮扁額「白頭軒」、「妙玄堂」、「半月軒」などがある。
◆生師廟 門前山手にある日生の廟「生師廟(せいしびょう)」には、日生の遺骨が納められている。「教蔵院さん」とも呼ばれている。歴代の墓もある。
◆天文法華の乱 室町時代、京都の町衆(土倉)を中心とする日蓮宗徒は法華一揆を起こし、百姓・地侍の一向一揆、土一揆に対抗した。日蓮宗徒の勢力拡大に対し、次第に山門(延暦寺)との対立が起こる。
 1532年、京都の日蓮宗徒は、山科本願寺を焼き討ちし、その後も堺、石山本願寺を攻めて勢力拡大する。1536年、日蓮宗徒と延暦寺僧との宗論後、延暦寺は京都の日蓮宗弾圧を決定した。1536年7月22日-28日、天文法華の乱(てんぶん/てんもん ほっけのらん)が起こる。延暦寺宗徒は、近江国守護・六角定頼、三井寺勢の支援を得て、京都の日蓮宗寺院21寺を襲撃し破却した。戦乱は22日の松ヶ崎より始まり、28日まで本国寺は持ちこたえた。日蓮宗徒は敗北し、京都より放逐され堺に逃れた。
 乱以後、1542年に洛中還住の勅許が下りるまで、日蓮宗は京都で禁教とされた。
◆滝 境内の背後の山に「日輪・月輪の滝」があるという。滝の高さは10mあり、流れは二つある。浅い滝壺では水垢離ができる。
 日像はこの水で本尊の曼荼羅を書いたという。妙泉寺の寺号もこの水に由来するという。近くに、日諦が安土・桃山時代、1576年に勧請した七面社が祀られている。
◆送り火 8月16日、松ヶ崎妙法保存会による五山の送り火とともに、涌泉寺では、読経により祖霊が送られる。
 江戸時代の名所案内記『案内者』(1662)には、送り火「妙法」の記述がすでにあり、少なくとも江戸時代初期には、当地で送り火が行われていたとみられる。当時は松明を結びつけて火を灯していた。
 ◈「妙」の字は、鎌倉時代末、日像が杖を引いて、墓のあった西山の南斜面に書いたという。それに村人が点火したという。火が点くと、西の松ヶ崎では山の中腹で読経が行われる。中世以来、新宮神社を中心にした宮座が奉仕した。現在は、堀町、辻町、中町、川町が維持している。
 「妙」は、縦70m、横90m、火床125基(103基とも)。高さ1mの鉄製受皿火床の上に、井桁状に松割木を組み上げている。午後8時10分に点火される。
 ◈「法」は、江戸時代(18世紀、17世紀とも)、涌泉寺末寺・下鴨の大妙寺2世・日良(1590-1660)が東山(大黒天山)に書いたという。東では位牌と過去帳を「法」の方に向け、ろうそくと線香に火を点けて精霊を送る。中世以来、新宮神社を中心にした宮座が奉仕していた。「法」は、東町が維持している。
 「法」は、縦横60m、火床75基(63基とも)。高さ1mの鉄製受皿火床の上に、井桁状に松割木を組み上げる。午後8時10分に点火される。
◆題目踊 涌泉寺境内では、「題目踊(だいもくおどり)」「さし踊」が、送り火の当夜(8月16日、午後9時頃)と前夜(8月15日、8時頃)に披露される。
 題目踊は、鎌倉時代、1307年に村民がこぞって改宗した際の歓喜躍動に由来し、実眼が始めたともいう。日本最古の盆踊りとされている。(寺伝)。実際には、戦国時代に法華経の布教のために始まったともいう。江戸時代、1652年には、第108代・後水尾天皇も見物に訪れたという。踊りは、江戸時代の『東北歴覧之記』『都名所図会』『京童後追』などにも記されている。
 古くは、旧暦の7月16日の夜に行われていた。かつて、頭に飾り灯籠を被り、男は角帯姿、女は投げ島田に白手拭いを被り、三巾の前垂れ、絹房の襷掛けで踊っていた。
 現在の踊り手は、男性は浴衣姿、女性は浴衣姿に三巾の前垂れ、赤い襷がけで、二列円陣になる。題目音頭「南無妙法蓮華経」を7遍繰り返し、唱えながら踊る。太鼓の音に合わせて、男性は片手、女性は両手で扇、団扇を持って上下にゆっくりと廻し、体を屈伸させて踊り進む。静かな踊りの輪が広がる。
 続いて踊られる「さし踊」は、洛北に古くより伝わる。室町時代末に横川の僧・鉄扇により始められた。天台声明の普及のために作り直されたともいう。
◆年間行事 題目踊(8月15日-16日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『松ヶ崎』『京都・山城寺院神社大事典』『事典 日本の名僧』『京都大事典』『京都府の歴史散歩 中』『京都歴史案内』『京都の地名検証 2』『昭和京都名所図会 3 洛北』『洛北探訪 京郊の自然と文化』『京都の寺社505を歩く 上』 、ウェブサイト「コトバンク」


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