宮道神社 (京都市山科区)
Miyaji-jinja Shrine
宮道神社 宮道神社 
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手水舎


手水舎






本殿覆屋



本殿覆屋



本殿







三条右大臣(藤原定方)の歌碑、「名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」

勧修寺門跡・筑波常遍(つくば じょうへん、1935-)の歌碑、「清みましし御祖のことも偲ばれん永久に静まる宮道の社」、2007年


勧修寺に植えられているサネカズラ
 宮道神社(みやじ-じんじゃ)は、勧修寺の南に隣接している。「宮道大明神」、「二所大明神」ともいわれた。 
 祭神は、宮道氏の祖神・日本武尊(やまとたけるのみこと)、その子・雅武王(わかたけおう)を祀る。後に、勧修寺所縁の宮道弥益、その妻・大宅氏、列子、藤原高藤、藤原定方、胤子を合祀した。
 『延喜式』神名帳の「山科二座」ともいう。
◆歴史年表 平安時代、898年、宮道氏により建立された。宇治郡(京都市、宇治市)を本拠にする古代豪族・宮道氏の氏神になる。
 江戸時代、1665年、勧修寺所縁の藤原高藤、藤原定方らを合祀した。
 近代、1890年、現在の本殿が再建されている。
 現代、2000年、5月、社殿の再整備、由緒碑が新設される。
◆宮道弥益 平安時代前期の豪族・宮道弥益(みやじ-の-いやます、?-?)。山科栗栖野(山科区)に住む。山城宇治郡の郡司。882年、従五位上、主計頭(かずえのかみ)。娘・列子が藤原高藤に嫁ぐ。884年頃、その娘・胤子(いんし)が第59代・宇多天皇女御になり、885年、第60代・醍醐天皇を産む。以後、外戚として栄え、宮内大輔(たいふ)に昇った。
 900年、醍醐天皇が母のために居宅を勧修寺に改めた。近くに氏神社の宮道神社がある。
◆宮道列子 平安時代前期-中期の女性・宮道列子(みやじ-の-れっし、?-907)。山城宇治郡の郡司・宮道弥益の娘。藤原高藤の妻となり、胤子(いんし)、定国、定方らを産む。884年頃、その娘・胤子(いんし)が第59代・宇多天皇女御になり、885年、第60代・醍醐天皇を産む。列子は天皇の外祖母となる。従三位、没後、贈正一位
◆藤原定方 平安時代前期-中期の公家・官人・歌人・藤原定方(ふじわら-の-さだかた、873-932)。内大臣・藤原高藤の次男。母は宮道弥益の娘・列子。姉か妹に胤子(いんし)。娘・仁善子(三条御息所)は、醍醐天皇の女御、藤原実頼の妻になる。892年 、内舎人になる。902年 、 内裏菊合に参加した。906年、従四位下参議右中将、909年、参議、913年、従三位中納言になる。亭子院歌合に参加した。919年、右大将、920年 、大納言、921年、正三位、923年、東宮傅兼任。924年、右大臣になる。926年、従二位(公卿補任)に叙せられた。60歳。
 932年、没後、従一位を追贈される。8月1-4日には、定方の忌日として勧修寺で法華八講が営まれていた。
 邸が三条坊門小路北面にあり、三条右大臣と呼ばれる。醍醐天皇の外家として権勢を振るう。歌人として歌集『三条右大臣集』がある。『後撰集』『新千載集』に採られた。藤原兼輔、紀貫之、凡河内躬恒らと交流した。管弦の名手としても知られた。
 墓所は、勧修寺(山科区)、鍋岡山麓(山科区)ともいう。
◆藤原高藤
 平安時代前期の公家・藤原高藤(ふじわら-の-たかふじ、838-900)。号は小一条内大臣、勧修寺内大臣。 公卿・歌人・藤原冬嗣の孫・良門の子。母は高田沙弥麻呂の娘・春子。右近衛将監、865年、六位蔵人、美濃権大掾を経て、868年、従五位下に叙せられる。右兵衛権佐、左近衛少将、兵部大輔などを歴任した。887年、娘・胤子の夫・源定省(第58代・光孝天皇の皇子)が皇族に復帰し、第59代・宇多天皇に即位した。高藤は正五位下に叙せられる。890年、正五位上従四位下、893年、宇多天皇と胤子との間の皇子・敦仁親王の立太子を受け、894年、高藤は三階級の昇叙により従三位に叙せられ公卿に列した。895年、参議になる。897年、第60代・醍醐天皇(敦仁親王)の即位により高藤は正三位・中納言に叙任された。899年、大納言に至る。参議昇進後は播磨権守・近江守と地方官を兼帯した。900年、平安時代初の内大臣(公卿補任)に任じられる。63歳。死後、正一位・太政大臣が追贈された。
 正妻・宮道列子との間の子に、胤子、定国、定方、満子がある。大江乙平女との間に定文がある。高藤は外祖父として重要視された。『今昔物語集』に、宮道弥益の娘・列子との逸話が描かれている。後の高藤流の藤原氏は勧修寺家(流)と呼ばれた。
 墓は、小野墓(高藤墓)が山城国宇治郡小野郷にあるという。鍋岡に葬られたともいう。
◆藤原胤子 平安時代前期の第59代・宇多天皇の女御・藤原胤子(ふじわら-の-いんし/つぎこ/たねこ、?-896)。父は内大臣・藤原高藤、母は宇治郡司・宮道弥益(いやます)の娘・列子(れっし)。鷹狩りに出た高藤が、列子と一夜をともにして生まれたという。(『今昔物語』)。884年頃、第58代・光孝天皇の第7皇子・源定省と結婚する。885年、長男・維城(後の敦仁、第60代・醍醐天皇)を産む。887年、夫が皇族復帰し即位する(宇多天皇)。888年、更衣。892年、従四位下に叙され女御の宣旨を受けた。子・敦仁親王の立太子後、同年亡くなる。21歳。
 897年、醍醐天皇の即位により皇太后を追贈される。勧修寺流の実質的創設者になる。
 小野陵(山科区)に葬られた。
◆宮道氏 宮道氏(みやじし)は、日本の氏族の一つ。発祥地は三河国宝飯郡宮道郷ともいう。諸説あるが、饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖とする物部守屋の後裔ともいう。山城国宇治郡を本拠とした宿禰(すくね)姓(かばね)の宮道氏が知られていた。平安時代、835年、宮道吉備麻呂、宮道吉備継らが朝臣姓を賜っている。
 宇治郡大領(郡司)という平安時代前期の官人・宮道弥益(いやます、?-?)の娘(妹とも)・宮道列子(れっし、?-907)は、内大臣・藤原高藤の妻となり、藤原胤子(いんし/たねこ、?-896)を産んだ。
 胤子は、第59代・宇多天皇女御になり、第60代・醍醐天皇らを産み、宮道氏は天皇家の外祖父として栄えた。
 その後も、宮道氏は、武家・寺家蜷川氏(蜷川氏)として、藤原高藤家は勧修寺流藤原氏として朝廷に仕えたという。
◆歌碑 三条右大臣(藤原定方)の歌碑がある。『小倉百人一首』 25番、「名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな」(『後撰和歌集』、701年)
 「逢坂山」に「逢う」、「さねかずら」に「さね(寝)」、「くる」に「ツルが繰(く)る」「来る(行く)」がそれぞれ掛詞になっている。逢坂山のサネカズラがツルを延ばすように容易に、人に知られることなく、あなたのもとへ行くことができたらいいという恋歌となっている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献・資料 案内板、案内碑、『京都・山城寺院神社大事典』、『京都大事典』 、『山科事典』、『京都山科 東西南北』 、ウェブサイト「コトバンク」


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宮道神社 〒607-8226 京都市山科区勧修寺仁王堂町17-1 
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