正運寺 (京都市中京区)
Shoun-ji Temple
正運寺  正運寺
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 蛸薬師通大宮西入ルの正運寺(しょううん-じ)は、かつて「安産寺」と呼ばれ、女性の信仰を篤く集めたという。 
 浄土宗鎮西派、本尊は阿弥陀如来。
 観音堂安置の十一面観音菩薩は、洛陽三十三所観音巡礼第26番札所。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1600年、加藤清正の重臣・飯田覚兵衛を開基とし、深誉を開山として創建されたという。
 江戸時代、1665年、洛陽三十三所観音巡礼の一つになる。
 1685年、洛陽三十三所札所26番札所として記されている。(『京羽二重』)
 1708年、洛陽三十三所札所として記されている。(『都すずめの案内所』)
 1739年、洛陽三十三所札所として記された。(『観音経早読絵抄』)
 1788年、天明の大火により焼失する。
 その後、再建された。
 現代、2005年、「平成洛陽三十三所観音」が復興された。
◆深誉 安土・桃山時代の浄土宗の僧・深誉(?-?)。詳細不明。1600年、正運寺開山になる。武士・飯田覚兵衛が帰依した。
◆飯田 覚兵衛 安土・桃山時代-江戸時代前期の武士・飯田 覚兵衛(いいだ-かくべえ 、?-1632)。男性。直景、角兵衛とも呼ばれた。山城国(京都府)山崎の生まれ。父・飯田直澄。若い頃から加藤清正に仕え、加藤家三傑の一人、槍の使い手で日本槍柱七本の一人になった。1583年、賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げる。1589年、天草志岐氏の攻略に活躍した。1592年-1598年、文禄・慶長の役で、朝鮮の城の石積み(隅石)の技法を習得した。1593年、朝鮮南端の晋州城攻撃に、亀甲車を造り攻略している。その後、清正の怒りに触れ浪人の身になり、伏見で馬の草鞋を編んで生計を立てた。福島正則からの召し抱えの誘いを、清正への恩義から固辞した。伝え聞いた清正に再び召し返されたという。1611年、清正の危篤時に幕府に伝え、清正の嫡子・忠廣への家督相続の了解を取り付けた。清正の菩提所・本妙寺の普請奉行を務めた。死後、忠廣に仕えた。1600年、正運寺を建立する。1632年、幕府による忠廣の出羽への配流に伴い、覚兵衛は禄を失い京都に隠棲した。浄土宗・深誉に帰依し、剃髪し入道宗運と号した。
 加藤家の四天王の一人といわれた。清正の居城・隈本城の築城を行い、名古屋城、江戸城普請にも奉行として加わる。
◆仏像・木像 ◈本堂に本尊「阿弥陀如来坐像」を安置している。」
 脇壇の2つの厨子の内、右に「飯田覚兵衛木像」、左に「妻の木像」が祀られている。
 ◈「十一面観音菩薩像」は、観音堂に安置されている。大和国・長谷寺の本尊と同木といわれる。平安時代末-鎌倉時代前期の仏師・運慶(?-1224)が、室内で輝く1尺2寸(像高36㎝)の観音菩薩を見つけ、俗舎に置くことを恐れ当寺に安置したという。江戸時代後期、1788年の天明の大火の際に、厨子とともに焼け残ったものという。(『正運寺縁起』)
 かつて、当寺の観音を信仰した身重の女性があり、寺で無事に出産したことから、以後、「安産寺」と呼ばれ女性の信仰を集めたという。
◆建築 山門、本堂、庫裡、観音堂、鎮守社・飯田稲荷大明神などがある。
◆文化財 江戸時代の東町奉行所与力・森孫六(?-1862)が研ぎあげたという槍の穂先がある。
◆鎮守社 飯田稲荷大明神が祀られている祭神は飯田覚兵衛になる。
◆石標 門前の石標には「らくやう廿六はん 正うんし」「十一面観世音」と刻まれている。江戸時代後期、1808年に立てられている。
◆墓 ◈飯田覚兵衛(?-1632)夫妻の五輪塔(2m)2基が立つ。覚兵衛の法名「欣浄院殿正しい誉天岳宗運大居士」。
  ◈江戸時代の東町奉行所与力・森孫六(?-1862)の墓がある。江戸時代後期、1862年、暗殺団により殺害された。墓石に「散忠義之居士」の法名が刻まれている。
 森孫六の詳細は不明。森、同僚の大河原重蔵(?-?)、西町与力の渡辺金三郎(?-?)、上田助之丞(?-?)らは、勤王志士の取り締まりを行った。多くの志士が江戸に送られた安政の大獄(1858-1859)では、捕縛に活躍したという。このため、志士らに逆恨みされた。幕府は4人に江戸への引き上げを命じる。だが、時遅く、1862年夜、近江の旅宿「石部宿」で、土佐の「人斬り以蔵」といわれた岡田以蔵(1838-1865)、薩摩の田中新兵衛(1841-1863)、長州の久坂玄瑞(1840-1864)、寺島忠三郎(1843-1864)ら、刺客団24人により惨殺されたという。その後、森ら4人(3人とも)の首は、京都の粟田口まで運ばれ梟された。
 この時、絵師により渡辺の生首の絵「渡辺金三郎断首図」(正伝寺蔵)が描かれ残された。首は竹に串挿しされている。口は紐で縛られ、眼は閉じられている。実際の血糊を顔料に含ませ彩色したものという。
 森以外の墓の所在は不明という。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 『京都を歩こう 洛陽三十三所観音巡礼』、『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』 、『京都観音めぐり洛陽三十三所の寺宝』、『京都戦国武将の寺をゆく』、ウェブサイト「コトバンク」   


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正運寺 〒604-8803 京都市中京区因幡町112,蛸薬師通大宮西入ル  075-841-0567
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