大聖寺 (御寺御所) (京都市上京区) 
Daisho-ji Temple
大聖寺 大聖寺 
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正門


正門「華道 岳松御流 煎茶道 永皎流」


通用門


玄関


玄関、鬼板の菊華紋


本堂


「花乃御所」の石碑


27世・花山院慈薫尼の歌碑「九品仏 慈悲の眼の変らねば いづれの御手に 吾はすがらむ」。


杜若



ハギ


ススキ


フジバカマ


【参照】「従是東北 足利将軍室町第跡」の碑、上京区室町通今出川東北角


【参照】「御所八幡宮」の碑、上御霊神社境内。
 花の御所には鎮守社として源氏の氏神である八幡神が勧請された。かつて御所八幡町(烏丸通上立売下ル)付近にあったとみられている。



【参照】「蓮華清浄寺跡」の石標(右京区嵯峨大覚寺門前六道町)
 京都御所の北西、御所八幡町(ごしょはちまんちょう)に尼門跡寺院の大聖寺(だいしょうじ)はある。この地は、室町幕府「花の御所」の遺構といわれている。萩寺としても知られた。
 江戸時代後期まで内親王が入寺し、比丘尼(びくに)御所の第一位とされた。また、「御寺(みてら/おてら)」、「御寺御所(みでらごしょ/おてらのごしょ)」「御所御寺」とも呼ばれた。山号を岳松山(がくしょうざん)という。
 かつて臨済宗相国寺派、現在は単立。本尊は釈迦如来像を安置する。
 尼五山の一つ。神仏霊場会第98番、京都18番。尼寺霊場の一つ。
◆歴史年表 南北朝時代、1368年、北朝初代・光厳天皇(1313-1364)の法事が天龍寺で執り行われた後、室町幕府3代将軍・足利義満は、天皇妃で出家した無相定円禅尼(むそう-ていえん-ぜんに/じょうえんに)を、室町御所岡松殿(おかまつでん、岳松山岡松殿)に迎え安禅所にしたことに始まる。(『平安通志』)
 1382年、禅尼没後、その遺言に従い殿を尼寺にした。法名「大聖寺殿無相定円禅定尼」に因み「大聖寺」とする。七日の斎会が行われたという。(『普明国師語録』)。禅尼の姪・悟心尼(?-1407?)が開山(2世とも)になり景愛寺に属した。悟心尼は景愛寺住持も兼務する。
 北朝第5代・後円融天皇(在位:1371-1382)の皇女・理栄宮の入寺以来、御寺(おてら)御所といわれたという。
 北朝第6代、歴代第100代・後小松天皇(在位:1382-1412)の皇女入寺以来、皇女の入寺が続く。
 室町時代、1430年、長谷(ながたに、左京区岩倉)に移転し、「北山大聖寺」と称したという。(『薩戒記』、同年条)
 1472年、「長谷大聖寺殿」と記されている。(『親長卿記』、同年条)。
 1479年、毘沙門町(上京区毘沙門町)へ移転する。なお、現在地(上京区御所八幡町)にはこの間に聖護院が建てられている。
 第104代・後柏原天皇(在位:1500-1526)皇女が入寺し、以後、第一皇女が入ることが多くなる。
 1525年、大聖寺立柱になる。(『実隆公記』)
 第106代・正親町(おおぎまち)天皇(在位:1557-1586)皇女の入寺以来、尼門跡(比丘尼御所)第一位の綸旨(りんじ、蔵人が天皇の意を受けて発する文書)を贈られたという。皇女として永高女王(宝昌院、1540-1551)、春齢女王(1549-1569)、永尊女王(1563?-1571)などがある。以後、寺社奉行と連携した特定寺院の尼衆触頭(ふれがしら)になる。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、御朱印寺領257石を有した。
 江戸時代、1673年、大聖寺(上京区毘沙門町)は焼失している。
 1675年、この地にあった聖護院が焼失し、現在地(左京区聖護院)に移転している。
 1697年/1696年、大聖寺は旧地・岡松殿跡だった聖護院跡地の現在地(上京区御所八幡町)に移転した。
 天巌永皎(1733-1808)が住持の時、「御寺御所(おてらのごしょ)」の称号を贈られる。
 1788年、天明の大火により焼失する。
 1825年まで、119代・光格天皇により復興が続けられる。同年、光格天皇皇女・普明浄院宮入寺の際に宮御殿が建てられる。普明浄院宮を最後として、24代の内親王が住持を務めた。
 1854年頃、宮寺として慈雲院、摂取院、抱寺として大歓喜寺、蓮花清浄寺があった。
 近代以後、内裏上﨟(じょうろう)(宮中に仕えた高位女官)を務めた華族(近代の貴族)の息女が住持に就いた。
 1882年、嵯峨・福田寺(ふくでんじ、旧小倉殿)が合併になる。
 1944年、1943年とも、東京の青山御所より現在の本堂が移築された。
 現代、1985年、庭園は京都市指定文化財になる。
◆無相定円尼 鎌倉時代の尼僧・無相定円尼(むそう-ていえん-に/じょうえん-に、1325-1382)。名は日野宣子。権大納言・日野資名の娘。資名は第96代・後醍醐天皇の側近として仕えた。宣子は北朝天皇の女官として仕え、光厳天皇典侍、その後、妃となり政治に介入した。室町幕府3代将軍・足利義満は、宣子の仲介により宣子の姪・日野業子と結婚している。金潭素城の下で臨済宗を学ぶ。1368年、光厳天皇の天龍寺での法事の際に、宣子は春屋妙葩により落飾した。義満は花の御所内岡松殿に宣子を迎えた。「岡松二品尼」と呼ばれた。
 墓は相国寺・鹿苑院(北区)にある。57歳。
◆玉巌悟心 南北朝時代-室町時代の尼僧・玉巌悟心(ぎょくがん-ごしん、?-1407?)。玉厳悟心。西園寺実衡の孫。金潭素城の下で臨済宗を学んだ。無相定円禅尼は叔母にあたる。1382年、禅尼没後、花の御所内の岡松殿に入り、尼寺とし大聖寺と改称した。景愛寺2世。
◆天巌永皎 江戸時代中期-後期の尼僧・天巌永皎(てんがん-えいこう、1733-1808)。倫宮(とものみや)、永杲女王、永晃女王、天巌永皎女王、号は勝妙楽院。第114代・中御門天皇の第7皇女。母は掌侍・久世夏子。1742年、9歳で出家し、10世/23世大聖寺門跡を継承した。1746年、景愛寺住持、1769年、寺勢の拡大により御所号を許され「御寺御所」と称された。1770年、大和・円照寺門跡も兼任した。1781年、二品宣下を叙された。1808年、特賜准三后。
 詩歌、茶道に優れ、「大聖寺煎茶道永皎流」を興した。大聖寺門跡中興の祖とされている。院号は勝妙楽院二品贈准后天巌永皎尼大禅師。 77歳。
 墓所は、大聖寺宮墓地(上京区)、塔所は円照寺宮墓地(奈良県)になる第114代・中御門天皇の第7皇女。永皎女王と呼ばれた。1733年、3歳で大聖寺の付弟。1742年、剃髪して永果、後に永皎(永晃)と改めた。1769年、紫衣を許される。大聖寺を中興した。
 詩歌の詠み手として知られ、茶の湯をよくした。売茶翁と交流し大聖寺「煎茶道永皎流」となる。勝妙楽院天厳と諡され、没後、大歓喜寺に葬られる。尼僧として前例のない准三后を贈られる。
◆普明浄院 江戸時代後期の尼僧・普明浄院(1820-1830)。永潤(えいじゅん)女王。幼称は倫宮(つねのみや)、号は普明浄院。第119代・光格天皇の皇女。1856年、大聖寺で出家した。大聖寺24世となる。大聖寺最後の宮門跡になる。11歳。
◆花山院慈薫 近現代の尼僧・花山院慈薫(かさのいん-じくん、1910-2006)。公爵・花山院親家の娘、千鶴子として東京に生まれた。5歳で大聖寺に入る。相国寺・橋本獨山を戒師として13歳で剃髪。宝鏡寺27世、大聖寺27世。大聖寺で亡くなる。96歳。
 境内に歌碑が立つ。「九品仏 慈悲の眼の変らねば いづれの御手に 吾はすがらむ」。
◆仏像 本堂に本尊「釈迦如来像」、「地蔵像」、「観音像」を安置する。
◆建築 ◈「書院」は、「宮御殿」とも呼ばれる。江戸時代末期、第119代・光格天皇皇女・普明浄院宮(1820-1830)の入寺の際に、宮中より移転された。御所より1000両が寄進され御所風に建立された。
 ◈「本堂」は、近代、1943年に東京青山御所より移築された。第123代・大正天皇貞明皇后(1884-1951)の御殿だった。
◆文化財 ◈鎌倉時代の絹本著色「一翁院豪像」(重文)(京都国立博物館寄託)。安土・桃山時代の「龍登院宮像」、江戸時代の「無外如大自筆譲状」(重文)。「玉巌悟心尼像」「天巌永皎尼像」「無夢自性(日心)尼像」。徳巌理豊尼筆「涅槃図」「大象不遊兎径」。第108代・後水尾天皇より贈られた屏風「源氏物語」。
 ◈江戸時代後期、第119代・光格天皇内親王・普明浄院宮の狩衣雛(かりぎぬびな)、第124代・昭和天皇皇后の香淳皇后愛用の人形、有職雛(ゆうしょくびな)など歴代皇女遺愛の御所人形、洋装の御所人形、皇室、門跡ゆかりの雛人形、小動物の毛髪人形がある。
 ◈「新婚雛」は、男雛は直衣(のうし)姿、女雛は小袿(こうちぎ)姿であり、江戸時代中期の作になる。有職雛であり、若い公卿の服飾を正確に再現している。
 ◈第122代・明治天皇第7皇女の周宮(かねのみや、1890-1974)の「お地赤」は、内親王が3歳になり初めて身につけた赤い着物をいう。
 ◈「紅地縮緬四君文様刺繍小袖」は、第122代・明治天皇内親王が用いたという。四君とは梅、菊、蘭、竹になる。
 ◈江戸時代、1789年「大規尊杲尼50回忌奉納打敷」、1862年の24世・「普明浄院宮33回忌奉納打敷」。明治天皇より女官が贈られた内敷。明治天皇遺愛の椅子などがある。
 ◈安土・桃山時代の「源氏物語貝桶、合貝」。「舞楽カルタ」「古歌カルタ」「鳥絵カルタ」「花絵合せカルタ」、「蓮華文蒔絵双六盤」、「差義長羽子板・羽」、江戸時代後期の光格天皇皇后・新清和院から贈られた化粧道具「菊紋蒔絵楾(はんぞう)」、光格天皇より贈られた器の「菊唐草紋蒔絵食籠(じきろう)」、敷物「茵(しとね)」、「菊文蒔絵文箱」、食器類、化粧道具、香道具「三組盤」「四組盤」「耳香」などがある。
 ◈江戸時代中期の宝鏡寺宮門跡・徳巌理豊尼筆「涅槃図」。天巌永皎筆「古歌懐紙」。
 ◈「昭憲皇太后 大礼服」、その遺品の「小葵藤文蒔絵弁当箱」。
 ◈本堂、「貴人の間」に金地「瑞鳥瑞花」の障壁画、「源氏物語図屏風」がある。
 ◈書院「宮御殿」に望月玉川(1794-1852)筆の「秋草に鹿図」「波に鶴図」「竹鶏図」などが飾られている。
庭園 本堂前庭の枯山水式庭園は、江戸時代中期、1697年に第109代・明正天皇(1624-1696)の形見として下賜、移築された。「河原の御殿」の樹木や石が移されている。その後、幾度が改修されたという。
 苔地平庭、御所風庭園になっており、東西に延びた黒い小石(ゴロ太石)を敷き詰めた枯流れを中心として、川に反石橋、切石の橋など2つが架かる。護岸石組も見られる。かんざし燈籠、苔地、松、楓などの植栽がある。第119代・光格天皇により贈られた杜若「雲井の鶴」、光格天皇皇后命名の白椿「玉兎」、「侘助」、「白玉」などが植えられている。シャクナゲ、ギボシ、ハギ、ススキなどの花草木が植えられている。1985年に京都市指定文化財になった。
 書院前庭は、本堂前庭との間にツバキの低い垣により分けられている。フジ、フヨウ、ナンテン、フジバカマなどの植栽が見られる。
◆門跡 室町時代の第104代・後柏原天皇皇女が入寺し、以後第一皇女が入ることが多くなる。第106代・正親町天皇皇女の入寺以来、尼門跡第一位の綸旨を贈られた。尼門跡筆頭(第2位・宝鏡寺、第3位・曇華院)になり、以後門跡は、江戸時代末期の第119代・光格天皇皇女まで24代の内親王が入寺した。
 近代以降は、旧華族の息女が引き継いでいる。
◆尼門跡寺院 皇室や公家の女性たちが入寺した尼門跡寺院は、7-8世紀(601-800)に始まる。14-15世紀(1301-1500)に最盛期になり、30数寺が存在した。江戸時代、1871年までは比丘尼御所と呼ばれていた。その後、衰微し、現在は京都に当寺も含め10寺、奈良に3寺が残るとされている。
 7歳から16歳までに寺に入り、修行、宗教儀式、祭事、作法、御所言葉、和歌・絵巻などの文学も嗜み、後世に伝えてきた。
◆花の御所・遺跡 「室町第(むろまちてい)」とは足利将軍家の邸宅をいう。
 南北朝時代、1378年、足利義満は室町界隈に新邸宅の室町第を造営した。現在の御所八幡町、岡松町付近にあり、北は毘沙門堂大路(上立売通)、南は北小路(今出川通)、東は烏丸小路(烏丸通)、西は室町小路(室町通)に囲まれた南北2町(220m)、と東西1町(110m)の一帯だったとみられている。
 「室町殿(将軍)」、「室町亭」、「室町第(居所)」、「花の御所」とも呼ばれた。花の御所については、江戸時代から称された。それ以前の南北朝時代に、崇光上皇(北朝第3代)の御所(仙洞御所)がすでに「花亭」、「花御所」と呼ばれていたことに由来する。また、その南には、光明上皇(北朝2代)の御所、「菊亭(菊の御所)」もあった。室町第はこの2つの御所跡に建てられた。なお、「室町時代」という時代区分も、「室町幕府」も、室町第に由来している。
 義満の時に最盛期(1378-1397)を迎えた。その後、義満は御所を北山殿(鹿苑寺)に移し、室町殿(上御所)は、子・4代・義持に譲る。義満没後、義持は御所を三条坊門殿(下御所)に移した。父子の確執によるとされる。6代・義教は、父を慕い室町殿に再び戻している。第8代・義政は、周囲に慰留され室町殿に留まった。この時も御所は一応は機能した。その後荒廃し、第11代・義晴により再建されたものの縮小される。その後、室町時代、1476年、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失している。
 室町頭北小路(現在の同志社今出川キャンパス東方一帯)周辺より、庭の池跡、景石、集石遺構、15世紀(1401-1500)中期-末までの堀(薬研堀、幅2.7m、深さ1.5m)、また元、明の磁器、釉裏紅の大盤などが出土している。
◆風呂敷 風呂敷(ふろしき)と室町殿(花の御所)とは関わりがあるという。
 足利義満の頃、御所内に大湯殿があり、大名が招かれ入浴と宴が催されていた。大名は脱衣した着物が他人のものと間違えないように、それぞれ家紋の付いた布で包んでいた。また、湯上り後は、この布の上で身づくろいしていたという。布は風呂に敷いたため、風呂敷と呼ばれた。
 江戸時代、庶民も銭湯を利用するようになり、風呂敷を用いる。その後、日常生活で包み携帯する布、風呂敷としても利用されるようになった。
◆景愛寺
 鎌倉時代の無外如大尼(1223-1298)が中国よりの渡来僧・仏光国師(円覚寺開山 無学祖元、1226-1186)の門に入り出家した。1285年(弘安年間[1278-1288]とも)に景愛寺(けいあいじ)を創建したという。
 臨済禅の尼寺で、「京兆尼五山」(1285)(景愛寺、通玄寺、壇林寺、護念寺、恵林寺)の第一位になる。尼五山とは、将軍家の姫君が比丘尼(びくに)として出家する寺をいう。比丘尼御所ともいわれた。足利家の庇護により栄えた。
 室町時代、1498年に堂宇は焼失し、その後、再建されなかったという。景愛寺の称号は、法燈を継ぐ大聖寺と宝鏡寺両住持により継承された。黒衣の他の尼寺に比して、二寺のみは格式の高い紫衣の勅許を得た。大聖寺では、無外如大尼の法統を継ぐ意味から「前景愛寺」の称号を用いた。また、その命日にはいまも法要を営んでいる。
◆蓮華清浄寺 右京区嵯峨大覚寺門前六道町に「蓮華清浄寺跡」の石標が立つ。鎌倉時代、第91代・後宇多天皇皇后・遊義門院(姈子内親王、1270-1307)を開山とした。
 第108代・後水尾天皇(1596-1680)により大聖寺門跡の隠居所として与えられたという。石標の揮毫は、大聖寺27世門跡・花山院慈薫尼(?-2006)による。
◆地名 境内の南に岡松町が残る。 
◆煎茶・花 煎茶「永皎流」家元、花は「兵松流」総裁になる。
◆年間行事 涅槃会(2月15日)、永皎流創流茶会(5月5日)、大聖寺文化護友会(5月第2日曜日)、月見の宴(旧暦8月15日)。いずれも非公開。


*普段は非公開。祭事も非公開。神仏霊場会の御朱印は声を掛ければ授与される。拝観の際にも建物、室内、庭園一切の撮影禁止。
*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『尼門跡寺院の世界』『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『第47回京の冬の旅 非公開文化財特別公開ガイドブック』『京都府の歴史散歩 上』『京都歴史案内』『昭和京都名所図会 5 洛中』『昭和京都名所図会 4 洛西』『京都大事典』『おんなの旅路 京・奈良の尼寺』『京の尼寺 こころの旅』『古都の尼寺』『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』『京都の寺社505を歩く 上』『京都歩きの愉しみ』『意外と知らない京都』『名庭 5 京都尼寺の庭』『京都 四季の庭園』『京都はじまり物語』『京都 神社と寺院の森』『週刊 古社名刹巡礼の旅 42 御所界隈 京都』 、ウェブサイト「コトバンク」


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大聖寺 〒602-0023 京都市上京区御所八幡町109,烏丸今出川上ル  075-441-1006
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