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神泉苑 (京都市中京区) Shinsen-en Temple |
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神泉苑 | 神泉苑 |
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![]() 大鳥居 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() 方丈 ![]() 善女龍王社 ![]() ![]() ![]() 善女龍王社、主神は8寸の竜王で雨を降らせるという。 ![]() 弁天堂、なまずの瓦がある。 ![]() 弁天堂 ![]() 恵方社(歳徳神)、方位を司る歳徳神が祀られている。台座に社殿が建てられ、上の社殿部分は回転できる。 毎年大晦日の晩に、氏子により、その年の恵方に社殿が向けられる。 ![]() ![]() ![]() 鯉塚、亀塚 ![]() ![]() 法成橋、一つだけ願い事を念じて渡ると成就するという。 ![]() 法成就池(御池) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 平安京造営時には今の10倍の広さを誇っていた。平安貴族の舟遊びや詩歌管絃の宴が催された。法成就池にいまも龍頭船が浮かぶ。 ![]() ![]() 狂言堂 ![]() 雨のいのりのむかしをおもいて 「名月や 神仙苑の うお おとる」 蕪村 ![]() 【参照】神泉苑の船着場に使われた足場板(地下鉄二条駅) ![]() 【参照】出土した瓦など(地下鉄二条駅) ![]() 【参照】平安時代の神泉苑復元図、京都市平安京創生館、説明板より ![]() 【参照】平安時代の神泉苑復元図、京都市平安京創生館、展示パネルより |
神泉苑(しんせん-えん)は、平安宮付属の禁苑(きんえん)であり、かつて大内裏の南に位置し、平安京の三史蹟(ほかに東寺、堀川)の一つに数えられる。 神泉苑の名は、常に清泉が湧き出したことから名づけられ、古くは「ひぜんさん」とも呼ばれた。「しんぜんえん」「しぜんえん」「しぜんねん」との呼称もある。御池通の「御池」の語源になったといわれている。 東寺真言宗の寺院、本尊は聖観音。 ◆歴史年表 平安京遷都以前より沼沢は存在していた。 平安時代、794年、平安京遷都により、第50代・桓武天皇により池の整備が進められる。禁苑となり、天皇の遊宴、宮廷儀式、雅遊が催され、池の西の広大な森(南北4町[516m] 、東西2町[252m] )は、鹿狩りなどの遊猟の場になった。 800年以降、中国文化に憧れていたという第50代・桓武天皇は行幸した。(『日本紀略』)。以来、記録に残るだけでも5年間に27回行幸している。 804年、暴風雨により左右閣が壊れる。(『日本紀略』) 第51代・平城天皇(在位: 806-809)は、3年間で13回行幸している。 812年、第52代・嵯峨天皇による観花の宴は、花見節会のさきがけになった。 819年/814年、嵯峨天皇により初の雨乞いの儀式が行われる。嵯峨天皇は、14年間で43回行幸している。その後も、累代天皇が雨乞や雨止の祈祷を行う。 第53代・淳和天皇(在位: 823-833)は、5年間に23回行幸している。 824年、淳和天皇の時、西寺・守敏と東寺・空海が天長年間(824-834)の旱災に対して祈雨の法を争い、空海が勝利したという。(『今昔物語集』巻14、『贈大僧正空海和上伝記』)。渤海の「猲(狼)」に苑中の鹿を追わせた。 836年、第54代・仁明天皇は隼狩りを行う。 斉衡年間(854-857)、祈雨修法の場になった。 9世紀(801-900)中頃、行幸は行われず、祈雨、止雨の祈祷の場になる。 854年、真言僧・恵運(えうん)により祈雨が行われている。文献初見という。 856年、僧・常暁(じょうぎょう)が祈雨のために太元帥法を修した。(『覚禅抄』) 862年、旱魃の際に、西北の門が開かれ、人々が池の水を汲むことが勅により許される。(『三代実録』) 863年、勅命により、大般若経の転読が3日に渡り行われた。国家により初の御霊会が行われる。祟道天皇(早良親王)以下6柱の霊が祀られた。舞、雑技、散楽などが披露された。四門を開いて人々に開放される。(『三代実録』) 866年、天台座主・安慧(安恵)により7日間にわたる請雨経法が催された。 869年、御霊会で、卜部日良麻呂(うらべ -ひらまろ)は、祇園社から神輿を出して66本の鉾(綾傘鉾)を立てて祈願し、民衆も参加し田楽、猿楽が奉納された。 875年、空海の弟子で東寺4世・真雅ら15人の僧により請雨経法が行われ、真言密教の祈雨霊場になる。(『三代実録』) 877年、旱魃により池水を流し、城南の民田を灌漑したという。一日一夜で水脈が涸れるほどだった。 880年、祈雨により田の苗が水没した。大水が出たため、止雨の灌頂経法が修された。 884年、近江、丹波により3艘の高瀬舟が造られ、池に浮かべられた。(『三代実録』) 885年、第53代・淳和天皇は、投網により魚を獲る。 892年、菅原道真は苑中に鹿が群れを成していたと記している。(「奉勅却鹿鳥願文」) 第60代・醍醐天皇(在位:897-930)は、門を開いて人々に水を分け与えたという。 949年、旱魃に際して3日に渡り池水を流した。にわかに雨雲が起こり、止雨の奉幣師を立てるほどになる。(『日本紀略』) 1004年、安倍晴明が五龍祭で一日だけ雨を降らしたという。 1018年、旱に際して、仁海(にんかい)は勅により請雨経法を3日間にわたり修した。その後も9度にわたり雨を降らせ雨僧正と呼ばれた。(『元亨釈書』) 1117年、醍醐寺三宝院を開いた勝覚は神泉苑での祈雨の請雨経法を修した。 1177年、京中に暴風があり被害が出た。善如龍王が池を去ったとの噂が流れる。(『百錬抄』)。太郎焼亡により類焼する。 平安時代末、池の汚濁が進む。 鎌倉時代、建保年間(1213-1219)、北条泰時は、諸侯に門垣を築かせ、狼藉を禁じた。 中世(鎌倉時代-室町時代)以降、衰退する。快雅上人により再興され、以来東寺との関係が深まる。現在の本堂も、東寺より移築されている。 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で、立石が奪われ、苑内に田が開かれ荒廃した。 安土・桃山時代、1602年、徳川家康の二条城築造により、神泉苑の北側の大半が削られ、湧水は城堀に使われた。 江戸時代、八坂神社の神輿は、四条通を経て神泉苑に向かっていた。 1607年、筑紫の僧・快我(かいが)は、復興のため勧進を行い、所司代・板倉勝重、片桐且元らの協力により寺院になる。東寺に属し、寺領40石を寄せられる。 1624年-1625年、さらに二条城域の修築、拡大が行われている。 近代以降、真言宗の道場として再興された。 1905年頃、映画会社「横田商会」は、神泉苑内に現像場を開設したともいう。 1935年、国史跡「神泉苑」に指定される。 現代、1990年、地下鉄東西線工事に伴う事前調査により、池汀線、船着き場跡とみられる遺構などが発掘された。 1992年まで、発掘調査が行われた。 ◆空海 奈良時代-平安時代前期の真言宗の開祖・空海(くうかい、774-835)。俗姓は佐伯氏、幼名は真魚(まお) 、灌頂名は遍照金剛、弘法大師。讃岐国(香川県)に生まれた。父・豪族の佐伯田公(義通)、母・阿刀氏。788年、15歳で上京し、母方の叔父・阿刀大足に師事し儒学を学ぶ。791年、18歳で大学明経科に入るが、中途で退学し私渡僧(しどそう)として山岳修行を始め、四国の大滝岳、室戸崎などで山林修行した。797年、『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著す。798年、槙尾山寺で沙弥になり、教海と称する。804年、東大寺戒壇院で具足戒を受ける。遣唐使留学僧として唐へ渡り、805年、長安・青竜寺の恵果(けいか)により両界、伝法阿闍梨の灌頂を受ける。806年、当初の20年の義務期間を2年に短縮して帰国、多くの経典、密教法具などを持ち帰る。入京できず太宰府・観音寺に住した。809年、入京を許される。810年、高雄山寺(神護寺)を経て、811年、乙訓寺に移り、約1年間任に当たった。別当になる。812年、乙訓寺を訪れた天台宗開祖・最澄は、空海と会っている。その後、空海は高雄山で最澄らに金剛界結界灌頂を行った。後、二人は決裂し、断絶する。813年、東大寺別当、819年頃/818年、高野山を開く。822年、東大寺に灌頂道場(真言院)を開く。823年、東寺を真言密教の道場にした。824年、高雄山寺を神護寺と改名する。神泉苑で祈雨の修法を行う。827年、大僧都になる。828年、綜芸種智院を創立した。832年、高野山で万灯会、834年、正月、宮中中務省で後七日御修法を営む。830年、『秘密曼荼羅十住心論』を著す。高野山で亡くなり東峰に葬られた。62歳。 空海は、中国から真言密教をもたらし、日本天台宗の開祖・最澄(伝教大師)とともに、奈良仏教から平安仏教への礎を築いた。空海による真言密教の拠点は、東寺のほかに高野山、宮中の真言院の三寺ある。空海の真言密教の神髄は、大日如来の教えに従い、あらゆる存在、性質、思考は、宇宙の絶対者である毘盧遮那仏が姿を変えたものであるとした。第52代・嵯峨天皇、橘逸勢と共に「三筆」の一人として数えられている。東寺境内に日本最初の私立学校「綜芸種智院」も創立した。唐で学んだ土木技術により、各所で灌漑、土木工事などを行い、祈雨の伝承も残っている。 ◆守敏 平安時代前期の真言宗の僧・守敏(しゅびん、?-?)。大和・石淵寺の勤操(ごんぞう)らに三論、法相を学び、密教にも通じた。823年、第52代・嵯峨天皇より西寺が与えられる。空海と対立し、824年、神泉苑での祈雨で空海と法力を競い敗れたという。 ◆恵運 平安時代前期の真言宗の僧・恵運(えうん、798-869)。慧運、通称は安祥寺僧都。京都の生まれ。安曇(あずみ、阿曇)氏の出。東大寺泰基・薬師寺仲継に法相教学を学ぶ。824年、東寺の実恵(じちえ)に師事し、灌頂を受けた。関東での一切経書写の検校、筑紫観世音寺講師などを歴任する。842年、最澄らと共に博多津から遣唐使船で唐に渡り、青竜寺・義真に灌頂を受けた。五台山・天台山を巡拝し、847年、儀軌、経論、仏菩薩祖師像を携えて明州から帰国、八家請来目録を呈上した。848年頃、安祥寺を開く。861年、東大寺大仏修理落慶供養の導師。864年、少僧都。 入唐八家(にっとう-はっけ、最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。入唐五家(慧運・宗叡・常曉・眞如親王・圓行)の一人。72歳。 ◆常暁 平安時代前期の真言宗僧・常暁( じょうぎょう、?-867)。山城小栗栖付近のの捨て子という。元興寺・豊安に養育され出家し三論を学ぶ。その後、空海に師事し、密教を学び灌頂を受けた。838年、遣唐使船で楊州に上陸し、栖霊寺・文際から、逆賊調伏、最秘法で国禁授法の太元帥法を相承した。華林寺・元照に師事した。伝法阿闍梨になる。839年、帰国し、840年、宇治・法琳寺に太元帥明王像を安置し修法院とした。太元帥法の道場とし、常寧殿で初の修法をした。851年、太元帥法を後七日御修法に準ずる国典とする勅許を得る。852年より、宮中で例年修する。856年、大旱魃で太元帥法により祈雨に成功したという。入唐八家(にっとう-はっけ)の一人。著『入唐根本大師記』。 弟子に寵寿がいる。 ◆安慧 平安時代前期の僧・安慧(あんね、795-868)。河内(大阪府)の生まれ。俗姓は大狛(おおこま)。下野・大慈寺(小野寺)の広智(こうち)に師事した。13歳で、比叡山にのぼり、最澄、円仁に学ぶ844年、出羽講師、862年、内供奉十禅師、864年、天台座主4世になる。著『顕法華義抄』。74歳。 ◆卜部日良麻呂 平安時代前期の貴族・卜部日良麻呂(うらべ -ひらまろ、807-881)。日良麿、名は真雄、姓は宿禰。伊豆国(静岡県)の生まれともいう。幼い頃から亀卜(きぼく、亀の甲を焼き占う)を習得し、神祇官の卜部になる。838年、遣唐使に加わる。839年、帰国後、神祇大史・神祇少佑、857年、外従五位下に叙せられる。858年、神祇権大佑になり宮主を兼任し、866年、三河権介、868年、内位の従五位下に叙された。869年、全国に疫病が流行し勅命により、神泉苑に祇園社から神輿を出し、全国の国数に準じ鉾66本を立て悪疫を依りつかせて浄めたという。後、備後介・丹波介、地方官を歴任する。75歳。 従五位下行丹波介。卜部氏(伊豆卜部氏)の祖。 ◆真雅 平安時代前期の真言宗の僧・真雅(しんが、801-879)。諡は法光大師、俗姓は佐伯、通称は貞観寺僧正、諡号は法光大師。讃岐国(香川県)の生まれ。空海の実弟に当たる。810年、上京し、817年、兄・空海に師事し密教を学ぶ。819年、東大寺戒壇院で具足戒を受け、東大寺で修行した。825年、空海より両部灌頂を受け阿闍梨になる。神護寺定額僧を経て、大和・弘福寺(ぐふくじ、川原寺)別当になる。835年、空海没後、東大寺真言院、東寺大経蔵に任される。837年、東寺に入る。847年、東大寺別当になる。848年、権律師、850年、惟仁親王(後の第56代・清和天皇)の信任厚く、その護持僧になる。惟喬親王の護持僧・真済(しんぜい、空海の十大弟子の一人)と争う。2親王の皇位争いになる。852年、藤原良房と嘉祥寺西院を建立した。862年、貞観寺に改め、清和天皇の御願寺にした。真言宗の拠点の一つになった。864年、僧綱の僧位を定め、自ら僧正法印大和尚位になり、僧侶で初めて輦車を許された。874年、法務に就任した。876年、座主を置き僧綱の管督を排した。空海の十大弟子の一人。著『胎蔵頸次第』『六通貞記』。79歳。 弟子に真然、源仁、聖宝などがいる。 ◆仁海 平安時代中期-後期の真言宗の僧・仁海(にんがい/にんかい、951/954-1046)。俗姓は宮道、通称は小野僧正、雨僧正。和泉国(大阪府)の生まれ。父・宮道惟平。7歳から、高野山・雅真(がしん)に師事し得度した。990年、醍醐寺・元杲(げんこう)に灌頂を受けた。991年、山城に曼荼羅寺(随心院の前身)を開く。1018年、畿内大旱魃で勅命により、神泉苑での祈雨法を修した。霊験あり、権律師に任じられる。1023年、藤原道長らを高野山登山に導き支援を得て高野山を復興した。東寺の二の長者になる。 1029年、東大寺別当。1031年、東寺長者に任じられる。1038年、僧正に任命された。長元年間(1028-1037)に2度、長久年間(1040-1044)に4度など、9回の祈雨の効験があった。雨僧正・雨海僧正と呼ばれ、宋にも伝わる。「胎蔵界礼懺」の撰者、著『小野六帖』など。96歳。 醍醐寺の修験僧であり、稲荷山でも行した。宮門を輦車に乗ったまま出入りすることを許された。弟子も多く、成尊、覚源、真覚などがいる。真言宗小野流の祖になる。 ◆勝覚 平安時代後期の真言宗の僧・勝覚(しょうかく、1057/1058-1129)。左大臣・源俊房の子。師・定賢を継ぎ、1086年、醍醐寺座主になる。清滝宮を上下醍醐寺に勧請して鎮守とし、1115年、三宝院を建立した。桜会(清滝会)を始める。1117年、神泉苑での祈雨の請雨経法を修した。白河上皇(第72代)の出家の際に剃り手を勤め、上皇のために、1127年、高野山に御願の塔を建てた。東寺長者、東大寺別当を歴任した。72/73歳。 ◆仏像・木像 弁天堂に「弁財天像」が安置されている。造立年代、仏師も不明。台座も含め像高60㎝ほどあり、艶冶漂う。頭上に鳥居と座した童子が載る。木造極彩色。 小野小町の伝承に因む「雨乞小町」がある。 ◆文化財 剣鉾3基がある。錺箱書に近代、「明治十九年(1886年)」の獄誠講社、雲龍御鉾の剣箱書に、近代、「明治参拾九年(1906年)」の三條台若中の箱書きがあり、この頃制作されたとみられる。 ◈雲龍御鉾には、「善女龍王」の額があり、龍の透かし彫りの錺が付く。 ◈金鵄(きんし)御鉾は、神武東征の神話にある霊鳥・楯・鉾・剣の意匠になる。 ◈旭御鉾は、日輪から光線が放射状に拡がる意匠の錺がある。 ◆神泉苑 神泉苑の池は、今から1万年前に生まれたという。 苑は、かつてあった沼を整備して造られ、周の文王霊囿を模し、漢の武帝時代の宮廷苑池、都城の宮苑、禁苑がもとになっているともいう。作庭は、平安京を設計した巨勢金岡(こせのかなおか)によるとされる。 平安京(大内裏)の南東に隣接し、南北は二条大路から三条大路、東西は大宮大路から壬生大路まで、南北4町513m、東西2町250mを占める広大なもので、13万㎡の広さがあった。なお、神泉苑と同時期、大内裏南には朱雀(すざく)院も造営され、柏梁殿などが建てられていた。 建物は、東に三門(東門)、東北門、西に西門、馬場末門、北に北門、南に南門が開かれていた。中国風の正殿・乾臨閣(けんりんかく)は瓦葺で大棟に鴟尾載せられていた。その左右に二階建ての閣(左閣、右閣)が建てられていた。南に延びた廊の東西に釣台があり、それぞれ池に迫り出していた。池(推定東西180m、南北162m)の水源は北東にあり、池には中島、舟着場があり、庭も造られていた。池の北東に滝殿、南西に馬埒殿(うまらちどの)、南北に馬場なども建てられていた。 苑池は、二条城の築城により8000㎡に減じ、近代以降は4400㎡に縮小した。 ◆雨乞い 雨乞いとの係わりが深い。日照りが続いても神泉苑の水だけは涸れたことがなかった。鴨川の伏流水が豊富に湧いていた。平安時代前期、862年、旱魃の際に、西北の門が開かれ、人々が池の水を汲むことが勅により許されている。877年には、城南の民田を灌漑したという。 雨乞いの儀式の最初は、平安時代の第52代・嵯峨天皇が819年(814年とも)に行ったとされており、その後も、累代の天皇が雨乞や雨止の祈祷を行っている。875年、第56代・清和天皇の代、空海の弟子・真雅ら15人の僧による雨乞いが行なわれた記録がある。第60代・醍醐天皇(897-930)は、門を開いて人々に水を分け与えたという。やがて通り名が「御池」と呼ばれるようになる。 824年、第53代・淳和天皇の勅命により東寺の空海は、神泉苑の池畔で祈り、雨乞いの法会を行なったとの伝承もある。都の旱魃の原因は、西寺の守敏という南都僧が、雨乞いの法力により、7日の結願の時、豪雨を降らせる。だがその範囲は限られていた。続いて、空海による修法では降雨はしなかった。それは、守敏が呪力により龍神をことごとく水瓶に封じ込めていたからだった。空海は、唯一残された善女龍王(ぜんにょ りゅうおう)を天竺・阿褥達智池(あのくだつちいけ)から呼び寄せたところ、龍王は龍に化身して現れ、神泉池に雨を降らせたという。また、神泉苑の池に棲む龍は、本来は清らかな水を湛えた無熱地に棲む善女龍王という。空海の祈祷により、その龍が現れて三日三晩、都に雨を降らしたという。雨乞いに敗れた守敏は、呪法により矢を放ち、空海を殺めようとした。空海も呪法により対抗し、矢を射落とし、守敏を倒したという。(『古事談』『太平記』) また、空海が渡唐していた時、守敏は奇独の修法により天皇に取り入り帰依を受けた。空海が帰国後、天皇は二人の法力を競わせようとした。守敏の加持の効力が失われたことから、守敏は天皇を恨む。すべての龍神を水瓶に封じ込めて、国土は大干ばつに襲われる。空海は、三千世界の龍神の中で、ただ一つ、天竺の境、大雪山の北、無熱池に潜む龍神を見出し、大内に池を掘らせて勧請した。善女龍王は金色の八寸の龍の頂に乗り、池に降り立った。以来、3日に渡り国中に雨が降り続く。守敏はいよいよ怒り、西寺で軍荼利夜叉の法を行う。空海は東寺で大威徳明王の法で対抗した。二尊が射た矢が空中でひっきしなしに音を立てて相打ちになり落ちた。空海は、一計を案じ、自らが亡くなったとの噂を立てた。守敏は勝利したと思い込み、油断して壇を破った途端にこと切れた。空海は茅を龍形に結び善女龍王を池にとどめて、弥勒仏の出世までの国の守護を契った。茅の龍王は大龍になり、無熱池に戻ったとも、尾張・熱田の宮にとどまったともいう。以後、西寺は衰亡し、東寺は繁栄したという。(「神泉苑絵巻」) 祈雨の文献初見は854年、真言僧・恵運(798-869)による。そのほか、聖宝(832-909)、寛空(884-972)、元真、元杲(914-995)、仁海(951-1046)が行った。 小野小町(809-901?)も祈雨したという伝承が残る。小町は「ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとてはまた 天が下とは」と詠んだとされる。 陰陽師・安倍吉平(954-1027)は、安倍晴明の子ともいわれている。陰陽師としては初めて神泉苑での雨乞いの祈祷を行う。3度行い、雨を降らすことに成功している。 平安時代後期、1117年、醍醐寺三宝院を開いた勝覚は神泉苑での祈雨の請雨経法を修した。 1182年、後白河法皇(第77代)の意向により、雨乞いの白拍子の舞が奉納された。その中に静御前おり、最後に舞うと三日間雨が降り続いたという。この際に、静御前は源義経に出会ったと伝えられる。 ◆御霊会 平安時代、平安京に人口流入が起きた。衛生状態の悪化は、疫病の流行を頻発させ、多くの死病人が出た。疫病の原因は、政争により都を追われ、非業の死を遂げた人々の御霊の仕業とされ恐れられた。そのため、それらの御霊を神として祀ることで、疫病の退散を願った。 平安時代前期、貞観年間(859-876)、御霊信仰が高まり、神泉苑がその霊場になっていく。神泉苑は大内裏の東南端に当り、大内裏内への疾病侵入を防ぐためだった863年、怨霊を鎮める祭礼である御霊会(ごりょうえ)が朝廷により執り行われ、一般の人々の出入りが許されている。金光明経・般若心経が説かれ、散楽・角力・騎馬などが演戯された。(『三代実録』) 都では「咳逆病」(疱瘡、麻疹、インフルエンザとも)という疫病が流行り、死者が相次ぐ。地方では凶作に見舞われていた。その原因は怨霊の祟りとされた。第53代・淳和天皇の勅命により、第50代・桓武天皇の弟・祟道天皇(早良親王)、桓武天皇皇子・伊予親王、その母・藤原夫人(吉子、きつし)、「薬子の変」(810)の藤原仲成(観察使)、橘逸勢(たちばなの-はやなり)、文屋(ふんや)宮田麻呂ら6人が祀られた。これらの人々は、いずれも政争に敗れ、失脚、亡くなった人たちだった。 その2年後の865年、朝廷は民間の御霊会を停止している。 平安時代に御霊会が営まれたのは、平安京の条坊に近い洛外・条坊端の場所が多かった。出雲路・船岡・紫野・衣笠・花園・天安寺・東寺・西寺・城南寺・白川・祇園八坂・神泉苑などの地だった。それ以前の平城京では、「道饗祭(みちあえ-の-まつり、四境祭)」があり、6月・12月の晦日に、都の四境(東北・東南・西北・西南)の路上で、疫神に供物を饗応していた。同日に大内裏四隅では「鎮火祭(ひしずめ-まつり)」が行われており、合わせて「四角四境祭」と呼ばれた。 祇園祭との関わりもある。869年に卜部日良麻呂(うらべ-ひらまろ)は勅により御霊会を行った。6月14日に祇園社から神輿を出し、長さ2丈の66本の鉾(綾傘鉾)を立てて祈願した。民衆も参加し田楽、猿楽が奉納された。66の意味は、全国66カ国の疫病を鉾に依りつかせ浄めるという意味が込められている。御霊会は後に祇園祭へと発展したとされる。なお、江戸時代には、御渡の神輿は、八坂神社から四条通を経て神泉苑に向かっていた。 現在でも、祇園祭還幸祭(7月24日)では、八坂神社の神輿3基が渡御し、かつて放生池の汀に祀られていた又旅社を訪れる。 ◆狂言 「神泉苑大念仏狂言」(5月1日-4日)が狂言堂で行われている。 壬生狂言の流れをくむ踊念仏狂言になる。近代、1903年に壬生狂言衆が壬生寺より分離独立した。1983年に京都市の無形民俗文化財指定された。 ◆恵方社 境内の恵方社(えほうしゃ)には、方位を司る歳徳神(さいとくしん)が祀られている。台座に社殿が建てられ、上の社殿部分は回転できる。 毎年大晦日の晩に、氏子によりその年の恵方(吉方)に社殿が向けられる。歳徳神はその方角にあり、開運を招くとされる。 ◆発掘調査 現代、1990年-1993年に、地下鉄東西線工事に伴う発掘調査により、東西面築地、礫敷きの北池汀線、神泉苑の船着場に使われた足場板(クヌギ材厚板)、遣水、小橋跡、緑釉瓦、「神泉苑」と刻印された瓦、東西方向の掘立柱列2条並列などが発掘された。縄文時代以来の池に、平安時代に園地、庭園が造られていたとみられている。 現在、平安時代の井戸枠、鎌倉時代の石組み井戸の底部は、地下鉄二条城前駅に復元されている。 ◆文学 『徒然草』180段に、毬杖(ぎっちょう)を真言院より神泉苑に出して焼き上げると記されている。毬杖とは、正月の子ども遊戯の一種であり、槌形の杖に色糸などを飾りつけ木製の毬を打合う。 第60代・醍醐天皇は、神泉苑での夏の御遊のために、蔵人に洲崎の鷺を捕えるように命じた。蔵人が捕まえようとすると鷺は飛び立つ。蔵人が勅定であると叫ぶと、鷺は飛び下りて羽を垂れ、地に伏した。天皇は感じ入り、蔵人に爵を、鷺にも五位を授け、再び放たれたという。(『源平盛衰記』、謡曲「鷺」) 外村繁(1902-1961)の『澪標(みおつくし)』には、神泉苑界隈が登場する。 ◆千日回峯行 比叡山延暦寺の千日回峯行者は、京都大廻りの際に拝する。 ◆アハの辻 神泉苑の北東角北に、かつて平安京の辻「アハの辻(あははの辻/あはらの辻)」があり、二条大路、大宮大路が交差していた。大内裏の北東角に当たる。南北の大宮大路には、耳敏川(みみとしがわ、大宮川、芥川)が流れ、七瀬祓が行われていた。 藤原師輔はアハの辻で百鬼夜行に遭ったという。(『大鏡』)。藤原常行は、アハの辻近く、二条通を挟んだ神泉苑の北向いの大内裏美福門で百鬼夜行を見たという。(『今昔物語』)。源高明は、神泉苑東北角、冷泉院南西で怪異を見たという。(『続古事談』) ◆神泉苑現像所 近代、1905年頃、映画会社の横田商会(日活の前身の一つ)は、付近に映画フィルムの現像所「神泉苑現像所」を設けたという。 カメラマン・土屋常二(本名・常吉)を制作技師として迎えた。その後、土屋は横田商会(下京区仏光寺麩屋町)の社主・横田永之助(1872-1943 )と不和になり、1年半で土屋の甥・福井繁一に譲り商会を去る。 なお、神泉苑現像所の所在地の詳細は不明であり、神泉苑の西だったともいう。 ◆墓 鐘楼の傍らに、江戸時代の中興開山・快我上人、所司代・板倉勝重、片桐勝元の供養塔(五輪塔)が立つ。 ◆自然 池にはタウナギという珍しいウナギが生息している。また、中島に生息するゴイサギは、醍醐天皇が苑を訪れた際に、鳥を捕らえても神妙であったことから、五位の位を授けたことによると伝えられる。 ◆花暦 サクラ・サツキ・ショウブ(3-5月)、ツツジ(6-8月)、紅葉、ウメ・サザンカ(12-2月)。 ◆祭礼 神泉苑祭(5月3日)では、善女龍王社の社殿前に鉾が立てられる。子供神輿に、近年作の小型の剣鉾が曳行され供奉される。 ◆年間行事 神泉苑大念仏狂言(5月1日-4日)、神泉苑祭(善女龍王社の社殿前に鉾が立てられる。子供神輿に小型の剣鉾が曳行され供奉される。)(5月3日)、祇園祭還幸祭神輿渡御(7月24日)、歳徳神恵方廻し(方違え式)・年越蕎麦接待除夜の鐘(12月31日)。 *年間行事などは、中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『遺跡から見た京都の歴史』、『日本の古代遺跡28京都Ⅱ』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都歴史案内』、『平安の都』、『京都府の歴史散歩 上』、『洛東探訪』、『京都市文化財ブックス28集 平安京』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『桓武天皇と平安京』、『京都の地名検証 2』、『京都大事典』、『掘り出された京都』、『京都・美のこころ』、『京都四季の庭園』、『おんなの史跡を歩く』、『京の寺 不思議見聞録』、『京都歩きの愉しみ』『あなたの知らない京都の歴史』、『京都時代MAP 平安京編』、『京 no.55』、『剣鉾のまつり』、京都市平安京創生館、ウェブサイト「京都映像文化デジタル・アーカイヴ マキノ・プロジェクト-立命館大学アート・リサーチセンター」、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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