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鄭芝溶・尹東柱詩碑(同志社大学今出川校舎) (京都市上京区) Poem inscribed on monument of ChungJi,young and Yoon,Dongju |
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鄭芝溶・尹東柱詩碑 | 鄭芝溶・尹東柱詩碑 |
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![]() 鄭芝溶詩碑 ![]() 鄭芝溶詩碑 ![]() 尹東柱詩碑 ![]() 尹東柱詩碑 ![]() 同志社クラーク記念館 |
同志社大学今出川校舎には、戦前に同志社に留学していた鄭芝溶(チョン-ジヨン)、尹東柱(ユン-ドンジュ)という2人の朝鮮人詩人の詩碑が並んで立てられている。
◆歴史年表 近代、1923年-1929年、鄭芝溶は、同志社大学英文科に在学した。 1942年、10月、尹東柱は、同志社大学英文科選科に入学した。 1943年、7月、同志社在学中の東柱は、ハングルで詩を書く。独立運動の嫌疑で下鴨警察署に逮捕される。 現代、1995年、2月、同志社大学構内に尹東柱の詩碑が立てられた。尹の獄死50周年記念として同志社校友会コレアクラブの発意による。 2005年、12月、同志社大学構内の東柱の詩碑の隣に、芝溶の詩碑が立てられた。 2025年、2月、同志社大学は、尹東柱に名誉文化博士の学位を贈った。 ◆鄭 芝溶 近現代の朝鮮・大韓民国の詩人・鄭 芝溶(チョン-ジヨン、ChongJi-yong,1902/1903-1950?)。男性。忠清北道(チュンチョン-プクト)沃川(オクチョン)郡の生まれ。1918年、京城(キョンソン、ソウル)の徽文(ヒムン)高等普通学校に入学した。小説を発表し、同人誌を発刊した。1923年-1926年、徽文高等普通学校の奨学金を得て同志社大学予科に学ぶ。キリスト教(プロテスタントから後にカトリックに改宗)への信仰を深めた。1926年、同大学英文科に入学した。この頃より、詩作を始める。1929年、同大を卒業する。卒論はウイリアム-ブレークに関するものだった。帰国し、徽文高等普通学校で英語教師になる。「カトリック青年」の編集顧問になる。1930年、詩誌「詩文学」同人、「九人会」に参加した。1945年-1948年、梨花(イファ)女子専門学校(後に梨花女子大学)教授になる。京郷新聞社主幹として活躍した。1950年、朝鮮戦争勃発により、政治保衛部に身柄を拘束される。西大門(ソデムン)刑務所に収監され、平壌(ピョンヤン)監獄に移監され亡くなったとみられている。朝鮮戦争時に越北し、1950年末頃に平壌で亡くなったとも、その後の消息は不明ともいう。『鄭芝溶詩集』(1935)、詩集『白鹿潭』(1941)など。48歳。 「越北詩人」といわれ忘れ去られていた。1980年代に再評価の動きが高まる。「韓国現代詩の父」とされている。 ◆尹 東柱 近代の朝鮮人詩人・尹 東柱(ユン-ドンジュ/イン-トウチュウ/Yun Tongju、1917-1945)。男性。幼名は海煥(ヘファン)。満州(中華民国東北部)北間島(ブッカンド、現・中国吉林省)明東(ミョンドン)学村の生まれ。父・明東校教員・尹永錫(ユン-ヨンスク)、母・金龍(キム-リョン)の長男。祖父・尹夏鉉(ユン-ハヒョン、キリスト教の長老)。キリスト教長老教会で従兄弟・宋夢奎(ソン-モンギュ)とともに幼児洗礼を受けた。1925年、明東小学校に入学する。1931年、大拉(デナブ)の中国人小学校に転入学する。1932年、一家は龍井(ヨンジョン)に移り、東柱はプロテスタント系・恩真(ウンジン)中学校に入学した。1934年、詩作を始める。1935年、平壌(ピョンヤン)のミッション系・崇実(スンシル)中学校に編入した。1936年、崇実中学交が神社参拝拒否問題で廃校処分になったため退学する。故郷の日本人経営の光明(クワンミョン)学園中学部に編入する。詩人・鄭芝溶(チョン-ジヨン)の詩を耽読した。1937年、進学問題で医科を望む父と対立する。1938年、光明学園中学部を卒業し、京城(キョンソンブ、ソウル)の延禧(ヨンヒ/ヨニ)専門学校文科(現・延世[ヨンセ]大学)に入学する。1939年、詩・童謡を発表した。この頃、キリスト教の信仰に根本的な疑いを抱く。1941年、文友会雑誌「文友」に詩『新しい道』などが掲載される。自選詩集『空と風と星と詩』の出版は、ハングル使用が禁じられていたため果たせなかった。戦時下により延禧専門学校文科を繰り上げ卒業する。向学のため渡日を決意し、やむなく一家で「平沼(ひらぬま)」と創氏改名し、「東柱(とんちゅう)」とした。1942年、キェルケゴールを耽読する。3月、来日し、4月、東京・立教大学文学部英文科に入学する。中退し、夏休みに一時帰国後、10月、再来日し、同志社大学文学部文化学科英語英文学専攻に転入学する。武田アパート(左京区田中高原町)に住み通学した。1943年、7月、同志社大学在学中にハングルで詩を書く。戦時下の皇民化政策により、ハングル使用は危険視されていた。夢奎は京都下鴨警察署の特高課内鮮係刑事により、朝鮮独立運動の嫌疑で逮捕される。同月、東柱も同署に同容疑で逮捕・勾留された。蔵書・日記なども多数押収された。12月、2人とも送検される。1944年、3月、京都地方裁判所で改訂治安維持法違反の罪で、懲役2年の判決を受けた。2人は思想犯として福岡刑務所に送られ投獄される。1945年、2月16日明け方、東柱は獄死した。最期に何か大声で一言叫んだという。死因は不明。27歳。 同年、3月6日、東柱は龍井の東山(トンサン)教会墓地に埋葬された。3月10日、夢奎も獄死している。 東柱は寡黙で内省的で、いつも微笑み、スポーツを好んだという。遺稿詩集『空と風と星と詩』(1948)、『星かぞえる夜』(1941)、『十字架』(1941)など。現在、韓国では中高校の教科書に東柱の詩が必ず掲載されている。2025年2月16日、同志社大学は、名誉文化博士の学位を贈った。 ◆鄭芝溶・尹東柱 同志社大学今出川校舎には、戦前に同志社に留学していた鄭芝溶(チョン-ジヨン)、尹東柱(ユン-ドンジュ)という2人の朝鮮人詩人の詩碑が並んで立てられている。 2人はともにクリスチャンであり、同志社大学に学んだ。ただ、15年の時間差があり、直接会ったことはなかった。東柱は、鄭芝溶の詩集を愛読し、師と仰いだという。芝溶の詩「鴨川」を傑作と評している。 東柱の没後に、芝溶らはソウルで東柱の追悼詩集『尹東柱詩集 空と風と星と詩』を出した。その序文に芝溶は、東柱の詩『もう一つの故郷』を引用している。 ◆序詩 現代、1995年2月16日に、同志社大学構内に作・尹東柱の詩碑「序詩」が立てられた。「同志社校友会コリアクラブ」(1992)の提案による。詩碑設計は尹の弟・一柱(イルジュ、成均館大学教授)による。 碑は西向きに立てられ、祖国と兄の母校・延世大学の方角を向くという。延世大学にも、1968年に一柱が設計した東柱の詩碑が立つ。 同志社大学の碑の近くに、韓国国花・ムグンファ、チンダルレ(ツツジの一種)、日本の桜が植えられている。 「序詩」(1941年) 死ぬ日まで空を仰ぎ 一点の恥辱(はじ)なきことを、 葉あいにそよぐ風にも わたしは心痛んだ。 星をうたう心で 生きとし生けるものをいとおしまねば そしてわたしに与えられた道を 歩みゆかねば。 今宵も星が風に吹き晒される。 (訳・伊吹郷) ◆鴨川 現代、2005年12月18日に、同志社大学構内、尹東柱の詩碑の隣に「鄭芝溶詩碑」が建立された。沃川郡・鄭芝溶記念事業会による。詩碑は日本語・ハングルで「鴨川」が刻まれている。 「鴨川」 鴨川 十里の野原に 日は暮れて‥ 日は暮れて‥ 昼は昼ごと 君を送り 喉がかすれた‥ 早瀬の水音‥ 冷たい砂粒を握りしめ 冷ややかな人の心 握りしめ 砕けよ うつうつと 草生い茂るねぐら 水鶏の後家が 独り鳴き 燕のつがいが 飛び立ち 雨乞いの踊りを 空に舞う 西瓜の匂い 漂う 夕べの川風 オレンジの皮を噛む 若い旅人の憂い 鴨川 十里の原に 日が暮れて‥ 日が暮れて‥ ◆年間行事 尹東柱命日の献花式(2月16日に先立つ土曜日)。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊年間行事(拝観)は中止、日時・場所・内容変更の場合があります。 *参考文献・資料 『同志社人脈』、『新編 同志社の思想家たち 下巻』、『尹東柱詩集-空と風と星と詩』、ウェブサイト「立教大学図書館」、ウェブサイト「京都芸術大学」、『星うたう詩人』、『同志社と韓国人留学生』、『闇より黒い光のうたを』、『尹東柱 青春の詩人』、ウェブサイト「尹東柱 と尹一柱-詩に現れた兄弟の思い」、ウェブサイト「瓜生通信2021.03.03京都芸術大学広報課」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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