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正面橋・正面通・六条河原 (京都市下京区-東山区) Shomem-bashi Bridge,Rokujokawara |
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正面橋 | 正面橋 |
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![]() 正面橋 ![]() ![]() ![]() ![]() 正面通、奥に正面橋 ![]() 「元和キリシタン殉教の地」、正面橋東詰北側、川端通の西側 ![]() 正面橋から北東方向、左手の橋は五条大橋、右は比叡山 ![]() 正面橋から南方向、橋は七条大橋 ![]() かつての六条河原辺り、正面橋 ![]() 【参照】正面通 ![]() 【参照】「正面通り」の通名板 |
鴨川に架かる正面橋(しょうめん-ばし)は、正面通に通じている。東は方広寺、豊国神社、耳塚へと向かい、西は枳殻邸(渉成園)、東本願寺に通じる。 ◆歴史年表 平安時代、現在の正面通は、平安京の七条坊門小路の位置に当たる。 安土・桃山時代、豊臣秀吉による方広寺大仏殿造営(1586-1595)が行われた。 1589年以降、大仏殿の正面を通ることから正面通、大仏正面通とも呼ばれた。 江戸時代、1686年頃、大仏殿の正面に当たることから正面通と呼ばれたともいう。 1852年、旧7月、鴨川洪水により橋が流失した。(和気亀亭『日記』) 1831年頃、鴨川より西の通りが通じたともいう。正面橋が架橋されたのもこれ以後とみられる。 現代、1935年、「昭和10年鴨川大洪水」により流失する。 1952年、現在の橋が架橋されている。 ◆正面橋 現在の正面橋の架橋年は1952年になる。橋種は3径間連続鋼プレートガーターであり、橋長71.15m、幅員5.82m(7mとも)ある。意匠として、ウェブプレートの垂直補剛材を表側にしており、これに高欄を合わせている。 ◆正面通 橋上を東西路の正面通(しょうめん-どおり)(全長1.6km)が通じている。通りは、平安京城では七条坊門小路にほぼ重なる。 正面通は、安土・桃山時代、1589年以降に命名された。方広寺(東山区)大仏の正面に通じる道の意味があった。「大仏正面通」とも呼ばれる。江戸時代前期、1686年頃、正面通と呼ばれるようになったともいう。東は大和大路通(東山区茶屋町、方広寺・豊国神社の西側)から、鴨川に架かる正面橋を越え、西は揚屋町通(下京区西新屋敷揚屋町、西新屋敷児童公園 [揚屋町公園]の東側付近)に至る。 安土・桃山時代、1586年に豊臣秀吉(1536-1598)は、方広寺大仏殿(東山区)を創建した。1591年には、その西側に本願寺(下京区)に土地を与えている。1592年、秀吉は、前年に夭逝した長子・鶴松(1589-1591)を追悼するために、祥雲寺(後の智積院の地)(東山区)を創建した。1598年、秀吉が没する。翌1599年に、阿弥陀ヶ峰(東山区)に豊国廟、その麓に豊国神社(東山区)が創建された。本願寺は阿弥陀堂・御影堂を建てている。これらの境内は、鴨川を挟み東西方向にほぼ一直線上に配されていた。 徳川家康(1542-1616)・徳川幕府は、秀吉の神格化を徹底的に妨害した。安土・桃山時代、1602年に家康は東本願寺(下京区)に土地を寄進・別立させて、本願寺を東西に分裂させる。1603年に、東本願寺は阿弥陀堂を建てている。江戸時代前期、1614年に方広寺、1615年には祥雲寺、1619年に豊国廟・豊国神社を次々と破却に追う。1641年に、3代将軍・家光(1604-1651)は、東本願寺住職に土地を与え、渉成苑(枳殻邸)(下京区)を建てさせている。1655年には、豊国廟の参道を塞ぐ形で、新日吉神宮(東山区)を創祀させた。 このため、現在も残る正面通は1本道ではなく途切れている。東から渉成園(枳殻邸)、東本願寺、西本願寺などの広大な敷地・境内に行く手を遮られている。なお、渉成園-不明門通間での通り名は、「中珠数屋町なか-じゅずやまち)通」ともいう。 ◆六条河原 六条河原は、現在の五条大橋から正面橋にかけての鴨川の河原をいう。かつての河原は現在よりも広大だった。中世以降、戦場、刑場になり、数々の罪人が処罰された。 平安時代後期、1159年の平治の乱では、源義朝と平清盛の戦が行なわれた。1183年、木曽義仲は天台座主明雲園城寺長吏慶法の首を晒す。1184年にその義仲の首もまた六条河原で受け取られた。安土・桃山時代、1600年の関ヶ原の戦いで敗れた石田三成は処刑された。 ◆慶長の法難 江戸時代前期、1608年、日蓮宗妙満寺27世・日経は不受不施を説いたため、江戸幕府により捕らえられ、六条河原で耳・鼻削ぎの刑に処せられた。 この「慶長の法難」により、関連寺院は取り潰され、不受不施は弾圧を受けた。 ◆元和キリシタン殉教 正面橋東詰北側、川端通に面して「元和(げんな)キリシタン殉教の地」の碑がある。江戸時代、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠は、二度目の「キリシタン禁令」(1613)を布告した。江戸時代前期、1619年、京都が大弾圧の地となる。 下京区菊屋町(だいうす町=ゼウス、デウスの意)には、多くの信者が住んでいた。役人は信仰を棄てるように言い渡す。63人の信者が捕らえられ、小川牢屋敷に投獄されている。そのうちの8人は、劣悪な牢内の環境のために獄死した。 旧10月6日、52人の信者は9台の荷車に載せられ、市中引き回しの刑を受けた。その後、方広寺と鴨川の間付近(六条河原西岸)で、27本の十字架にかけられる。 碑は、現代、1994年に立てられた。2007年、ローマ法王庁は、日本の殉教者188人に「福者」(聖人に次ぐ地位で徳と聖性が認められた人)の称号を与えた。このなかに、京都の殉教者の名も初めて加えられた。「列福式」は2008年11月、日本で初めて長崎県で開催された。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都大事典』、『京のキリシタン 史跡を巡る風は都から』、『京都水ものがたり 平安京一二〇〇年を歩く』、『鴨川・まちと川のあゆみ』 、『京都の災害をめぐる』、 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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