佐伯理一郎旧宅跡 (京都市上京区)
The ruins of the former residence of SAEKI Richiro
佐伯理一郎旧宅跡  佐伯理一郎旧宅跡
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"It is more Blessed to Give than to Receive"


「受るよりも與ふるは福也(さいわいなり)」(使徒言行録、第20章35節)、「米寿記念 佐伯理一郎」と刻まれている。
 清和キリスト教会の北隣、細い小道の奥に、「受るよりも與ふるは福也(さいわいなり)」の石碑が立つ。 
 この地は、医師・佐伯理一郎旧宅跡(さえき りいちろう きゅうたくあと)であり、碑に刻まれた一文は、佐伯が愛した使徒言行録、第20章35節よりの引用になる。また、一時期、この地には佐伯が開院した京都産院が置かれていた。
◆歴史年表
 近代、1886年、9月より、近代の宣教師・教育者・ディヴィス(Jerome Dean Davis、1838-1910)邸(KBS京都付近)の一部を仮校舎として、看護士・リチャーズにより仮授業の看護学が教えられた。
 1886年、12月、同志社はデイヴィス邸に隣接する烏丸上長者町角(現在の京都ガーデンパレス北側)に、国内の寄付により2000坪弱の土地を購入した。
 1887年、11月、新島襄により京都御苑の西側(烏丸上長者町、現在のKBS京都付近)に京都看病婦学校(実質的な校長・リチャーズ)が開校する。付属病院の同志社病院(院長・ベリー)が開院した。学校の一期入学者は5人だった。建物は、アメリカン・ボード(アメリカ外国伝道委員会)など外国よりの寄付により賄われた。
 1888年、京都看病婦学校の一期生4人が卒業する。
 1895年、10月、同志社(社長・小崎弘道)とアメリカン・ボードとの間で、宣教師館の管理、同志社のキリスト教理解、学校・病院の運営などをめぐり対立が生じる。
 1896年、3月、同志社は京都看病婦学校、同志社病院を廃止する方針を決定した。
 1897年、5月、佐伯は、同志社病院、京都看病婦学校の管理を一任され、それぞれ院長、校長に就任した。9月、佐伯は同志社より、宣教師、家族用の病室として使用していた建物を買い取り、京都産院を開院した。
 1898年、8月、佐伯は、佐伯病院(下京区柳馬場通綾小路下ル永原町)を開院した。
 1906年、4月、京都看病婦学校は佐伯病院に移転になる。新たに、実習病院である京都産院(上京区室町通中長者町)が開かれた。同志社病院は閉鎖される。同志社と学校、病院の関係はなくなる。
 1910年、京都産院は上京区清和院町に移転した。
 1924年、佐伯所有の空地に、現在の清和キリスト教会が建てられた。
 現代、1951年、1953年、1954年とも、京都看護婦学校が廃校になる。
 1953年、佐伯が亡くなる。
◆佐伯理一郎 近現代の産婦人科医師・佐伯理一郎(さえき りいちろう、1862-1953)。肥後国生まれ。父は薩摩藩阿蘇神社付宮司・佐伯清次郎、母・志津の長男。1878年、県立熊本医学校入学。1882年、熊本医学校卒業。東京大学で外科、内科、眼科の指導を受けた。1884年、海軍軍医補(横須賀海軍病院)になる。各派連合祈祷会に参加し、新島襄を知る。第一基督教会で小崎弘道より洗礼を受けた。アメリカンボード(アメリカ外国伝道委員会)の派遣宣教医・セオダー・ギューリックらと教会の設立に関わる。1886年、井深梶之助、和田秀豊らにより横須賀日本基督一致教会(日本キリスト教会横須賀教会)が設立された。25歳の時、初の海軍省留学生として欧米に留学した。1887年、ペンシルベニア大学でウィリアム・オスラー(William Osler、1849-1919)より臨床医学を学ぶ。1888年、渡欧し、ミュンヘン大学、ライプチッヒ、ベルリン、エジンバラを歴訪し、産婦人科学などを研修した。1891年、帰国し、京都同志社病院に勤務、京都看病婦学校で産科を講義した。1891-1926年、同志社女学校で衛生・看護法を教えた。1893年、林業家・土倉庄三郎の四女・小糸と結婚する。1894年、日清戦争に従軍、佐世保海軍病院に勤務する。1895年、復職、京都産科婦人科病院を設立し、産婆講習所を付設する。1896年、医師・ベリー帰国後、同志社幹部と対立する。1897年、同志社より同志社病院、京都看病婦学校を一任され、院長、校長に就任した。アメリカンボードの補助を失い経営に苦しむ。京都産院を開設する。1898年、キリスト教の精神に基づく佐伯病院、佐伯産婦人科病院を柳馬場に設立する。1899年、京都産婦人科会設立。1900年、第2回関西産科婦人科学会開催。1905年、同志社病院は閉鎖になる。佐伯病院が新築になる。1906年、京都看病学校は一時、佐伯病院に移る。京都産院は室町上長者町下ル東側に拡張移転する。1910年、京都産院は室町上長者町下ル西側に移る。1938年、第36回日本産婦人科学会会長就任。1951年、京都府看病婦学校が休校した。
 看護婦、助産婦3000人を養成した。ナイチンゲールに面会したという。キリスト教指導者・内村鑑三(1861-1930)、教育者・新渡戸稲造(1862-1933)、土木工学者・広井勇(1862-1928)らと親交した。医学史に造詣深く、蔵書は杏雨書屋(きょうう しょおく、大阪市)に移された。墓は大徳寺・高桐院(北区)にある。佐伯医院・佐伯ウィメンズクリニック(下京区柳馬場通綾小路下ル永原町)は存続している。
◆John Cutting Berry 近代の宣教師・眼科医・John Cutting Berry(ジョン・カッティング・ベリー、1847-1936)。米国メイン州に生まれる。17歳で受洗した。ボドウィン大学卒。1871年、フィラデルフィアのジェファーソン医科大学を卒業、アメリカン・ボード(アメリカ外国伝道委員会)の宣教師となる。1872年、兵庫国際病院(神戸万国病院、神戸海星病院)の医事監督に就任。貧民のための施療所「恵済院」を設け、日本初の慈善病院、医師有志独立病院(三田市)を設立した。兵庫県病院(神戸病院、神戸大学医学部附属病院)の支配頭に就任。1873年、兵庫県病院で県初の人体解剖を行う。1877年、神戸の監獄でコレラが大流行し、監獄改良を進言し端緒になった。1878年、岡山へ移る。1879年、岡山病院顧問、医療学校で教えた。1882年、新島襄が岡山を訪ね、医学校設立の相談をした。1883年、京都へ移り寺町の宣教師館(旧同志社ハワイ寮)に住む。1887年、同志社病院院長に就任し、付属看病婦学校の設立に参与した。1893年、日本を去り、マサチューセッツ州ウースターで開業医になる。
◆Linda Richards 近代の看護士・Linda Richards(リンダ リチャールズ、1841-1930)。米国ニューヨーク州アントワープ生まれ。1873年、米国初のボストン、ニューイングランド女性小児病院看護学校の第一期卒。ベルビュー病院の夜間看護監督、1年後ボストン看護学校に移る。1877年、英国のナイチンゲールに会い、援助のもと、ロンドンの聖トマス病院などで看護教育、管理研修を積む。帰国後、ボストン市立病院看護学校の創設、看護学校長・病院看護監督者となる。1886年、医療宣教師・ベリーの要請により、アメリカンボードの看護宣教師として来日した。デイヴィス邸で看護学を教えた。1887年、京都看病学学校の実質的な校長になる。1890年、体調不良などにより帰国する。1911年、引退した。
 生涯に13の看護学校を創立に関わる。「日米看護婦の母」と称された。
◆同志社病院 新島襄は医学校の設立を当初より構想していた。1882年の「同志社大学設立之趣意之骨案」には「宗教並哲学」、「法学」と並び、仁術である「医学」の設置を明記している。キリスト教によるアメリカ近代医学に基づく医学教育を意図した。だが、計画は頓挫する。ベリーの助言により、医学校(予定校名・京都民立医学校)の設立は断念し、看病婦学校、病院の設立が決まる。資金は寄付金に頼った。当初の学校名は、同志社看病婦学校の予定だった。寄付金の関係により京都看病婦学校に変更される。1887年に開校、開院する。
 学校は正規なものとしては日本で2番目の設立になる。看病婦学校の目的は病人の苦痛を救うこと、熟練した看病人を養成すること、病人の心を慰めることなどを掲げた。建物は木造2階建だった。
 学校の授業はリチャーズ、ベリー、バックレーらが担当した。第一期入学者は5人あり、1年後に4人が卒業している。2期生に北里(不破)ユウがおり、新島襄の大磯での療養に際して看病に当る。1889年-1893年、学校が最も充実していた。
 病院に、アメリカンボードは、女医・バックレー(S.C.Buckley)、ホルブック(M.A.Holbrooks)らを派遣した。開業より5年間で、入院患者1000人、外来患者2万人を数え、高い評判を呼ぶ。日本人医者には、大久保真次郎(1856-1914)、浜田玄達(1855-1915) 白藤(児玉)信嘉、川勝原三、堀俊造、山崎直記、近藤恒有、竹内雄四郎、川本恂蔵、そして佐伯理一郎らの名がある。
 1893年、ベリーの帰国とともに、アメリカンボードと同志社の間に方針の対立が生じる。アメリカンボード側は、病院よりの撤退を決めた。病院、学校は資金難に陥り、1897年、同志社は佐伯理一郎に病院、学校の貸与、管理を任せた。1905年、同志社は学校、病院の全面閉鎖を決議する。1906年、京都看病婦学校は佐伯病院(下京区柳馬場通綾小路下ル永原町)に移転になる形で存続した。新たに、実習病院の京都産院(上京区室町通中長者町)が開かれた。同志社病院は閉鎖される。1910年、京都産院は上京区清和院町に移転した。 1951年、京都看護婦学校はGHQ(連合軍総司令部)の看護教育改革に対応しきれずに廃校になる。


*参考文献 『同志社山脈』『京都大事典』『京都の医学史』『京の医学跡探訪』、サイト「京都府立医科大学の看護教育開始から120年を経て~そのはじまりをみつめる~同志社病院・京都看病婦学校ではじめられた看護教育~リンダ・リチャーズの日本での活動から~」、サイト「京都看病婦学校同志社病院設立と廃止の事情」、サイト「同志社医学教育の歩み 同志社病院と京都看病婦学校」サイト「同志社大学キリスト教文化センター  新島襄の志を受け継ぐために」


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map  佐伯理一郎旧宅跡 〒602-8003 京都市上京区清和院町,室町通上長者町下ル 清和キリスト教会の北隣
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