正運寺 (京都市中京区)
Shoun-ji Temple
正運寺  正運寺
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 正運寺(しょううんじ)は、かつて安産寺と呼ばれ、女性の信仰を篤く集めたという。 
 浄土宗鎮西派、本尊は阿弥陀仏。
 観音堂安置の十一面観音菩薩は、洛陽三十三所観音巡礼第26番札所。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1600年、加藤清正の重臣・飯田覚兵衛を開基とし、深誉を開山として創建されたという。
 江戸時代、1788年、天明の大火により焼失する。
 その後、再建された。
◆飯田覚兵衛 安土・桃山時代-江戸時代の武士・飯田覚兵衛(いいだ かくべえ 、?-1632)。山城国山崎に生まれる。父は飯田直澄。直景、角兵衛とも呼ばれた。若い頃から加藤清正に仕え、加藤家三傑の一人、槍の使い手で日本槍柱七本の一人。1583年、賤ヶ岳の戦いで戦功を挙げる。1589年、天草志岐氏の攻略に活躍。1593年、朝鮮南端の晋州城攻撃に、亀甲車を造り攻略した。1611年、清正死後、その子・忠広に仕えた。清正の居城・隈本城の築城を行い、名古屋城、江戸城普請にも奉行として加わる。その後、京都に隠棲し亡くなる。
◆仏像 観音堂安置の十一面観音菩薩像は、大和国・長谷寺の本尊と同木といわれる。平安時代末から鎌倉時代初期の仏師・運慶(?-1224)が、室内で輝く一尺二寸(像高36㎝)の観音菩薩を見つけ、俗舎に置くことを恐れ当寺に安置したという。江戸時代、1788年の天明の大火の際に、厨子とともに焼け残ったものという。(「正運寺縁起」)
 かつて、当寺の観音を信仰した身重の女性があり、寺で無事に出産したことから、以後、安産寺と呼ばれ女性の信仰を集めたという。
◆文化財 江戸時代の東町奉行所与力・森孫六の研ぎあげたという槍の穂先がある。
◆墓 江戸時代の東町奉行所与力・森孫六の墓がある。1862年、暗殺団により殺害された。墓石に「散忠義之居士」の法名が刻まれている。
 森孫六の詳細は不明。森、同僚の大河原重蔵、西町与力の渡辺金三郎、上田助之丞らは、勤王志士の取り締まりを行った。多くの志士が江戸に送られた安政の大獄(1858-1859)では、捕縛に活躍したという。このため、志士らに逆恨みされた。幕府は4人に江戸への引き上げを命じる。だが、時遅く、1862年夜、近江の旅宿「石部宿」で、土佐の「人斬り以蔵」といわれた岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛、長州の久坂玄瑞、寺島忠三郎ら、刺客団24人により惨殺されたという。その後、森ら4人(3人とも)の首は、京都の粟田口まで運ばれ梟された。
 この時、絵師により渡辺の生首の絵「渡辺金三郎断首図」(正伝寺蔵)が描かれ残された。首は竹に串挿しされている。口は紐で縛られ、眼は閉じられている。実際の血糊を顔料に含ませ彩色したものという。
 森以外の墓の所在は不明という。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都を歩こう 洛陽三十三所観音巡礼』『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』


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