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興聖寺 (京都府宇治市) Koushou-ji Temple |
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興聖寺 | 興聖寺 |
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![]() 表門 ![]() ![]() 「曹洞宗高祖道元禅師初開之道場」の石標。 ![]() 石塔、江戸時代初期作、興聖寺三塔のひとつ。 ![]() 琴坂 ![]() 山門 ![]() ![]() ![]() ![]() 薬師門、背後の山は仏徳山、朝日山。 ![]() 薬師門 ![]() 薬師門 ![]() ![]() 本堂(法堂) ![]() ![]() 本堂、四条天皇勅額「興聖寶林禅寺」 ![]() 本堂 ![]() 本堂 ![]() 本堂、鴬張りの床 ![]() 本堂、血染めの天井。 ![]() 開山堂(老梅庵)、道元尊像を祀る。 ![]() ![]() 開山堂(老梅庵) ![]() 開山堂前庭 ![]() 知祠堂 ![]() 天竺殿 ![]() 天竺殿 ![]() 大書院 ![]() 方丈と内庭 ![]() ![]() 僧堂(座禅道場) ![]() ![]() 僧堂 ![]() 経堂 ![]() 庫裏 ![]() 玄関 ![]() 鑑寺寮 ![]() 浴室 ![]() 衆寮(講堂、研修道場) ![]() 三面大黒尊 ![]() 三面大黒尊 ![]() 鐘楼 ![]() ![]() 鎮守社、秋葉三尺坊大権現、火伏の信仰がある。 |
仏徳山(130.8m)麓の参道、琴坂(ことさか)を上がると、興聖寺(こうしょう-じ)がある。宇治川畔に建つ山門脇には、「曹洞宗高祖道元初開之道場」の石標が立つ。曹洞宗開祖・道元との関わりが深い。 正式には観音導利興聖宝林禅寺という。山号は仏徳山(ぶっとくさん)という。かつて「日本曹洞五箇禅林」(ほかに越前・永平寺、加賀・大乗寺、肥後・大慈寺、能登・総持寺)のひとつに数えられ、10国に108の末寺を有していた。 京都には少ない曹洞宗の一つになる。曹洞宗永平寺派の修行道場、本尊は釈迦如来を安置している。 ◆歴史年表 鎌倉時代、1230年、道元は深草の極楽寺跡・安養院(現在の宝塔寺付近、深草郷谷口)に閑居する。以来、坐禅修業道場になる。 1233年、道元は、曹洞宗の道場、興聖宝林禅寺(こうしょうほうりんぜんじ、興聖宝林寺、観音導利興聖宝林禅寺)を開創する。当初は仏殿だけが建てられた。 1235年、正覚禅尼が法殿を建立した。法座は弘誓院(藤原教家)が寄進する。僧堂も寄進建立されている。 1236年、伽藍が完成し、観音導利院に興聖宝林禅寺の寺名が加えられる。懐奘(えじょう)が首座になる。(『永平広録』) 1237年、観音導利興聖宝林禅寺の名が記されている。(『典座教訓』) 1243年/1244年、比叡山延暦寺の弾圧により、道元は波多野義重の勧めにより越前に逃れる。後は弟子・詮慧に託した。それ以降、寺は荒廃した。 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により伽藍は焼失したという。また、盗賊により焼失させられたともいう。4世住持の後に廃絶した。 江戸時代、1648年/1649年、淀城主・永井尚政が、父・直勝の遺志を継ぎ、菩提を弔い現在地に再興した。仏徳山聖興寺とし、道元を開山、万安英種(ばんなん えいしゅ)を5世に迎え中興開山にした。以後、菩提寺になる。本堂、総門などの部材には、伏見城遺材が使われたという。 1664年、畿内の触頭寺院(幕府、藩による統制、調整制度)になる。寄進により一時は隆盛になった。幕藩体制になる畿内五国の僧録司として、曹洞宗の専門道場になる。 1747年、越前・永平寺末寺になった。 1750年、塔頭・東禅院の大悲殿を移築し開山堂にした。建仁寺より道元真像を遷し、像内に分骨舎利を納め開山堂に安置したという。(『老梅庵霊骨塔廟記』) 近代、1878年、栄昭皇太后、照憲皇太后が行幸し、書院に休憩する。 1912年、大書院が建立される。関西電力宇治川発電所建設の土地売却金が充てられる。 現代、1964年頃より、「興聖寺文書集」の作成が行われる。 1979年、「興聖寺文書集」が完成する。 ◆道元 鎌倉時代前期-中期の曹洞宗開祖・道元(どうげん、1200-1253)。俗姓は源氏、号は希玄(きげん)、道玄、字は仏法房、諡号は仏性伝東国師、承陽大師。京都の生まれ。父・内大臣・源(土御門)通親/通親の子・通具(みちとも)、母・太政大臣・藤原(松殿)基房(もとふさ)の三女・伊子(いし)。誕生地は、宇治木幡の松殿家山荘という。その後、久我の地に引き取られたとみられる。1203年、父を亡くす。1207年、母を亡くした。1208年、叔父・師家は、松殿家の養子に迎え入れようとするがそれを断る。1212年、母の弟・比叡山延暦寺・良観法印の庵に入り、横川般若谷、千光谷に住した。1213年、座主・公円のもとで菩薩戒を受ける。天台宗で、衆生は仏性を具えているのにもかかわらず、既に仏である者が修行し続ける理由が解けず、1214年、比叡山を下りる。園城寺の母方縁者・公胤(こういん、47世長吏)の門を敲く。公胤の勧めにより、1217年、臨済宗の建仁寺に移り、栄西(相見していないとも)、その高弟・明全に学び臨済の印可を受けた。1223年、師・明全と共に宋に渡る。天童山・景徳寺で無際了派に学ぶ。1224年、育王山・広利寺、径山(きんざん)・万寿寺、天台山・万年寺などを歴訪した。1225年、明全が亡くなる。天童山で曹洞宗・長翁(天童)如浄(にょじょう)に師事し、曹洞禅を学び印可を受けた。1227年、如浄の法統を得て帰国する。1228年、建仁寺に入る。日本初の坐禅儀『普勧坐禅儀』を著す。禅は釈迦の正法としたため、比叡山衆徒による迫害を受け、1230年、深草・安養院に閑居する。1233年、深草・極楽寺に修行道場の観音導利院(後の興聖宝林禅寺)を建立する。天台宗の圧力はやまず、1243年、檀越・波多野義重の領地である越前の志比荘(しびのしょう)に逃れる。1244年、義重の請により、越前に大仏寺(後の永平寺)を開いた。1247年、鎌倉幕府執権・北条時頼に請われ下向した。1252年、病になり、1253年、後事を弟子・孤雲懐奘(こうん-えじょう)に譲り、京都西洞院高辻の俗弟子・覚念の邸で亡くなったという。54歳。遺骸は東山・赤辻で荼毘に付され、遺骨は永平寺に埋葬された。 日本曹洞宗の開祖。道元は、自己に本来具わる仏法は修行によって初めて現れ成就する(身心脱落)とした。無限の修行を成仏の本質とする「修証一如」、坐禅に打ち込むことこそが最高の修行とする「只管打坐(しかんたざ)」などを唱えた。6篇の禅院での修道規則「永平清規」も定めた。仏法の正門は座禅にあるとした『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう) 』95巻(1230-1252)を著した。門弟には、懐奘、詮慧(せんね)、僧海(そうかい)らがいる。 1854年、第121代・孝明天皇より諡号の仏性伝東国師、1879年、第122代・明治天皇より承陽(じょうよう)大師を贈られた。 ◆懐奘 鎌倉時代前期-中期の僧・懐奘(えじょう、1198-1280)。孤雲懐奘(こうん-えじょう)。父・坊門家白川流中納言・伊実。18歳で比叡山横川で出家した。比叡山を下山し、善慧坊証空につき、達磨宗を経て、1228年、建仁寺の道元を訪ねた。1234年、興聖寺の道元門下になる。1236年、興聖寺首座、永平寺2代。82歳。 ◆波多野義重 鎌倉時代中期の御家人・波多野義重(はたの-よししげ、?-1258)。法名は如是。相州波多野に住した。1221年、承久の乱で矢を眼に受けて隻眼になる。北条武士、越前地頭、六波羅標定衆。道元の外護者になる。1243年、道元を越前に案内し、永平寺建立を支援した。また病に伏した道元を治療のために京都に戻した。 ◆永井直勝 室町時代後期-江戸時代前期の武将・永井直勝(ながい-なおまさ、1563-1626)。本姓は長田、通称は伝八郎。三河国(愛知県)生まれ。父・長田重元(直吉)。14歳で徳川家康の子・信康に付く。1579年、信康死後に家康の近臣、その命により家名・長田より永井に改めた。1584年、小牧・長久手の戦で池田恒興(信輝)の首をとった。1600年、関ケ原の戦後、家康の命で細川幽斎に有職を学ぶ。家康の信任は厚く、息子の付家老に就くことを固辞した。1622年、古河に転封の際に評定の席に列し、江戸に定府し評定衆に列した。63歳。 池田恒興の冥福を祈念し、供養のために一宇の建立を願い果たせなかった。1648年、子・尚政が遺志を継ぎ、興聖寺を再興した。 ◆永井尚政 安土・桃山時代-江戸時代前期の武将・永井尚政(ながい-なおまさ、1587-1668)。通称は伝八郎、号は信斎。2代将軍・徳川秀忠の近習になり、大坂の陣での戦功により小姓組番頭になる。1619年、加増1万石を得て大名になる。1622年、老職に就任した。1623年、秀忠から徳川家光への将軍譲位に伴い、秀忠付き西の丸老職になる。1626年、父の遺領を継ぎ、下総古河藩藩主、1631年、山城淀藩主になる。1648年、興聖寺を再興した。秀忠近侍の三臣(ほかに井上正就、板倉重宗)のひとり。82歳。 ◆万安英種 安土・桃山時代-江戸時代前期の曹洞宗の僧・万安英種(ばんなん-えいしゅ、1591-1654)。俗姓は遠山。江戸の生まれ。9歳で武蔵・起雲寺の源室に学び、11歳で得度した。肥後・大慈寺の大焉広椿に印可(いんか、承認)される。江戸・起雲寺住持になり、丹波・瑞巌寺、摂津・臨南寺を経て、1648年、興聖寺を再建した。只管打坐、道元への復帰を唱えた。 著『禅林類聚撮要抄』など。 64歳。 ◆山家信次 近現代の火薬学者・山家信次(やまが-しんじ、1887-1954)。大阪府堺の生まれ。1908年、東京帝国大学工学部火薬科に入学。1910年、海軍造兵学生として火薬学を専攻する。1911年、東京帝国大学を卒業した。海軍造兵官として海軍火薬廠に勤めた。研究部長、火薬廠長を歴任する。この間に、1919年、東京帝国大学助教授、1922年、東京帝国大学教授を兼務する。1923年、工学博士。1924年、京城帝国大学理工学部創設(現在のソウル)に関る。1937年、海軍造兵中将。1941年、京城帝国大学初代理工学部長、1944-1945年、同大学学長に就任した。67歳。 高性能の火薬を発明する。熱力学理論に業績を残した。興聖寺に山家家累代墓がある。 ◆寺号 寺号の観音導利興聖宝林禅寺は、道元が観世音の信仰篤かったことに因む。中国・宋からの船で野帰国途中に嵐に遭い、一葉観音により難を免れたという。また、宋での『碧巌録』の写本に際し、白山権現(観世音)が助けたとして、観音導利(院)としたともいう。 興聖とは国家安祥、正法の隆盛を祝祷するの意味であるという。 宝林禅寺とは、曹渓山宝林寺の道元が敬慕した大鑑慧能禅師(638-713)に因むともいう。 ◆仏像・木像 ◈本堂には、道元自作という「釈迦牟尼仏」を安置している。 ◈天竺殿中央には、平安時代後期作の「聖観音立像」(1.6m)(宇治市指定文化財)が安置されている。小野篁(おの-の-たかむら、802-853)作という等身大で、かつて塔頭・書写林大悲院の本尊であり、近代に廃寺になり遷された。 『源氏物語』第53帖、『宇治十帖』第9帖の「手習」巻の舞台になった手習(てならい)の杜の観音堂に祀られていた。江戸時代初期に興聖寺に施入されたという。そのため、「手習観音」とも呼ばれている。物語の想定では、浮舟は宇治川に身を投げた後に、手習の杜付近で比叡山横川僧都に命を助けられた。 右手は垂れ、左手に蓮華を持つ。一木造、内刳り、漆箔。 ◈天竺殿には、三国伝来という釈尊、中興開基「永井尚政像(1587-1668)」、その父「永井直勝像(1563-1626)」、尚政の子「永井尚征像(1614-1673)」、尚征の子「永井直円像(1671-1736)」を安置し、永井家の位牌も祀る。 ◈開山堂(老梅庵)には、鎌倉時代の木造の「道元禅師像」を安置する。等身大で竹椅子に座る。かつて、道元の弟子・詮慧(せんね)が永興庵(ようこうあん)に奉安した像で、胎内には遺骨が納められている。1253年、道元は俗弟子・覚念の邸で亡くなると、東山赤築地の真葛原で荼毘に付された。その跡地に詮慧により永興庵が建てられ、真像が祀られた。その後、真像は建仁寺開山堂に遷されたという。江戸時代、1750年、建仁寺より興聖寺に真像を遷し、道元の分骨舎利を像内に納めたという。両脇に歴代の真像、位牌を安置している。 ◈廻廊に「三面大黒天」を安置する。正面の大黒天と、2側面には別の顔が刻まれている。 ◆建築 宇治指定有形文化財に本堂、僧堂、庫裏、衆寮、浴室、楼門(山門)、薬医門、鐘楼、天竺殿、開山堂、知祠堂、秋葉大権現がある。これらの諸伽藍は渡廊下で繋がれている。 ◈「表門(総門、石門)」は、江戸時代、慶安年間(1648-1651)に建立された。 ◈「山門(楼門、竜宮門)」は、江戸時代、1844年に改築された。明朝の建築様式、竜宮造。漆喰塗で楼台の中央にアーチ型の通路が開けられた竜宮門になる。楼上に釈迦三尊、十六羅漢を安置する。 ◈「薬師門」は、江戸時代、1846年に建立された。 ◈「本堂(法堂)」は、江戸時代、1648年に移築された。伏見城遺構ともいう。伏見城の遺材で造られたともいう。前縁は鴬張りの廊下、天井には伏見城落城の際の、血染め縁板を用いた天井が張られている。安土・桃山時代、1600年の伏見城落城の際に、徳川家康家臣・鳥居彦衛門元忠以下1800人は、石田三成の軍勢と交戦し、380人あまりが自刃し果てた。その時の廊下を用いて天井が張られた。8室あり、1室に「将軍壇」という小厨子3基がある。9間6間、客殿形式、入母屋造、本瓦葺。 ◈「開山堂(老梅庵)」は、江戸時代、1750年に塔頭・東禅院の大悲殿を移築した。 ◈「大書院」は、近代、1912年に建立された。1919年、貞明皇后行啓の際に使われている。 ◈「僧堂(座禅道場)」は、江戸時代、1648年に建立された。1702年に改修される。 ◈「鐘楼」は、江戸時代、1651年に建立された。午前4時、10時に撞かれる。「興聖の晩鐘」として「宇治十二景」の一つ、「宇治十境」の一つになる。 ◆文化財 隠元の賛がある「道元禅師頂相」。臨済宗黄檗派開祖・隠元隆琦(1592-1673)、臨済宗黄檗派の木庵性瑫(1611-1684)の墨跡がある。 「万安英種禅師頂相」。ほかに吉山明兆(1352-1431)、雲谷等顔(1547-1618)、雪舟(1420-1506)、土佐光信(1434?-1525?)、狩野探幽(1602-1674)の絵、屏風などがある。 南北朝時代の絹本著色「釈迦三尊十六羅漢像」1幅、室町時代の絹本著色「釈迦三尊十六羅漢像」1幅、元の絹本著色「十六羅漢像」16幅、江戸時代の紙本著色「十界図」6曲屏風1双。 後水尾天皇中宮・東福門院(1607-1678)作の紀貫之像押絵、女性天皇の第109代・明正天皇(1624-1696)作の渡唐天神像押絵など。 「梵鐘」(宇治指定有形文化財)は、江戸時代、1651年に鋳造された。「興聖の晩鐘」として「宇治十二景」の一つ、「宇治十境」の一つに数えられる。安土・桃山時代末期-江戸時代前期の儒学者・林羅山(道春、1583-1657)自選自書の銘がある。永井尚政の願文を撰書したもので、再興の由来、寺境が記され、鋳造は近藤丹波掾藤久、勘兵衛尉常清とある。 ◆庭園 府指定名勝の庭園がある。本堂前庭は、植栽による亀と翼を広げた鶴、梵天作りのサツキがある。 開山堂前に枯山水式の庭園がある。苔地に、石組、植栽がある。 ◆茶室 永井尚政は、宇治川河畔に、「興聖寺五亭(観流亭、長川亭、縦目亭、望橋亭、洗心亭)」といわれる茶室を建てた。その後、老朽化、洪水により失われた。 ◆茶園 境内地には、かつて「宇治七名園」のひとつ朝日茶園があった。寺が開かれた後にも、境内に茶園が残されていた。また、永井尚政は、周辺にいくつかの茶園を開き、茶師、農家に貸与していたという。 ◆槇尾山 歌枕の槇尾山(まきのおやま)は、興聖寺の付近の山ともいう。『源氏物語』には第45帖「橋姫」巻、第46帖「椎本」巻に登場する。 「つれもなき槇尾山は影絶えて霧にあらそふ宇治の川浪」(『明日香井集』) ◆塔の島十三重塔相輪 塔の島(宇治公園)に、十三重塔が立つ。鎌倉時代、1286年に、奈良・西大寺の僧・叡尊により立てられた。宇治橋の架け替えに際しての供養塔だった。現存最大、最古の石塔とされている。その後、洪水、地震などにより幾度も倒壊し再建された。 江戸時代初期、興聖寺開基・永井尚政が修復する。十三重塔は、近代、1908年に再建されている。その際に、使用されなかった旧相輪、九重目の笠石が尚政ゆかりの当寺に移された。現在は、庭にあり、笠石の上に相輪が立てられている。◆石造物 琴坂に立つ「石塔」は、江戸時代初期作になる。興聖寺三塔の一つに数えられる。 ◆墓 開山塔が立つ。木下道正庵の石塔もある。 山家信次の眠る累代墓がある。 淀藩主・永井家墓所(京都府指定文化財)がある。 ◆金明竹 開山堂前に金明竹が植えられている。 江戸時代、1658年、第109代・明正天皇により、永井尚政を通じて植えられたという。尚政は禁裏造営奉行などを務め、宮中とのゆかりも深かった。 ◆琴坂 参道の「琴坂(ことざか)」は、石門-楼門間の200mほどの坂をいう。 脇を流れる谷川のせせらぎが、あたかも琴の音のようであることから名づけられたという。また、坂の形が琴に似ているからともいう。琴坂は紅葉の名所として知られ、「宇治十二景」の一つに数えられた。 開基の永井尚政は、朝日山、琴坂、境内にヤマブキ、楓、ツツジ、サツキなどを植栽している。桜もある。 ◆自然・樹木 境内背後の朝日山、仏徳山にはシイの自然林が広がる。1997年、京都府「京都の自然200選 歴史的自然環境部門」に「興聖寺」として選定された。 4月、一重咲きのヤマブキが咲く。「春岸(しゅんがん)の山吹」とされ「宇治十境」のひとつに数えられていた。青紅葉、紅葉の名所になる。近年、宇治新名所十境の一つとして「琴坂の夕紅葉」として知られる。 紅梅、椿、桜(ソメイヨシノ、樹齢150年の山桜)、平戸躑躅、みやま霧島、皐月なども植えられている。ケヤキがある。 ひめこまつは、松科、高さ4m、太さ0.8m、樹齢300年、宇治市銘木百選に選ばれている。 ◆宇治十二景 江戸時代、1685年の水雲堂狐松子著『京羽二重』に「宇治十二景」が挙げられている。 1.春岸山吹、2.清湍蛍火、3.三室紅楓、4.長橋暁雪、5.朝日靄暉、6.薄暮柴舟、7.橋姫水社、8.釣殿夜月、9.扇芝孤松、10.槙島瀑布、11.浮舟古祠、12.興聖晩鐘になる。 ◆修行体験 坐禅会(春・秋、一泊三食付で精進料理、坐禅堂での坐禅)。 ◆茶祭 茶祭奉賛会主催茶祭(10月第1日曜日)では、茶種を伝えた栄西、宇治にもたらした明恵、千利休の3人に感謝する祭りになる。 茶壷口切の儀では、新茶の入った茶壷の口を切って抹茶にする儀式をいう。汲み上げた水で茶をたてる献茶供養が行われ、表裏千家が1年ごとに茶を立てる。 山門前の茶筅塚では、使い古された茶筅を焼納する茶筅供養が行われる。 ◆年間行事 秋葉講大般若修正会(1月10日)、道元禅師降誕会(1月26日)、涅槃会(2月15日)、潅仏会(花祭り)(4月8日)、興聖寺護持会総会法要(5月16日)、盂蘭盆会山門施食会(8月16日)、開山御征忌(9月26日-28日)、茶祭奉賛会主催茶祭(10月第1日曜日)、ろう八接心(12月1日-8日)、成道会(12月8日)、除夜の鐘撞き(12月大晦日)。 *年間行事の中止・日時変更、拝観中止・時間変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『隠元渡来 興聖寺と萬福寺』、『京都 道元禅師を歩く』、『京都古社寺辞典』、『京の古都から 24 興聖寺』、『京都 道元禅師を歩く』、『京都・宗祖の旅 道元』、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都府の歴史散歩 下』、『日本の名僧』、『京都の地名検証』、『昭和京都名所図会 7 南山城』、『古都歩きの愉しみ』、『京都の寺社505を歩く 下』、『京都 神社と寺院の森』、『週刊 京都を歩く 47 萬福寺/三室戸寺 宇治 2』、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() 内庭、ツツジ、サツキなどの植栽がある。 |
![]() 内庭 |
![]() 塔の島十三重塔相輪 |
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![]() 開山承陽大師御霊骨改納紀念碑 |
![]() 山家家累代墓 |
![]() 金明竹 |
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![]() 茶筅塚 |
![]() ![]() 琴坂 |
![]() ![]() かつて、琴坂を彩ったというヤマブキも現在は激減している。 |
![]() ひめこまつ |
![]() 【参照】宇治川にかかる宇治橋、架橋は飛鳥時代、646年、洪水のため流出と再建を繰り返しており、現在の橋は1996年に架け替えられた。川上に張り出している三の間は、豊臣秀吉が茶の湯の水を汲ませた所といわれる。 |
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