春光院 〔妙心寺〕 (京都市右京区)
Shunko-in
Temple
春光院  春光院
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南蛮寺鐘、説明板より
 春光院(しゅんこういん)は境内北西に位置し、山門は東面している。京狩野派の絵師・狩野永岳の障壁画、南蛮寺の遺鐘を所蔵する。近現代の思想家・久松真一は長く当院に住し、世界禅の契機になった。
 臨済宗妙心寺派。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1590年、堀尾吉晴が長子金助の菩提を弔うために建立した。開祖は妙心寺113世・猷山景嘉(ゆうざんけいか)による。当初は金助の法号「俊巌院殿逸巌世俊大禅定門」に因み、俊巌院(しゅんがんいん)と称した。
 江戸時代、1633年、堀尾家3代目・忠晴が病没後、嗣子なく堀尾家は断絶した。
 その後、堀尾家姻戚の石川主殿兼勝は、松江・瑞応寺、円成寺より堀尾吉晴、吉久、忠氏、忠晴の像を当院に遷し、霊屋に安置する。
 1636年、院主・碧潭兀岩座元に帰依した忠晴の娘婿・石川憲之(山城淀城)が檀越になり、寺領30石を寄進した。中興して春光院と改称した。
 1712年、8世・鐸道文器の時、再建になる。淀城の寝堂を移して大書院にした。
 1794年-元保年間(1830-1843)、大改修が行われる。
 1854年、南蛮寺の遺鐘が移される。(寺伝)
 1867年、「さざれ石の庭」が作庭される。
 近代、1918年、思想家・久松真一は妙心寺山内春光院の一隅に居を構える。
 現代、1962年、久松真一は春光院より室町に移居する。
◆猷山景嘉 安土・桃山時代の臨済宗の僧・猷山景嘉(ゆうざん けいか、生没年不詳)。詳細不明。妙心寺113世。1590年、春光院開祖。
◆堀尾吉晴 安土・桃山時代-江戸前期の武将・堀尾吉晴(ほりお よしはる、1543-1611)。尾張の土豪・堀尾泰晴(吉久)長男。織田信長、豊臣秀吉に仕えた。後に秀吉の三中老の一人に任じられた。1573年、近江長浜に100万石を与えられる。1585年、近江佐和山城主。1587年、秀吉の九州攻め後、従五位下・帯刀先生に任じられる。1590年、小田原攻め後、遠江浜松城に移る。1599年、家督を子・忠氏に譲り、越前府中に隠居した。1600年、三河の池鯉鮒(知立市)で加賀井重望(秀望とも)に斬られ負傷。1600年、関ヶ原の戦いに加わらず、戦後、忠氏没後、孫・忠晴を補佐し松江城を築く。墓所は春光院にある。
◆堀尾金助・その母 安土・桃山時代の武将・堀尾金助(1573-1590)。詳細不明。父は堀尾吉晴、叔父・方泰の子など諸説ある。1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に父と共に参戦し、陣中で死去した。病死とも戦死ともいう。18歳。
 金助の母(?-1621)は、出陣の際、かつて橋上で罪を裁いたという東海道筋の裁断橋(名古屋市)で子・金助を見送った。子没後、その供養のため1612年、橋を架け替え、33回忌に改修し擬宝珠に次の銘文を残した。「小田原への御陣 堀尾金助と申す 十八になりたる子をたたせてよ 又二目とも見ざる 悲しみのあまりに いまこの橋を架けるなり 母の身には落涙ともなり 即身成仏し給え 逸岩世俊(金助戒名)と後の世のまた後まで この書き付けを見る人は 念仏申し給えや 三十三年の供養なり」。日本女性の三大名文の一つとされている。
◆石川憲之 江戸時代前期-中期の大名・石川憲之(いしかわ のりゆき、1634-1707)。石川廉勝(かどかつ)の長男。祖父の跡を継ぎ、1650年、近江膳所藩主石川家2代。1651年、伊勢亀山藩主、1655年、近江守山宿で朝鮮通信使の接待をする。1669年、山城淀藩主石川家初代。1677年、畿内と西国の天領の検地を務める。文人であり、1695年、将軍徳川綱吉に「論語」を講じた。1706年、次男・義孝に家督を譲って隠居。墓所は京都の本祥寺にある。
◆狩野永岳 江戸時代後期の画家・狩野永岳(かのう えいがく、1790-1867)。京都に生まれた。父は京狩野の絵師・影山洞玉(後の狩野永章)、弟は狩野永泰。京狩野家8代・狩野永俊の養子、1816年、永俊没後、京狩野家9代をつぐ。禁裏御用になり、安政度造営に障壁画を制作した。1823年、九条家の家臣、紀州徳川家・彦根井伊家の御用絵師。妙心寺隣華院客殿の障壁画は代表作になる。大徳寺、東本願寺も手掛けた。
◆久松真一 近現代の思想家・久松真一(ひさまつ しんいち、1889-1980)。岐阜県に生まれる。父は大野定吉、母は糸。7歳で祖父・精平の養子になる。第三高等学校、1912年、京都帝国大学文科大学哲学科入学、西田幾多郎に仏教哲学を学ぶ。1915年、西田の勧めで妙心寺僧堂師家・池上湘山老師に参じ、臘八接心(12月8日、釈迦が悟りを開いた日に因む座禅)に参加。1918年、春光院の一隅に居を構えた。1919年、臨済宗大学(花園大学)教授、1929年、龍谷大学教授、1937年、京都帝国大学助教授、1939年、『東洋的無』初刊。1941年、茶道文化の研究をする「京都大学心茶会」を創立。1944年、禅修業の「京都大学学道道場」(後のFAS協会)創立。1946年、京都大学教授。1948年、「絶対主体道」「茶の精神」刊行。1949年、京都大学退官、花園大学教授。1952年、花園大学教授退官、京都市立美術大学教授。1957年、ロックフェラー財団の援助により渡米、ハーバード大学神学部客員教授として「禅と禅文化」を講義。1958年、米国、ヨーロッパへ渡り、マルセル、ハイデッガー、ユングらと交流、講演する。1962年、春光院より室町に移り、1974年、岐阜市に移る。茶人としても知られた。遺言により墓はない。
◆建築 方丈は江戸時代中期以後の客殿建築様式の典型とされる。
 江戸時代、1712年に方丈裏の大書院は、淀城の寝所(寝堂)を移築した。丸木の長押、天井に安土・桃山時代の様式が見られる。
◆庭園 方文西庭は「常盤の庭」といわれ、堀尾吉晴の創建時の作庭という。その後、改修された。当初の鶴亀の庭は亀島付近に残る。
 1848年、裏千家3代・千宗旦弟子首座の好みの茶室「来也軒(らいやけん)」が建つ。幕末に龍安寺より移された。
 「さざれ石の庭」は、江戸時代、1867年作庭による。石川氏の伊勢神宮崇拝により、神道式の枯山水式庭園になる。庭に内宮の森、外宮の社があり、天照大御神と豊受大御神を祀る。白石で五十鈴川の流れを表す。拝石を据える。寺社霊所の縮景の庭であり、社は商売繁盛の信仰がある。
◆障壁画 方丈障壁画は京狩野派9代・狩野永岳筆による金箔画で、東の間に「琴棋書画図」、室中に「月と雁」、西の間に「花鳥」、西の間上間に「太公望」が描かれている。
 京都の絵描きユニット・だるま商店による「極彩色菓子来迎安楽浄土絵図」は、南蛮文化を題材にしている。織田信長が夢見たという安楽浄土、金平糖を多彩で描く。
南蛮寺鐘 「南蛮寺の遺鐘(南蛮寺鐘)」(重文)と伝えられるものが方丈東に吊るされている。
 南蛮寺は、安土・桃山時代、1560年、キリスト教宣教師が京都に建てた教会をいう。当初は、六角通室町西の民家を会堂とし、後に四条烏丸に移り、1576年に四条姥柳町(中京区蛸薬師通室町西入)に教会を建てた。だが、1588年、豊臣秀吉の禁教令で破却された。
 鐘は、江戸時代、1854年(1850年とも)、仁和寺より当院に移されたという。幕府の目があり、朝鮮伝来とされた。また、1576年に南蛮寺(四条姥柳町)にあり、1588年の南蛮寺破却とともに、仙台の龍宝寺に移された。その後、各所を転々とし、1854年に当寺に移されたという。(寺伝)
 鐘の形状は西洋風であり、上部に花弁形の紐を付け吊るし、鐘の下端は開く。中央に丸くイエズス会の紋章がある。太陽の文様(三枝花文様)、その中に十字架、「IHS」の文字がある。「IHS」は、ギリシャ語の「イエス」の最初の3文字とも、ラテン語の「人類の救い主イエス」の頭文字ともいう。紋章下部にある3つのT字形の釘様は、磔になったキリストの両手と両足に打ち付けられた釘跡を象徴するものという。紋章上下の3本の線は、三位一体を表すとみられる。鐘の裏には南蛮寺が完成した年と思われる「1577」が陽鋳されている。
 寺伝によれば、1577年、ポルトガル製という。鐘は太平洋戦争中の戦時供出を危うく免れている。半鐘としていまも使われており、西洋式に内側から鳴らす。銅鐘、高さ60㎝、口径45cm。
◆文化財 絹本著色「東方朔奪桃図」(重文)は、明代の張平山(1464?‐1538?)筆。
 「蘆花浅水図」(重文)は、元代後期の王若水筆(生没年不詳)による。
 江戸時代、1612年、瑞応寺・春龍玄済の賛による「堀尾吉晴像」、春龍玄済賛の吉晴父「堀尾泰晴像」。
◆墓 九輪塔の堀尾家の墓がある。
◆花暦 大書院前庭に、近現代の仏教学者・鈴木大拙(1870-1966)手植えのツツジがある。
◆同性婚 仏式の同性婚(LGBT婚)も行う。 LGBTとはLesbian,Gay,Bisexual,Transgenderの頭文字になる。


*一般には非公開、要事前予約、英語による拝観・座禅体験は行われている。
*参考文献 『妙心寺』『妙心寺 六百五十年の歩み』『龍安寺石庭を推理する』『京都大事典』『京のキリシタン史跡を巡る 風は都から』『増補版 京都の医史跡探訪』『洛西探訪』


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