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大宅寺 (京都市山科区) Daitaku-ji Temple |
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大宅寺 | 大宅寺 |
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![]() ![]() 本堂・庫裏 ![]() ![]() ![]() 五輪塔 ![]() |
京都橘大学の北、旧大宅村に大宅寺(だいたくじ/おおやけじ)がある。平安時代の大宅寺(おおやけじ)の後身とも、関わりがあるともいう。ただ、確証はない。「大屋寺」ともいわれた。 曹洞宗。本尊は十一面観音立像を安置する。 ◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。 平安時代、宇治郡大領・宮道弥益(みやじの-いやます、?-? )の妻(大宅氏)が、大宅寺を建立したともいう。(『今昔物語』)。その後、衰微する。 江戸時代、1695年/元禄年間(1688-1704)、曹洞宗の僧・月坡(げつは)上人が再建したともいう。 1702年、「大宅寺」と記されている。(『山州名跡志』) 1780年、「曹洞宗月坡(がっぱ)和尚一宇を建て大宅寺と号す」と記されている。(『都名所図会』) 1787年、『拾遺都名所図会』にも記されている。 近代、1868年、荒廃した。 1905年、明石博高、竹中大心和尚により復興された。 ◆宮道 弥益 平安時代前期の豪族・宮道 弥益(みやじの-いやます、?-?)。男性。山科栗栖野(山科区)に住む。山城宇治郡の郡司。882年、従五位上、主計頭(かずえのかみ)。娘・列子が藤原高藤に嫁ぐ。884年頃、その娘・胤子(いんし)が第59代・宇多天皇女御になり、885年、第60代・醍醐天皇を産む。以後、外戚として栄え、宮内大輔(たいふ)に昇った。 900年、醍醐天皇が母のために居宅を勧修寺に改めた。近くに氏神社の宮道神社がある。 ◆月坡 道印 江戸時代前期-中期の曹洞宗の僧・月坡 道印(がっぱ/げつは-どういん、1637-1716)。詳細不明。男性。大津(滋賀県)の生まれ。号は老臥仏。隠元等に学ぶ。永平寺の書記。和泉・蔭凉寺の鉄心道印に師事した。法嗣の竜睡愚穏の法をつぐ。加賀・献珠寺、常陸・天徳寺、加賀・天徳院の住持。詩作に優れた。語録『月坡禅師語録』。 ◆墓 本堂後方に、江戸時代の「宮道弥益夫妻墓」とされる小五輪塔2基があったという。江戸時代の『拾遺都名所図会』(1787)には記されていた。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『昭和京都名所図会 6 洛南』、『京都の地名検証 2』、『京都大事典』、『山科の歴史を歩く』、 『山科事典』、ウェブサイト「京都市山科区役所 やましなを歩く奈良街道3」 、ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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