藤原胤子小野陵 (京都市山科区)  
Imperial mausoleum of Empress Dowager Fujiwara no, Inshi
藤原胤子小野陵 藤原胤子小野陵
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「醍醐天皇御母小野陵」の石標







 大日(だいにち)山の南側中腹に、藤原胤子小野陵(ふじわら の いんし おの の みささぎ)はある。すぐ南には名神高速道路が通じている。
 「藤原胤子陵」、「宇多天皇皇后 藤原胤子 小野陵」、「醍醐天皇御母 小野陵」とも称されている。
◆歴史年表 平安時代、896年、6月30日(新暦8月12日)、藤原胤子は亡くなる。(『日本紀略』『中右記』)
 897年、12月8日、忌日が国忌になった。御陵は「十陵の一」になった。(『日本紀略』)
 908年、12月24日、荷前使(のさきのつかい、年末に荷前の繊維製品[荷前の幣] を特定の陵墓に頒[わ] け献じる)が発遣された。
 931年、12月19日、荷前使が発遣された。(『禎信公記』)
 947年、12月20日、荷前使が発遣される。(『九条殿記』)
 985年まで、「十陵四陵」に入る。(『日本紀略』)
 中世(鎌倉時代-室町時代)、荒廃した。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、老松1本のみがあり、「護神松塚」とも呼ばれていたという。
 江戸時代、1754年、西之山村の西、山中にあり「狐塚」と呼ばれていた。(『山城名跡巡行誌』)
 近代、明治期(1868-1912)、陵は修復されている。
◆藤原胤子 平安時代前期の第59代・宇多天皇の女御・藤原胤子(ふじわら の いんし/つぎこ、?-896)。父は内大臣・藤原高藤、母は宇治郡司・宮道弥益(いやます)の娘・列子(れっし)。鷹狩りに出た高藤が、列子と一夜をともにして生まれたという。(『今昔物語』)。884年頃、第58代・光孝天皇の第7皇子・源定省と結婚する。885年、長男・維城(後の敦仁、第60代・醍醐天皇)を産む。887年、夫が皇族復帰し即位する(宇多天皇)。888年、更衣。892年、従四位下に叙され女御の宣旨を受けた。子・敦仁親王の立太子後、同年亡くなる。21歳。
 897年、醍醐天皇の即位により皇太后を追贈される。勧修寺流の実質的創設者になる。
 小野陵(山科区)に葬られた。
◆御陵 陵は大日(だいにち)山の南側中腹に南面している。円墳が築かれている。
 『延喜式』に小野陵は山城国宇治郡小野郷にあり、陵戸(りょうこ/みささぎべ、陵守の世襲の古代賤民)五烟とある。方10町の陵域があったという。


原則として年号は西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
参考文献 『京都市の地名』『山科の歴史を歩く』『昭和京都名所図会 6 洛南』、ウェブサイト「コトバンク」


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「宇多天皇皇后 藤原胤子小野陵」の石標 

陵の南の景観、手前は名神高速道路 
京都市内史跡地図 平安京オーバレイマップ・碑・発掘調
map 藤原胤子小野陵 〒607-8237 京都市山科区勧修寺北大日 
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