同志社新島遺品庫 (京都市上京区)  
The storage of Niijima memento
同志社新島遺品庫 同志社新島遺品庫
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南側正面


南側正面


南側、銘鈑


北東角
 同志社大学今出川キャンパス内に、新島遺品庫(にいじま-いひんかん)がある。新島襄、同志社関係の史資料などを収蔵している。
 近現代のキリスト教伝道者・社会事業家・建築家 ・W.M. ヴォーリズの設計による。
◆歴史年表 近代、1940年、新島遺品庫は、新島襄永眠50年記念事業として着工された。校友・池田庄太郎が資金の大半を拠出したという。
 1942年、1月、竣工になる。11月、開館式が執り行われた。
ヴォーリズ 近現代のキリスト教伝道者・社会事業家・建築家 ・ヴォーリズ・ウィリアム・メレル(Vories William Merrell,1880-1964)。本名は一柳米来留(ひとやなぎ-めれる)。アメリカ合衆国カンザス州生まれ。父はジョン・ヴォーリズ、母はジュリア・ヴォーリズの長男。 1888年、8歳で転地療養のために、アリゾナ州フラグスタッフへ移る。絵画と音楽とに親しむ。1896年、コロラド州デンバーに転居した。1900年、イースト・デンバー高校卒業、コロラド大学入学した。YMCA活動を始める。1902年 、カナダ・トロントの「海外伝道学生奉仕団(SVM)」第4回世界大会にコロラド大学代表として出席し、ハワード・テイラー女史の講演に感銘を受けた。建築家の夢をあきらめ外国伝道を決意する。1904年、コロラド大学哲学科を卒業し、コロラドスプリングスYMCAの主事補になる。1905年、来日し、滋賀県県立商業学校(現・滋賀県立八幡商業高校)英語教師として着任した。日本初の中等学校YMCAを創立する。1907年、最初の設計になった八幡キリスト教青年会館(八幡YMCA)が落成する。キリスト教伝道の理由で教師解職になる。The Omi Mustard Seedを創刊した。 1908年 、 京都三条YMCAの一室に、建築設計監督事務所(現在の一粒社ヴォーリズ建築事務所)を開業する。1910年、建築家・レスター・チェービン、吉田悦蔵と「ヴォーリズ合名会社」を設立した。1911年 、 近江ミッションを結成した。本格的な伝道活動を開始する。1912年、『湖畔の声』を創刊した。1914年、メンソレータム社の創業者 A.A.ハイドの支援で、琵琶湖の伝導船「ガリラヤ丸」が進水し、各地に教会を設立する。1918年、 「近江基督教慈善教化財団(現在の公益財団法人近江兄弟社)」を設立し、理事長に就任した。日本初の結核療養所「近江療養院(近江サナトリアム、現在のヴォーリズ記念病院)」を開院する。1919年 、子爵・旧小野播主・一柳末徳(ひとつやなぎ-すえのり)の3女・満喜子と結婚した。1920年、ヴォーリズ合名会社を解散し、「近江セールズ株式会社(現在の株式会社近江兄弟社)」を設立する。メンソレータム(現在の近江兄弟社メンターム)を販売開始した。1922年、私立清友園幼稚園(現在の学校法人ヴォーリズ学園)を設立する。1930年、母校コロラド大学よりLLD(名誉法学博士号)を受ける。同志社大学社友に推薦された。1931年、外皮用薬八幡工場(現在の近江兄弟社工場)が完成する。1933年、近江勤労女学校を設立した。1934年、 近江ミッションを近江兄弟社と改称した。1941年 、日本国籍を取得し、一柳米来留と改名する。京都帝国大学、同志社大学などで教え、1942年、東京帝国大学講師を勤める。戦時中は軽井沢で過ごした。1945年 、マッカーサー元帥と近衛文麿元首相との会談実現のために尽力する。1947年、 近江兄弟社小学校、中学校、1948年、高等学校を開設した。1951年、社会公共事業に対する功績により藍綬褒章を受ける。1957年 、軽井沢で倒れ、近江八幡の自宅に帰り、療養生活に入る。 1958年、近江八幡市名誉市民第1号に推される。1960年 、日米修好通商百周年に功労者として顕彰を受ける。1961年 、建築部門は独立し、「一粒社ヴォーリズ建築事務所」が設立される。黄綬褒章を受けた。1964年、亡くなる。正五位勲三等瑞宝章を受ける。著『吾家の設計』『失敗者の自叙伝』など。83歳 。遺骨は近江兄弟社霊園恒春園(近江八幡市)に眠る。
 伝道の一環として多岐にわたる活動を行う。建材・オルガン輸入、保育施設、幼稚園から高等学校の教育活動、図書館運営、出版、建築(住宅、学校、教会、デパート、ホテルなど)は幅広く手がけた。主な設計作品に、第1作の近江八幡YMCA会館(1906)、大丸心斎橋店本館(1922)、駒井家住宅(1927)、関西学院大学の建物群(1929)、神戸女学院の建物群(1933) (重文)、豊郷小学校(1937)など数多い。
池田庄太郎 近代の実業家・池田庄太郎(?-?)。詳細不明。1916年、同志社普通学校を卒業後、渡米したともいう。帰国後、大阪で池田庄太郎商店、池田大仙堂、池田食品工業株式会経営したともいう。蒐集家だったともいう。
 1942年、竣工した同志社新島遺品庫の建設資金の大半を拠出した。
◆建築 新島遺品庫は、近代、1940年に新島襄永眠50年記念事業として着工された。1942年1月に竣工になる。11月に開館式が執り行われた。設計はW.M. ヴォーリーズによる。校友・池田庄太郎が資金の大半を拠出したという。
 南面し平面は方形になっている。外観は全体に簡素で、コロニアル様式(植民地時代の建築様式、米国では17世紀初頭-18世紀末)になる。当初の設計では西面させ、北に隣接する図書館本館(現・啓明館)との間の前面広場には池泉を造る予定だったという。中央入口にギリシャ神殿風のドリス式オーダー(古代ギリシャ建築の列柱様式、柱に礎盤がなく、柱身はエンタシス[膨らみ]を示し簡素な柱頭をもつ)になる。エディキュラ(立体的に造形された祭壇状の部分)の意匠を施す。これらの装飾も、図書館(現・啓明館)の玄関と関係付けられていた。
 内部には、新島襄、同志社関係の書簡、日記、ノート類、説教・演説草稿、公務記録・文書、軸物、絵画など6000点を収蔵している。
 施工は清水組(現・清水建設)、煉瓦造1階建、煉瓦壁体・木造小屋組、基礎・屋根スラブは鉄筋コンクリート造、煉瓦はイギリス積、スレート葺、80㎡。
◆銘鈑 正面入口脇の銘鈑には次のようにある。
 「新島先生遺品庫 昭和十五年新島先生昇天五十周年ニ當り記念事業會組成サレ校友池田庄太郎君ノ篤志及ヒ校友会ノ賛翊ニ依り造築ス」


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 ウェブサイト「同志社大学」、『京都の赤レンガ』、『京都市の近代化遺産 近代建築編』、ウェブサイト「一粒社ヴォーリズ建築事務所」、ウェブサイト「ヴォーリズの活動とその仲間たちが遣した事業」、レファレンス協同データベース - 国立国会図書館」、ウェブサイト「コトバンク」


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