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稲葉神社 (京都市伏見区) Inaba-jinja Shrine |
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稲葉神社 | 稲葉神社 |
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![]() ![]() ![]() ![]() 拝殿 ![]() 本殿 ![]() ![]() 本殿 ![]() 本殿 ![]() 本殿 ![]() 末社 ![]() 末社、稲荷大明神、住吉大明神、熊野大明神を祀る。 ![]() 末社 ![]() ![]() 石垣石、刻印? ![]() 神心石 ![]() |
小社、稲葉神社(いなば-じんじゃ)は、淀城跡公園内に建つ。 祭神は、 稲葉家の祖・稲葉佐渡守・越智正成(いなばさどのかみ-おちまさなり)、末社に稲荷大明神、住吉大明神、熊野大明神を祀る。 ◆歴史年表 近代、1871年、廃藩置県後、淀城の建物は撤去される。城地は、旧淀藩主稲葉家所有となる。 1885年、旧淀藩士により、本丸に藩祖・稲葉(越智)正成を祀る稲葉神社が建立される。 ◆越智 正成 室町時代後期-江戸時代前期の大名・越智(稲葉) 正成(おち-まさなり、1571-1628)。男性。父・美濃国(岐阜県)本巣郡17条城主、林政秀。織田信長、豊臣秀吉に仕えた稲葉重通の女婿となる。以後、稲葉と称した。秀吉に仕え、その命により小早川秀秋家老となり5万石を領した。妻没後、斎藤利三の娘・福(後の春日局、1579-1643)を重通養女として再婚した。1600年、関ヶ原の戦いで、平岡頼勝と共に主君・秀秋を説得し小早川軍を東軍に寝返らせた。徳川家を勝利に導いた戦功により、家康より感状を受ける。1604年、妻が2代将軍・徳川秀忠の子・竹千代(後の家光)の乳母に任命され、離婚する形をとる。松平忠昌に仕えた。下野国真岡の城主となる。江戸で没した。58歳。理龍院に葬られた。 淀藩正成系稲葉家の祖。春日局の影響力により、息子・稲葉家2代正勝(1597-1634)は、家光小姓から、1623年に老中、1632年に相模小田原藩主に取り立てられた。 稲葉家は1723年の10代城主の正知(稲葉家5代)以来、近代に入り廃城する21代正邦まで、12代にわたり淀城城主に就く。10万2000石の居城になった。 ◆稲葉 正則 江戸時代前期の大名・稲葉 正則(いなば-まさのり、1623-1696)。通称は幼名、鶴千代、号は泰憲、泰翁、潮信軒。江戸の生まれ。父・稲葉正勝。4歳の時、母が死去し、祖母・春日局に養育された。1634年、父が死去し、相模国小田原藩藩主2代になる。1658年、老中になる。1663年、加増、1680年、老中を辞職し、その功により加増された。1683年、隠居する。74歳。 紹太(しょうたい)寺を開き、黄檗宗の鉄牛道機を開山に迎えた。1633年、大地震以後の城・城下の復興、藩政の整備・確立に努めた。検地を行い年貢増徴を計る。農民・下田隼人の越訴事件を招いた。隼人は農民一揆を思いとどまらせた上で、藩役所に麦租の撤回を嘆願し、藩主への駕籠訴も決行した。麦租は中止になり、1661年、隼人は強訴頭取として死罪になる。 ◆建築 拝所、拝殿、末社がある。 ◆文化財 ◈ 『永代日記』(稲葉神社文書)は、江戸時代前期、1662年の寛文の地震についても記している。旧5月5日に京都から江戸への飛脚便があった。旧1日に京都で大地震があり、御所では庭に避難した。二条城では塀壁筑地が少々破損した。幕府老中・稲葉正則(1623-1696)は、江戸城から退出した後、この報を受け再び登城した。 ◈ 洋書の『ドドウネス草木誌』(アントワーペン版、1644年)を蔵する。江戸時代前期、1658年、商館長・ワーヘーナール?が相模小田原藩第2代藩主・稲葉正則(1623-1696)に贈ったという。江戸時代後期、慶応年間(1865-1868)、淀藩藩校の明親館(現在の明親小学校)に医学科が併合された際に、藩主より当社に寄贈されたものという。44×26×12cm、二つ折り版。 ◆年間行事 秋季大祭(9月20日)。 *年間行事は中止、日時変更の可能性があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『増補版 京都の医史跡探訪』、『京都大事典』 、『京都の災害をめぐる』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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