勧持院〔本圀寺〕 (京都市下京区)
 Kanji-in Temple
勧持院  勧持院
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 勧持院(かんじいん)は本圀寺塔頭の一つであり、別称は「大法寺」という。塔頭の四寺家(ほかに戒善院、松林院、持珠院)の一つに数えられた。当寺は、加藤清正の宿坊に充てられたという。 
 日蓮宗。本尊は題目釈迦多宝仏。
◆歴史年表 南北朝時代、1338年、日善は上総国安中に「大法寺」を建立した。当院の前身になる。
 1345年、本圀寺4世・日静(にちじょう)により、油小路七条辺に移る。
 室町時代、1467年、兵火により焼失する。応仁・文明の乱(1467-1477)後、本圀寺内に移る。
 明応年間(1492-1501)、再興され、本寺境内に移る。
 1536年、天文法華の乱により焼失した。その後、一時、堺に避難する。後に、14世・日助により京都に戻る。
 1603年、加藤清正が檀越になり再建された。清正は現在の枯山水式の庭を作庭したという。
 江戸時代、1788年、天明の大火で焼失した。その後、再建される。
 現代、1971年、本山・本圀寺は山科へ移転する。勧持院は、ほかの塔頭数寺とともに旧地に残る。
◆遍昭 平安時代前期の天台宗の僧・歌人・遍昭/遍照(へんじょう、816-890)。俗名は良岑宗貞(よしみねの-むねさだ)。良少将、花山僧正。良岑安世の子、子に素性、由性。 第50代・桓武天皇の孫。左近衛少将、849年、蔵人頭に補され、第54代・仁明天皇に仕えた。850年、天皇没後に出家し、比叡山に入る。叡山座主・円仁に戒を受けた。貞観年間(859-877)、山科花山に元慶寺を創建し座主になる。「花(華)山僧正」とも呼ばれた。869年、紫野・雲林院の別当を兼ね、文芸交流する。885年、僧正になり、天皇に宮中で七十の賀を祝われる。食邑(しょくゆう)100戸、輦車(てぐるま)の勅許を賜る。
 第58代・光孝天皇にも仕えた。惟喬親王と交流した。歌人としても知られ、六歌仙、三十六歌仙の一人。小野小町と清水寺で歌でやりとりをした。天狗調伏などの逸話も残る。『古今集』入集。『大和物語』『今昔物語集』などに記されている。
 元慶寺南西(山科区)に墓がある。
◆加藤清正 安土・桃山時代-江戸時代の武将・加藤清正(かとう-きよまさ、1562-1611)。尾張の生まれ。豊臣秀吉と血縁関係ともいう。9歳より秀吉に仕え、元服し加藤虎之助清正と名乗る。1583年、賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人に数えられた。1588年、肥後北半国領主を任じられ熊本城主になる。1592-1598年、文禄の役・慶長の役で朝鮮に出兵した。1600年、関ヶ原の戦いで小西行長らと確執し、東軍につき、小西滅亡後は54万石の大大名になる。1611年、二条城で秀吉遺児・秀頼と徳川家康を会見させるる。帰国後に病急死した。熊本城などの築城でも知られた。
◆広瀬元恭 江戸時代後期-近代の蘭方医・蘭学者・西洋純粋医・広瀬元恭(ひろせ-げんきょう、1821-1870)。甲斐の生まれ。医師・広瀬周平の次男。1835年、15歳で江戸・日習堂の坪井誠軒に蘭方を学び、「七人衆」の一人になる。 1847年、京都釜座通夷川で蘭学塾「時習堂」を開き、医学・薬学・物理・化学・兵学・砲術なども講じた。 322人の門人が在した。東芝創始者・田中久重、1846年、佐野常民も入塾している。慶応年間(1865-1868)、勝海舟を助け、津藩主藤堂家の嘱により八幡、山崎に砲塁を築造した。 1869年、京都官軍病院長。緒方洪庵、幕末の志士など幅広く交流した。生理学書リーセランド『人身窮理書』『理学提容』などを著す。
 墓は本圀寺・勧持院にある。
◆庭園 庭園は、枯山水式であり、安土・桃山時代、加藤清正の作庭ともいう。
 180坪(594㎡)あり、横長の庭面に白砂が敷かれ、東部端、南部端に築山がある。滝右手の階段状、大小の密な立石組は山の連なりを表す。東南角に滝石組があり、二段(三段とも)になり正面に直線に流れ落ちる。これら栗石の流れは下り、白砂に至る。白砂中には、流れを受け止める三角形の水分石が置かれている。築山上部、滝には玉澗流の石橋が架けられている。石組は海上よりの景観を表現すという。
 築山に立てられた十三重石塔は、僧正・遍昭の墓標という。山科・元慶寺より遷されたという。ただ、初層笠石は鎌倉時代、二層は室町時代、ほかは江戸時代作という。
◆福大明神社 境内の鎮守社の福大明神社は、衣冠束帯の祭神・紀貫之の霊を祀る。伝承が残る。
 室町時代、1536年、天文法華の乱により当寺が焼失した際に、神像を僧が救い出した。その後、ある人が像を譲り受けて貫之邸跡(万里小路土御門、上京区御所建春門付近)に社を建て祀った。後、一条猪熊の南(上京区福大明神町)に遷し、天神像とされていた。京極中御門北(中京区、寺町丸太町上ル一町)に再び遷され、その後、廃社になる。
 ある者が、像を家に持ち帰り祀っていると怪異が続いた。このため、勧持院の僧に祈祷を頼んだ。神像は、天神像ではなく貫之像であることが知れた。旧地に戻され再び祀られたという。(『山州名跡志』)。
 白狐を祀り稲荷社ともいう。
◆墓 庭園築山の十三重塔は、僧正・遍昭の墓標とされている。山科・元慶寺より遷したという。
 本圀寺共同墓地に蘭学医・広瀬元恭、妻・いね、広瀬家の墓がある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都歴史案内』『増補版 京の医史跡探訪』『京都市の地名』『昭和京都名所図会 5 洛中』『京都大事典』『京都秘蔵の庭』『京の怪談と七不思議』、ウェブサイト「コトバンク」


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勧持院 〒600-8357 京都市下京区柿本町643,猪熊通五条下ル西側   075-351-2364
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