出雲郷・出雲路・鞍馬口 (京都市北区)
Izumoji,kuramaguchi
出雲郷・出雲路・鞍馬口 出雲郷・出雲路・鞍馬口
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            出雲路橋の西詰に「出雲路鞍馬口(いずもじくらまぐち」の石標が立つ。出雲路は、愛宕郡の出雲郷にあり、粟田郷、愛宕郷への通り道だった。出雲国への出発地にもなっていた。
 また、出雲路は北の鞍馬・貴船の出発地にもあたり、鞍馬口とも呼ばれた。
◆歴史年表 弥生時代の終わり、この地の上出雲郷(雲上里)では、出雲国意宇(おう、現在の島根県東部)から移り住んだ集団が稲作を始めた。
 飛鳥時代-奈良時代、8世紀(701-800)前半、洛北は山背国愛宕郡に属した。この地には行政村落の「出雲里」(50戸)が置かれている。
 奈良時代、717年、行政区域再編が行われ、「里」は「郷」になる。その下に「雲上里」、「雲下里」が新たに置かれる。山背国愛宕郡出雲郷(雲上里、雲下里)があった。以後、鞍馬口通を挟んだ南北地域は出雲路と呼ばれるようになる。
 726年、出雲郷に一戸が10人-30人の家族による、50戸ほどの世帯があったと記されている。(「山背国愛宕郡出雲郷計帳」)
 平安時代初期、「以都毛(いつも、出雲)」には、上下の郷があったと記されている。(『和名抄』)
 南北朝時代、1336年、足利尊氏と南朝方との戦において、近江国本からの軍勢により出雲路に火が放たれた。
 室町時代、15世紀(1401-1500)、この地には内蔵寮、御厨子所の「率分関」という関所が置かれ、率分関代官が就いた。
 1441年、土一揆が起こる。出雲路の土蔵に押し寄せた一揆勢との間で合戦が起きている。
 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉の御土居築造の際に、鞍馬口(艮)は七口の一つになる。
 江戸時代、橋の西口付近に鞍馬口村が開かれた。
◆山背小林 飛鳥時代の下級役人・山背小林(やましろの-おばやし、?-?)。姓は直(あたい)。山背氏は山背国造家で、天津彦根命(あまつひこねのみこと)の後裔とされる。672年、壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)の警固・雑事に当る舎人(とねり)として、いち早く皇子側に加わる。皇子と共に吉野宮から東国に出立した。683年、連姓を賜与され、後の忌寸(いみき)になる。
◆出雲臣安麻呂 奈良時代の下級役人・出雲臣安麻呂(いずもおみ-やすまろ、684 ?-?)。山背国愛宕郡雲下里生まれ。父は大初位上(だいそいじょう)の出雲臣筆(ふで)。北宮(ほくぐう、長屋王の妻・吉備内親王の宮)に仕え、帳内(ちょうない、雑用係)を務めた。位は大初位上。
 1988年、奈良市の平城京長屋王邸跡から出土した木簡に「安麻呂」の名があった。
上毛野君族長谷 奈良時代の雲下里の戸主・上毛野君族長谷(かみつけのきみの-やからはせ、?-?)。母は出雲臣阿麻爾売(いずもおみ-あまにえ)、妻は檜前(ひのくま)民使志豆首米売(しずめめ)。
◆出雲郷 弥生時代末、この地の上出雲郷(雲上里)では、出雲国意宇(おう、現在の島根県東部)から移り住んだ集団が稲作を始めた。出雲氏は、出雲国造の天穂日命(あめのほひのみこと)を祖神にした。
 飛鳥時代、671年の壬申の乱で、大海人皇子(おおあまのみこ、第40代・天武天皇)は、隠棲していた吉野宮より妻・鸕野讚良皇女(うののさららのおうじょ、第41代・持統天皇)と共に東国に向かう。草壁皇子、忍壁皇子(おさかべ の みこ)、舎人二十数人、女官十数人らが従う。舎人・山背直もその一人で戦功をあげた。また、山背国愛宕郡の出雲狛(こま)も大海人皇子側に加担したともいう。
 飛鳥時代-奈良時代、8世紀(701-800)前半、洛北は山背国愛宕郡に属した。律令制下、「里」、「郡」、「国」が整備され、この地には行政村落の「出雲里」(50戸)が置かれた。
 奈良時代、717年、行政区域の再編が行われ、「里」は「郷」になり、その下に新たに「雲上里」、「雲下里」が置かれる。出雲路橋西岸と東岸(下鴨)には、山背国愛宕郡出雲郷(雲上里、雲下里)があった。ただ、東は出雲郷ではなく賀茂郷に属したともいう。以後、鞍馬口通を挟んだ南北の地域は出雲路と呼ばれるようになる。
 奈良時代、726年、「山背国愛宕郡出雲郷計帳」(『寧楽遺文(ならいぶん)』上巻、奈良・正倉院蔵)によると、この地の大半の住民が「出雲臣」だったという。一戸が10人-30人の家族による50戸ほどの世帯があったという。さらに奴婢(ぬひ、奴隷としての賎民)がいた。雲上里では、戸主の出雲臣真足(いずもの-おみまたり)のほか、上毛野君族長谷(かみつけのきみのやからはせ)、秦高橋色夫智(はたたかはしのしこぶち)らの名もある。
 奈良時代の出雲氏一族には文字が書け、計算能力のある者も居り、多数の下級官人を輩出する。雲下里の戸主・出雲臣麻呂(いずもおみ-やすまろ)は、吉備内親王の従者として平城京に出仕した。1988年、奈良市の平城京長屋王邸跡から出土した木簡には、安麻呂の名があった。720年の蝦夷地の征討軍に加わった者もあった。
 出雲氏は、賀茂氏とともに北山城盆地の開拓に関わる。平安京の貴族や政府の下級役人としても仕えた。人々は、農耕、鴨川や高野川での漁、鋳物銭、木工、紙作り(出雲里の出雲臣冠[かがぶり]の紙戸[かみへ] )、園池作りなどの技術も持っていた。隷属する出雲部も住んでいた。
 出雲氏は後に、天候不順による不作、祖の負担、庸などの雑役に耐えかね、他所への流出などにより次第に衰微していった。720-750年、出雲郷にも賀茂氏が進出してきたとみられている。やがて、賀茂川の西、現在の下鴨付近は、出雲郷から蓼倉(たでくら)郷と名が変わった。
◆出雲社・出雲寺 出雲郷には二つの出雲寺があり、雲上里に上出雲寺があった。
 現存している上御霊神社(上京区)は、出雲族の氏寺・上出雲寺の鎮守社(出雲社)として創建されたともいわれ、 創建年代は奈良時代前期と考えられている。瓦窯は、西賀茂蟹ヶ坂町にあった。平安時代後期にはすでに寺は荒廃する。
 現在、下鴨神社(左京区)に祀られている出雲井於(いのへの)神社(比良木社)も、出雲氏の祖神として信仰されたとみられている。これらは、雲下里の人々によって祀られ、元は一つの出雲井於神社であり、分祀されたという。さらに、高野の崇道神社(左京区)境内に祀られている出雲高野神社は、かつて雲上里の人々により祀られていた。「幸神社(さいのかみのやしろ)」(上京区)は、古名を出雲路道祖神(いずもじ さいのかみ)という。(『延喜式』神名帳)。雲下里の賀茂川西岸にあった。
 また、毘沙門堂(毘沙門堂門跡)(山科区)の寺号は護法山出雲寺という。平安時代、延暦年間(782-805)、伝教大師(最澄)は、下出雲路で自刻した毘沙門天を安置し、下出雲路寺と名づけた。やがて、毘沙門堂と呼ばれるようになったという。さらに、かつて、平等寺(右京区)、尊重(そんじゅう)寺(上京区)、護法寺(伏見区)の三寺だったという。いずれも平家ゆかりの寺であり、鎌倉時代、平親範(1137-1220)により三寺は、出雲寺(上京区)に統一され建立されたともいう。
◆御霊会 平安時代初期、疫病の流行の際には、船岡、紫野などともに、出雲路でも御霊会が行われていた。当初、社殿は建てられず、その後、御霊堂、上下御霊神社などが建立された。
◆関所 15世紀(1401-1500)、この地には内蔵寮、御厨子所の「率分関」という関所が置かれ、率分関代官が就いた。公家の山科家、万里(までの)小路家が管理していた。
◆京の七口 出雲路橋は、鞍馬街道の出入口にあたり、「京の七口」の一つ、「鞍馬口」、「出雲路口」ともいわれた。室町時代には「艮口(うしとら)」ともいわれた。
 鞍馬街道は、鞍馬口から深泥池、檜峠、幡枝、市原を経由する東街道、清蔵口から千本・大宮、上賀茂、朝露、柊野、原峠、市原へいたる西街道があった。道は丹波へと通じた。
 「京の七口」について「七口」とは定まらず「十口」ともいう。実際にはそれら以外の複数の間道もあったという。
 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉の御土居築造の際に七口は、「粟田口(東)、東寺口(坤)、丹波口(西)、清蔵口(北)、鞍馬口(艮)、大原口(北)、荒神口(東)」とされた。
 江戸時代には、「山陽道(摂津道)東寺口、東海道(伊賀伊勢道)五条橋口、西海道(九州道)四条大宮口、南海道(紀州道)竹田口、東山道(近江道)三条橋口、北陸道(若狭道)大原口、山陰道(丹波道)清蔵口」の呼称があった。また「鳥羽口、伏見口、丹波口、粟田口、八瀬口、若狭口、長坂口」、「東寺口、 竹田口、五条橋口、大原口、三条橋口、千本口、七条口」ともされた。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京の鴨川と橋 その歴史と生活』『京をわたる 橋がつなぐ人と暮らし』『史跡探訪 京の七口』『京都の地名検証』『京都の歴史を足元からさぐる 洛北・上京・山科の巻』『京都の地名検証』


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