松永久秀の墓・屋敷跡(妙恵会総墓所) (京都市下京区)  
Grave of Matsunaga,Hisahide
松永久秀の墓・屋敷跡 松永久秀の墓・屋敷跡
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松永久秀・久通の墓




龕薦堂(がんぜん-どう)


龕薦堂、歴代墓


無縁仏


谷口法悦が寄進した題目碑、無縁仏






【参照】「柿本町」の町名
 猪熊松原下ルの妙恵会総墓所(みょうえかい-そうぼしょ)は、室町時代後期-安土・桃山時代の武将・松永久秀(まつなが-ひさひで)の屋敷跡とされる。墓地内に久秀、その子・久通も葬られている。
◆歴史年表 詳細は不明。
 室町時代-安土・桃山時代、この地には武将・松永久秀(1510-1577)の屋敷があったという。
 安土・桃山時代、1577年、旧10月10日 、久秀は大和で亡くなり、その後、現在地(妙恵会総墓所)に葬られた。
◆松永 久秀 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・松永 久秀(まつなが-ひさひで、1510-1577)。初め藤原氏、後に源氏。山城西岡(長岡京)、摂津(大阪府)五百住の土豪、阿波(徳島県)の生まれともいう。1533-1534年頃/1541年以前/1529年、三好長慶(ながよし)の右筆として仕えた。1542年、部将として南山城に進駐する。訴訟取次ぎなど文書事務に秀で、1549年、長慶の入京以降は行政実務に専念した。1551年、旧7月、洛中の相国寺合戦に加わる。1553年、旧3月、梅ヶ畑合戦で細川晴元軍を撃破した。長慶の畿内制覇により、1556年、摂津・滝山城城主に任じられた。西摂・播磨方面の軍政を担当し、在京して訴訟事務を司る。1559年、大和・信貴山城主に移り、大和平定作戦に従事した。1560年、弾正少弼(だんじょう-しょうひつ)、幕府御供衆(おともしゅう)に列せられる。旧8月、郡山城を攻落した。全大和を統一し、多聞山城を築く。興福寺の大和支配を終焉させる。1561年より、源氏と称した。1562年、旧3月、畠山氏に大敗し三好軍が危機に陥った際に、長慶の本拠・飯盛山城を守備した。旧5月、畠山高政軍を河内教興寺、葉引野に大破し三好政権の中軸部将になる。1563年、長慶の嫡子・義興(よしおき)が病死(毒殺とも)し、長慶の老いに乗じ、安宅(あたぎ)冬康を死に追う。以後、三好政権は三好三人衆の三好長逸(ながゆき)・政康(まさやす)、岩成友通(いわなり-ともみち)と久秀が独占した。1564年、長慶が没し、久秀は三人衆とともに長慶の養子・義継(よしつぐ)の後見になる。1565年、将軍・足利義輝を三人衆らと暗殺する。義輝の実弟・一乗院覚慶(後の将軍・義昭)を奈良に幽閉し、三好義栄を擁立した。三人衆政権が畿内に君臨する。弟・長頼が丹波に敗死し、主導権を争う三人衆と反目した。1566年、久秀は、和泉・河内・摂津の各地で三人衆に敗れ、1567年、大和に逃げ帰る。旧10月、東大寺に布陣した筒井順慶・三人衆を攻撃勝利し、東大寺大仏殿を焼き払った。1568年、旧9月、美濃から入洛した織田信長に降伏し、「九十九茄子の茶入」を献じて、大和一国の支配を安堵された。1571年、旧5月、武田晴信(信玄)に通じ信長に背く。1572年末、信長に降伏し、名刀「不動国行」を献じ再び大和支配を安堵された。1573年、旧3月、将軍・義昭とも同盟した。旧7月、幕府は崩壊し、旧11月、義継も河内若江城に敗死し、久秀は再び信長に帰服する。1575年、多聞山城と大和守護を失い、北陸の上杉謙信に頼み、再び信長に背く。謙信は上洛を取りやめたため、1577年、旧8月、久秀は信貴山城で信長に抗し、大坂の本願寺・毛利氏と呼応した。旧10月、信長により陥落し、子・久通(ひさみち)ととも天守閣で自死した。愛器の茶釜「平蜘蛛」の献上を拒否し、茶釜を抱いて爆死したという。68歳。
 三好長慶とともに下剋上の典型的人物とされる。軍事は弟・長頼が秀でたため、久秀は三好政権中で重きをなした。奈良を支配し、堺の豪商と通じ蓄財した。茶道、連歌に通じた。フロイスは狡猾と評した。
 墓は妙恵会総墓所(下京区)にある。法名は「妙久寺殿祐雪大居士」。
◆松永 久通 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・松永 久通(まつなが-ひさみち?-1577)。父・松永久秀の嫡子。1563年末、三好長慶の嫡子・義興が死去し、右衛門佐、従五位下に叙された。1565年、三好三人衆の三好長逸、父に従い、将軍・足利義輝の弑殺に加担した。1577年秋、父が上杉謙信を頼り織田信長に反する。信貴山城に籠城し、父とともに自害した。
 実権は父・久秀が握り、目立った活動は知られていない。
 墓は妙恵会総墓所(下京区)にある。法名は「高岳院久通居士」。
◆谷口法悦 江戸時代前期-中期の商人・谷口法悦(たにぐち-ほうえつ、?-?)。詳細不明。俗名は長右衛門、諱は正次。京都三条通/五条に住したという。日蓮宗の篤信者で、17世紀(1601-1700)末頃、一族とともに各地の法華寺院・街道筋・追分・刑場などに題目塔を造立、寄進したいう。その数は、百余基、本尊の板曼荼羅百十余、涅槃図・釈迦誕生佛など多数にのぼる。
◆墓 ◈松永久秀(1510-1577)・久通(?-1577)父子の墓がある。久秀は中央に法名「妙久寺殿祐雪大居士」とあり、右に久通の「高岳院久通居士」と刻まれている。さらに、左手に「法賢院宗秀居士」とあり詳細は不明。
 なお、久秀の未子・永種(ながたね、1538-1598)は、乳母とともに信貴山城を脱した。その後、東福寺に逃れ本圀寺に入ったという。この永種の子が俳人・松永貞徳(1571-1654)になる。
 ◈ほか、武将・野本輝久(?-1565)、豊臣秀次の父・三好吉房(1534-1612)、医師・岡本一抱(1654-1716)、医師・井原道閲(1649-1720)、天狗党の関口泰次郎(1848-1849)、水戸藩剣術家・金子健四郎(1814-1864)、1863年の本圀寺事件の早川卓之丞・加藤十郎、儒医・廣瀬元恭(1821-1870)などの墓がある。
◆題目碑 無縁塔の最頂部に、江戸時代前期-中期の商人・谷口法悦(?-?)が寄進した石塔が立つ。裏に「功徳主 妙信院法悦」と刻まれている。
 法悦・谷口一族は全国各地の法華寺院などに題目碑などを多数建立した。一族の寄進活動期は、江戸時代前期、延宝年間(1673-1681)から江戸時代中期、正徳年間(1711-1716)までが確認されている。
◆妙恵会総墓所 妙恵会総墓所(みょうえかい-そうぼしょ)は、室町時代後期-安土・桃山時代の武将・松永久秀(1510-1577)の屋敷跡という。久秀は、本圀寺(現在は山科区に移転)の塔頭・戒善院の檀徒であり、戒善院の墓地として寄進した。武将・野本輝久(のもと-てるひさ、?-1565)も寄進したという。その後、400余年にわたり本圀寺の塔頭寺院で管理している。
 現在は旧地に残された塔頭寺院18カ院が墓所を共同管理している。勧持院・松林院・智光院・智了院・林昌院・真如院・詮量院・了光院・松陽院・了円院・本実院・本妙院・本栖院・智妙院・久成院・一音院・瑞雲院・英鏡院になる。
 墓地中央には龕薦堂(がんぜん-どう)が建ち歴代の墓塔が並んで立つ。近代、昭和期(1926-1989)初期には無縁仏も整理され集められている。


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 『京都戦国武将の寺をゆく』、『続・京都戦国武将の寺をゆく』、ウェブサイト「松林院」、ウェブサイト「文化遺産オンライン-文化庁」、ウェブサイト「コトバンク」


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map 松永久秀の墓・屋敷跡(妙恵会総墓所) 〒600-8357 京都市下京区柿本町672,猪熊通五条下ル南側
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