勧修寺 (京都市山科区) 
Kaju-ji Temple
勧修寺 勧修寺
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山門


築地塀、桜の頃




大玄関 軒唐破風 






山門と築地塀




中門


宸殿(京都市文化財)


宸殿、「明王殿」の扁額








書院(重文)


本堂(京都市文化財)


ハンゲショウ



ハンゲショウ


ガクアジサイ







五大堂
 山科・来栖野(くるすの)の勧修寺(かじゅうじ)は、通称として「かんじゅじ」「かんしゅうじ」「かしゅうじ」とも呼ばれている。山号は亀甲山(きっこうざん)という。
 真言宗山階(やましな)派の大本山。本尊は第60代・醍醐天皇の等身大という千手観音立像を安置する。
 門跡寺院のひとつ。
◆歴史年表 平安時代、900年、第60代・醍醐天皇が、生母・藤原胤子(いんし/つぎこ)追善のために、外祖父・宮道弥益(みやじ いやます)邸宅を寺と改めたという。開山は東大寺の承俊(しょうしゅん)律師による。寺号は、醍醐天皇の祖父・藤原高藤(たかふじ)の諡号により勧修寺とされた。高弟・済高が別当職に任じられる。藤原胤子は醍醐天皇のために御願堂、列子は宮道氏建立堂を建てた。(『勧修寺旧記』)。天皇の等身大の千手観音像を安置したという。
 延喜年間(901-923)、藤原高藤の子・定方は、勧修寺内に亡き母・宮道列子のために西堂を建立した。以来、寺は、高藤流(勧修寺流)藤原氏の氏寺になる。藤原氏一門の氏長者は西堂長者を兼務し管理した。(『勧修寺旧記』)
 902年、済高僧都が別当になり、定額寺となるともいう。
 903年、107口の高僧を請じ宸筆『法華経』を供養した。
 905年、承俊により勅願寺(定額寺とも)となる。年分度者を朝廷に願い出て真言宗声明業1人、三論集1人を許される。(『類聚三代格』)
 925年、藤原胤子追福のために、刺繍胎蔵界曼荼羅、宸筆『法華経』の供養を修した。
 942年、第59代・宇多天皇孫・大僧正雅慶(がけい)が本寺の長吏に補され、以後32世に渡り法親王が務めた。
 947年、六条斎宮柔子内親王が多宝塔を建立した。
 7世・寛信(1084-1153)により、真言小野流一派、観修寺流を創始し、後の山階派となる。
 天喜年間(1053-1058)、一部焼失している。
 1110年、8世・寛信が権別当になるともいう。(『勧修寺旧記』)
 鎌倉時代、第93代・後伏見天皇の第7皇子・寛胤(かんいん)法親王(1309-1376)が、15世として入寺した。法親王の長吏就任以来、近代まで門跡を迎え門跡寺院となる。(「勧修寺長吏次第」)
 南北朝時代、1336年、兵火を被る。
 1388年、足利義満は勧修寺八幡宮に田地を寄進した。
 室町時代、1470年、応仁・文明の乱(1467-1477)の勧修寺合戦により焼失している。
 安土・桃山時代、1592年、豊臣秀吉による伏見城築城の換地に応じなかったため、寺領が800石より600石に減じられた。伏見街道(後の東海道)設置により寺地は縮小され、その後衰退する。
 江戸時代、元禄期(1688-1703)、1682年とも、第29代・済深法親王(第112代・霊元天皇皇子)により中興された。以後、徳川家と皇室の援助により復興になる。
 1695年、寺領1000石余になる。
 1864年、32世・済範(さいはん)が還俗し、山階宮と称した。
 近代、1871年、江戸幕府の定めた三門跡制(宮門跡、摂家門跡、准門跡)は廃止になり、門跡の称号も廃された。
 1885年、旧門跡は復称をゆるされた。
 1936年、大石順教尼は、勧修寺境内に身体障がい者福祉相談所「慈鏡苑」を建てる。「自在会」を設立し、女性を収容する。
 1947年、順教尼は、「自在会」を改め宗教法人「佛光院」を設立した。
 現代、1965年、順教尼は、勧修寺境内に「可笑庵」を建立した。
 1968年、順教尼は「可笑庵」で亡くなる。
◆藤原胤子 平安時代前期の第59代・宇多天皇の女御・藤原胤子(ふじわら の いんし/つぎこ、?-896)。父は内大臣・藤原高藤、母は宇治郡司・宮道弥益(いやます)の娘・列子(れっし)。鷹狩りに出た高藤が、列子と一夜をともにして生まれたという。(『今昔物語』)。884年頃、第58代・光孝天皇の第7皇子・源定省と結婚。885年、長男・維城(のち敦仁、第60代・醍醐天皇)を産む。887年、夫が皇族復帰し即位する(宇多天皇)。888年、更衣。892年、従四位下に叙され女御の宣旨を受けた。子・敦仁親王の立太子後、同年亡くなる。
 897年、醍醐天皇の即位により皇太后を追贈。勧修寺流の実質的創設者になる。小野陵に葬られた。
◆承俊 平安時代の真言宗の僧・承俊(しょうしゅん、?-906)。興福寺で出家し、東大寺で法相、唯識、密教を学ぶ。威儀師、大威儀師、律師となる。貞観寺の僧、904年、勧修寺開山。
◆宮道弥益
 平安時代前期の豪族・宮道弥益(みやじ の いやます、生没年不詳)。山科栗栖野(山科区)に住む。山城宇治郡の郡司。882年、従五位上、主計頭(かずえのかみ)。娘・列子が藤原高藤に嫁ぐ。884年頃、その娘・胤子(いんし)が第59代・宇多天皇女御になり、885年、第60代・醍醐天皇を産む。以後、外戚として栄え、宮内大輔(たいふ)に昇った。
 900年、醍醐天皇が母のために居宅を勧修寺に改めた。近くに氏神社の宮道神社がある。
◆宮道列子 平安時代前期-中期の女性・宮道列子( みやじ の れっし、?-907)。山城宇治郡の郡司・宮道弥益の娘。藤原高藤の妻となり、胤子(いんし)、定国、定方らを産む。884年頃、その娘・胤子(いんし)が第59代・宇多天皇女御になり、885年、第60代・醍醐天皇を産む。列子は天皇の外祖母となる。従三位、没後、贈正一位
◆寛信 平安時代後期の真言宗の僧・寛信(かんしん/かんじん、1084-1153)。父は参議藤原為房、勧修寺法務とも称された。東大寺覚樹に三論教学を学び、勧修寺厳覚により真言宗小野流の奥義を受けた。1110年、勧修寺別当となり、法華八講の整備をする。1122年、西堂の法華八講のために八口の聴衆を置く。1134年、南都三会已講(さんえいこう)の功により、権少僧都、権大僧都となる。東寺長者・法務、東大寺別当を歴任した。著『小野類秘抄』『伝』。
◆寛胤法親王  鎌倉時代-南北朝時代の寛胤法親王(かんいん ほうしんのう、1309-1376)。第93代・後伏見天皇の第7皇子。第17代・長師吏として真言宗勧修寺に入る。1328年、教寛から灌頂をうける。1337年、長吏となり東大寺別当を兼務、親王となる。東大寺別当は2度務めた。
◆山階宮晃親王 江戸時代-近代の皇族・山階宮晃親王(やましなのみや あきら しんのう、1816-1898)。京都生まれ。伏見宮邦家親王の第一王子。母は藤木寿子。王子に山階宮第2代・菊麿王。1817年、門跡寺院・勧修寺を相続した。1824年、出家、済範(さいはん)入道親王と称した。1841年、叔母・幾佐宮隆子女王と出奔した不祥事により、1842年、第119代・光格天皇養子・二品親王・勧修寺門跡の地位停止、伏見宮より除籍される。以後、幽閉状態になる。1864年、徳川慶喜らが還俗を第121代・孝明天皇に願う。伏見宮に復し、復飾、山階宮の宮号を賜った。その後、国事御用掛、明治維新後は議定(ぎじょう、外国事務総督)を担う。第122代・明治天皇側近となる。1886年、大勲位菊花大綬章受賞。
◆真言小野流 真言密教の真言小野流は、広義には醍醐寺・聖宝より起きた流派であり、聖宝を始祖(元祖)、仁海は流祖とする。聖宝の後、観賢、仁海、成尊と続く。その後、範俊、義範で2流に分かれ、後に、さらに3流ずつに分かれた。流派により事相(じそう)といわれる行法(灌頂、護摩、観法など)の実践が異なる。口頭で教義などを伝授する口伝為本(くでんいほん)とした。
 真言小野流とは、狭義には根本6流、また、随心院流のみとされる。また、狭義の小野流として「小野三流」があり、「勧修寺三流」(随心院流、安祥寺流、勧修寺流)とされる。広義の小野流として「小野六流」があり、これに「醍醐三流」(三宝院流、理性院流、金剛王院流)が加わる。
 別流として、仁和寺を中心とした洛西の広沢流がある。小野流、広沢流の両流を合わせて「野沢(やたく)十二流」と呼ばれた。野沢もまたさらに36流、100流ほどに分かれた。
◆宮道氏 この地、山科の来栖野は、豪族・宮道(みやじ)氏の勢力地になっていた。宿禰(すくね)姓の宮道氏は、平安時代、835年、宮道吉備麻呂・宮道吉備継らが朝臣姓を賜っている。
 宇治郡大領だったという宮道弥益の娘(妹とも)・列子(れっし/たまこ)は、内大臣・藤原高藤夫人になり、藤原胤子(宇多天皇女御)らを産んだ。胤子は、醍醐天皇の母となった。
◆仏像 本尊の千手観世音菩薩は、醍醐天皇の等身大(五尺三寸、160cm)といわれ、天皇の自作という。
◆亀甲山 山号の亀甲山には伝承がある。この地を訪れた渤海国(698-926)の使者が、山相が亀甲の様であるとして、仏法隆盛の聖地とした。後代、第60代・醍醐天皇(885-930)は、この予言に基づき号を亀甲山としたという。
◆建築 表門、宸殿、書院、五大堂、本堂、観音堂、玄関・庫裏、舞鶴亭などが建つ。
 「宸殿」(京都市文化財)は、江戸時代、1697年に、明正院(めいしょういん)の旧御所から移築された。旧御対面所になる。「明正殿」とも呼ばれる。近代以降、1872年、勧修寺村立組合小学校としても使われた。上段の間(一の間)に床、棚、付書院を持つ。正面に山階宮晃親王筆の額がかかる。二の間、三の間が一列に並ぶ。中央に階段が設けられている。入母屋造、桟瓦葺、寝殿造風。
 「書院」(重文)は、江戸時代、1686年(1697年とも)の移築と見られている。京都御所の建物を前身としており、その部材により再建された。前身とされる建物は、1676年の明正院御所、1752年の桜町院御所の御書院(その前身は1709年の霊元院御所)など諸説ある。1697年の墨書が見つかったことから、この年に何らかの工事が施された。違棚「勧修寺棚」のある上の間(一の間、門跡御座所)、床のある二の間、広間(対面所)、柳の間(私室)などがある。北入側の萩の間、住吉の間に金地極彩色の障壁画で飾られている。一重、入母屋造、杮(こけら)葺。
 「本堂」(市指定文化財)は、江戸時代、寛文年間(1661-1671)に、28世・寛俊大僧正が第112代・霊元天皇の仮内侍所を移築している。「御願堂」とも呼ばれた。入母屋造、桟瓦葺。
◆法華八講 かつて、宮中の儀式に準じたという「法華八講」が開かれていた。『法華経』8巻を8座に分け、1日に朝夕2座講じ、4日間で完了する法会をいう。
◆今昔物語集
 平安時代末の説話集『今昔物語集』(巻22第7)には、寺の創建にまつわる逸話が載せられている。
 857年、後の内大臣・藤原高藤が、南山階(山科)の鷹狩の際に、栗栖野で申の刻に雷雨に見舞われる。雨宿りに偶然立ち寄った大領(たいりょう、郡司、後の四位修理大夫)・宮道弥益の屋敷で、一夜を過ごすことになる。高藤は、酒肴を運んできた弥益の美しい娘・列子(たまこ)に惹かれ契りを結ぶ。高藤は15-16歳、列子は13-14歳ただったという。高藤は、形見の太刀だけを残して屋敷を去る。
 父・良門に狩を禁じられた高藤は、6年後、父没後に弥益の屋敷を再訪する。列子の傍らに幼い娘がいた。高藤の子・胤子だった。列子は、高藤との再会を待ちわびていた。母子は京都に招かれ、高藤とともに暮らすことになる。
 胤子は、後に第59代・宇多天皇妃となり、醍醐天皇を産む。以後、高藤も、宮道家も昇階し栄えたという。列子は、「たまこ」とも呼ばれ、「玉の輿に乗る」という言葉の語源になったともいわれている。
源氏物語 平安時代中期の女性作家、歌人・紫式部(978?-1016?)は、藤原高藤の玄孫(げんそん、5世、式部の祖母が列子次男・定方の娘)のため、寺は、式部、『源氏物語』ゆかりの史跡のひとつとされている。
 『源氏物語』第13帖「明石」巻は、藤原高藤と列子の逸話に着想を得たといわれている。  
◆文化財 「刺繍釈迦如来説法図」(国宝)(奈良国立博物館蔵)は、勧修寺繍帳ともいう。
 鎌倉時代の「蓮花蒔絵経筥(紺紙金泥大日経等13巻入)」1箇(重文)、平安時代の伝・空海筆の紙本墨書「仁王経良賁疏」3帖。
◆障壁画 書院の広間の金地濃彩「近江八景図」は、江戸時代初期の土佐派の土佐光佐筆(狩野派とも)という。
 書院上の間(上段の間)に、同じく金地極彩「龍田川紅葉図」。土佐光成筆ともいう。
◆庭園 京都市指定「名勝」の「勧修寺氷室園」庭園は、氷室(ひむろ)池を中心とした池泉舟遊式庭園になっている。池越しに南に南大日山、東に醍醐の山を望む借景庭園であり、近景の平庭、中庭の庭園、遠景の借景と三つの景観により構成されている。翠微瀑があり、660㎡の広さがある池には、三つの中島、緑鴨洲、集仙島、方壷島、白花渚が造られている。苑路に洗珠橋、渡猿橋、木欄橋などが架かる。名石の月桂石、臥牛石、仙人石などがある。
 庭園は、平安時代の遺構とされ、京都では最も古い形式を伝えている。ただ、室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で失われ、江戸時代、貞享年間(1684-1688)に、沙門祖音が古図により、復元されたともいう。豊臣秀吉は、醍醐三宝院の作庭に際して、当寺より多くの庭石を運ばせたともいう。
 池では平安時代、1月2日、池に張った氷を宮中に献上し、張った氷の厚さにより五穀豊穣を占っていたという。また、延喜年間(901-923)、延喜式の「栗栖野氷室池」として、196か所中で随一と謳われたともいう。ただ、この地は宇治郡であり、異説もある。
 書院前庭は、平庭になっており、氷室池、借景としての山を望むことが出来る。また、名木のハイビャクシン、「臥竜の老梅」、水戸光圀(1628-1700)寄進と伝える石灯籠「勧修寺型灯籠」は、竿は二脚、間が抜かれている。中台、火袋を大きな笠石が覆う。高さ2m。徳川家から贈られた貝型手水鉢「半月水盤」などが配されている。水盤は、書院の天井や障子に月を写す趣向になっていた。
◆茶室 昭和期(1926-1989)建立の茶室「舞鶴亭」がある。
◆鳥 氷室池では、ゴイサギ、シラサギ、カルガモ、カワセミ、マガモ、コガモなどを見ることができる。
◆樹木・花暦 書院の前庭には、ヒノキ科イブキの変種、樹齢750年というハイビャクシン(這柏槇)がある。日本原産の匍匐性の低木で、ソナレ(磯馴)、イワダレネズ(岩垂杜松)の別名もある。
 「臥竜の老梅」は、樹齢300年といわれ、江戸時代、京都御所から移された白梅という。親は根が残り、子は枯れ木、孫は今も花を付け3代が一つになった木という。
 「花の寺」と呼ばれている。江戸時代以来、桜の名所になっていた。現在も、枝垂桜、染井吉野、山桜などが植えられている。
 そのほか、梅、馬酔木(3月初旬)、杜若(5月中旬)、藤(5月上旬-中旬)、花菖蒲(6月)、睡蓮(6月上旬-7月上旬)、泰山木(6月-7月)、蓮(7月中旬-8月中旬)、椿、ドウダンツツジ、サルスベリ(7月-9月)、サンシュユ(8月-9月)、槿、モッコク、ハゼ、嵯峨菊、山茶花、イチョウ(11月上旬-12月上旬)、楓(11月上旬-12月上旬)、南天など四季折々に楽しむことができる。
◆年間行事 先師忌(9月29日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都で建築に出会う』『京都古社寺辞典』『洛東探訪』『京都府の歴史散歩 中』『京都の寺社505を歩く 下』『京都大事典』『無手の法悦』『マンガ 祖母さまのお手々はだるまのお手々』『京都の地名検証』『昭和京都名所図会 6 洛南』『京都 神社と寺院の森』


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観音堂、昭和期建立

観音堂の鳳凰

観音堂、観音菩薩像

弁天堂

翠微瀑


翠微瀑


庭園「氷室池」、山が借景となっている。広さは6600㎡。初夏には蓮が咲く。カワセミ、カルガモ、白鷺なども生息する。

氷室池には、緑鴨洲(右)、集仙島(左)、方壷島、白花渚などが造られている。

観音堂の近くに、月桂石、臥牛石、仙人石などが置かれている。

勧修寺形石灯籠

ハイビャクシン(這柏槙)樹齢750年という。

臥竜の老梅

半月水盆、書院前にある。

修行大師尊像、平安時代初期の僧、弘法大師空海(774-835)、日本真言宗の開祖。西国四十八箇所巡りができる。

樹齢350年のヤマモモ

境内に植えられているサネカズラ、サネカズラ(実葛)は、マツブサ科の常緑つる性木本。ビナンカズラ(美男葛)の別名は、かつてツルの皮を剥いで、水を加えた粘液を整髪料に使っていたためという。「小倉百人一首」 25番に、三条右大臣(藤原定方)の歌「名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」(「後撰和歌集」、701)がある。藤原定方(さだかた、873-932)は、平安時代前期・中期の公家・歌人で、内大臣・藤原高藤の次男、三条右大臣と号した。

醍醐の山並み

【参照】境内北部にある宮道列子の墓
山科西野山中臣町。列子(れっし、?-907)は宮道弥益(いやます)の娘(妹とも)。内大臣・藤原高藤の妻となり、藤原胤子( いんし、たねこ、? -896)を産んだ。
 勧修寺 〒607-8226 京都市山科区勧修寺仁王堂町27-6  075-571-0048  9:00-16:00
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