古淀城薬師堂趾・古淀城 (京都市伏見区)  
Ruins of Yakushido Hall in Koyodo Castle
古淀城薬師堂趾  古淀城薬師堂趾 
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「古淀城薬師堂趾」の石標


石標脇の納所川、薬師堂橋の北側


堀跡の一つとみられる納所川、妙教寺(上右)


納所川に架かる五番橋


五番橋と納所川、奥に妙教寺


【参照】「薬師堂」の町名


【参照】「北城堀」の町名

 淀の府道13号線(旧京阪国道)沿いに、「古淀城薬師堂趾(こよどじょう-やくしどう-あと)」の石標が立つ。
 城は古淀城、淀古城とも呼ばれ、淀南西に築城された。
◆歴史年表 室町時代、1478年、畠山氏の家臣・神保与三左衛門尉が淀へ入部した。畠山政長が山城国守護に就任する。(『東院年中行事記』)。古淀城は畠山氏の郡代役所として築かれたとみられる。
 1504年、旧9月、摂津国守護代の薬師寺元一が淀城を占拠し、細川政元に謀反を起こした。(『細川両家記』『実隆公記』)
 1559年、管領・細川氏綱は三好長慶の命で淀城に入城する。(『細川両家記』)
 1563年、三好義継が淀城城主になった。(『細川両家記』)
 1566年、三人衆勢が淀城を攻略する。
 1568年、織田信長が上洛し、淀城は織田軍により落城した。
 1573年、岩井友通は、淀城に信長軍に攻められて敗死した。
 安土・桃山時代、1582年、山崎の戦いで、明智光秀は城を修築し砦になる。
 1588年、豊臣秀吉は弟・秀長に淀城を修築させる。(フロイス『日本史』「下坂文書」)。秀吉は産所として茶々(淀殿)に与え、茶々は淀城に入る。
 1589年、旧5月、茶々は鶴松を産む。
 1592年、木村常陸介(重茲)が淀城主になった。
 1594年、伏見城築造の計画に伴い、旧3月、淀城が破却される。薬師堂も廃された。淀殿は、秀頼とともに伏見城西ノ丸に移る。
 1595年、重茲は豊臣秀次事件に連座し自害を命じられた。
 現代、1992年、久保田利政により石標が立てられる。
畠山 政長 室町時代中期の武将・畠山 政長(はたけやま-まさなが、1442?-1493)。男性。幼名は弥二郎、次郎、法名は実隆寺、号は勝仙院。尾張守・左衛門督。山城(京都府)の生まれ。父・持富(もちとみ)。叔父・畠山持国(もちくに)の養子になる。持国に実子がなく、1448年、父・持富を家督後継者にした。直後に持国は生まれた実子・義就(よしなり)に家督を改めた。反義就派の家臣らは、政長の兄・弥三郎を擁立して対抗した。1454年、畠山家を二分する抗争に発展する。持国・義就により処罰された弥三郎派は、細川勝元の支持を得る。持国を隠居させ、義就を伊賀に没落させた。将軍・足利義政は義就を復帰させ、弥三郎は没落する。1459年、弥三郎は病死し、弟・政長が擁立された。1460年、政長は、勝元らの援助により、持国父子を追払い家督相続した。政長は河内・紀伊・越中守護になる。1463年、河内嶽山(だけやま)城に籠城した義就を攻め、大和・吉野に追う。1464年、管領に就任した。1466年、勝元と対抗する山名持豊(宗全)により、河内より義就が迎えられて入京する。1467年、政長は管領を罷免され、自邸を焼き上御霊社に陣した。義就と戦う。応仁・文明の乱(1467-1477)になり、政長は東軍に属した。義就は南山城を掌握し、1477年、乱後に河内に下向し支配した。1478年、政長は山城守護になり、1484年、1485年、義就と南山城で対陣する。山城国一揆により両軍は撤兵する。1493年、政長は将軍・足利義材(義稙)を擁し、死去した義就の嫡子・基家(もといえ)を攻め河内に出陣した。細川政元による政変で基家は赦免になる。政長は、政元・山名・一色の軍に攻められ、嫡子・尚順(ひさのぶ)を紀伊に逃した後、河内正覚寺城で自害した。52歳。
 家督をめぐる畠山氏二派・義就との抗争は、応仁の乱の一因になった。
◆神保 与三左衛門 室町時代後期の武将・神保 与三左衛門(?-?)。詳細不明。男性。畠山政長の家臣だった。1478年、淀へ入部した。
◆薬師寺 元一 室町時代中期-後期の武将・薬師寺 元一(やくしじ-もとかず、1477?-1504)。男性。通称は与一。父・薬師寺長盛の長子。伯父・元長の養子になる。1500年、細川政元の命により、河内の畠山義英を助け畠山尚順を破る。1501年、家督を継ぎ摂津守護代を継ぐ。政元に仕え重臣になる。1503年、政元の命で阿波に下向し、細川成之の孫・六郎(澄元)を政元の養子に迎えることをとり決めた。1504年、政元により守護代から解任されようとし、11代将軍・足利義澄の介入により止む。成之・畠山尚順(尚慶)・足利義尹(義稙)と結び、政元を廃し澄元を擁立しようと淀城で挙兵する。実弟・薬師寺長忠が政元側に属し、成之の援軍も遅れ落城した。捕縛されて京都に送られ、自害に追い込まれた。27歳?。
◆細川 氏綱 室町時代後期の武将・細川 氏綱(ほそかわ-うじつな、1514?-1564)。男性。右京大夫。通称は二郎。父・細川尹賢(これかた)、細川高国の嫡子・稙国が早世し養子になる。1543年、高国は細川晴元に対抗し、晴元派・三好長慶(みよし-ながよし、範長)に敗れ、自刃した。氏綱は、その残党に擁立され和泉で挙兵した。長慶に敗れる。遊佐長教(ゆさ-ながのり)らと結び、三好政長(宗三)と戦う。1548年、政長との確執から晴元に反旗を翻した長慶に擁立され、1549年、江口の戦い以後、管領・晴元、前将軍・足利義晴、将軍・足利義藤(義輝)を京都から追う。1552年、上洛し、義輝と和解し右京大夫、室町幕府最後の管領になる。長慶の傀儡でしかなく、1559年、長慶により淀城に監視付きで居城になった。同城で没した。 50歳。
◆三好 義継 室町時代後期の武将・三好 義継(みよし-よしつぐ、1549? -1573)。男性。幼名は熊王丸、初名は重存、義重、通称は孫六郎。左京大夫。父・讃岐(香川県)十河城城主・十河一存(そごう-かずまさ)。三好長慶の甥、後に長慶の嗣子。1563年、長慶嫡子・義興の早世により家督を継ぐ。淀城城主になった。1564年、長慶の没後、遺臣らは喪を秘し義継を領国8カ国の当主にした。実際には三好三人衆・松永久秀が後見し、その傀儡になる。1565年、室町幕府第13代将軍・足利義輝の暗殺事件、永禄の変に加担した。三人衆と久秀の内紛により、三人衆は義継の身柄を拉致し、義継は飯盛から高屋城に移された。久秀が織田信長に降り、義継も従い織田家臣になる。1567年、堺の陣を脱し久秀の宿所へ走る。1568年、信長が入京すると久秀は信長に降り、義継も同調した。若江城主として河内北半国は安堵され、他方8カ国を失う。1569年、足利義昭の妹を室に迎える。義昭を匿い、信長の反感を買う。1573年、信長に抗した義昭は、槙嶋城より退去した。義継は義昭を若江城に匿い、義継は佐久間信盛の攻撃により若江城で自刃し、三好宗家は滅亡した。25歳?。
◆岩成 友通 室町時代後期の武将・岩成 友通(いわなり-ともみち、?-1573)。男性。姓は石成、通称は主税助。三好長慶・義継父子に仕える。1565年、松永久秀らと共に義継を擁し、将軍・足利義輝を殺害した。のち久秀と対立し、三好長逸・三好政康と共に三好三人衆と呼ばれた。1566年、久秀・畠山高政勢と和泉国に戦い、三人衆の先鋒として山城勝竜寺城を奪取した。1567年、池田勝正と共に東大寺念仏堂に陣し、戒壇院に拠った松永軍と合戦する。1568年、織田信長は足利義昭を擁して上洛し、友通は近江国・六角義賢と結び阻止した。勝竜寺城を攻撃されて降伏した。その後、阿波に潜伏する。1569年、信長帰国の間隙を突き、長逸・政康と共に本国寺に在陣の義昭を襲い敗退した。1570年、浅井氏と結んで摂津・河内に進出し本願寺・足利義昭らと組んで反織田戦線を張った。1573年旧7月、義昭が反信長の兵を山城国槙島城に挙げ呼応した。山城国淀城に拠り、信長軍の細川(長岡)藤孝らに攻められた。旧8月2、落城、敗死した。
 三好三人衆の一人。
◆明智 光秀 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・明智 光秀(あけち-みつひで、1528?-1582)。男性。名は十兵衛、惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)。美濃(岐阜県)の生まれ。父・明智光綱。美濃の土岐氏支流ともいう。娘は細川ガラシャ。初め斎藤氏に仕えた。越前・朝倉義景に仕え、1566年、織田信長に仕えた。1567年、滝川一益に従い北国征伐に加わる。1568年、信長入京に当たり、政務に当り足利義昭のために公家側に働きかけた。1569年、公家寺社領仕置などに携わる。信長と義昭の対立を仲介する。1570年、信長の摂津、近江の出陣に従う。1571年、近江・坂本城主になる。1572年、浅井氏の小谷城包囲に参加する。1573年、越前朝倉氏攻略に加わる。1574年、大和多聞山城を守備し、美濃、河内に転戦した。1575年、功により惟任日向守と称した。信長の命で丹波の攻略に着手し、福知山城を築城した。年貢を軽減するなど民に慕われた。1579年、強く抵抗した八上城の波多野秀治らを下して丹波平定した。1581年、因幡鳥取城攻めに羽柴(豊臣)秀吉を援け、丹後の検地を断行する。1582年、甲州・武田勝頼攻撃に従う。信長より徳川家康の慰労を命じられ、さらに、秀吉の備中高松城包囲に救援を命じられる。光秀は反発し、亀山城(亀岡市)に入り、愛宕山に詣り謀反を決意した。備中出陣の名目により、旧6月1日、兵1万3000を率い、亀山城を発した。老ノ坂を経て、旧2日、本能寺を急襲し、信長を自刃に追い、二条御所の信忠を自滅させた。(本能寺の変 ) 。旧13日、取って返した秀吉との山崎の戦いに敗れる。一旦、勝竜寺城に入る。坂本城に落ち延びる途中、小栗栖(おぐるす)で土民の襲撃により傷を負い、自刃して果てたという。「三日天下」といわれた。故実、典礼に通じた。法名は秀岳宗光。56歳。明智光秀
◆羽柴 秀長 室町時代後期-安土・桃山時代の武将・羽柴 秀長(はしば-ひでなが、1541-1591)。男性。豊臣秀長、幼名は小竹、通称は小一郎、名は長秀、大和大納言。尾張(愛知県)の生まれ。父・百姓・弥右衛門/竹阿弥?、母・なか(大政所)。秀吉の弟/異父弟。1564年以降、秀吉に仕える。1573年、長浜城城代になる。藤堂高虎が仕官した。1574年、伊勢長島一向一揆攻めで、丹羽長秀・前田利家らと先陣を務めた。1575年、羽柴の名字を与えられる。秀吉の中国攻めで、1577年、第1次但馬攻め、1578年、但馬攻め、黒井城の戦いに加わる。1579年、丹生山を襲撃し、淡河城を攻め撤退した。(三木合戦)。1580年、第2次但馬攻めで総大将を務め、但馬の竹田・出石城の城代になる。1581年、鳥取城の戦い、1582年、備中高松城の戦い、本能寺の変後、山崎の戦い、1583年、賤ヶ岳の戦いに参戦した。美濃守に任官し、姫路城を居城にした。1584年より、秀長と名乗る。小牧・長久手の戦いに参戦し、講和交渉で秀吉の名代として赴く。1585年、紀州征伐で秀吉の副将に任命される。功として紀伊・和泉に所領を得る。四国攻めで、病の秀吉に代わり総大将になった。その後、紀伊・和泉に大和一国が加増される。居城を紀伊若山から大和郡山に移した。豊臣の本姓を与えられる。1586年、北山一揆出陣、従三位、参議になる。1587年、九州攻めで日向方面の総大将になる。島津攻めの先鋒になった。戦後、従二位・権大納言に叙任され、大和大納言と呼ばれる。大和郡山城で病没した。52/51歳。
 常に秀吉の補佐役として奮闘した。
 戒名は古溪宗陳が「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」と付した。墓は大徳寺・大光院(北区)、1777年に大和郡山に町衆により供養塔(大納言塚)が立てられた。
◆淀殿 安土・桃山時代-江戸時代前期の淀殿(よど-どの、1569?-1615)。女性。名は茶々(ちゃちゃ)、通称は二の丸殿、西の丸殿、淀君は後世の呼称。近江国(滋賀県)の生まれ。父・浅井長政、母・お市の方の長女。1573年、織田信長によって包囲された小谷城落城の際に、母、ちゃちゃら娘は信長のもとに送り返され養われる。1582年、信長の死後、母の再婚によって柴田勝家の越前北庄城に移る。1583年、賤ヶ岳の戦いで、勝家は秀吉に攻められ勝家、母は自害する。ちゃちゃら3人の娘は秀吉に保護された。1588年頃、秀吉の側室になる。1589年、山城・淀城に入り、淀殿、淀の方、淀の局と呼ばれた。同年、棄丸(鶴松)を産むが夭折した。1590年、秀吉の小田原攻めに同行した。1592年、文禄の役に肥前名護屋に赴く。1593年、大坂城で次男・秀頼を産み嫡子になり、権勢を振るう。1594年、菩提寺養源院を建立した。1598年、秀吉死後、遺言により秀頼と共に大坂城に入り、正室・北政所を凌ぐ。1615年、大坂の陣で豊臣方が敗れ、秀頼と共に自害する。49歳。
 秀吉の死後は秀頼の後見を果たした。父母の画像を高野山・持明院に納め、追善供養を行う。養源院を建立した。
◆木村 常陸介 安土・桃山時代の武将・木村 常陸介(きむら-ひたちのすけ、?-1595)。男性。名は重茲(しげこれ)、定光、重高、隼人正?。近江(滋賀県)佐々木の出とされる。父・定重(隼人佐)。豊臣秀吉に仕え、1583年、賤ケ岳の戦で、近江堂木山砦の守備大将を務めた。その功により、若狭の佐柿国吉城主になる。1584年、小牧・長久手の戦の後、1585年、越前府中城12万石を与えられ、1587年、九州攻め、1590年、小田原攻めでは武蔵岩付城攻撃をした。出羽仙北一揆平定にも功があった。1592年、文禄の役に活躍し、山城淀城18万石を与えられる。豊臣秀次の後見役を務めた。1595年、関白秀次事件に連座し、大門寺(茨木市)で自害した。血族も皆、切腹・梟首、処刑された。
 茶人として知られ、千利休の台子七人衆の一人に数えられた。
 墓は大門寺にある。
◆淀古城 現在の妙教寺墓地に続く東辺が、淀城(淀古城/古淀城)跡であり、納所(のうそ)平地より一段高くなっていた。
 室町時代後期、1478年、畠山政長(1442-1493)は山城国守護に就き、家臣・神保与三左衛門尉(?-?)は淀へ入部した。(『東院年中行事記』)。淀城(淀古城/古淀城)は畠山氏の郡代役所として築城されたとみられる。
 1504年、摂津国守護代・薬師寺元一(?-1504)は、細川政元(1466-1507)に謀反し淀城に立て籠もる。(『細川両家記』『実隆公記』)。元一は実弟・薬師寺長忠(?-1507)らに攻められ落城し、元一は捕われ自害に追われた。
 三好氏の台頭により、1559年旧8月、三好長慶(1522-1564)の命により細川氏綱(?-1564)が淀城主になる。(『細川両家記』)。1563年、氏綱は淀城で病死し、長慶の養子・三好義継(1549-1573)が新城主になった。(『細川両家記』)。義継が三好氏当主になり、淀城は松永久秀(1510-1577)の属城になる。三好三人衆と久秀の対立により、1566年、三人衆勢が淀城を攻めた。三人衆の一人・三好長逸(?-?)の臣・金子某が城主に任じられた。
 1568年、織田信長(1534-1582)が上洛後、淀城は織田軍により落とされる。1573年、将軍・足利義昭(1537-1597)が槇島城で挙兵し、呼応した三人衆の一人・岩成友通(?-1573)は淀城に立て籠もった。友通は細川藤孝(1534-1610)らの軍勢に攻められ敗死、落城する。
 安土・桃山時代、1582年、本能寺の変後、明智光秀(1528?-1582)は羽柴(豊臣)秀吉(1537-1598)との山崎の戦いに備え城を修築した。光秀は下鳥羽に本陣を置き、勝竜寺城・淀城を両翼にしている。光秀は秀吉に敗れた。 
 1588年、秀吉は淀城を支配し、羽柴秀長(1540-1591)を後見とし、細川忠興(1563-1646)を補佐として城を改築させた。人夫は5万人が徴用され、江北(滋賀県)の人夫により石垣が築かれたという。(『日本史』「下坂文書」)。秀吉は愛妾・茶々(淀殿、1567-1615)に城を産所として与えた。以後、茶々は淀殿(淀の方)と呼ばれる。淀殿は城内で鶴松(棄丸、1589-1591)を産む。なお、1593年に淀殿は大坂城二の丸で拾(ひろい、秀頼)を産んでいる。1594年、淀殿は秀頼とともに伏見城西の丸に移る。以後、淀城は衰微する。秀吉の死後、1599年に淀殿は秀頼とともに大坂城西の丸に入った。
 1592年、豊臣秀次(1568-1595)の後見役・木村常陸介(重茲、?-1595)が淀城主になっている。1595年に、常陸介は関白秀次事件に連座し、自害を命じられる。同年、淀城は廃城になった。
◆城の遺構・地名 古淀城の遺構としては、淀古城推定地の妙教寺南側にある納所川が堀跡とされている。
 納所の地名のうち「北城堀」・「南城堀」は堀跡とみられている。「薬師堂」は、岩成友通(?-1573)が淀城鎮護のために建てた堂宇があった地とみられている。城の鬼門除けとして、薬師如来が安置されていたともいう。 


年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 ウェブサイト「京都のいしぶみデータベース-京都市」、ウェブサイト「~文化財と遺跡を歩く~京都歴史散策マップ淀城 跡納所 水垂-京都市埋蔵文化財研究所」、『京都市の地名』、『淀納所の歴史』、ウェブサイト「古城址探訪」ウェブサイト「コトバンク」

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map 古淀城薬師堂趾・古淀城 〒612-8276 京都市伏見区納所薬師堂1-1
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