南蛮寺礎石 (京都市上京区) 
foundation stone of Namban-ji
 南蛮寺礎石  南蛮寺礎石 
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南蛮寺聖堂


礎石(柱の土台石)






【参照】人物線刻のある硯(同志社大学歴史資料館蔵)、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所の解説版より


【参照】「都の南蛮寺図(洛中洛外図扇面 南蛮寺図)」、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所の解説版より


【参照】妙心寺塔頭・春光院の銅鐘、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所の解説版より


【参照】妙心寺塔頭・春光院の銅鐘、春光院の説明板より。


【参照】妙心寺塔頭・春光院の銅鐘、春光院の説明板より。


【参照】 「此付近 南蛮寺跡」の碑、中京区(蛸薬師通室町西入北側)

 同志社大学今出川キャンパス構内の図書館入り口付近に、「南蛮寺(なんばんじ)の礎石」が置かれている。
 安土・桃山時代、16世紀後半、京都には複数の南蛮寺が存在したという。当初は、四条付近の民家が利用された。
◆歴史年表 室町時代、1543年、京都最初の南蛮寺(切利支丹寺・伴天連寺)が建立される。中京区蛸薬師通室町西入ル北側にあり、当時の年号から「永禄寺」といわれたともいう。その後、「南蛮寺」と呼ばれる。異説もある。
 永禄・元亀年間(1558-1573)、南蛮寺の礼拝堂は荒廃していたという。
 1575年、オルガンティノ、フロイスらは、四条坊門(中京区姥柳町)に新聖堂建立を計画する。(『日本史』)。夏に工事が始まる。
 1576年頃、織田信長が四条坊門四町四方の土地を寄進したともいう。ただ、確定されていない。(『南蛮寺興廃記』『長崎実録大成』)。
 オルガンティノは最初のミサを行う。高山右近、その父・高山図書(ずしょ)、一族をはじめ信徒が集まる。(フロイス『日本史』)
 1577年、京都南蛮寺(サンタ・マリア御昇天の寺/珊太満利亜御上人の寺/伴天連寺)が完成する。当時の織田信長はキリシタンを保護しており、聖堂を見物に訪れる。町民、僧らが建設に反対し、京都代官・村井貞勝に訴える。(『耶蘇会士日本通信』、同年条)。
 1578年、信長父子が見物する。
 1588年、豊臣秀吉による伴天連追放令により、南蛮寺は破却されたという。
 1600年-1602年、下京区四条堀川付近に、フランシスコ会系の教会が建てられ、修道院、病院なども併設した。
 現代、1973年、同志社大学文学部文科学科考古学研究室により、姥柳町遺跡での調査が行われた。南蛮寺の礎石遺構は、土地所有者からの寄贈を受けて大学構内に移された。現在は屋外展示されている。
◆オルガンティノ 安土・桃山時代のイタリア人カトリック宣教師のグネッキ・ソルディ・オルガンティノ(Gnecchi Soldo Organtino,1533-1609)。イタリアのカストに生まれた。イエズス会に入会し、ロレートの大神学校、ゴアの大神学校で教鞭をとる。1570年、来日し、天草志岐、1577年、京都の布教責任者になる。1577年頃、南蛮寺を完成した。1580年、織田信長に願い、与えられた安土の土地にセミナリヨを建て院長に就く。1583年、高槻に新たなセミナリヨを設置した。1587年、秀吉によるキリシタン禁教令が出され、南蛮寺は破却される。一時、小西行長の領地・小豆島に逃れた。1588年、九州に移る。1591年、天正遣欧少年使節帰国に伴い随伴し、秀吉に拝謁した。前田玄以のとりなしにより京都に戻る。1597年、日本二十六聖人の殉教した犠牲者の耳たぶを大坂奉行より受け取る。長崎に移り亡くなる。76歳。
◆南蛮寺 室町時代、1543年に、京都最初の南蛮寺(切利支丹寺・伴天連寺)が建立される。中京区蛸薬師通室町西入ル北側にあり、当時の年号から「永禄寺」といわれたともいう。その後、「南蛮寺」と呼ばれる。異説もある。
 永禄・元亀年間(1558-1573)、南蛮寺の礼拝堂はすでに荒廃していたという。1575年、オルガンティノ、フロイスらは、四条坊門(中京区姥柳町)に新聖堂建立を計画する。(『日本史』)。夏に工事が始まる。1576年頃、織田信長が四条坊門四町四方の土地を寄進したともいう。確定されていない。(『南蛮寺興廃記』『長崎実録大成』)。オルガンティノは最初のミサを行う。高山右近、その父・高山図書(ずしょ)、一族をはじめ信徒が集まる。(『日本史』)。1577年、京都南蛮寺(サンタ・マリア御昇天の寺/珊太満利亜御上人の寺/伴天連寺)が完成する。当時の信長はキリシタンを保護しており、聖堂を見物に訪れる。町民、僧らが建設に反対し、京都代官・村井貞勝に訴える。(『耶蘇会士日本通信』、同年条)。1578年、織田信長父子が見物する。
 1588年、豊臣秀吉による伴天連追放令により、南蛮寺は破却されたという。
◆遺構・南蛮鐘  ◈1973年、同志社大学文学部文科学科考古学研究室により、姥柳町遺跡での調査が行われた。この際に、平安時代-室町時代の南蛮寺以前の遺構と、安土・桃山時代の南蛮寺関連の遺構が見つかる。
 南蛮寺のものとしては、1.聖堂の礎石(柱の土台石)、2.礫囲いの炉跡、3.敷石の一部、4.捨て穴などになる。
 陶器に混じり、司祭や待者とみられる人物が刻まれた線刻画の硯「南蛮人線刻硯」(同志社大学歴史資料館所蔵)などが発見された。粘板岩の長方形(長さ12㎝、幅6.9-7㎝)で一部欠落していた。線画は硯の裏面にあり、これらの絵は、会堂でのミサの風景を描写したものとみられている。司教、蝋燭の火消しを持つ従者などが描かれていた。
  ◈妙心寺塔頭・春光院に銅鐘(重文)が残されている。旧南蛮寺の遺物ともいわれる。ヨーロッパ様の鐘であり、安土・桃山時代、「1577」と記され、西暦の製作年とみられている。3本の紐帯に区切られた銅の中ほどに四方に文様が鋳出され、三方はイエズス会の紋章、円中に"IHS"(Iesus Hominum Salvator、「人類の救世主イエス」の頭文字)が鋳刻されている。製作方法から日本製と見られている。高さ60.2㎝、裾径44.3㎝。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 「同志社大学文学部考古学調査記録 第2号 姥柳町遺跡(南蛮寺跡)調査既報」、『京のキリシタン史跡を巡る 風は都から』、『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都大事典』 、京都市考古資料館-京都市埋蔵文化財研究所、ウェブサイト「コトバンク」   


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