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同志社 彰栄館 (京都市上京区) Shoeikan,Doshisha University |
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同志社 彰栄館 | 同志社 彰栄館 |
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![]() 南側 ![]() 南側、玄関ポーチ ![]() 南側 ![]() 南側、尖頭アーチ ![]() 南側、煙突 ![]() 南側、煙突 ![]() 南側、鬼瓦 ![]() 南側 ![]() 東側 ![]() 東側、塔屋 ![]() 東側、時計盤 ![]() 東側、正面玄関 ![]() 東側 ![]() 東側 ![]() 東側 ![]() 東側 ![]() 北側 |
同志社大学今出川校地の西門近くに、彰栄館(しょうえいかん)はある。同志社の煉瓦建築群の中で最古であり、京都市内現存最古の煉瓦造建築になる。 近代の宣教師・牧師・建築家・D.C.グリーンが設計した。 ◆歴史年表 近代、1884年、彰栄館は竣工した。 1887年、J.D.デイビスが鐘・時計を据え付けた 現代、1951年、増築され、外観は変化している。 1979年、5月、重要文化財に指定されている。1979年-1980年、壁体の鉄骨補強工事が行われる。 ◆D.C.グリーン 近代の宣教師・牧師・建築家・ダニエル・クロスビー・グリーン(Daniel Crosby Greene, 1843-1913)。アメリカ合衆国マサチューセッツ州ロクスベリー出身。アメリカ外国伝道委員会(アメリカン・ボード、会衆派教会系ミッション)幹事の9人目の子。1849年、父は病いによりアメリカン・ボードを辞職した。1850年、母が亡くなる。1852年までに一家は離散する。1860年、ミドルベリー大学に入学し、1861年、ダートマス大学に転校する。南北戦争が起こり、1862年、北軍側のダートマス騎兵隊に入隊し、その後除隊になる。1863年、キリストに入信した。1864年、大学を卒業する。1866年、会衆派のシカゴ神学校に入学し、アンドーヴァー神学校に転校した。1869年、神学校を卒業し、聖職に就く按手礼を受け、メリー・ジェイン・フォービスと結婚した。アメリカン・ボード最初の宣教師として日本に派遣され、横浜に到着した。1870年、ヘンリー・ブロジェットの勧めで、造成後間もない神戸の居留地に移り伝道拠点を設ける。1871年、商人・ブラッドフィールドが、礼拝堂建設のための土地献品を申し出、1872年、グリーンの設計とみられるユニオン・チャーチが完成し、初代牧師に就く。1871年、グリーン、O.H.ギューリック宣教師に日本語を教えていた市川栄之助夫婦が宗教弾圧により逮捕される。1872年、栄之助は亡くなる。妻・まつは釈放され、グリーンは引き取り生涯世話した。1874年、洗礼を授けた11人により、摂津第一公会(現・日本基督教団神戸教会)が創立される。グリーンは横浜に戻り、アメリカ合衆国より帰国した新島襄を横浜埠頭で出迎え、大阪へ行くように指示した。1874年-1880年、横浜で、J.C.ヘボン、フルベッキらとともに聖書翻訳委員として、新約聖書の共同翻訳を完成している。1882年-1887年、同志社英学校で神学、旧約聖書学を講義した。この間に、3棟の煉瓦造建物を建設した。1884年、神学部新入生の安倍磯雄、村井知至が、グリーンの授業内容に不満を抱き退学した。1886年、グリーンの態度に抗議した在学生9人による連袂退学事件が起こる。1887年、休暇を得て夫人とともにヨーロッパに旅立ち、3年後に東京に戻る。1897年、労働運動指導者・片山潜によるキングスレー館(日本初の隣保館)の設立を支援した。神奈川県葉山で亡くなる。70歳。 青山霊園(東京都)に葬られた。2001年、墓は若王子山の同志社墓地(左京区)に夫人とともに移されている。 教会発展、日本アジア協会、平和協会の会長を務める。明治期(1868-1912)中期-末期、同志社理事として貢献した。新島の開校計画について当初、アメリカン・ボード側は否定的だったという。伝道師養成所ではないとされたためだった。新島に理解を示したのは、アメリカ合衆国の軍人・宣教師・J.D.ディヴィスとグリーンのみだった。設計した作品として同志社大学構内に彰栄館(1884)、礼拝堂(1886)、有終館(1887)の3棟がある。これらの建設資金は、グリーンがアメリカン・ボードから調達している。 ◆J.D.ディヴィス 近代の軍人・宣教師・教育者・Jerome Dean Davis(ジェローム・ディーン・ディヴィス、1838-1910)。アメリカ合衆国ニューヨークの生まれ。7人兄弟の3番目。8歳の時に母を亡くす。14歳で洗礼を受けた。1853年、一家はイリノイ州ダンディに移る。17歳で、地元学校の教師になった。1858年、ウィスコンシン州・ローレンス大学に入る。1859年、ウィスコンシン州・ベロイト大学に転校した。1861年、大学在学中に南北戦争が勃発し、志願しイリノイ第52軍団で後に北軍義勇軍の連隊旗手になる。1862年、シャイローの戦いの武功により中佐になった。負傷し病院で療養後に戦線に戻り、1866年まで従軍した。除隊後、再びベロイト大学に戻り卒業後、シカゴ神学校に入る。大学でD.C.グリーン、J.L.アトキンソンと同級だった。1869年、神学校を卒業後、会衆派教会の内国伝道協会派遣により、ワイオミング州シャイアンの開拓伝導にあたる。アメリカン・ボード年会で新島襄に会っている。1871年、アメリカン・ボード派遣宣教師として神戸に上陸し、三田で伝道した。1872年、グリーン宣教師、前田泰一らと神戸宇治野村に英語学校を開設し、聖書も教え伝道者養成学校を作った。1873年、共同でキリスト教図書書店、チャペルを開く。1875年、京都に移り、新島を支え同志社の設立、運営に協力し最初の教員になる。構内で学生に聖書講義をした。新島の開校計画について、アメリカン・ボード側は伝道者養成学校の設立を目指した。新島はキリスト教主義の学校を目指したため両者は対立する。ディヴィスは新島を支持し、アメリカン・ボードを説得した。1876年、女性宣教師アリス・スタークウェザーを米国から招き、京都の自宅で女子塾を開く。1890年、新島没後、英文で新島伝A Sketch of the Life of Rev Joseph Hardy Neesimaを著した。1882年、ベロイト大学から神学博士学位を授与された。1896年、同志社理事会が、キリスト教主義教育綱領を外したため、ディヴィスらは同志社を辞している。以後、地方の小教会を支援する。1898年、同志社の理事会は総辞職し、綱領は復活した。1910年、休暇で帰国中にオハイオ州オベリンで発病し亡くなる。遺言は"My Life is My Message(私の生涯が私の遺言である)"だった。76歳。 墓は同志社墓地(左京区)にある。 ◆建築 彰栄館は、近代、1884年に竣工した。設計はグリーンによる。同志社には3作品があり、その最初の作品になる。建設費は7500ドルであり、グリーンがアメリカン・ボードから寄付金として調達している。1951年に増築され、外観は変化した。1979年5月に、建物、時計機械一式とともに重要文化財に指定された。1979年-1980年に、壁体の鉄骨補強工事を行った。 同志社構内初の煉瓦造の本格的な洋風建築だった。京都市内現存最古の煉瓦造建築でもある。南面している。平面は南北に長い矩形であり、南側の正面入口部分は突出する。当初は東面していた。 外観は洋風(アメリカン・ゴシック)になる。東面中央には3階建の塔屋(時計台)がある。塔屋1階には玄関ポーチが開く。寄棟屋根は銅板葺であり、屋根の4面には時計盤が嵌められている。時報は京都駅付近まで聞こえていたという。窓はゴシック様式(12世紀前半のパリで始まり、16世紀にヨーロッパ各地に影響を与えた様式)の尖頭アーチになっており、花崗岩で縁取りされている。3階窓外側に鎧戸が設えられている。塔屋は鐘塔でもあり、毎朝の礼拝を告げるため中学校生徒の司鐘生が鐘が鳴らしていた。鐘は、同志社中学校が岩倉に移転するまで続けられた。 外壁の煉瓦は、長手積2-4段毎に小口積を1段入れる。基礎、隅には花崗岩を入れた意匠になっている。塔屋以外の窓は矩形に近い緩いアーチ(扇形アーチ)を描く。 日本人大工が施工した初期洋風建築であり、構造形式は純和風になる。内部は屋根を支える小屋根が束( 梁上などに立てる短い柱)を立てた和小屋組、間仕切壁には木舞(壁の下地にする竹)、貫(貫柱と柱、束間を横に貫き繋ぐ材)を使用している。1階・2階の床は木造で大梁(柱に結合されている主要な梁)、部材の接合部に継手(長さ方向への接合)、仕口(直角の接合)などを用いた。 施工は棟梁・尾滝(瀧)菊次郎、煉瓦造、1階建、一部中2階・地下室付、塔屋(時計塔・鐘塔)付、屋根は寄棟造、桟瓦葺、建築面積316.0㎡/275.86㎡、延べ567.86㎡。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「文化財データベース-文化庁」、ウェブサイト「同志社大学」、「説明板-同志社大学」、『京都の洋館』、『京都の赤レンガ」、『京都モダン建築の発見』、ウェブサイト「ジェローム・ D ・デイヴィス - 同志社大学」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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