真如院 (京都市下京区)
Shinnyo-in Temple
真如院 真如院
 Home  Home



玄関








重森三玲作庭の前庭、三尊石と白砂の砂紋


重森三玲作庭、白砂、三尊石の石組み、苔、石畳による。


【参照】五条堀川にある本圀寺跡(東総門跡)の巨大な石標
 真如院(しんにょいん)は、五条堀川西にある。重森三玲が関わった庭園で知られている。
 日蓮宗。本尊は、阿弥陀如来、日蓮木像などを祀る。 
◆歴史年表 室町時代、1535年、日映により創建された。寺名は「真実常の如し」という仏教の言葉より名付けられたという。町衆により篤く信仰され寺勢は拡大した。
 翌1536年、比叡山衆徒による洛中洛外の日蓮宗21寺を襲った事件、天文法華の乱(天文の法難)により全焼し、一時堺に避難した。
 1560年頃、再建される。
 1560年、室町幕府13代将軍・足利義輝(1536-1565)により、本圀寺で天下泰平の祈願が行われた。足利義昭(1537-1597、後の15代将軍)も参詣し、当院を宿院とした。この時、本圀寺より鳥烏帽子石が当院に運び込まれたという。
 1568年、織田信長(1534-1582)は義昭を当院に招いている。
 江戸時代、1788年、天明の大火により焼失している。
 寛政年間(1789-1800)、再建された。
 1832年、新築される。
 近代、1934年、内部を改造した。
 現代、1949年、隣接していた明徳商業高校建設に伴い現在地に移転する。
 1961年、現代の作庭家・重森三玲により庭が修復される。
 1971年、日蓮宗大本山本圀寺が山科に移転した。それまでその塔頭だった。
◆日映 室町時代の僧・日映(生没年不詳)。詳細不明。本隆寺4世?。
◆本圀寺 かつての本山・本圀寺は、五条通を挟んで南東方向、現在の西本願寺門徒会館、駐車場付近にあった。現在も当院周辺には15旧塔頭が残る。
 鎌倉時代、1253年、日蓮(1222-1282)が、鎌倉松葉ヶ谷に法華堂を建立したのを前身とする。室町時代、1345年に京都六条に移る。寺域は、東西二町・南北六町にわたり、御所の坤(裏鬼門)の方角に配置され、皇室鎮護の霊場となった。1971年、現在地(山科区)に移転している。
◆庭園 室町時代の枯山水式の様式を残した庭がある。境内が移転する以前には、200坪から300坪の広さがあり、五条通に接していたという。現在は80坪(264㎡)ほどしかない。
 1566年に入洛した織田信長は、庭園愛好家だった室町幕府第15代将軍・足利義昭に取り入るために、当時すでに名園といわれた真如院に招いたという。また、庭は信長自身が義昭のために作庭させたともいう。
 庭は、平安時代-鎌倉時代の浄土式の池泉回遊式より、室町時代-安土・桃山時代の枯山水式を経て、江戸時代に入り再び池泉式に移行するその過渡にある庭とされている。
 江戸時代末期まで、作庭当初の状態が保存されていたという。近代以降、度々改修されている。1936年、現代の作庭家・庭園史研究家の重森三玲(1896-1975)により実測調査が行われた。1961年、重森は江戸時代の『都林泉名勝図絵』(秋里籬島、1799)をもとに復元した。
 庭は東西の長形の枯山水式であり、石組は全体に抑えられている。当初の庭の半分の庭面しかなく、横に長く広がる。西に小規模な石組による滝口があり、波頭が表現されている。その手前に石橋が架けられている。黒い鱗形(楕円)の小判石を、一定方向に並べ細い川に見立てる。これらは薄板石であり、隙間なく重ね合わせて鱗状にしている。川は苔地に挟まれた谷を流れ下る。川の手前に白砂があり、横に砂紋が引かれている。川の流れは東へ向け湾曲し、川幅が狭まり広がりながら続いている。これは「枯れ流れ」といわれる特異なもので、歴史的にも重要という。石は上流部の黒色と下流部の緑色と色が異なる。これは、復元時に、上流部に保存状態の良かった石を並べたためという。
 杉苔の苔地で低い築山が造られ、小さな石組がある。築山の後方に植栽があり、灯籠が立つ。
 中央に丸い瓜実(うりざね)灯籠が据えられている。「足利将軍義昭公の銘なり。その高さ台共に二尺二寸三分(68㎝)、広さ所回り三尺二寸五分(98㎝)」(江戸時代、『都林泉名勝図会』)とある。
 その後ろに少し尖った白い烏帽子石が据えられている。全体的に白く、天辺が少し欠けている。「永禄3年(1560)…義昭参詣あって寺内を巡覧の時、かの石を見て宿坊のゆえ当院へ移して愛をなせり」(江戸時代元禄年間、『山州名跡志』)とある。また、「足利義昭公、烏帽子を掛置き給ひし石なり」(『都林泉名勝図会』)とある。義昭が気に入り、本圀寺より当院に移し、烏帽子を置いたともいう。
 瓜実灯籠の左、ツツジの植え込みに背半分を覆われる形で、背の高い春日燈籠が据えられている。蓮の華の様を表しているという。上の宝珠は蕾、火袋は華、下の基礎は散華を意味し、無常観を示しているという。
 庭の西手前に置かれた呼子(よぶこ)手水鉢は、「呼子手水鉢などの名品あり。鉢は天明火災に破損すといえども都下に有名なるものなり」(『京都坊目誌』、1916)とある。象形文字で前面中央に「子」、その左に「父」、右に「母」の字が刻まれている。子は両手両足を広げ、両脇より両親が子を支え、子を呼んでいる姿として「呼子手水鉢」と呼ばれたという。1788年の天明の大火により、子を喪った両親が菩提を弔うために奉納したものという。手水鉢には焼けた痕跡、傷が多数みられるという。
 庭の西、滝口近くに小堂が建てられ、日蓮と古井尊像を祀っている。屋根の桃の瓦焼は、火難除けの意味があり、桃は水分が多い果物であることから飾られている。
 庭の東には、白砂の砂紋と石畳だけの枯山水式庭園がある。
 前庭の2つの枯山水式庭園は、重森三玲作庭による。
◆鳥帽子石 庭の鳥帽子石について説話が残る。名の由来は、足利義昭が烏帽子をかけた石という。 
 また、1560年、本圀寺において天下安全の祈祷が行われ、足利義昭が参詣した。鳥帽子石を気に入り、寺の宝物も持ち帰ろうとした。日乗は諫めたものの義昭は聞き入れず、日乗を寺より追った。石も3つに割った。その夜、山内の狐が集まり、義昭の頭に石を載せ、胸を押すなどした。義昭はついに耐えられず、日乗を赦し、宝物も返したところ、狐も退散したという。
◆名水 名水「真如水」があった。
◆年間行事 庭園特別公開(10月29日-11月6日)。


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*普段は非公開。主な建物内、庭園の写真撮影は禁止。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都 歴史案内』 『重森三玲 庭園の全貌』『重森三玲-永遠のモダンを求めつづけたアヴァンギャルド』『重森三玲 モダン枯山水』『京都秘蔵の庭』『京の怪談と七不思議』


   関連・周辺     周辺     
関連本圀寺      
 真如院 〒600-8216  京都市下京区柿本町677,猪熊通五条上る  075-811-0088
  Home     Home  
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光