五輪塔・曼荼羅寺跡 (京都市伏見区)  
Gorinto (gravestone)
五輪塔・曼荼羅寺跡 五輪塔・曼荼羅寺跡
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五輪塔




地蔵尊
 醍醐天皇後山科陵の南東に小さな公園(大高町南部緑地)がある。園内に五輪塔と地蔵尊が安置されている。
 五輪塔は、平安時代の仁海僧正が建てた曼荼羅寺に関わりがあるという。
◆歴史年表 平安時代、991年、仁海僧正が現在地の北、醍醐天皇後山科陵(醍醐古道町)の東側に曼荼羅寺を建立した。
 その後、跡地を示すために五輪塔を立てたという。
 江戸時代、1615年、陵周辺の農民が、虫供養のために「鐘講」を組織した。古塔の残存石に新石を修補し、五輪塔を再建したという。
 現代、1964年頃、醍醐北団地の造成工事に伴い、五輪塔は現在地(醍醐大高町)に遷された。
◆仁海 平安時代中期の真言宗の僧・仁海(にんがい/にんかい、951/954-1046)。俗姓は宮道、通称は小野僧正、雨僧正。和泉国の生まれ。父は宮道惟平。7歳から、高野山・雅真(がしん)に師事し得度した。990年、醍醐寺・元杲(げんこう)に灌頂を受けた。991年、山城に曼荼羅寺(随心院の前身)を開く。1018年、畿内大旱魃で勅命により、神泉苑での祈雨法を修した。霊験あり、権律師に任じられる。1023年、藤原道長らを高野山登山に導き支援を得て高野山を復興した。東寺の二の長者になる。 1029年、東大寺別当。1031年、東寺長者に任じられる。1038年、僧正に任命された。長元年間(1028-1037)に2度、長久年間(1040-1044)に4度など、9回の祈雨の効験があった。雨僧正・雨海僧正と呼ばれ、宋にも伝わる。「胎蔵界礼懺」の撰者、著『小野六帖』など。96歳。
 醍醐寺の修験僧であり、稲荷山でも行した。宮門を輦車に乗ったまま出入りすることを許された。弟子も多く、成尊、覚源、真覚などがいる。真言宗小野流の祖になる。
◆五輪塔・虫供養 平安時代、991年に仁海僧正は、醍醐天皇後山科陵(醍醐古道町)の東側に曼荼羅寺を建立した。その後、跡地を示すために五輪塔が立てられたという。
 江戸時代、1615年に陵周辺の農民が、虫供養のために釣鐘講を作った。五輪塔古塔の残存石に、新石を修補し五輪塔を再建したという。
 現代、1963年頃まで、8月14日の夜には、五輪塔に僧侶は経を上げ、鐘鈷を叩き虫供養を行っていた。1964年頃、醍醐北団地造成工事に伴い、五輪塔は現在地(醍醐大高町)に遷され安置された。
 なお、醍醐北団地造成工事に伴い、奈良時代前期に創建された小野廃寺の遺構は全壊したという。現在の醍醐大高町、片山町、古道町付近にあった。礎石、瓦などが出土していたという。
◆曼荼羅寺 平安時代中期に仁海は、山科に牛皮山曼荼羅寺を創建したという。
 逸話がある。仁海の夢に亡くなった母が現れた。母は鳥羽辺りの赤牛と化していた。仁海は輪廻を信じており、牛は母の転生と悟った。1頭の牛を買い求め連れ帰った。牛になった母への孝養を尽くして大切に飼う。ほどなくして牛は死んだ。
 その後、牛の皮を剥いで鞣(なめ)し、両界曼荼羅を描き本尊にした。これは、印度の聖牛思想の慣わしによるという。その後、一宇を築き曼荼羅寺とした。また、牛の尾を背後の山上に埋めて菩提を弔った。山は牛尾山と呼ばれたという。山号も牛皮山(ぎゅうひざん)としたという。(『密宗血脈抄』)
 後に、曼荼羅寺の塔頭(子房)として随心院(山科区)が建立されている。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献・資料 五輪塔愛護会の説明板、『老人が子等に語る伏見風土記第一集伏見風土記』『山科の歴史を歩く』 、ウェブサイト「コトバンク」


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京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 五輪塔・曼荼羅寺跡 〒601-1311 京都市伏見区醍醐大高町
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