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| 五番ノ橋(五番橋) (京都市伏見区) Gobannohashi Stone bridge |
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| 五番ノ橋(五番橋) | 五番ノ橋(五番橋) |
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![]() 五番ノ橋、東側 ![]() 西側 ![]() 「五番ノ橋」の橋名 ![]() 「明治四十五年(1912年)六月」の架橋年 ![]() 千本通 ![]() 北側、奥に妙教寺 |
淀の「五番ノ橋(ごばん-の-はし)」は納所(のうそ)川に架けられた石橋であり、五番橋とも呼ばれた。 前史として、樋門(ひもん)の変遷がある。 ◆歴史年表 かつて、現在地付近には納所川に架かる「悪水門樋」があった。(「城州島羽海道四塚町より淀小橋迄絵図」) 近代、1881年、2月、現在地にあった「五番の樋」は石造の樋門になった。(「日出新聞」)。それより以前には木樋だったという。 1908年、5月、淀川改修工事に伴い、桂川堤防(現在の五番樋門の地)に新たに樋門が設けられた。(『京都府紀伊郡誌』) 1912年、6月、現在地に現在の五番ノ橋(五番橋)が架橋された。(親柱の銘、『旧橋梁台帳』) 1915年、現在の五番樋門の地に、「五番の樋」と記され樋門が設けられていた。(『京都府紀伊郡誌』) 1931年、五番樋門が改修されている。(「五番樋門改修工事の図面」) ◆樋門 かつて、現在地付近には納所川に架かる「悪水門樋」があった。(「城州島羽海道四塚町より淀小橋迄絵図」) 納所町五番には樋門(ひもん) が設けられており、御杖村の内一口(いもあらい)の池より、淀裏町川に通じていた。近代、1881年2月に、元は木樋だった樋門が石造の樋門になったという。(「日出新聞」、1887年9月3日付) 樋門とは、 河川から用水を取水し、排水路の水を河川へ流し、舟運などのために堤防を横断して造られた暗渠(通水路)をいう。樋管(ひかん)とも呼ばれる。水門が設けられており、水位を調節した。 1907年に淀川改修工事が行われた。それ以前に、上鳥羽・下鳥羽・横大路・伏見・納所の各地区が共同し、1908年5月に樋門が設けられている。(『京都府紀伊郡誌』)。これは、現在の五番ノ橋の西に在り、橋とは別に桂川堤防に新設された樋門になる。 1912年6月には、石橋の「五番ノ橋」が現在地に架橋されている。(『旧橋梁台帳』)。これが、現在の石橋になる。 1931年には、桂川の「五番樋門」の改修工事が行われた。(「五番樋門改修工事の図面」)。なお、図面には納所川に橋が架けられており、これが現在の五番ノ橋とみられる。 ◆五番ノ橋 近代、1912年6月に石橋の五番ノ橋は、鳥羽街道(千本通)の納所(のうそ)川に南北方向に架けられた。川は淀古城の堀跡といわれている。 「五番ノ橋」の橋名について、鳥羽街道に沿う付近一帯には、「一番町」から「九番町」と呼ばれる地名が残っている。この番号は、江戸時代の朝鮮通信使のための番役などの割り振りだったという。その中の一つ五番町に由来しているとみられている。 石橋の構造は2層の積み方になり、上部は大きめの方形・長方形・五角形などの石を谷積みにする。下部はやや小ぶりの方形・長方形の石を煉瓦様に横積みしてアーチを作る。高欄はかつてコンクリート壁・笠石だったともいう。 橋長9 m、幅員6.5m。路線名は千本通。 ❊年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「京都市橋りょう長寿命化修繕計画-別冊資料京都市管理橋りょう一覧」、ウェブサイト「淀城跡 納所 水垂-京都市埋蔵文化財研究所」、『明治の橋』、ウェブサイト「コトバンク」 |
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