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| 大聖寺 (御寺御所) (京都市上京区) Daisho-ji Temple |
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| 大聖寺 | 大聖寺 |
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![]() 正門 ![]() 正門「華道 岳松御流 煎茶道 永皎流」 ![]() 筋塀、白線五線入り ![]() 「登録有形文化財」のプレート ![]() 東面築地 ![]() 東面築地、通用門 ![]() 玄関・車寄 ![]() 玄関、鬼板の菊華紋 ![]() 本堂 ![]() 高塀 ![]() 「花乃御所」の石碑 ![]() 27世・花山院慈薫尼の歌碑「九品仏 慈悲の眼の変らねば いづれの御手に 吾はすがらむ」。 ![]() 杜若 ![]() ![]() ハギ ![]() ススキ ![]() フジバカマ ![]() ![]() 【参照】「岡松町」(上京区)の町名 ![]() 【参照】「御所八幡町」(上京区)の町名 ![]() 【参照】「従是東北 足利将軍室町第跡」の碑、上京区室町通今出川東北角 ![]() 【参照】「御所八幡宮」の碑、上御霊神社境内。 花の御所には鎮守社として源氏の氏神である八幡神が勧請された。かつて御所八幡町(烏丸通上立売下ル)付近にあったとみられている。 ![]() 【参照】「蓮華清浄寺跡」の石標(右京区嵯峨大覚寺門前六道町) |
京都御所の北西、御所八幡町(ごしょ-はちまん-ちょう)に尼門跡寺院の大聖寺(だいしょう-じ)はある。この地は、室町幕府「花の御所」の遺構といわれている。萩寺としても知られた。 江戸時代後期まで内親王が入寺し、比丘尼(びくに)御所の第一位とされた。また、「御寺(みてら/おてら)」、「御寺御所(みでらごしょ/おてらのごしょ)」、「御所御寺」、「聖寺門跡」、「大聖尼寺」、「大聖寺宮」などとも呼ばれた。山号は岳松山(がくしょうざん)という。 かつて臨済宗相国寺派、現在は単立。本尊は釈迦如来像を安置する。 尼五山の一つ。神仏霊場会第98番、京都18番。尼寺霊場の一つ。 ◆歴史年表 南北朝時代、1368年、北朝初代・光厳天皇(1313-1364)の法事が天龍寺で執り行われた後、室町幕府3代将軍・足利義満は、天皇妃で出家した無相定円禅尼(むそう-ていえん/じょうえん-ぜんに)を、室町御所岡松殿(おかまつでん、岳松山岡松殿)に迎え安禅所にしたことに始まる。(『平安通志』) 1382年、禅尼の没後、その遺言に従い殿を尼寺にした。法名「大聖寺殿無相定円禅定尼」に因み「大聖寺」とする。七日の斎会が行われたという。(『普明国師語録』)。禅尼の姪・悟心尼(?-1407?)が開山(2世とも)になり景愛寺に属した。悟心尼は景愛寺住持も兼務する。 北朝第5代・後円融天皇(在位1371-1382)の皇女・理栄宮の入寺以来、「御寺(おてら)御所」といわれたという。 北朝第6代、歴代第100代・後小松天皇(在位1382-1412)の皇女入寺以来、皇女の入寺が続く。 室町時代、1430年、長谷(ながたに、左京区岩倉)に移転し、「北山大聖寺」と称したという。(『薩戒記』、同年条) 1472年、「長谷大聖寺殿」と記されている。(『親長卿記』、同年条) 1479年、旧8月、毘沙門町(上京区毘沙門町)へ移転する。なお、現在地(上京区御所八幡町)にはこの間に、聖護院が建てられている。 第104代・後柏原天皇(在位1500-1526)の皇女が入寺し、以後、第一皇女が入ることが多くなる。 1525年、大聖寺立柱になる。(『実隆公記』) 第106代・正親町(おおぎまち)天皇(在位1557-1586)皇女の入寺以来、「尼門跡(比丘尼御所)第一位」の綸旨(りんじ、蔵人が天皇の意を受けて発する文書)を贈られたという。皇女として永高女王(宝昌院、1540-1551)、春齢女王(1549-1569)、永尊女王(1563?-1571)などがある。以後、寺社奉行と連携した特定寺院の尼衆触頭(ふれがしら)になる。 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、御朱印寺領257石を有した。 江戸時代、1673年、大聖寺(上京区毘沙門町)は焼失している。 1675年、この地にあった聖護院が焼失し、現在地(左京区聖護院)に移転している。 1697年/1696年、大聖寺は旧地・岡松殿跡だった聖護院跡地の現在地(上京区御所八幡町)に移転した。 1769年、旧12月、天巌永皎(1733-1808)が住持の時、「御寺御所(おてらのごしょ)」の称号を贈られる。 1788年、天明の大火により焼失する。 1825年まで、119代・光格天皇により復興が続けられる。同年、光格天皇皇女・普明浄院宮入寺の際に宮御殿が建てられる。普明浄院宮を最後として、24代の内親王が住持を務めた。 1854年頃、宮寺として慈雲院、摂取院、抱寺として大歓喜寺、蓮花清浄寺があった。 近代以後、皇女の入室が途絶えた。内裏上﨟(じょうろう、宮中に仕えた高位女官)を務めた華族(近代の貴族)の息女が住持に就いた。 1882年、末寺の嵯峨・福田寺(ふくでんじ、旧小倉殿)が合併になる。 1944年/1943年、東京の青山御所より現在の本堂が移築された。 現代、1985年、6月、庭園は京都市指定文化財(名勝)になる。 2011年、1月、本堂などの建物群が国の登録有形文化財に指定された。 ◆無外 如大 鎌倉時代後期の臨済宗の尼僧・無外 如大(むげ/むがい-にょだい、1223?-1298?)。女性。幼名は千代野(能)?、号は景愛、無著(むじゃく)。父・鎌倉幕府の御家人・安達泰盛(秋田城介泰盛)。武将・金沢(北条)顕時(かねざわ-あきとき、実時)の妻の一人だったという。東福寺・円爾(聖一 国師)に師事した。1279年、中国明州よりの臨在僧・無学祖元(むがく-そげん)に鎌倉で師事し、女人嗣法の最初とされた。1285年、鎌倉幕府の政変、霜月騒動で安達一族が滅亡し、夫の配流に伴い得度したという。1286年、師の没後、尼寺・正脈庵(後の真如寺)を開く。75歳?。 京都尼五山の筆頭・景愛寺の開山とされ、臨済宗最初の正規の尼という。 ◆無相 定円尼 鎌倉時代後期-南北朝時代の尼僧・無相 定円尼(むそう-ていえん-に/じょうえん-に、1325-1382)。女性。名は日野宣子(せんし/のぶこ)。父・権大納言・日野資名(すけな)。資名は第96代・後醍醐天皇の側近として仕えた。宣子は北朝天皇の女官として仕え、北朝初代・光厳天皇の典侍、その後、妃になり政治に介入した。室町幕府3代将軍・足利義満は、宣子の仲介により宣子の姪・日野業子(なりこ)と結婚している。金潭素城の下で臨済宗を学ぶ。1368年、北朝初代・光厳天皇の天龍寺での法事の際に、宣子は春屋妙葩(しゅんおく-みょうは)により落飾した。その後、義満は花の御所内岡松殿に宣子を迎えた。「岡松二品尼」と呼ばれた。1382年、岡松殿で亡くなる。翌日、正覚寺で火葬された。57歳。 定円尼は後光厳天皇の擁護後見役だったという。 墓は相国寺・鹿苑院(北区)にある。 ◆玉巌 悟心 南北朝時代-室町時代前期の尼僧・玉巌 悟心(ぎょくがん-ごしん、?-1407?)。詳細不明。女性。西園寺実衡の孫。無相定円禅尼は叔母。金潭素城の下で臨済宗を学んだ。法嗣になり、師を継ぎ大歓喜寺2世になった。1382年、無相定円禅尼(日野宣子)の没後、花の御所内の岡松殿に入り、尼寺とし大聖寺と改称した。 大聖寺・初代、景愛寺2世。 ◆護渓 理栄 室町時代前期-後期の皇女・尼僧・護渓 理栄(ごけい-りえ、1406-1447 )。詳細不明。女性。護渓理永宮。 父・北朝第5代・後円融天皇/北朝第6代・後小松天皇/第101代・称光天皇?、母・典侍局。1419年、入室した。1422年、嵯峨・宝積院で得度し、翌日、大聖寺に入る。宮の入寺以来、「御寺(おてら)御所」といわれたという。1430年、大聖寺3世になった。41歳。 景愛寺長老。 ◆覚鎮 女王 室町時代後期の皇女・尼僧・覚鎮 女王(かくちん-じょうおう、1487-1550)。詳細不明。女性。号は古鑑、古鑑覚珍、古鑑覚鎮女王。父・第104代・後柏原天皇、母・豊楽門院勧修寺藤子(勧修寺教秀の娘)の第1皇女。1492年、大聖寺に入り、大聖寺宮と称される。1500年、剃髪し尼僧になった。65歳。 大聖寺7世の時、第106代・正親町天皇より「尼寺第一」の宸翰を得て、大聖寺は「御寺の御所」と称されたという。景愛寺長老。 ◆永尊 女王 室町時代後期の皇女・尼僧・永尊 女王(1563?-1571 )。詳細不明。女性。思院宮。父・第106代・ 正親町天皇、母・目々典侍(飛鳥井雅綱の娘)。1569年、入室した。1570年、得度し、大聖寺12世になった。この時、大聖寺は「尼寺第一位」と称されたともいう。8歳?。 ◆元昌 女王 江戸時代前期の皇女・尼僧・元昌 女王(げんしょう-じょうおう、1637-1662)。女性。幼称は滋宮(しげのみや)。宮永昌女王、久山元昌女王、法号は久山、芳桂院。父・第108代・後水尾天皇、母・典侍・園(藤原、壬生院園)光子(園基任の娘)の第9/11皇女。永宗女王の姪とも。1646年、11歳で聖寺門跡・永宗(えいそう)女王の弟子になる。16世/19世門跡を継承し、1649年、得度し紫衣を受け、天昌と名乗る。25/26歳。 墓所は大聖寺宮墓地 (上京区)にある。 ◆天巌 永皎 江戸時代中期-後期の皇女・尼僧・天巌 永皎(てんがん-えいこう、1733-1808)。女性。倫宮(とものみや)、永杲女王、永晃女王、天巌永皎女王、号は勝妙楽院。父・第114代・中御門天皇、母・掌侍・久世夏子(久世通夏の娘)の第7皇女。1733年、3歳で大聖寺の付弟になった。1742年、9歳で出家し、剃髪して永果に改める。10世/23世大聖寺門跡を継承した。1746年、景愛寺住持、紫衣勅許になる。1769年、寺勢の拡大により御所号を許され「御寺御所」と称された。1769年、紫衣を許される。大聖寺を中興した。1770年-1797年、大和・円照寺門跡も兼任した。1781年、二品宣下を叙された。1808年、特賜准三后。 詩歌、茶道に優れ、「大聖寺煎茶道永皎流」を興した。大聖寺門跡中興の祖とされている。77歳。 詩歌の詠み手として知られ、茶の湯をよくした。売茶翁と交流し大聖寺「煎茶道永皎流」になる。勝妙楽院天厳と諡され、没後、大歓喜寺に葬られる。尼僧として前例のない准三后を贈られる。 墓所は、大聖寺宮墓地(上京区)、塔所は円照寺宮墓地(奈良県)になる。 ◆望月 玉川 江戸時代後期の画家・望月玉川 もちづき-ぎょくせん、1794-1852)。詳細不明。男性。名は輝、重輝、字は子瑛。京都の生まれ。父・望月玉仙。幼時に父をうしない、村上東洲、岸駒(がんく)に学ぶ。のち四条派の松村月渓の画風を慕い、一家をなした。59歳。 ◆普明浄院 江戸時代後期の皇女・尼僧・普明 浄院(ふみょう-じょういん、1820-1830)。女性。永潤(えいじゅん)女王、玉鑑永潤女王、玉巌永潤尼大禅師。幼称は倫宮(つねのみや)、号は普明浄院、普明浄院宮。父・第119代・光格天皇、母・新典侍・姉小路聡子(姉小路公聡の娘)。1826年、大聖寺で出家得度し、即日、景愛寺長老になり紫衣の勅許を受けた。大聖寺24世になる。11歳。 大聖寺最後の宮門跡になる。以後、近代まで40年間の無住が続く。 墓所は大聖寺宮墓地(上京区)になる。 ◆石野 慈栄 近現代の尼僧・石野 慈栄(いわの-じえい、1887-1966/1965)。詳細不明。女性。春園慈栄。父・公家(子爵)の石野基将(いわの-もともち)。幼くして母と死別した。1892年、6歳で出家し大聖寺に入ったという。1893年、相国寺・荻野独園(おぎの-どくおん)のもとで得度した。1895年、第122代・明治天皇、昭憲皇太后と初めて面会し、以後、深く親交する。1901年/1902年、大聖寺26世門跡になる。78歳 墓は大歓喜寺墓地(上京区)にある。 ◆花山院 慈薫 近現代の尼僧・花山院 慈薫(かさのいん-じくん、1910-2006)。女性。春岳慈薫、千鶴子。東京の生まれ。父・公爵・花山院親家。1914年、5歳で大聖寺に入り、石野慈栄に師事した。相国寺・橋本獨山を戒師として13歳で剃髪した。1950年、宝鏡寺27世になる。1965年頃、大聖寺27世になった。大聖寺で亡くなる。著『あやめ艸日記』。 96歳。 境内に歌碑が立つ。「九品仏 慈悲の眼の変らねば いづれの御手に 吾はすがらむ」。 墓所は大歓喜寺墓地(上京区)にある。 ◆仏像 本堂に本尊「釈迦如来像」、「地蔵菩薩像」、「聖観音菩薩像」を安置する。 ◆建築 ◈「表門」(国の登録有形文化財)は、境内の東南角に位置する。江戸中期、1751年-1830年に建立された。近代、1922年に移築されている。男梁を三通りに架け、本柱に女梁を挿し、斗を介して男梁を受ける。中備は妻が蟇股、中央が大瓶束になっている。一軒疎垂木。 木造平屋建、一間一戸薬医門、切妻造、本瓦葺、間口3.5m。 ◈「玄関」(国の登録有形文化財)は、宮御殿東に位置している。近代、1923年に建てられた。東面に唐破風造銅板葺の大きな寝殿造の式台玄関(車寄)を突出させている。自動車などの利便も配慮している。南から応接室、玄関、内玄関、納戸を並べ、背面に廊下を通している。 木造平屋建、入母屋造、桟瓦葺、瓦葺・銅板葺、桁行15m、梁間5.3m、建築面積112㎡。 ◈「書院(宮御殿)」(国の登録有形文化財)は、境内中央に南面して建つ。江戸時代後期、1751年-1830年に建てられた。1825年頃に改修されている。第119代・光格天皇皇女・普明浄院宮(1820-1830)の入寺の際に、宮中より移された。 御所より1000両が寄進され御所風に建立された。近世での尼門跡寺院の御殿形態を伝える。西棟、東棟からなる。 西棟は、床・違棚を構える主室を含み4室を「田」型に配し、周囲に畳縁を設けている。入母屋造。 東棟は東に続く。前後列各4室からなり、数寄屋風意匠になる。切妻造。 木造平屋建、瓦葺、建築面積322㎡ ◈「本堂」(国の登録有形文化財)は、境内東南寄りに西面して建つ。近代、1942年に建てられた。1943年に東京青山御所より移築された。かつて、第123代・大正天皇貞明皇后(1884-1951)の御殿だった。 六間取方丈形式で、正面に広縁、正・側面に高欄付切目縁を巡らす。方柱で舟肘木とし、一軒疎垂木、妻木連格子になっている。後列南室を「貴人(きにん)の間」とし、花鳥を描く大床を構えている。 青山御所は、東京都港区元赤坂にあった。旧和歌山藩主・徳川氏の中屋敷跡であり、近代、1872年に朝廷に献上された。英照皇太后(1835-1897)の御所になり、青山御所と称された。以後、昭憲皇太后(1849-1914)、貞明皇太后の御所(大宮御所)になる。戦災で焼失後は、東宮御所が建てられた。 木造平屋建、入母屋造桟瓦葺。瓦葺、建築面積134㎡。 ◈「渡り廊下」(国の登録有形文化財)は、近代、1942年に建てられた。本堂と玄関を繋いでいる。複廊であり、東側は内向きの通路で板張、西側は畳敷、両端部近くに襖、杉戸をたて間仕切る。天井はいずれも棹縁天井になっている。中間に防火壁を設けるなど近代的な要素も見られる。 木造平屋建、両下造桟瓦葺、瓦葺、桁行12m、梁間3.8m、建築面積47㎡。 ◈「南面築地」(国の登録有形文化財)は、江戸時代、1751-1830年に築造された。境内南辺、小路沿いに設けられている。表門から西側隣地境まで延びている。小路側には筋塀に白線五線を入れる。西寄りに間口1.8mの門口が開き、両開戸をたて不浄の門としている。 土塀、本瓦葺、延長66m。 ◈「東面築地」(国の登録有形文化財)は、近代、1922年頃に築造された。境内東辺、烏丸通沿いに位置する。表門から北側に折れ曲がり延びる。通り側の筋塀には白線五線を入れている。北寄りに通用門があり、正・背面に瓦庇を架け、引違い戸と片開戸の潜りを設けている。 土塀、瓦葺、延長59m ◈「高塀」(国の登録有形文化財)は、近代、1942年頃に築造された。表門から玄関への通路と境内前庭を区切る。玄関東南隅から南へ延び、南面築地塀に至る。途中に通用口を2カ所開く。礎石上に土台を置き方柱を立てる。腕木を出し、軒桁を支持し塀瓦を葺く。 木造、壁は漆喰仕上げ、瓦葺、延長36m。 ◆茶室 茶室「残月亭(ざんげつてい)」(国の登録有形文化財)は、宮御殿の西、渡り廊下を介して続く。近代、1938年に建てられた。 「L字型」の入母屋造で、東と南に妻を見せている。床、棚を構える四畳半台目の茶室を中央に、その南に床と付書院を並べる6畳間、東に位牌の間、水屋を配している。 木造平屋建、入母屋造瓦葺、建築面積75㎡、渡り廊下付。 ◆文化財 ◈絹本著色自賛「一翁院(いっとういん)豪像」(重文)は、鎌倉時代後期、1281年作になる。(京都国立博物館寄託)。 ◈「無外如大(むがい-にょだい)自筆譲状」(重文)は、鎌倉時代後期、1286年旧12月7日の作になる。44歳時の筆になる。京都尼寺五山の一つ、景愛寺(廃寺)の開山・無外如大尼(1223-1298)が、かつて臨済宗の僧・高峯顕日(1241-1316)より譲られた京都五辻大宮の屋地を、孫に譲る旨を定めた譲状になる。 ◈安土・桃山時代の「龍登院宮像」、「玉巌悟心尼像」「天巌永皎尼像」「無夢自性(日心)尼像」。徳巌理豊尼(1672-1745)筆「涅槃図」、「大象不遊兎径」。第108代・後水尾天皇(1596-1680)より贈られた屏風「源氏物語」。 ◈江戸時代後期、第119代・光格天皇内親王・普明浄院宮(1820-1830)の狩衣雛(かりぎぬ-びな)、第124代・昭和天皇の香淳皇后(1903-2000)愛用の人形、有職雛(ゆうそく-びな)など歴代皇女遺愛の御所人形、洋装の御所人形、皇室、門跡ゆかりの雛人形、小動物の毛髪人形がある。 ◈「新婚雛」は、男雛は直衣(のうし)姿、女雛は小袿(こうちぎ)姿であり、江戸時代中期の作になる。有職雛であり、若い公卿の服飾を正確に再現している。 ◈第122代・明治天皇第7皇女の周宮(かねのみや、1890-1974)の「お地赤」は、内親王が3歳になり初めて身につけた赤い着物をいう。 ◈「紅地縮緬四君文様刺繍小袖」は、第122代・明治天皇内親王が用いたという。四君とは梅、菊、蘭、竹になる。 ◈江戸時代後期、1789年「大規尊杲尼50回忌奉納打敷」、江戸時代後期、1862年の24世・「普明浄院宮33回忌奉納打敷」。第122代・明治天皇(1852-1912)より女官に贈られた内敷(うちしき)。明治天皇遺愛の椅子などがある。2026年度に修復予定という。 ◈安土・桃山時代の「源氏物語貝桶、合貝」。「舞楽カルタ」、「古歌カルタ」、「鳥絵カルタ」、「花絵合せカルタ」、「蓮華文蒔絵双六盤」、「差義長羽子板・羽」、江戸時代後期の第119代・光格天皇皇后・新清和院(1779-1846)から贈られた化粧道具「菊紋蒔絵楾(はんぞう)」、光格天皇より贈られた器の「菊唐草紋蒔絵食籠(じきろう)」、敷物「茵(しとね)」、「菊文蒔絵文箱」、食器類、化粧道具、香道具「三組盤」、「四組盤」、「耳香」などがある。 ◈江戸時代中期の宝鏡寺宮門跡・徳巌理豊尼(1672-1745)筆「涅槃図」。天巌永皎(1732-1808)筆「古歌懐紙」。 ◈「昭憲皇太后 大礼服」、その遺品の「小葵藤文蒔絵弁当箱」。 ◈本堂、「貴人(きにん)の間」に金地「瑞(ずい)鳥瑞花」の障壁画があり、18世紀の作になる。現代、2021年-2023年に京都の工房で修復が行われた。空を舞う鳳凰、花々が色鮮やかに描かれている。 ◈書院「宮御殿」に望月玉川(1794-1852)筆の「秋草に鹿図」、「波に鶴図」、「竹鶏図」などが飾られている。 ◆昭憲皇太后大礼服 大聖寺に第122代・明治天皇(1852-1912)皇太后・昭憲皇太后(1850-1914)の大礼服(たいれい-ふく)のトレイン(トレーン、引き裾)が保存されている。現在、「中世日本研究所」(上京区)を中核として「大礼服修復プロジェクト」が進められている。 昭憲皇太后には現存する大礼服3着がある。大聖寺所蔵の大礼服は2着目制作の可能性がある。現存最古で西洋の大礼服が当時の日本の技術を結集して制作されたともいう。大礼服(マント・ド・クール)とは、近代、明治期に使用されていた宮廷服であり、皇后が新年の拝賀式に着用した。4種あり大礼服はこのうち最も格式の高いロングドレスをいう。上衣(ボデイス)、トレイン、スカートの3部で構成されていた。 ドレスには、バラの模様が白色とほか8色の糸を用いて織られており、19世紀後半にヨーロッパで流行していた。日本人職人が技術を持ち帰った可能性もある。なお、トレインの刺繍は日本で施されている。 今回の大礼服の解体修復に伴い、金属刺繍裏にあった補強のための和紙に、墨書「遣払帳(つかいばらい-ちょう)」が発見された。次のように記されていた。「従(より)皇后宮 明治四十四年(1911年)孟夏(もうか)御寄附貮枚(にまい)之内 岳松(がくしょう)山大聖寺什(じゅう)」。 大礼服の刺繍に、海軍軍服の金モール製作者が関与した可能性も指摘されている。「天竜」などの文字も記されていた。和紙は横須賀海軍造船所の経理台帳によると、近代、1878年に起工し、1883年に進水した初代木造船「天龍」を建造した時期のものだった。 艦船の艦種はスループ、艦型は3檣バーク型、常備排水量は 1,547t、主機は横置還動式2気筒連成レシプロ蒸気機械1基、1軸、出力1,260馬力、速力12ノット、乗員214名、兵装は25口径克式17cm単装砲1基などを装備していた。1888年-1891年に兵学校練習艦の後、1894年-1895年に日清戦争、遼東半島、威海衛攻略に従事した。1904年-1905年には、日露戦争、神戸港警備に従事する。その後、1911年に廃船になっている。 1887年に皇太后は、洋装と国産服地の使用を奨励する「思召書」を発している。1888年-1890年に大礼服は制作されたと推定されている。「バッスル」と呼ばれる後ろ腰に膨らみを持たせていた。なお、16世紀頃から日本では、和紙を服の補強材として使う技法があり、立体的に見せるために泥紙が使われた。大礼服にも和紙の補強材が使用され、国産の可能性がある。 1887年正月の新年拝賀に、皇太后は初めて大礼服を着用している。明治天皇と並び、勅任官以上の政府高官、その後に外国公使夫妻らの拝謁を受けた。1889年の大日本帝国発布式の一連の行事でも着用された可能性がある。 1907年7月に大礼服は大聖寺に下賜される。大聖寺26世門跡・石野慈栄(いわの-じえい)尼(1887-1966/1965)と昭憲皇太后は深い親交があったという。また、1909年から寺で保管されたともいう。その後、1911年夏に大礼服のトレイン(長さ3.4m、幅1.76m)は、2枚に裁断され打敷(うちしき)にされたとみられている。同年9月は、大聖寺19世門跡・元昌尼(1637-1662)の没後250年遠忌にあたっていた。大礼服を打敷として祭壇に飾り、供養されたとみられている。 ◆庭園 ◈本堂前庭の枯山水式庭園(京都市指定文化財)は、江戸時代中期、1697年に第109代・明正天皇(1624-1696)の形見として下賜、移築された。「河原の御殿」の樹木、石橋、石が移されている。その後、幾度が改修されたという。 苔地平庭、御所風庭園になっており、東西に延びた黒い小石(ゴロ太石)を敷き詰めた枯流れを中心として、川に反石橋、切石の橋など2つが架かる。護岸石組も見られる。かんざし燈籠、苔地、松、楓などの植栽がある。第119代・光格天皇(1771-1840)により贈られた杜若「雲井の鶴」、光格天皇皇后命名の白椿「玉兎」、「侘助」、「白玉」などが植えられている。シャクナゲ、ギボシ、ハギ、ススキなどの花草木が植えられている。現代、1985年6月に京都市指定文化財(名勝)になった。面積517㎡。 ◈書院前庭は、本堂前庭との間にツバキの低い垣により分けられている。フジ、フヨウ、ナンテン、フジバカマなどの植栽が見られる。 ◆皇女 大聖寺には、室町時代後期の第104代・後柏原天皇の皇女・古鑑覚鎮女王(1486-1550)が入寺し、以後、第1皇女が入ることが多くなる。 第106代・正親町天皇皇女の永尊女王 (1563?-1571 )入寺以来、尼門跡第1位の綸旨を贈られた。尼門跡筆頭(第2位・宝鏡寺、第3位・曇華院)になる。 以後門跡は、江戸時代末期の第119代・光格天皇皇女の玉鑑永潤女王(1820-1830 )まで24代の内親王が入寺した。 近代以降は、旧華族の息女が引き継いでいる。 ◆尼門跡寺院 ◈皇室や公家の女性たちが入寺した尼門跡(あまもんぜき)寺院は、7-8世紀(601-800)に始まる。14-15世紀(1301-1500)に最盛期になり、30数寺が存在した。 鎌倉時代後期、1285年に景愛寺が京都に建立された。尼五山中で寺格が最高とされている。その後、大聖寺、宝鏡寺などの尼寺院が次々に創建される。14世紀(1301-1400)後半の文献から、皇族・将軍家の女性が住持になった尼寺は「比丘尼(びくに)御所」と記される。 近代、1868年の神仏分離令で皇女の出家が禁止される。1871年には比丘尼御所という称号は法律により廃止された。明治期(1868-1912)中期以降は「御由緒(ごゆいしょ)寺院」という呼称が用いられたものの定着しなかった。1941年に、15カ寺の旧比丘尼御所に「尼門跡」という称号を使うことが認められている。その後、衰微し、現在は京都に当寺も含め10カ寺、奈良に3カ寺が残るとされている。 7歳-16歳までに寺に入り、修行、宗教儀式、祭事、作法、御所言葉、和歌・絵巻などの文学も嗜み、後世に伝えてきた。 ◈大聖寺(御寺[おてら]御所)は「御宮室(ごぜんしつ)」になる。これは、皇女・王女など皇室の女性が、天皇の猶子になって入室する尼寺を意味した。ほかに、宝鏡寺(百々[どど]御所)、曇華院(竹[たけの]御所)、霊鑑寺(谷御所)、円照寺(山村御所)、林丘(りんきゅう)寺(音羽御所)、中宮寺(斑鳩[いかるが]御所)などが知られた。 公家(摂関家)出身の女性は「御禅室(ごぜんしつ)」に入室した。慈受院(烏丸[からすま])、三時知恩寺(入江御所)、法華寺(氷室[ひむろ]御所)、瑞竜寺(村雲[むらくも]御所)などが知られた。 ◆院家 「院家(いんげ)」は門跡寺院の別院、子院(しいん)であり、門跡に次ぐ格式・由緒を持った。 かつて、大聖寺の院家として大歓喜寺、蓮華清浄寺、摂取院、慈雲院があった。なお、江戸時代後期、1854年頃には、宮寺として慈雲院、摂取院、抱寺として大歓喜寺、蓮花清浄寺があった。 ◆煎茶・花 ◈大聖寺は「煎茶道永皎流(えいこうりゅう)」家元になっている。第114代・中御門天皇の皇女・大聖寺23世・天巌永皎尼(1732-1808)によるもので、現代、2022年に再興された。 ◈花は「兵松流」総裁になる。 ◆花の御所・遺跡 「室町第(むろまち-てい)」とは足利将軍家の邸宅をいう。 南北朝時代、1378年、足利義満(1358-1408)は、室町界隈に新邸宅の室町第を造営した。現在の御所八幡町、岡松町付近にあり、北は毘沙門堂大路(上立売通)、南は北小路(今出川通)、東は烏丸小路(烏丸通)、西は室町小路(室町通)に囲まれた南北2町(220m)と東西1町(110m)の一帯だったとみられている。 「室町殿(将軍)」、「室町亭」、「室町第(居所)」、「花の御所」とも呼ばれた。花の御所については、江戸時代から称された。それ以前の南北朝時代に、崇光上皇(北朝第3代、1334-1398)の御所(仙洞御所)がすでに「花亭」、「花御所」と呼ばれていたことに由来する。また、その南には、光明上皇(北朝2代、1322-1380)の御所、「菊亭(菊の御所)」もあった。室町第はこの2つの御所跡に建てられた。なお、「室町時代」という時代区分も、「室町幕府」も、室町第に由来している。 義満の時に最盛期(1378-1397)を迎えた。その後、義満は御所を北山殿(鹿苑寺)に移し、室町殿(上御所)は、子・4代・義持(1386-1428)に譲る。義満没後、義持は御所を三条坊門殿(下御所)に移した。父子の確執によるとされる。6代・義教(1394-1441)は、父を慕い室町殿に再び戻している。第8代・義政(1436-1490)は、周囲に慰留され室町殿に留まった。この時も御所は一応は機能した。その後荒廃し、第11代・義晴(1511-1550)により再建されたものの縮小される。その後、室町時代後期、1476年、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失している。 発掘調査によると、室町頭北小路(現在の同志社今出川キャンパス東方一帯)周辺より、庭の池跡、景石、集石遺構、15世紀(1401-1500)中期-末までの堀(薬研堀、幅2.7m、深さ1.5m)、また元、明の磁器、釉裏紅の大盤などが出土している。 ◆景愛寺 鎌倉時代の無外如大尼(1223-1298)が中国よりの渡来僧・仏光国師(円覚寺開山 無学祖元、1226-1186)の門に入り出家した。鎌倉時代後期、1285年(弘安年間[1278-1288]とも)に景愛寺(けいあい-じ)を創建したという。 臨済禅の尼寺で、「京兆尼五山」(1285)(景愛寺、通玄寺、壇林寺、護念寺、恵林寺)の第一位になる。尼五山とは、将軍家の姫君が比丘尼(びくに)として出家する寺をいう。比丘尼御所ともいわれた。足利家の庇護により栄えた。 室町時代後期、1498年に堂宇は焼失し、その後、再建されなかったという。景愛寺の称号は、法燈を継ぐ大聖寺と宝鏡寺両住持により継承された。黒衣の他の尼寺に比して、二寺のみは格式の高い紫衣の勅許を得た。江戸時代には、宝鏡寺と交代で景愛寺長老職を務めた。 大聖寺では、無外如大尼(1223?-1298)の法統を継ぐ意味から「前景愛寺」の称号を用いた。また、その命日にはいまも法要を営んでいる。 ◆蓮華清浄寺 右京区嵯峨大覚寺門前六道町に「蓮華清浄寺跡」の石標が立つ。鎌倉時代、第91代・後宇多天皇皇后・遊義門院(姈子内親王、1270-1307)を開山とした。 第108代・後水尾天皇(1596-1680)により大聖寺門跡の隠居所として与えられたという。石標の揮毫は、大聖寺27世門跡・花山院慈薫尼(?-2006)による。 ◆風呂敷 風呂敷(ふろしき)と室町殿(花の御所)とは関わりがあるという。 足利義満(1358-1408)の頃、御所内に大湯殿があり、大名が招かれ入浴と宴が催されていた。大名は脱衣した着物が他人のものと間違えないように、それぞれ家紋の付いた布で包んでいた。また、湯上り後は、この布の上で身づくろいしていたという。布は風呂に敷いたため、風呂敷と呼ばれた。 江戸時代に、庶民も銭湯を利用するようになり、風呂敷を用いる。その後、日常生活で包み携帯する布、風呂敷としても利用されるようになった。 ◆地名 大聖寺境内の南に町名「岡松町(おかまつ-ちょう)」(上京区烏丸通今出川上ル)が残っている。室町御所の岡松殿跡地に由来するという。(『坊目誌』) 晩年の無相定円尼(日野宣子)は、花の御所の東南に位置した岡松殿に移り、「岡松一品(いっぽん)尼」とも呼ばれた。 ◆墓 大聖寺宮墓地は、大歓喜寺(上京区)に大聖寺宮墓地としてある。 ◆年間行事 涅槃会(2月15日)、永皎流創流茶会(5月5日)、大聖寺文化護友会(5月第2日曜日)、月見の宴(旧暦8月15日)。 いずれも非公開。 *普段は非公開。祭事も非公開。神仏霊場会の御朱印は声を掛ければ授与されます。拝観の際にも建物、室内、庭園の撮影禁止です。 *年間行事は中止、日時変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『尼門跡寺院の世界』、『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都古社寺辞典』、『第47回京の冬の旅 非公開文化財特別公開ガイドブック』、『京都府の歴史散歩 上』、『京都歴史案内』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『昭和京都名所図会 4 洛西』、『京都大事典』、『おんなの旅路 京・奈良の尼寺』、『京の尼寺 こころの旅』、『古都の尼寺』、『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』、『京都の寺社505を歩く 上』、『京都歩きの愉しみ』、『意外と知らない京都』、『名庭 5 京都尼寺の庭』、『京都 四季の庭園』、『京都はじまり物語』、『京都 神社と寺院の森』、『週刊 古社名刹巡礼の旅 42 御所界隈 京都』 、『京都市の地名』、「拝観乃手引-令和7年度 第61回京都非公開文化財特別公開」、「朝日新聞特別号外 2025年10月18日付」、ウェブサイト「文化遺産オンライン-文化庁」、ウェブサイト「文化遺産データベース-文化庁」、ウェブサイト「よみがえる明治のドレス・1 東京新聞2020年10月11日付、2 10月11日付、3 11月12日付 」、ウェブサイト「宮内庁 2023年5月14日」、ウェブサイト「神仏霊場会」、ウェブサイト「上京区の史蹟百選-上京区役所」、ウェブサイト「神殿大観」、ウェブサイト「公卿類別譜」、ウェブサイト「三光院」、ウェブサイト「朝日新聞 2025年10月28日」、ウェブサイト「軍艦天龍遭難死者紀念碑」 、ウェブサイト「コトバンク」 |
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