|
|
勧修寺宮墓地 (京都市山科区) Cemetery of Kanjuji-miya (Prince) |
|
勧修寺宮墓地 | 勧修寺宮墓地 |
![]() ![]() |
![]() ![]() |
![]() 南谷橋 ![]() 山裾の参拝道 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「霊元天天皇皇子 済深法親王御墓」の石標 ![]() ![]() 尊孝入道親王墓 ![]() 山階宮晃親王髪歯塔 ![]() 周囲の竹林 ![]() 北に隣接して立つ歴代墓 ![]() 「済深親王御生母典侍局之墓」 ![]() 宝篋印塔の合葬墓 ![]() 歴代の無縫塔 ![]() |
府道35号を南西に外れ細い参道を辿ると、山裾の竹林の中に勧修寺宮墓地(かんじゅじ みや ぼち)はある。 江戸時代-近代の勧修寺に関わった3人の親王が葬られている。 ◆歴史年表 江戸時代、1701年、12月2日、済深親王が亡くなった。 1748年、2月27日、尊孝親王が亡くなる。 近代、1898年、2月17日、山階宮晃親王が亡くなった。 ◆済深法親王 江戸時代前期の済深法親王(さいしん-しんのう、1671-1701)。寛清、通称は一宮。第112代・霊元天皇の第1皇子、母は小倉実起の娘。1682年、11歳で勧修寺に入寺し、親王宣下、得度した。勧修寺32代長吏になる。1688年、17歳で東大寺179代別当も務め、大仏殿再建に尽力した。木作始規式を執行した。1689年、聖武天皇像を開眼する。1692年、再建した大仏の開眼導師を務めた。1695年、大勧進公慶と大仏殿再建について幕府と協議する。第109代・明正天皇御殿の賢所旧殿を移し、東南院に東大寺東照宮を創建する。大仏殿落慶を見ることなく没した。一身阿闍梨に補せられ二品に叙された。32歳。 東大寺・大仏殿再建の功により勧修寺寺領1012石に加増される。本堂、宸殿、書院などが第112代・霊元天皇、第109代・明正天皇により下賜された。 墓は勧修寺墓地(山科区)にある。 ◆尊孝入道親王 江戸時代前期-中期の尊孝入道親王(そんこう-にゅうどうしんのう、1702/1701-1748)。俗名は栄懐。幼称は静宮、数(員)宮。邦永親王の第4王子。1702年、勧修寺を相続する。1713年、第112代・霊元天皇の養子になり、親王になる。同年、勧修寺に入寺、得度した。勧修寺第33代長吏になる。三論宗を学ぶ。潤海に真言宗を学ぶ。1722年、東南院門跡を兼帯した。1723年、東大寺181代別当になる。1748年、灌頂、二品に叙される。48歳。 叔母の徳川吉宗正室・真宮理子(さなのみや まさこ)の縁により、紀州国100寺が勧修寺末寺になる。 墓は勧修寺墓地(山科区)にある。 ◆山階宮晃親王 江戸時代後期-近代の皇族・政治家・山階宮晃親王(やましなのみや-あきら-しんのう、1816-1898)。幼名は静宮(しずのみや)。初名は清保(きよやす)、法号は済範。伏見宮邦家親王の第1王子。母は藤木寿子。1817年、2歳で勧修寺門跡を相続し、1823年、光格上皇(第119代)の養子になり親王宣下を受けた。1824年、8歳で得度し済範(さいはん)に改めた。勧修寺を相続する。1829年、東大寺186代別当。1841年、叔母・幾佐宮隆子女王と西国に出奔する。1842年、伏見宮家から追放される。親王・門跡を剥奪され、東寺院家・真性院で蟄居に処せられる。1858年、許され、勧修寺に帰住する。1863年、島津久光ら公武合体派は、親王の政治参画を求め、第121代・孝明天皇に還俗を願い出た。1864年、勅命により還俗を許された。山階宮の宮号を与えられ、親王宣下を受ける。晃に改め、国事用掛に任命された。1866年、延臣による二条斉敬、朝彦親王罷免、諸侯会議の開催を求める列参奏上を支持した。このため、蟄居に処せられた。1867年、許され、王政復古の政変の後、議定に就任する。外国事務総督、後に外国事務局督を兼任した。1868年、免ぜられる。東京遷都に反対する。1871年、華族東京在住奨励後も、1877年、京都転居が認められた。83歳。 第122代・明治天皇の名代を務めた。篤く仏教信仰する。酒、茶道、琵琶に親しむ。茶会、歌会を催した。茶舗老舗「一保堂」を命名した。2代に菊麿王(きくまろおう)がいる。 墓は泉涌寺塔頭・雲龍院(東山区)にある。還俗前の晃親王が済範親王として勧修寺長吏を務め、髪歯塔は勧修寺墓地(山科区)にある。 ◆陵墓 済深法親王墓の無縫塔、尊孝入道親王墓(北西)の五輪塔、山階宮晃親王髪歯塔(はっしとう)(北東)の宝塔がある。 北に隣接して歴代など12基の五輪塔、無縫塔、宝塔などが立つ。周辺の山中にも5基、宝篋印塔の合葬墓1基がある。主なものとして、智範、海寂、覚阿、宥匡、済深親王母・典侍局、真弁、闊海、栄照、永愿?などの名がある。 ❊原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 ❊参考文献・資料 ウェブサイト「城とか陵墓とか」、『写真集 近代皇族の記憶』、ウェブサイト「神殿大観」、ウェブサイト「親王家総覧」ウェブサイト「コトバンク」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() |
|
![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() |
![]() |
|