興聖寺 (宇治市)
 
Koushou-ji Temple
興聖寺 興聖寺
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表門、参道の琴坂には桜、山吹、楓などが植えられている。




「曹洞宗高祖道元禅師初開之道場」の石標。


石塔、江戸時代初期作、興聖寺三塔のひとつ。


琴坂


山門





薬師門、背後の山は仏徳山、朝日山。


薬師門


薬師門


本堂(法堂)


本堂、四条天皇勅額「興聖寶林禅寺」


本堂


本堂


本堂、鴬張りの床


本堂、血染めの天井。伏見城落城(1600)の際に、徳川家康家臣・鳥居彦衛門元忠以下1800人は、石田三成の軍勢と交戦し、380人あまりが自刃し果てた。その時の廊下を用いて天井に張られた。


開山堂(老梅庵)、江戸時代、1750年改築、道元尊像を祀る。




開山堂(老梅庵)
 仏徳山(130.8m)麓の参道、琴坂(ことさか)を上がると、興聖寺(こうしょうじ)がある。宇治川畔に建つ山門脇には、「曹洞宗高祖道元初開之道場」の石標が立つ。曹洞宗開祖・道元との関わり深い。
 正式には観音導利興聖宝林禅寺という。山号は仏徳山(ぶっとくさん)という。かつて「日本曹洞五箇禅林」(ほかに越前・永平寺、加賀・大乗寺、肥後・大慈寺、能登・総持寺)のひとつに数えられ、10国に108の末寺を有した。
 京都には少ない曹洞宗の一つになる。曹洞宗永平寺派の修行道場、本尊は釈迦如来。
歴史年表 鎌倉時代、1230年、道元は深草の極楽寺跡・安養院(現在の宝塔寺付近、深草郷谷口)に閑居する。以来、坐禅修業道場になる。
 1233年、道元は、曹洞宗の道場、興聖宝林禅寺(こうしょうほうりんぜんじ、興聖宝林寺、観音導利興聖宝林禅寺)を開創する。当初は仏殿だけが建てられた。
 1235年、正覚禅尼が法殿を建立した。法座は弘誓院(藤原教家)が寄進する。僧堂も寄進建立されている。
 1236年、伽藍が完成し、観音導利院に興聖宝林禅寺の寺名が加えられる。懐奘が首座となる。(『永平広録』)
 1237年、観音導利興聖宝林禅寺の名が記されている。(「典座教訓」)
 1243年、1244年とも、比叡山延暦寺の弾圧により、道元は波多野義重の勧めにより越前に逃れる。後は弟子・詮慧に託した。それ以降、寺は荒廃した。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により伽藍は焼失したという。また、盗賊により焼失させられたともいう。4世住持の後に廃絶した。
 江戸時代、1648年、1649年とも、淀城主・永井尚政が父・直勝の菩提を弔い現在地に再興した。仏徳山聖興寺とし、道元を開山、万安英種を5世に迎え中興開山とした。以後、菩提寺となる。本堂、総門などの部材には、伏見城遺材が使われたという。
 1664年、畿内の触頭寺院(幕府、藩による統制、調整制度)となる。寄進により一時は隆盛となった。幕藩体制になる畿内五国の僧録司として、曹洞宗の専門道場となる。
 1747年、越前・永平寺末寺となる。
 1750年、塔頭・東禅院の大悲殿を移築し開山堂とした。建仁寺より道元真像を遷し、像内に分骨舎利を納め開山堂に安置したという。(『老梅庵霊骨塔廟記』)
 近代、1878年、栄昭皇太后、照憲皇太后が行幸し、書院に休憩する。
 1912年、大書院が建立される。関西電力宇治川発電所建設の土地売却金が充てられる。
 現代、1964年頃より、「興聖寺文書集」の作成が行われる。
 1979年、「興聖寺文書集」が完成する。
◆道元 鎌倉時代の曹洞宗開祖・道元(どうげん、1200-1253)。承陽大師。父・内大臣源(土御門)通親、母・太政大臣・藤原(松殿)基房(もとふさ)の三女・伊子(いし)の間に生まれた。誕生地は、宇治木幡の松殿家山荘という。その後、久我の地に引き取られたとみられる。1203年、父を亡くす。1207年、母を亡くす。1208年、叔父・師家は、松殿家の養子に迎え入れようとするがそれを断る。1212年、母の弟・比叡山延暦寺の良観法印の庵に入り、横川般若谷、千光谷に住した。1213年、座主・公円のもとで菩薩戒を受ける。1214年、比叡山を下り、園城寺の母方縁者・公胤(こういん、47世長吏)の門を敲く。公胤の勧めにより1217年、臨済宗の建仁寺に移り栄西、その高弟・明全に学ぶ。1223年、師・明全と共に宋に渡る。天童山・景徳寺で無際了派に学ぶ。杭州、台州を遍歴。1225年、明全が亡くなる。曹洞宗・長翁如浄に師事し曹洞禅を学んだ。1227年、如浄の法統を得て帰国、1228年、建仁寺に入る。建仁寺で日本初の坐禅儀『普勧坐禅儀』を書く。禅は釈迦の正法としたため、比叡山衆徒による迫害を受け、1230年、深草・安養院に閑居する。1233年、深草・極楽寺に修行道場の観音導利院(後の興聖宝林禅寺)を建立する。天台宗の圧力はやまず、1243年、越前に逃れ、1244年、大仏寺(後の永平寺)を開いた。1247年、鎌倉幕府執権・北条時頼に請われ下向、1252年、病になり、翌年、京都の俗弟子・覚念の邸で亡くなったという。
 道元は、無限の修行を成仏の本質とする「修証一如」、坐禅に打ち込むことこそが最高の修行とする「只管打坐」(しかんたざ)などを唱えた。6篇の禅院での修道規則「永平清規」も定めた。仏法の正門は座禅にあるとした『正法眼蔵』95巻(1230-1252)を著した。
◆懐奘 鎌倉時代の僧・懐奘(えじょう、1198-1280)。孤雲懐奘(こうん えじょう)。坊門家白川流中納言伊実の子。18歳で比叡山横川で出家した。比叡山を下山し、善慧坊証空につき、達磨宗を経て、1228年、建仁寺の道元を訪ねた。1234年、興聖寺の道元門下となる。1236年、興聖寺首座、永平寺2代。
◆波多野義重 鎌倉時代の御家人・波多野義重(はたの よししげ、?-1258)。相州波多野に住した。1221年、承久の乱で矢を眼に受けて隻眼となる。北条武士、越前地頭、六波羅標定衆。道元の外護者となる。1243年、道元を越前に案内し、永平寺建立を支援した。また病に伏した道元を治療のため京都に戻した。法名は如是。
◆永井尚政 江戸時代前期の老職(後の老中)・永井尚政(ながい なおまさ、1587-1668)。2代将軍・徳川秀忠の近習となり、大坂の陣での戦功により小姓組番頭となる。1619年、大名、以後、老職、秀忠つき西の丸老職、下総古河藩主、1631年、山城淀藩主となる。
 秀忠近侍の三臣(井上正就、板倉重宗)のひとり。
◆万安英種 江戸時代前期の曹洞宗の僧・.万安英種(ばんなん えいしゅ、1591-1654)。江戸に生まれた。9歳で武蔵・起雲寺の源室に学び、11歳で得度した。肥後・大慈寺の大焉広椿に印可(いんか、承認)される。江戸・起雲寺住持となり、丹波・瑞巌寺、摂津・臨南寺を経て、興聖寺を再建した。只管打坐、道元への復帰を唱えた。
◆寺号 寺号の観音導利興聖宝林禅寺は、道元が観世音の信仰篤かったことに因む。中国・宋からの船で野帰国途中に嵐に遭い、一葉観音により難を免れたという。また、宋での『碧巌録』の写本に際し、白山権現(観世音)が助けたとして、観音導利(院)としたともいう。興聖とは国家安祥、正法の隆盛を祝祷するの意味であるという。宝林禅寺とは、曹渓山宝林寺の道元が敬慕した大鑑慧能禅師(638-713)に因むともいう。
仏像・木像 本堂には、道元自作という「釈迦牟尼仏」を安置している。
 天竺堂中央には、平安時代後期作の「聖観音立像」(宇治市指定文化財)が安置されている。小野篁作という等身大で、かつて塔頭・書写林大悲院の本尊であり、近代に廃寺となり遷された。『源氏物語』第53帖、『宇治十帖』第9帖の「手習」巻の舞台になった手習(てならい)の杜の観音堂に祀られ、江戸時代初期に興聖寺に施入されたという。そのため、「手習観音」とも呼ばれている。物語の想定では、浮舟は宇治川に身を投げた後と、手習の杜付近で比叡山横川僧都に命を助けられた。
 天竺殿には、三国伝来という釈尊、中興開基「永井尚政像(1587-1668)」、その父「永井直勝像(1563-1626)」、尚政の子「永井尚征像(1614-1673 )」、尚征の子「永井直円像(1671-1736)」を安置し、永井家の位牌も祀る。
 開山堂(老梅庵)には、鎌倉時代の木造の「道元禅師像」を安置する。等身大で竹椅子に座る。かつて、道元の弟子・詮慧(せんね)が永興庵(ようこうあん)に奉安した像で、胎内には遺骨が納められている。1253年、道元は俗弟子・覚念の邸で亡くなると、東山赤築地の真葛原で荼毘に付された。その跡地に詮慧により永興庵が建てられ、真像が祀られた。その後、真像は建仁寺開山堂に遷されたという。江戸時代、1750年、建仁寺より興聖寺に真像を遷し、道元の分骨舎利を像内に納めたものという。両脇に歴代の真像、位牌を安置している。
 廻廊に「三面大黒天」を安置する。正面の大黒天と、2側面には別の顔が刻まれている。
◆建築 宇治指定有形文化財に本堂、僧堂、庫裏、衆寮、浴室、楼門(山門)、薬医門、鐘楼、天竺殿、開山堂、知祠堂、秋葉大権現がある。これらの諸伽藍は渡廊下で繋がれている。
 
「表門(総門、石門)」は、江戸時代、慶安年間(1648-1651)に建立された。
 「山門(楼門、竜宮門)」は、江戸時代、1844年に改築された。明朝の建築様式、竜宮造。漆喰塗で楼台の中央にアーチ型の通路が開けられた竜宮門になる。楼上に釈迦三尊、十六羅漢を安置する。
 
「薬師門」は、江戸時代、1846年に建立された。
 「本堂(法堂)」は、江戸時代、1648年に移築された。伏見城遺構ともいう。伏見城の遺材で造られたともいう。前縁は鴬張りの廊下、天井には伏見城落城の際の、血染め縁板を用いた天井が張られている。客殿形式、入母屋造、本瓦葺。
 「開山堂(老梅庵)」は、江戸時代、1750年に塔頭・東禅院の大悲殿を移築した。
 
「大書院」は、1912年に建立された。1919年、貞明皇后行啓の際に使われた。
 「僧堂(座禅道場)」は、江戸時代、1648年に建立された。1702年に改修される。
 「鐘楼」は、江戸時代、1651年に建立された。午前4時、10時に撞かれる。「興聖の晩鐘」として「宇治十二景」の一つ、「宇治十境」の一つになる。
◆文化財 隠元の賛がある「道元禅師頂相」。臨済宗黄檗派開祖・隠元隆琦(1592-1673)、臨済宗黄檗派の木庵性瑫(1611-1684)の墨跡がある。
 「万安英種禅師頂相」。ほかに吉山明兆(1352-1431)、雲谷等顔(1547-1618)、雪舟(1420-1506)、土佐光信(1434? -1525?)、狩野探幽(1602-1674)の絵、屏風などがある。
 後水尾天皇中宮・東福門院(1607-1678)作の紀貫之像押絵、女性天皇の第109代・明正天皇(1624-1696)作の渡唐天神像押絵など。
 「梵鐘」(宇治指定有形文化財)は、江戸時代、1651年に鋳造。「興聖の晩鐘」として「宇治十二景」の一つ、「宇治十境」の一つに数えられる。安土・桃山時代末期-江戸時代前期の儒学者・林羅山(道春、1583-1657)自選自書の銘がある。永井尚政の願文を撰書したもので、再興の由来、寺境が記され、鋳造は近藤丹波掾藤久、勘兵衛尉常清とある。
◆庭園 府指定名勝の庭園がある。本堂前庭は、植栽による亀と翼を広げた鶴、梵天作りのサツキがある。
 開山堂前に枯山水式の庭園がある。苔地に、石組、植栽がある。
◆茶室 永井尚政は、宇治川河畔に、「興聖寺五亭(観流亭、長川亭、縦目亭、望橋亭、洗心亭)」といわれる茶室を建てた。その後、老朽化、洪水により失われた。
◆茶園 境内地には、かつて「宇治七名園」のひとつ朝日茶園があった。寺が開かれた後にも、境内に茶園が残されていた。また、永井尚政は、周辺にいくつかの茶園を開き、茶師、農家に貸与していたという。
◆槇尾山 歌枕の槇尾山(まきのおやま)は、興聖寺の付近の山ともいう。『源氏物語』には第45帖「橋姫」巻、第46帖「椎本」巻に登場する。
 「つれもなき槇尾山は影絶えて霧にあらそふ宇治の川浪」(『明日香井集』)。
◆墓 開山塔が立つ。木下道正庵の石塔もある。
◆自然・樹木 境内背後の朝日山、仏徳山にはシイの自然林が広がる。1997年、京都府「京都の自然200選 歴史的自然環境部門」に「興聖寺」として選定された。
 参道の琴坂は200mにわたり続く。脇を流れる谷川のせせらぎが、あたかも琴の音のようであることから名づけられたという。また、坂の形が琴に似ているからともいう。琴坂は紅葉の名所として知られ、「宇治十二景」の一つに数えられた。開基の永井尚政は、朝日山、琴坂、境内にヤマブキ、楓、ツツジ、サツキなどを植栽している。
 4月、一重咲きのヤマブキが咲く。「春岸(しゅんがん)の山吹」とされ「宇治十境」のひとつに数えられていた。青紅葉、紅葉の名所になる。近年、宇治新名所十境の一つとして「琴坂の夕紅葉」として知られる。
 紅梅、椿、桜(ソメイヨシノ、樹齢150年の山桜)、平戸躑躅、みやま霧島、皐月なども植えられている。
 ケヤキがある。
宇治十二景 宇治十二景としては、①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫1
◆修行体験 坐禅会(春・秋、一泊三食付で精進料理、坐禅堂での坐禅)。
◆年間行事 秋葉講大般若修正会(1月10日)、道元禅師降誕会(1月26日)、涅槃会(2月15日)、潅仏会(花祭り)(4月8日)、興聖寺護持会総会法要(5月16日)、盂蘭盆会山門施食会(8月16日)、開山御征忌(9月26日-28日)、茶祭奉賛会主催茶祭(茶種を伝えた栄西、宇治にもたらした明恵、千利休の3人に感謝する祭り。茶壷口切の儀では、新茶の入った茶壷の口を切って抹茶にする儀式。汲み上げた水で茶をたてる献茶供養が行われ、表裏千家が1年ごとに茶を立てる。山門前の茶筅塚では、使い古された茶筅を焼納する茶筅供養が行われる。)(10月第1日曜日)、ろう八接心(12月1日-8日)、成道会(12月8日)、除夜の鐘撞き(12月大晦日)。
 

*年間行事の中止・日時変更、拝観中止・時間変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『隠元渡来 興聖寺と萬福寺』『京都 道元禅師を歩く』『京都古社寺辞典』『京の古都から 24 興聖寺』『京都 道元禅師を歩く』『京都・宗祖の旅 道元』『京都・山城寺院神社大事典』『京都府の歴史散歩 下』『日本の名僧』『古都歩きの愉しみ』『京都の寺社505を歩く 下』『京都の地名検証』『京都 神社と寺院の森』『週刊 京都を歩く 47 萬福寺/三室戸寺 宇治 2』


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開山堂前庭

知祠堂

天竺殿

天竺殿

大書院

方丈と内庭


僧堂(座禅道場)


僧堂

経堂

庫裏

玄関

鑑寺寮

浴室

衆寮(講堂、研修道場) 


三面大黒尊

鐘楼

鎮守社、秋葉三尺坊大権現、火伏の信仰がある。

内庭、ツツジ、サツキなどの植栽がある。

内庭

開山承陽大師御霊骨改納紀念碑

茶筅塚


琴坂


かつて、琴坂を彩ったというヤマブキも現在は激減している。

ひめこまつ、松科、高さ4m、太さ0.8m、樹齢300年、宇治市銘木百選に選ばれている。

【参照】宇治川にかかる宇治橋、架橋は飛鳥時代、646年、洪水のため流出と再建を繰り返しており、現在の橋は1996年に架け替えられた。川上に張り出している三の間は、豊臣秀吉が茶の湯の水を汲ませた所といわれる。
興聖寺 グーグルマッブ・ストリートビュー
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